男も仕事も自分磨きも、理想なんてものは追い求めればキリがない。
だけど私が作りたい理想の靴だけは、ずっと前から何一つ変わらない形で私の中できらきらと輝き、今も色褪せていない。
瞼を開いた瞬間に、夢から目覚めたことを認識した。経験上、こういうときは寝過ごしている可能性が高い。急いで枕元のスマホで時刻を確認すると予想通り寝坊していた。飛び起きて女とは思えない早さで身支度を済ませ、家を飛び出した。
特別に寝坊している今日に限らず、朝はいつだって慌ただしい。だが毎日バタバタと音を立てて支度をしていても、相変わらず朝が苦手な陽葵は私の出勤時間に顔を見せることはない。
しかしいつからだろう。朝食を食べるのを億劫に思う私のために、陽葵が夜のうちに食べ物を用意してくれるようになった。
今日のメニューがサンドウィッチだったことをいいことに、私はそれを運転しながら頬張っている。車を購入したばかりの頃は緊張でガチガチだった運転も、五ヵ月間も続けていればさすがに慣れる。特に、通い慣れた通勤コースなら尚更だ。
家から車で十五分の職場に到着した私は、看板を見上げた。
笹森駅から徒歩七分、中古の木造一軒家の二階部分を借りて経営しているのが、私がオーナー兼靴職人として働くオーダーメイドシューズ取扱店『サン・メイド』だ。
駅から徒歩で行ける範囲であること、一階部分に入っている和菓子屋さんが繁盛しているので和菓子を買いに来たお客さんの目に入りやすいのではと期待したこと、通りに面した大きなガラス窓が北向きで、陽は入っても靴の材料である革が灼けにくいことが決め手となって選んだ物件だ。
店名は私の名前から連想してつけた。ありふれた店名かもしれないけれど、白と黒を基調としたモダンな内装も、靴作りに欠かせない道具を自分好みのもので揃えた作業場も、私が拘って築き上げた世界にたった一つの私の城だ。
オープンしてから一ヶ月が経った今でも、店の看板を見る度に頬が緩んでしまう。通勤用の手作りのベロアスニーカーで足取り軽く店内に入り、アイボリーホワイトのエプロンをかけて開店準備に勤しんだ。
玄関を掃除すればお客様がお見えになるというのは、入社一年目のときに店舗研修で教えられた金言だ。店内から玄関先にかけて丁寧に箒で掃いて、水回りをきちんと掃除する。最後に外に「一生付き合える相棒と歩いてみませんか?」とオーダーメイドシューズのメリットを書き込んだ黒板をイーゼルに立てれば、午前十時『サン・メイド』の開店だ。
パソコンから予約システムをチェックする。『サン・メイド』では通信販売は対応していないが、来店予約はネット上でできるようになっている。今日は十七時に一件、購入に迷っている方の相談が入っているだけであとは飛び込みのお客様を待つだけだ。
注文を受けた紳士靴に使用する皮を漉く準備をしながら、小さく溜息を吐いた。
オープン初日から一ヶ月間はオーダーメイドシューズを三割引で作れるというセールの効果もあって、それなりに客足はあった。だけどセール期間が終わった瞬間にお客様はパタリと来なくなり、営業時間内は大抵閑古鳥が鳴いている。
セール期間中も購入に繋がったお客様も期待よりも大幅に少なかったので、費用対効果としては完全にマイナスだ。期間中だけは派遣スタッフさんを雇って接客の手伝いをしてもらったけれど、今は悲しいことに一人でも余裕で店を回せる状態だ。
『笹森市での知名度を上げるための戦略だったんだから、売上が悪くても気にすんなって! 個人店は基本的に、みんな赤字からスタートなんだからさ!』
一ヶ月の売上を夏帆に報告したときの返信だ。最初は私も納得していたけれど、それ以降も売上が伸びる気配がない状況だと、やる気だとか前向き思考で目を背けてばかりもいられなくなってくる。
早く商売を軌道に乗せて、閉店の危機に怯えることなく靴作りに集中したい。
一日でも早く繁盛する店になりますように。そんな願望を胸に、懸命に皮を漉きながらお客様の来店を待った。
◇
