――ねえ、じいちゃん。

 釣りも魚も好きだけど漁に関してはド素人の私がさ、広さも深さも知らない海に魚を捕りに行こうとしていたらどう思う?

 ……いや、聞くまでもないか。じいちゃんならきっと、笑って送り出してくれる気がする。

 私のこういう傍から見れば無謀なことに挑戦したがるところって、じいちゃんに似たとしか考えられないし。



 対面に座る廣瀬の目が大きく見開かれ、アイスティーを飲む手が止まった。

「……りゅ、留学……ですか?」

「うん。廣瀬なら『ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション』って言えばわかるよね? 靴作りにおいて世界的に有名な学校で、もっとしっかり学んでこようと思って」

 廣瀬は動揺を隠し切れない様子で、私に詰め寄った。

「も、もちろん知ってますけど……こ、このお店はどうするんですか? 今日初めて店内を拝見しましたが、夏目先輩の拘りが隅々まで敷き詰められていて、すごくいいお店だと思いました! 何より、軌道に乗ってきたという噂をよく耳にしますし……た、畳むなんてもったいないです!」

「ありがとう。廣瀬にそう言ってもらえると嬉しいよ」

 以前から「一度先輩の店を見てみたいです!」と口にしていた廣瀬がついに今日、『サン・メイド』までやって来た。店内の案内を終えてから廃業と留学の報告をすると、廣瀬は不満を隠そうともせずに膨れっ面のまま私への説得を始めた。

「勉強なら店をやりながらでもできるじゃないですか! なんなら、お客様と直接向き合って靴を作ることが一番効果的な勉強方法だと思います!」

「そうだね。廣瀬の言う通りだ。だけど、一度自分の城から出て殻を破りたい。まっさらな状態でリスタートを切りたいと思ったから」

 陽葵に靴をプレゼントしてから、およそ半年が過ぎた。

 私は『サン・メイド』をより良い店にするために、勉強と研鑽を重ねてやれるだけのことをやってきた。その結果、儲かっているとは言えないが少しずつ確実に顧客は増えてきたし、夕方のニュース番組で一度特集を組んでもらえたこともあって、知名度も上がってきたと実感もしていた。

 だけどお客様一人ひとりの要望に応えようとすればするほど、満足していただこうとすればするほど、自分の実力不足がもどかしくて歯噛みした。

 靴職人としての立場と経営者としての立場の両方から将来を考えて懊悩したが、あの日以来何度も反芻した新村さんがくれた言葉が、最終的に私の背中を押した。

 ――お前が、この業界に新しい風を吹かせる改革者になれ。

「幸い、自宅は残しておけるくらいのお金ならあるんだ。だからパワーアップして笹森に戻ってきてからまた、店を始めるつもりだよ。あくまで修行のための休業期間だったってこと、何年後になるかわかんないけど……NEW夏目曜が証明するから」

 動揺が見て取れる廣瀬の瞳を、真っ直ぐに見つめて笑ってみせた。

「廣瀬。私さ、無茶苦茶レベルアップして戻ってくるから。廣瀬の想像を超える先輩の姿を見せるから、期待して待ってて」

 私に理想の先輩像を押しつけてくる廣瀬の期待は重圧でもあるが、同時に私の背筋を伸ばしてくれる力の一つにもなっている。
私が抱いている厄介な感情など露も知らない廣瀬は、嬉しそうに口角を上げた。

「……夏目先輩。先輩が社員時代に付けられていた二つ名って、知ってますか?」

 突然問われた質問の意図はまるでわからないが、なんと呼ばれていたのかは知っている。

「二つ名? っていうより悪口でしょ? 『社畜ノッポ』ってやつ」

「え? 違いますよ! 先輩は主に女子の間で『不屈の貴公子』って呼ばれていました」

 飲んでいたコーヒーが気管に入り、盛大にむせてしまった。そんな恥ずかしいあだ名をつけられていたなんて初耳だ。

「な、なにそれ? こっ恥ずかしいからやめてよ」

「嫌ですよ! だって、ただの事実じゃないですか!」

 人に頼ってばかりの甘えたでネガティブだった後輩はもう、どこにもいない。

 今やジャンティ社のエースとして働く彼女は、唯一残された後輩らしさ――相も変わらず私を慕う瞳で見つめてきては、いつもの台詞を口にするのだった。

「今も昔も先輩は……やっぱり、最高に格好いいです!」

          ◇

 ――ねえ、じいちゃん。

 私に言ったよね? 自分の中に一本の強い芯があれば他人から何を言われてもブレないし、その芯は磁石みたいに楽しいことや嬉しいこと、いい人たちを引き寄せるから、人生が楽しくなるって。

 今まで結構頑張ってきたつもりなんだけど、私に一本の芯は入ったと思う? まだまだだって笑う?

