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「着いた。陽葵がいなくなってからは散らかりっぱなしだけど、どうぞ」

「わー! なんか超懐かしく感じるー!」

 元自宅を懐かしむかのようにきょろきょろと見回す陽葵に「座ってて」と笑って言いながら、私はインスタントコーヒーを二人分用意して居間のテーブルの上に置いた。

「最近さ、せっかく海沿いの町に住んでるんだしって思って釣りを始めたんだけど、やってみて正解だったよ。趣味が一つできただけで休日が今までよりずっと楽しくなったし」

「うん、いいと思う! 曜ちゃんって休みの日でもお店に行ってばっかりだったし、少しは息抜きした方がいいってずっと思ってたから安心したよお」

「陽葵がいなくなった後、寂しさを紛らわすためにも仕事だけに打ち込んでいこうって思ったんだけど……できなかった。今までより全然成果が出ないし、集中力にも欠けた。陽葵とごはんを食べて酒を飲みながら語るあの時間が大事な息抜きの時間だったんだって、陽葵がいなくなって初めて実感した。だからいい仕事をするためにも、休むときは休んでリフレッシュするって決めたんだ」

「そっか……わたしとの時間が癒しだったってことだね? ふふ、そうなんだ?」

 からかうように笑う陽葵を見たら急に恥ずかしくなって、大きく咳払いをした。

「……まあその話は置いといて。じいちゃんの遺品を渡す前に、陽葵に話しておきたいことがあるんだ。……驚くかもしれないけれど、聞いてほしい」

 私は今まで陽葵に言えていなかったことを、一つずつ話した。

 じいちゃんから莫大な遺産を相続したこと。金額は家族以外には一切口外していないこと。じいちゃんの遺産狙いで近づいてきたと思った陽葵を警戒していたこと。

 すべてを話して頭を下げた。

「……曜ちゃんは凄いね。それだけお金があったら、もう働かなくてもよくない? それなのにあんなに一生懸命働いているなんて……ほんと、尊敬するよ。わたしだったら絶対、ずっと家でゴロゴロしちゃうもん」

「働く意味はお金だけじゃないでしょ。家にいるだけなんて、退屈だと思うけど」

「ええー? わたしには全然わかんない。やっぱり格好いいよ、曜ちゃんは」

「……陽葵はそうやって私を上げることが多いけどさ、何が正しいってわけじゃないし、陽葵は私にできないことができるじゃん」

 私が陽葵に強要させようとした「正しさ」の思い込みが私を「間違え」させ、陽葵を傷つけてしまったのだから。

「あはは、そう言ってくれると嬉しいな。わたしが曜ちゃんより得意なことって言ったら、料理かな? 化粧かな? それとも、男の扱い方かな? わたしも自分にできることを考えながら、早くやりたいことを見つけたいなー」

 今までに何度も何度も聞いてきた、発言と行動が伴わない陽葵の決意。

 それに熱を吹き込んであげることが、この数ヵ月間陽葵のために靴を作り続けていた理由だった。

「陽葵、これ」

 収納ボックスに仕舞っていたSDカードを取り出して、陽葵に手渡した。

「わ……渡したかった遺品って、これ? こんな大切なもの、貰っちゃっていいの?」

 それは、予想が確信に変わった瞬間だった。

「……私はまだ何も言っていないのに、なんでこれが遺品だとか大切なものだって言い切れるの? ……陽葵は、これの中身を見たことがあるよね?」

 大きな双眸で私を見つめるだけで、陽葵は何も言わなかった。

「やっぱり、陽葵が隠したんだね。私たち家族に見つかりたくなかったら捨ててしまうか、自分でずっと隠し持っていれば良かったのに……じいちゃんの漁船にだなんて、わざわざ見つかりにくい場所に隠したのはどうして?」

 互いに視線を逸らさない数秒間の後、陽葵はふっと力が抜けたように語り出した。

「……太ちゃんが遺した動画を捨てる勇気も、曜ちゃんたち家族にわたしの存在を知られる覚悟もなかったわたしの、みっともない逃げ方だよ。問題を先延ばしにしたがる悪癖が、やっちゃいけないところで出ちゃった。……ごめんね……ごめんなさい、曜ちゃん……!」

 大きな瞳から流れる、大粒の涙。

 後悔の念に駆られて堰を切ったように泣く陽葵を見ていられなくて、親指で涙を拭ってやった。

「私はただ隠した理由が知りたかっただけで、陽葵を責めるつもりなんてさらさらないよ。知ってるとは思うけど、この中にはじいちゃんからのメッセージが入ってる。じいちゃんのためにも貰ってほしい」

