心身ともに疲弊していた私は、開業してから初めて三連休をとった。
休みを利用して東京に帰ってきたのは、気分転換というよりは陽葵と顔を合わせたくなかったのが大きな理由だ。昨日の朝も陽葵の顔を見ないまま家を出て、新幹線の中から『三日間は家に帰らない』とメッセージを送っておいた。陽葵が私の言動を正しく理解しているならば、今頃荷造りに励んでいるはずだ。
久々の東京は本当に人が多く感じられる。電車を乗り継いで向かったのは、廣瀬と待ち合わせをしている喫茶店だ。忙しいなか外回り営業の合間を縫って、私との時間を作ってくれた廣瀬には感謝している。
コーヒーを啜りながら廣瀬を待った。今のところ遅れるという連絡は来ていないが、激務かつイレギュラーもよく発生する会社だからどうなるかわからない。気ままに待とうと窓の外をぼんやりと眺めると、雨が降り始めていた。
折りたたみ傘を持ってきて良かったと思うと同時に、陽葵と過ごしたあの暴風雨の夜を思い出して胸が痛んだ。雨音が聞こえないようにイヤホンで耳を塞いで、スマホのプレイリストから明るい曲を選んで再生した。
「夏目先輩! お久しぶりです! お元気ですか?」
声をかけられて顔を上げると、廣瀬は満面の笑みを浮かべていた。
「廣瀬! 忙しいのにごめんね。っていうか、なんか雰囲気変わった? 彼氏でもできた?」
再会の喜びで顔が綻ぶ。たった一年と三ヶ月間会わなかっただけなのに、髪が伸びた廣瀬はやけに大人っぽくなったように感じた。
「できませんよぉ、仕事が忙しすぎて恋愛どころじゃないですもん。それに、その辺の男よりも夏目先輩の方がよっぽど格好いいので理想が高くなっちゃったんですよ? どう責任取ってくれるんですか?」
「彼氏ができない理由に仕事は挙げていいけど、私のせいにはしないでよ」
外見は大人っぽくなったというのに、屁理屈をこねて私にじゃれてくるところは変わらなくて笑みが零れた。
廣瀬は注文したアイスティーを飲みながら、今日の取引先の営業担当が変わって話が物凄くスムーズに行くようになったことや、先輩の早坂さんの結婚相手が目玉がひっくり返るくらいの美人で、披露宴は美女と野獣そのものの構図だったことなど近況を語った。
「あ、そうそう。夏目先輩が辞めた後、新村さんが目に見えてしょんぼりしていたらしいですよ。後任の伊東さんが『俺、毎回八つ当たりされて死にそう』って愚痴ってました」
「新村さんがしょんぼり? それは私がいなくなって寂しいからじゃなくて、思う存分いびれる相手がいなくなってストレスが溜まってるだけだって」
「先輩の方はどうですか? お店の方は軌道に乗りましたか?」
廣瀬にとってはなんの気なしに尋ねたであろうその質問を、私は待ち構えていた。
「ああ、えっと……廣瀬に一つ、お願いがあるんだけど」
リュックサックの中から一足のウェッジサンダルを取り出して、廣瀬に手渡した。今日、忙しい廣瀬にわざわざ時間を作ってもらった理由の一つだ。
「デザインから仕上げまで全工程を私が担った、ウチの店オリジナルシューズだ。この夏、セミオーダーのサンプルとして広告に載せようと思ってる。……廣瀬はこの靴、どう思う? お金を出して買いたいと思うか?」
私の顔と手渡されたサンダルを交互に見て、廣瀬は頷いた。
「えっ……その……厚みのあるウェッジソールで流行りを押さえていますし、奇をてらわないシンプルなデザインもいいと思います。幅広い年代の人に手にとってもらえそうですよね」
「建前はいいから。正直な感想を教えてほしい」
私の瞳から逃れるようにあからさまに視線を外した廣瀬は、答え辛そうに口ごもった。
「……わかりました。先輩のためだと思って、言わせていただきます。……わたしだったらこの靴は、買いません。同じような靴なら、もっと安価に手に入る量販店で買うと思います」
どんな批評も受け止める覚悟をしてきたつもりだが、最初から最後まで自分の手で作り上げたいわば我が子のような靴が否定されるのは、理屈ではなく辛いものがある。顔に出ないように平静を装いながら、メモ帳とペンを取り出した。
「うん、助かる。良くないところを具体的に指摘してもらっていい?」
「……まず色なんですけど、白じゃなきