月日は緩やかに流れ、私は陽葵のいない生活に慣れ始めていた。
人間とは案外強い生き物なのだと思う。大切な人がいなくなっても、やがてその環境に適応していくのだから。
閉店時間の二十時になった時点で店内にお客様がいない場合、『サン・メイド』の出入り口に『closed』の看板をかける。悲しいことに、繁盛しているとは言えない店だ。今日も二十時きっかりに看板をかけることになった。
閉店作業をすべて終わらせてからコーヒーを淹れた。仕事が終わってもまだ家には帰らない理由は、眼前の作業台の上に置かれた一足の特別な靴にある。
夏から本格的に作り始めたこの靴もようやく、残る工程は底付けだけとなった。三時間ほど水に漬けて柔らかくしておいた本底を決め裁ちし、靴底を長持ちさせるためにすぐにプレスをかけ、繊維を圧縮させて硬度を上げた。加工された本底を甲革と中底に縫い合わせた細革に正確に貼り合わせたら、縫い付け開始だ。
縫い始めたら革が乾ききる前に仕上げなくてはならないため、途中で中断することのできない時間との戦いになる。そのうえ、短く均等な間隔で縫っていく必要があるから相当な集中力と忍耐力も求められる。
この日は一連の加工作業も含めて、縫い付けが終わるまでに八時間を要した。新村さんは底付けを六時間以内に終わらせると言っていたし、もっとスムーズにできればもう少し早く終われるはずだった。
未熟さを反省しつつ改善点をノートに纏めた。そのときの自分にできるベストを尽くして製作に打ち込むことと、次はもっといい靴を作る志を持ち続けることが、靴職人として腕を上げ、道を拓いていくための地道だけど確実な方法だと信じているからだ。
◇
さらに一月ほど流れ、十月の下旬になった。
天気予報によれば、今年の笹森市はほぼ例年通り、来月には初雪が観測されるだろうとのことだ。
今日はついに、閉店作業後にコツコツと製作に打ち込んできた一足が完成する予定だ。体は疲れているはずなのに、私は昨日からずっと高揚していた。コーヒーと深呼吸で気持ちを整えてから、最後の作業に取り掛かる。
底周りをより美しく強固にするために、靴回りやヒールにコテを強く押し当てる。終わったら今度は熱したコテを使ってロウとワックスを溶かし込み、塗装部分の表面をコーティングしていく。熱すぎればロウを焦がすどころか革を犠牲にしてしまうため、ゆっくりと熱を与えて適温以上にならないように細心の注意を払った。
完成が見えてきた。甲革についたゴミや汚れをしっかりと落とし、表面上が綺麗になっていることを確認してから革全体に栄養クリームを塗る。最後に木型を抜き、中底を処理したあと全体に光沢が出るまで磨き上げた。
そうして出来上がった靴を見た私は、その場に座り込んでしまった。今の私が持つ技術の粋を集めた珠玉の一足であり、大事な友人――陽葵へのプレゼントとして心を込めて作り上げた、渾身の一足だ。
陽葵は別に落としていったわけじゃないけれど、こうして彼女にしか履けない靴を前にすると、まるで零時の鐘と共に颯爽と姿を消してしまったシンデレラを探し求めているような気分になってくる。
だが、私は陽葵の王子様ではない。シンデレラという物語の中に私と陽葵を無理やりキャスティングするならば、私はきっとシンデレラを追い出した意地悪な義姉といったところだろうか。
ならば、役通りに卑怯な方法で、お姫様との接触を試みよう。私はスマホを取り出して、陽葵にメッセージを送信した。
『じいちゃんの遺品で渡したいものがある。会えない?』
◇
陽葵と会う約束の日まで一週間を切っていた、夕暮れ時のことだった。
店内で中底の加工に勤しんでいると、来客を知らせるベルが鳴った。
「久しぶりー曜ちゃん! 元気だった? あ、ちょっと痩せたかな?」
今は東京に住んでいる陽葵の突然の来訪に、私は見事に動揺した。