「……わたしが貰っちゃって、いいの?」

「いいよ。中身はコピーしてあるし。それに、現物は陽葵が持っていた方がじいちゃんも嬉しいと思う」

 手のひらの上の小さな記憶媒体に、陽葵はそっと顔を寄せた。渡すのが遅くなってしまったが、じいちゃんの言葉は色褪せることはない。

 私は静かに息を吐いて、緊張し始めた心を落ち着かせた。

 ――じいちゃんには悪いけど、遺品を渡すのは陽葵と会うための口実に過ぎない。

「じいちゃんを介して、私たちは同居人っていう関係になった。それからいろいろあって、今の私たちは友達と呼べる関係になった。だけど私はさ、それだけじゃなくて……もっとそれ以上の関係になりたいって思ってる」

 それ以上の関係だなんて、いざ口にしてみると愛の告白をしているようで顔が赤くなった。

 上手く説明できなかったせいか、陽葵も小首を傾げている。誤解を解かなければと思ったけれど、発言を重ねるよりも「それ」を見てもらった方が早いと思った。

 桐箱を自室から持ってきて、一呼吸。それから蓋を陽葵に見せるようにして、丁寧に開いた。中のものを優しく取り出して、すらりと伸びた細長い脚の前に献上した。

 陽葵の前で跪いた私は、一世一代の懇願をした。

「この靴はあなたのために、誠心誠意を込めて作りました。どうか、履いていただけませんか?」

 いつだったか、陽葵は私に「王子様みたいに助けてほしい」と口にしたことがあった。

 あのときの私は陽葵の要望を受け入れなかったし、今だって別に格好いい台詞を吐いたつもりもないし、ましてや陽葵を助けるだなんて大それたことをするわけでもない。

 ただ、跪いて美女を見上げるというこの構図だけなら、お姫様に仕える騎士のように見えなくもないだろう。

 同居関係にあったとはいえ、言ってしまえば友人の一人でしかない陽葵にこれだけの時間と手間をかけて一足の靴を作ったのには、理由がある。

 どうしても陽葵に伝えたいことがあるのに、それは言葉だけでは伝えきれないと思った。

 だから私は誤解なく、過不足なく、私の気持ちを正確に伝えきるために、毎日陽葵のことを考えながらこの靴を作り上げたのだ。

 お姫様は今、私の旋毛を見下ろしながら何を考えているのだろうか。この狭いたった二人だけの世界で、反応を恐れた私は陽葵の顔を見ることができないまま返事を待った。

「……じゃあ、履かせてもらってもいい?」

 心臓が大きな音を立てた。顔を上げる余裕もなく、無防備に差し出された黒いタイツに護られた生々しい質感の脚の先端にそっと、作り上げた靴を履かせた。緊張しているのを陽葵に悟られたくはないのに、私の指先は震えていた。

 幾度となく触ってきた木型の形と完璧に一致する足に、靴は綺麗に収まった。最低限の合格ラインを突破したことにまずは安堵し、ようやく顔を上げる勇気が持てた。

「……曜ちゃん、この靴……とっても素敵だね」

 陽葵の瞳は足元の靴を捉えながら、きらきらと輝いていた。これだ。この顔が見たくて仕事をしているといってもいい。それを、誰よりも見たいと思っていた人から引き出せたことに胸が熱くなった。

「……知っているとは思うけど、私は客商売をしているくせに口が上手くない。陽葵へ伝えたいことがあるのに、言葉だけじゃ伝えきれる自信もない。だから、この靴にメッセージを詰め込んだ。えっと……今から一つずつ説明していくから、どうか聞いてほしい」

 言葉が足らないことで誤解を生んで、しなくてもいい喧嘩をした過去を反省しての行動だ。陽葵が頷いたのを確認した私は、靴に目を落として続けた。

「これはフロントストラップシューズといって、靴の前面……甲よりも前に細いベルトが付いているタイプの靴なんだ。デザインについてはあまり悩まなかった。陽葵の細い足をしっかり護ることを考えたら、華奢だけど力強さも主張できるこのタイプしかないと思ったから。つま先は人一倍傷つきやすくて繊細な陽葵が怖がらずに外を歩いていけるように、その優しさに悪い奴らがつけ込まないようにとも願いを込めて、ポインテッドトゥにしてある。女性らしい美しさが備わっていながらも、鋭い武器のようにも見えるでしょ?」

 つま先部分に触れていた指を、ヒール部分に移動させた。

「一般的に職場で履くパンプスのヒールの高さは五センチが望ましいって言われているんだけど、女性の脚を最も美しく見せるヒールの高さは七センチとも言われているんだ。陽葵の脚の美しさを最大限にアピールするためにも、この靴は七センチで作ってある。普段陽葵が履いている靴もヒールは七センチみたいだし、履き慣れているとは思う」

 陽葵は目を見開いた。驚いているようだが、一応靴職人として生計を立てている身として人が履いている靴は注視するようにしているし、ヒールの高さくらい見ればすぐにわかる。

「色に黒を選んだのは、黒は履く人によって引き出す魅力の種類が違って面白いし、背筋を伸ばして歩いたときに最も映える色だと思うから。たとえ困難で険しい道でも、陽葵には自分に自信を持って進んでほしい」