 でも私、今生きていて超楽しいんだよね。これって、芯があることの証明にならない? 

 答えてくれないなら、私は自分に都合よく解釈するから。



 高久のおば様は挨拶に訪れた私の手を、包み込むように握った。

「はあー……いよいよ出発なのね……曜ちゃんが渡英するって聞いてから今日まで、時間が過ぎるのが本当に早かったわあ……」

「お世話になりました。おば様が良くしてくれなかったら笹森での生活に馴染めなかったかもしれませんし、感謝しかありません。ありがとうございました」

 礼を述べて頭を下げると、おば様は私の頭を優しく撫でてくれた。手の感触は異なるがその温かさはじいちゃんと同じで、私の胸はじんわりと優しいものでいっぱいになった。

「……曜ちゃんのことは孫みたいに思っていたから、本当に寂しくなるわ。ウチの旦那もね、直接は言わないけど曜ちゃんがいなくなるって聞いてから、やっぱり元気がないのよ。ちょくちょく戻ってきてね?」

「頻繫に帰国するのは難しいかもしれませんが、近い将来必ず笹森に戻ってきてまた店をやる予定です。だからそれまでの間、我が家のことをどうかよろしくお願いします」

 じいちゃん家を売らないと決めた私は、おば様に相談して現状を維持するために定期的な掃除をお願いした。快く引き受けてくれたご本人はお金なんて受け取れないと口にするけれど、もちろん報酬は支払う契約だ。

 あの家を残しておこうと決めたのは、じいちゃんとの思い出の家を手放したくなかった以外の理由がある。

 私にも、そして陽葵にも、帰る場所が必要だと思ったのだ。

 互いが選んだ道の先にどんな辛いことがあっても、心が挫けそうになっても、帰る場所があるだけで安心するといったじいちゃんの言葉を私は信じて疑っていない。

 頬に手を当てて何やら考え事をしている様子を見せていたおば様は、「よし!」と手を叩いてから声高々に宣言した。

「一つ、条件を出そうかしら。……曜ちゃんがその堅苦しい敬語をやめてくれなきゃ、ちゃんと家を掃除してあーげない!」

「……ええー? ……こ、困りますよ……」

 口ではそう言ったけれど、おば様だって本気なわけじゃない。私を可愛がってくれているからこその発言だということくらい、鈍い私にだってわかっている。

 だから私は多少の照れ臭さを覚えながらも、帰りを待っていてくれる人に、改めてお願いを口にしたのだった。

「……わ、私、あっちで頑張ってくるからさ……い、家のことよろしくね」

「はいはい任せといて! 体に気をつけて頑張ってらっしゃい!」

 胸を叩いて快諾してくれたおば様は、私の自惚れでなければとても嬉しそうに見えた。

          ◇

 ――ねえ、じいちゃん。

 じいちゃんを思い出してばかりの私だけど、笹森を出たらその習慣も終わりにしようと思ってるんだ。

 ……いや、言い方が悪かったかも。別にじいちゃんを忘れるわけじゃなくて。 

 これからはじいちゃんの背中を追うんじゃなくて、じいちゃんに私の背中を見てもらうくらいの気持ちで頑張っていくってこと!