「……え、あれ? 会うのは来週って話じゃなかった? 私、今日は普通に仕事だよ?」
「だって、急に出勤したくなくなっちゃったんだもん。曜ちゃんのお仕事が終わるまで、この辺でぶらぶらして待ってるね。終わったら連絡ちょうだい」
「あ、だったら家で待っててよ。ほら、これ鍵……」
ポケットから取り出した家の鍵を、陽葵は受け取ってはくれなかった。
「家主のいない家には入れないよ。じゃ、連絡待ってるね」
再び手を振って店内を出て行く陽葵の後ろ姿は、相変わらず綺麗だった。
店を閉めてから急いで陽葵の待つファミレスまで迎えに行き、車を走らせた。
「東京と違ってこっちは寒いでしょ?」
「うん、さむーい。でも、東京のビル風も結構しんどいの。どうせならもっと温かい地方に行けば良かったなー、沖縄とか!」
「沖縄は私もちょっと憧れる。ねえ、さっき出勤したくないって言ってたけど、陽葵は今なんの仕事をやってるの?」
なんの気なしの雑談のつもりだったけれど、口にしてからすぐに後悔した。自立したいと言って私から離れた友人に、いの一番に現況を問うなんて詮索するような真似、陽葵からしてみれば鬱陶しいに違いない。
「今はねー……っていうか昨日までは、錦糸町でキャバ嬢やってたんだあ。まあ、今日バックれちゃったからまた違う仕事探さないといけないんだけどね。まあでも、東京に行ってまだ四カ月だし、わたしのペースで焦らずに頑張るよー!」
私に何か言われる前にと思ったのだろうか、言い訳をするかのように陽葵は早口だった。
説教なんてするつもりはないのに、今までの私の態度を考えてみれば陽葵が自己防衛に走るのも当然かもしれない。陽葵を傷つけた過去を思い出して胸が痛んだ。
「……そういえば、水野さんとはどうなったの?」
「お金は受け取らないって告げて、今後一切わたしと曜ちゃんの人生に関わらないでって拒絶したよ。かなり激昂してたし、この先危ないかもだし警察行こうかなって思ってたときに、水野さんの会社が誇大広告で評判が急降下したんだよね。経営がヤバいみたいで余裕がなくなったのか、連絡来なくなったんだ。曜ちゃんのお店には顔見せたりした?」
「いや、あれから一度も来てないよ。陽葵とくっついたかキッパリ振られたかどっちかだと思ってたけど……悪い男との縁が切れたみたいで良かった」
「うん。水野さんには申し訳ないけど、結構ホッとしてるもん。ホントわたしって、付き合う男も言い寄ってくる男もロクでもない男ばっかりだなあ。あー、男運上げたーい!」
あっけらかんとした口調だけど、無理している様子が伝わってくる。
この件については一応解決という形になるのかもしれないが、陽葵が怖い思いをしたことに変わりはない。そんなときに側にいてやれなかった自分に腹が立ったが、怒りで今日の目的を見失わないように深呼吸をして冷静でいるよう努めた。
気にしていない体で話をする陽葵に合わせて、私も淡々と尋ねてみる。
「男運か……ね、陽葵。今までいろんな男に贈り物をされてきたと思うけど、その中で一番印象的だったプレゼントとシチュエーションはどんなだった?」
「えー、急に話変わるねー? 何か企んでる?」
「ただの雑談だよ」
「んー、そうだねー……神戸に一緒に旅行に行った人に、プライベートジェットの中でブルガリのネックレス貰ったときかなあ。手を伸ばせば届きそうなネオンの光をダイヤが反射して、キラキラ輝いて綺麗だったから」
「……すごいな。私には生涯経験できなさそうな話だ」
陽葵を乗せた車は遠回りをしながら、自宅へ向かってゆっくりと走らせた。勝手にカーステレオを操作した陽葵は、気に入った曲をBGMにしてこの四カ月のことを語り始め、私もまた同じように近況を伝えた。私の知らない陽葵の話を聞けるのは嬉しいと思うと同時に、少しだけ寂しくもあった。