 伝わっただろうか。ゆっくりと、大切な想いを告白するかのように、心を込めて言葉を紡いだ。

 私は、陽葵とは一緒にいて楽しいだけの友人関係では物足りない。かといって、互いに生き方や考え方に影響を与え合う高尚な関係を望んでいるわけでもないし、ましてや恋愛関係になりたいとも思わない。

 ただ、心から大切に想い合い、思い出すと元気がもらえるような――そういう関係になりたいと思ったのだ。

「前にさ、親交の証として靴を作るって約束したじゃん? 今の私の全力で作ったんだけど……気に入ってもらえた?」

 陽葵と距離を縮めたあの暴風雨の夜、私が作ったオーダーメイドシューズを陽葵にプレゼントすると約束をした。製作自体は型紙を切り出す前に中断している状態だったが、陽葵の足に見立てた木型を作るところまでは終わっていた。だから陽葵がいなくなった後でも完成させることができたのだ。

 立ち上がった陽葵は、絨毯の上をゆっくりと歩いて履き心地を確かめていた。散らかった古い家と華やかな陽葵の組み合わせは物凄くミスマッチだったけれど、不思議な魅力があって私の目は釘付けにされていた。

 戻ってきた陽葵は私の隣でしゃがみ込み、白い指でそっと靴に触れた。指先で靴のつま先から踵まで手触りを確かめるためになぞるように触れていくその行為は、まるで私の神経を撫でられているようで気が気ではなかった。爪を立てられたら血塗れになってしまいそうなくらいに怖かった。

「……これって、曜ちゃんが思い描いているっていう、理想の靴?」

「いや……これは陽葵のために私が一からデザインして作った、陽葵専用の靴だよ。……この靴を作っている間はずっと、陽葵のことだけを考えていた。一緒に過ごした時間を思い出して、陽葵がどんなときに喜んで、どんなときに落ち込んでいたのかを記憶の中から分析して、履いて欲しい靴を作ったんだ」

 以前に陽葵が自分で言っていたように、華やかで美しい彼女は私の憧れを敷き詰めた「理想の靴」は確かに似合うだろう。

 だけど私は、陽葵にプレゼントをするなら私の理想の靴ではなく、「陽葵のための靴」を作りたいと思ったのだ。

「これは完全に私の持論なんだけどさ……新しい靴を買ったときって、理由もなくワクワクするでしょ? 足取りが軽くなって、新しい一歩を踏み出す勇気がもらえる……陽葵にとってこの靴が大切な相棒になってくれたら、私は何よりも嬉しい。……受け取ってくれる?」

 陽葵がこの先、一人で進む航路で寂しい思いをしないように。

 困難や理不尽に心が挫けそうになっても、何度でも立ち上がれるように。

 靴職人としての誇りと友人へのエールを目一杯詰め込んだ、私からの餞別だった。

「……ありがとう、曜ちゃん」

 そう告げられたのと同時に、私はふわりとした甘い香りに全身を包まれていた。

「……まさかこんな素敵なプレゼントと愛の告白をもらえるなんて、思わなかった」


 抱き締められた私は陽葵の声を耳元で聞きながら、ふっと笑った。

「神戸で貰ったっていうブルガリのネックレスには、負けるけどね」

 背中に回される腕の力がより一層強くなった。

「もう! 負けてるわけないじゃん! 妊娠するかと思ったよ!」

「……ど、どういう意味?」

「格好良すぎるって意味! 今まで貰ってきたどんな高価なものより、一番嬉しいプレゼントだよ!」

 陽葵が満面の笑みを見せてくれたとき、私は今までに味わったことのないほどの大きな達成感と満足感で、胸がいっぱいに満たされた。

「……はあー……良かった……なんか、長年の片想いが成就した気分かも」

 柔らかい温もりを抱き締め返すと、陽葵は私の腕の中で小さく呟いた。

「……ねえ、曜ちゃん。あのね、やっぱり曜ちゃんの理想の靴は、曜ちゃん自身のために作ってほしいな」

「え、なんで? 前も言ったけど、私には似合わないだろうし自分のために作る気はないよ」

「だって……わたし以外の女に仕事以外で一生懸命に靴を作る曜ちゃんを想像したら、嫉妬でおかしくなっちゃいそうなんだもん」

 ――まったく、桜井陽葵という女は、本当に魔性の女だと思う。

「……こんな手間のかかったプレゼントを貰っておきながら、ほんと我儘だなあ……でも、わかった。いつか私が理想の靴を履くのに相応しい女になれたら……私は、私のために作ろうと思う」

 今じゃない、いつか。私がもっと靴職人として腕を上げ、女として背筋を伸ばして生きる自信が十分についたときの話になるけれど。

 小さい頃から構想を練り続けてきた、とっておきの理想の靴を、私自身にプレゼントすることを約束した。