 必要な荷物はすでに向こうに送ったため、すっきりとした家の中はやけに物寂しい。

 だけどいずれは帰ってくる家だ。思い入れのある光景を極力変えたくなくて、じいちゃんの物や家具はそのままの状態にしてある。

 出発前に、家の中を全部見て回った。遊びに来る度に身長を測って貰った柱。じいちゃんが煙草を吸いながら釣りの仕掛けを作っていたぬれ縁。陽葵が鼻歌を歌いながら料理をしていた台所。陽葵と二人で酒を飲みながらくだらないことを駄弁った居間。どの場所にもたくさんの思い出が詰まっている。

 共に歩む相棒が靴なら、家はいつだって優しく帰りを待ってくれる家族なのかもしれない。

 この家で過ごした思い出があれば、私はこれから何があろうとも頑張れる気がした。

 仏壇の前で手を合わせ、微笑んでいるじいちゃんに宣言する。

「じいちゃん。私のやることを全力で見守っててね」

 理想の靴を完璧に作り上げることのできるくらい、実力のある靴職人になるために。

 そしてその理想の靴が似合う、とびっきりのイイ女になるために。

「それじゃ、行ってくる!」

          ◇

 背中のリュックサック以外は手荷物カウンターに預け、あとは搭乗するだけとなった。

「おじいさんの家を相続するときも『サン・メイド』の立地やら内装を決めるときも、あんなにうだうだ悩んでたくせにさあ……いつからそんな行動力のある女になったわけ? 誰かに洗脳された? 最近怪しい壺とか買わされたりしてない?」

 日本を発つ私を空港まで見送りに来てくれた夏帆に腕をつつかれた。長い付き合いだからわかるが、この面倒くさい絡み方が夏帆なりの発破の掛け方なのだ。

「目標がより明確になっただけだよ。留学くらい、夏帆の行動力に比べたら足元にも及ばないでしょ」

「あれ? もしかしてあたし、褒められた? じゃあお礼に、あたしのパワー注入しといてあげる!」

 別に褒めたつもりなんてないのに、夏帆は衛星のように私を中心にして周りながらうねうねと手を動かし始めた。他人のフリをしたくなった。

 私たちがくだらないやりとりをしていると、前方から正しい足運びでハイヒールを鳴らして歩く、美しいキャビンアテンダントとすれ違った。思わず振り返った私は、纏っている雰囲気は全然違うとはいえ、人目を惹くその美貌に彼女のことを思い出した。

「そういえばさあ、陽葵って今はどこで何してんの? 連絡は取ってるの?」

 心の中を読まれたかと思って一瞬焦ったが、夏帆も私と同じような理由で陽葵を思い出したのだろう。

「いや……連絡は取ってないし、どこで何をしているのかも知らない。次に会うのは陽葵が自分を誇れるようになったときか、靴の修理を依頼したいときだけって約束したからね」

 これらの条件だといずれにせよ、私からは陽葵に連絡を取れないことになる。

 寂しくないと言えば嘘になるが、それくらいの制限がある方が私たちにとっては丁度いいのかもしれない。

 連絡は取っていないけれど、陽葵は新しい一歩を踏み出せたと確信している。私はあいつの決意と、靴の力を信じているからだ。

「そんなルールなんて作らないで会いたいときに会えばいいのに。前から思ってたけどさ、曜って結構ロマンチストだよねー」

「いや、そんなことないけど。……まあでも、陽葵との関係だけはそう思われてもいいかな。だってさ、陽葵との出会いから別れまでの全部が、奇跡みたいな話なんだよ」

 たとえ王子様とやらが不在でも、二人で過ごした日々はシンデレラにも負けない物語だったと思っている。

 夏帆は大きな溜息を吐いてから、私の肩に腕を回してニヤリと笑った。

「なんで自覚ないかなあ? そういうところがロマンチストだって言ってんの! 聞いてる方が恥ずかしいわ!」

「別にいいじゃん、最後なんだし」

「ちょっと、最後とか言わないでよ。早く一人前になって帰って来てよね! あたしまだ笹森の地酒飲んでないんだから!」

 取り留めのない会話をしていると、あっという間に搭乗時間が迫ってきた。いよいよ友人に手を振り、旅立つそのときがやって来たのだ。

「ねえ、ずっと言おうと思ってたんだけどさ。今日の服、曜にしては珍しいよね。これからの新生活への気合いの表れなの?」

「いや、ただの気分だよ。……変?」

 高校を卒業してからは穿いていなかったスカートの裾を掴んで首を傾げると、夏帆は白い歯を見せて親指を立てた。

「ううん、全然変じゃない。曜、似合ってるじゃん!」



 新天地まで私を運んでくれる靴は、赤いビットローファーだ。

 夏帆の言う「新生活への気合い」は私にとっては服ではなく、いつだって靴で表現するものだから。

 背筋を伸ばして歩き出す私の足元で、新しい相棒は美しく輝いている。  (了)