「え? 『サン・メイド』の店名って、陽葵の陽から取ったんじゃないの?」
私の帰宅を待って天ぷらを揚げ始めた陽葵が、小首を傾げた。
「なんでよ。私の名前の曜から取ったに決まってるでしょ」
「曜ちゃんの曜って曜日って意味でしょ? なんでサンになるの?」
「義務教育からやり直してきなよ……曜って漢字には日の光が輝くって意味があって、私の名前の由来にもなってんの」
正式に同居を開始してからも、陽葵が作った夕食を二人で一緒に食べるのが日課となっていた。生活費をどうするか話し合った結果、陽葵からは家賃も光熱費も徴収しないけれど食費だけは出してもらうという形で落ち着いた。高久のおば様から貰った野菜を使って上手に食費をやりくりしている姿には、素直に感心させられる。
「よし、できたあ! 熱々のうちに召し上がれ!」
「ありがと。いただきます。……うん、美味しい! やっぱ天ぷらは出来立てに限るねえ」
熱々の芋の天ぷらに頬を綻ばせる私を見て、陽葵は得意気に胸をのけ反らせた。
「でしょー? 結婚する?」
「法律が変わったとしても、陽葵との結婚は考えられないかな」
もはや日常茶飯事となっている陽葵からのプロポーズを適当に断り、海老の天ぷらに箸を伸ばした。一回噛んだだけで海老の旨味が口の中に広がってくる。夜も二十二時を回っているのに油ものとビールを摂取することに罪悪感はあるものの、この美味しさを前に我慢するなんて不可能だ。
普段頑張っている分ご褒美があってもいいだろうと、自分に言い訳をしながら白米をかき込む私を見て、陽葵は嬉しそうにレモン酎ハイを飲んでいた。
同居を始めて半年とちょっと、陽葵についてわかったことも増えてきた。
陽葵は今までに私が見てきた女性の中でもずば抜けて美人だったが、玄米を炊いたりオーガニックに拘ったりと食を意識するタイプではなかった。我慢せずに甘いものを食べ、夏帆に負けず劣らず酒を飲む。その細身の体型は運動して作られた努力の賜物なのだそうだ。
常にスマホを触っているくせに「人に監視されているみたいで嫌」という理由でSNSの類には興味がないらしく、専らソシャゲとメッセージのやり取りにしか使っていないらしい。フリック入力は目を見張る速さで、これが履歴書に書ける特技だったら強いのにと思った。
「今日はどうだった? いい求人は見つかった?」
「ううん、まだ。だけど悩んでるやつがあるから、後で相談してもいい?」
陽葵は未だに無職だ。まずは昼の仕事をしてみたいと言った陽葵は、インターネットを利用した就職活動を始めた。しかし給料が安いだの、パソコンは使えないけど事務の仕事がいいだの、なんだかんだと理由をつけてはまだ応募にも至っていない。うだうだ文句を言う前にまずはやってみればいいのにと思ってしまう私は、古いタイプの人間なのだろうか。
「いいよ。でもあんま選りすぐりしないほうがいいんじゃない? 時間は有限なんだから」
「やりたい仕事を見つけるって本当に大変―。わたしの望みって結局、何もしないでザクザク収入が入ってきて生活に困らないことなのかもしれないなあ。アラブの石油王とか、人気アイドルグループのプロデューサーとか、ビル・ゲイツとかジェフ・ベゾスと合コンできないかなー。本妻にはなれなくてもパパになってほしいー」
「お近づきになることすら難しい人たちばかり例に挙げるなって」
「だってー、笹森市内の会社だと、事務の正社員で雇ってもらっても月収は大体十六万円前後だよ? ビル・ゲイツの年収を時給換算してみるとね、およそ六00万円なんだって。働くのが馬鹿らしくならない?」
「……確かに魅力的な男だけど、忘れな。男に頼らないで生きていけるようになりたいんでしょ?」
仕事で嫌なことや滅入ることがあっても、陽葵とくだらない話をしながら夕食を食べると心が軽くなる気がする。この生活はそんなに悪いものではなかった。
「あ、曜ちゃん、ごはんお代わりする?」
だから今は毎日ちゃんとごはんを食べて、汗水垂らして働こうと思う。