人間とは案外強い生き物なのだと思う。大切な人がいなくなっても、やがてその環境に適応していくのだから。
閉店時間の二十時になった時点で店内にお客様がいない場合、『サン・メイド』の出入り口に『closed』の看板をかける。悲しいことに、繁盛しているとは言えない店だ。今日も二十時きっかりに看板をかけることになった。
閉店作業をすべて終わらせてからコーヒーを淹れた。仕事が終わってもまだ家には帰らない理由は、眼前の作業台の上に置かれた一足の特別な靴にある。
夏から本格的に作り始めたこの靴もようやく、残る工程は底付けだけとなった。三時間ほど水に漬けて柔らかくしておいた本底を決め裁ちし、靴底を長持ちさせるためにすぐにプレスをかけ、繊維を圧縮させて硬度を上げた。加工された本底を甲革と中底に縫い合わせた細革に正確に貼り合わせたら、縫い付け開始だ。
縫い始めたら革が乾ききる前に仕上げなくてはならないため、途中で中断することのできない時間との戦いになる。そのうえ、短く均等な間隔で縫っていく必要があるから相当な集中力と忍耐力も求められる。
この日は一連の加工作業も含めて、縫い付けが終わるまでに八時間を要した。新村さんは底付けを六時間以内に終わらせると言っていたし、もっとスムーズにできればもう少し早く終われるはずだった。
未熟さを反省しつつ改善点をノートに纏めた。そのときの自分にできるベストを尽くして製作に打ち込むことと、次はもっといい靴を作る志を持ち続けることが、靴職人として腕を上げ、道を拓いていくための地道だけど確実な方法だと信じているからだ。
◇
さらに一月ほど流れ、十月の下旬になった。
天気予報によれば、今年の笹森市はほぼ例年通り、来月には初雪が観測されるだろうとのことだ。
今日はついに、閉店作業後にコツコツと製作に打ち込んできた一足が完成する予定だ。体は疲れているはずなのに、私は昨日からずっと高揚していた。コーヒーと深呼吸で気持ちを整えてから、最後の作業に取り掛かる。
底周りをより美しく強固にするために、靴回りやヒールにコテを強く押し当てる。終わったら今度は熱したコテを使ってロウとワックスを溶かし込み、塗装部分の表面をコーティングしていく。熱すぎればロウを焦がすどころか革を犠牲にしてしまうため、ゆっくりと熱を与えて適温以上にならないように細心の注意を払った。
完成が見えてきた。甲革についたゴミや汚れをしっかりと落とし、表面上が綺麗になっていることを確認してから革全体に栄養クリームを塗る。最後に木型を抜き、中底を処理したあと全体に光沢が出るまで磨き上げた。
そうして出来上がった靴を見た私は、その場に座り込んでしまった。今の私が持つ技術の粋を集めた珠玉の一足であり、大事な友人――陽葵へのプレゼントとして心を込めて作り上げた、渾身の一足だ。
陽葵は別に落としていったわけじゃないけれど、こうして彼女にしか履けない靴を前にすると、まるで零時の鐘と共に颯爽と姿を消してしまったシンデレラを探し求めているような気分になってくる。
だが、私は陽葵の王子様ではない。シンデレラという物語の中に私と陽葵を無理やりキャスティングするならば、私はきっとシンデレラを追い出した意地悪な義姉といったところだろうか。
ならば、役通りに卑怯な方法で、お姫様との接触を試みよう。私はスマホを取り出して、陽葵にメッセージを送信した。
『じいちゃんの遺品で渡したいものがある。会えない?』
◇
陽葵と会う約束の日まで一週間を切っていた、夕暮れ時のことだった。
店内で中底の加工に勤しんでいると、来客を知らせるベルが鳴った。
「久しぶりー曜ちゃん! 元気だった? あ、ちょっと痩せたかな?」
今は東京に住んでいる陽葵の突然の来訪に、私は見事に動揺した。
「……え、あれ? 会うのは来週って話じゃなかった? 私、今日は普通に仕事だよ?」
「だって、急に出勤したくなくなっちゃったんだもん。曜ちゃんのお仕事が終わるまで、この辺でぶらぶらして待ってるね。終わったら連絡ちょうだい」
「あ、だったら家で待っててよ。ほら、これ鍵……」
ポケットから取り出した家の鍵を、陽葵は受け取ってはくれなかった。
「家主のいない家には入れないよ。じゃ、連絡待ってるね」
再び手を振って店内を出て行く陽葵の後ろ姿は、相変わらず綺麗だった。
店を閉めてから急いで陽葵の待つファミレスまで迎えに行き、車を走らせた。
「東京と違ってこっちは寒いでしょ?」
「うん、さむーい。でも、東京のビル風も結構しんどいの。どうせならもっと温かい地方に行けば良かったなー、沖縄とか!」
「沖縄は私もちょっと憧れる。ねえ、さっき出勤したくないって言ってたけど、陽葵は今なんの仕事をやってるの?」
なんの気なしの雑談のつもりだったけれど、口にしてからすぐに後悔した。自立したいと言って私から離れた友人に、いの一番に現況を問うなんて詮索するような真似、陽葵からしてみれば鬱陶しいに違いない。
「今はねー……っていうか昨日までは、錦糸町でキャバ嬢やってたんだあ。まあ、今日バックれちゃったからまた違う仕事探さないといけないんだけどね。まあでも、東京に行ってまだ四カ月だし、わたしのペースで焦らずに頑張るよー!」
私に何か言われる前にと思ったのだろうか、言い訳をするかのように陽葵は早口だった。
説教なんてするつもりはないのに、今までの私の態度を考えてみれば陽葵が自己防衛に走るのも当然かもしれない。陽葵を傷つけた過去を思い出して胸が痛んだ。
「……そういえば、水野さんとはどうなったの?」
「お金は受け取らないって告げて、今後一切わたしと曜ちゃんの人生に関わらないでって拒絶したよ。かなり激昂してたし、この先危ないかもだし警察行こうかなって思ってたときに、水野さんの会社が誇大広告で評判が急降下したんだよね。経営がヤバいみたいで余裕がなくなったのか、連絡来なくなったんだ。曜ちゃんのお店には顔見せたりした?」
「いや、あれから一度も来てないよ。陽葵とくっついたかキッパリ振られたかどっちかだと思ってたけど……悪い男との縁が切れたみたいで良かった」
「うん。水野さんには申し訳ないけど、結構ホッとしてるもん。ホントわたしって、付き合う男も言い寄ってくる男もロクでもない男ばっかりだなあ。あー、男運上げたーい!」
あっけらかんとした口調だけど、無理している様子が伝わってくる。
この件については一応解決という形になるのかもしれないが、陽葵が怖い思いをしたことに変わりはない。そんなときに側にいてやれなかった自分に腹が立ったが、怒りで今日の目的を見失わないように深呼吸をして冷静でいるよう努めた。
気にしていない体で話をする陽葵に合わせて、私も淡々と尋ねてみる。
「男運か……ね、陽葵。今までいろんな男に贈り物をされてきたと思うけど、その中で一番印象的だったプレゼントとシチュエーションはどんなだった?」
「えー、急に話変わるねー? 何か企んでる?」
「ただの雑談だよ」
「んー、そうだねー……神戸に一緒に旅行に行った人に、プライベートジェットの中でブルガリのネックレス貰ったときかなあ。手を伸ばせば届きそうなネオンの光をダイヤが反射して、キラキラ輝いて綺麗だったから」
「……すごいな。私には生涯経験できなさそうな話だ」
陽葵を乗せた車は遠回りをしながら、自宅へ向かってゆっくりと走らせた。勝手にカーステレオを操作した陽葵は、気に入った曲をBGMにしてこの四カ月のことを語り始め、私もまた同じように近況を伝えた。私の知らない陽葵の話を聞けるのは嬉しいと思うと同時に、少しだけ寂しくもあった。