私は茶碗を差し出して「大盛りで」と伝えた。
だけど私が作りたい理想の靴だけは、ずっと前から何一つ変わらない形で私の中できらきらと輝き、今も色褪せていない。
瞼を開いた瞬間に、夢から目覚めたことを認識した。経験上、こういうときは寝過ごしている可能性が高い。急いで枕元のスマホで時刻を確認すると予想通り寝坊していた。飛び起きて女とは思えない早さで身支度を済ませ、家を飛び出した。
特別に寝坊している今日に限らず、朝はいつだって慌ただしい。だが毎日バタバタと音を立てて支度をしていても、相変わらず朝が苦手な陽葵は私の出勤時間に顔を見せることはない。
しかしいつからだろう。朝食を食べるのを億劫に思う私のために、陽葵が夜のうちに食べ物を用意してくれるようになった。
今日のメニューがサンドウィッチだったことをいいことに、私はそれを運転しながら頬張っている。車を購入したばかりの頃は緊張でガチガチだった運転も、五ヵ月間も続けていればさすがに慣れる。特に、通い慣れた通勤コースなら尚更だ。
家から車で十五分の職場に到着した私は、看板を見上げた。
笹森駅から徒歩七分、中古の木造一軒家の二階部分を借りて経営しているのが、私がオーナー兼靴職人として働くオーダーメイドシューズ取扱店『サン・メイド』だ。
駅から徒歩で行ける範囲であること、一階部分に入っている和菓子屋さんが繁盛しているので和菓子を買いに来たお客さんの目に入りやすいのではと期待したこと、通りに面した大きなガラス窓が北向きで、陽は入っても靴の材料である革が灼けにくいことが決め手となって選んだ物件だ。
店名は私の名前から連想してつけた。ありふれた店名かもしれないけれど、白と黒を基調としたモダンな内装も、靴作りに欠かせない道具を自分好みのもので揃えた作業場も、私が拘って築き上げた世界にたった一つの私の城だ。
オープンしてから一ヶ月が経った今でも、店の看板を見る度に頬が緩んでしまう。通勤用の手作りのベロアスニーカーで足取り軽く店内に入り、アイボリーホワイトのエプロンをかけて開店準備に勤しんだ。
玄関を掃除すればお客様がお見えになるというのは、入社一年目のときに店舗研修で教えられた金言だ。店内から玄関先にかけて丁寧に箒で掃いて、水回りをきちんと掃除する。最後に外に「一生付き合える相棒と歩いてみませんか?」とオーダーメイドシューズのメリットを書き込んだ黒板をイーゼルに立てれば、午前十時『サン・メイド』の開店だ。
パソコンから予約システムをチェックする。『サン・メイド』では通信販売は対応していないが、来店予約はネット上でできるようになっている。今日は十七時に一件、購入に迷っている方の相談が入っているだけであとは飛び込みのお客様を待つだけだ。
注文を受けた紳士靴に使用する皮を漉く準備をしながら、小さく溜息を吐いた。
オープン初日から一ヶ月間はオーダーメイドシューズを三割引で作れるというセールの効果もあって、それなりに客足はあった。だけどセール期間が終わった瞬間にお客様はパタリと来なくなり、営業時間内は大抵閑古鳥が鳴いている。
セール期間中も購入に繋がったお客様も期待よりも大幅に少なかったので、費用対効果としては完全にマイナスだ。期間中だけは派遣スタッフさんを雇って接客の手伝いをしてもらったけれど、今は悲しいことに一人でも余裕で店を回せる状態だ。
『笹森市での知名度を上げるための戦略だったんだから、売上が悪くても気にすんなって! 個人店は基本的に、みんな赤字からスタートなんだからさ!』
一ヶ月の売上を夏帆に報告したときの返信だ。最初は私も納得していたけれど、それ以降も売上が伸びる気配がない状況だと、やる気だとか前向き思考で目を背けてばかりもいられなくなってくる。
早く商売を軌道に乗せて、閉店の危機に怯えることなく靴作りに集中したい。
一日でも早く繁盛する店になりますように。そんな願望を胸に、懸命に皮を漉きながらお客様の来店を待った。
◇
「え? 『サン・メイド』の店名って、陽葵の陽から取ったんじゃないの?」
私の帰宅を待って天ぷらを揚げ始めた陽葵が、小首を傾げた。
「なんでよ。私の名前の曜から取ったに決まってるでしょ」
「曜ちゃんの曜って曜日って意味でしょ? なんでサンになるの?」
「義務教育からやり直してきなよ……曜って漢字には日の光が輝くって意味があって、私の名前の由来にもなってんの」
正式に同居を開始してからも、陽葵が作った夕食を二人で一緒に食べるのが日課となっていた。生活費をどうするか話し合った結果、陽葵からは家賃も光熱費も徴収しないけれど食費だけは出してもらうという形で落ち着いた。高久のおば様から貰った野菜を使って上手に食費をやりくりしている姿には、素直に感心させられる。
「よし、できたあ! 熱々のうちに召し上がれ!」
「ありがと。いただきます。……うん、美味しい! やっぱ天ぷらは出来立てに限るねえ」
熱々の芋の天ぷらに頬を綻ばせる私を見て、陽葵は得意気に胸をのけ反らせた。
「でしょー? 結婚する?」
「法律が変わったとしても、陽葵との結婚は考えられないかな」
もはや日常茶飯事となっている陽葵からのプロポーズを適当に断り、海老の天ぷらに箸を伸ばした。一回噛んだだけで海老の旨味が口の中に広がってくる。夜も二十二時を回っているのに油ものとビールを摂取することに罪悪感はあるものの、この美味しさを前に我慢するなんて不可能だ。
普段頑張っている分ご褒美があってもいいだろうと、自分に言い訳をしながら白米をかき込む私を見て、陽葵は嬉しそうにレモン酎ハイを飲んでいた。
同居を始めて半年とちょっと、陽葵についてわかったことも増えてきた。
陽葵は今までに私が見てきた女性の中でもずば抜けて美人だったが、玄米を炊いたりオーガニックに拘ったりと食を意識するタイプではなかった。我慢せずに甘いものを食べ、夏帆に負けず劣らず酒を飲む。その細身の体型は運動して作られた努力の賜物なのだそうだ。
常にスマホを触っているくせに「人に監視されているみたいで嫌」という理由でSNSの類には興味がないらしく、専らソシャゲとメッセージのやり取りにしか使っていないらしい。フリック入力は目を見張る速さで、これが履歴書に書ける特技だったら強いのにと思った。
「今日はどうだった? いい求人は見つかった?」
「ううん、まだ。だけど悩んでるやつがあるから、後で相談してもいい?」
陽葵は未だに無職だ。まずは昼の仕事をしてみたいと言った陽葵は、インターネットを利用した就職活動を始めた。しかし給料が安いだの、パソコンは使えないけど事務の仕事がいいだの、なんだかんだと理由をつけてはまだ応募にも至っていない。うだうだ文句を言う前にまずはやってみればいいのにと思ってしまう私は、古いタイプの人間なのだろうか。
「いいよ。でもあんま選りすぐりしないほうがいいんじゃない? 時間は有限なんだから」
「やりたい仕事を見つけるって本当に大変―。わたしの望みって結局、何もしないでザクザク収入が入ってきて生活に困らないことなのかもしれないなあ。アラブの石油王とか、人気アイドルグループのプロデューサーとか、ビル・ゲイツとかジェフ・ベゾスと合コンできないかなー。本妻にはなれなくてもパパになってほしいー」
「お近づきになることすら難しい人たちばかり例に挙げるなって」
「だってー、笹森市内の会社だと、事務の正社員で雇ってもらっても月収は大体十六万円前後だよ? ビル・ゲイツの年収を時給換算してみるとね、およそ六00万円なんだって。働くのが馬鹿らしくならない?」
「……確かに魅力的な男だけど、忘れな。男に頼らないで生きていけるようになりたいんでしょ?」
仕事で嫌なことや滅入ることがあっても、陽葵とくだらない話をしながら夕食を食べると心が軽くなる気がする。この生活はそんなに悪いものではなかった。
「あ、曜ちゃん、ごはんお代わりする?」
だから今は毎日ちゃんとごはんを食べて、汗水垂らして働こうと思う。
私は茶碗を差し出して「大盛りで」と伝えた。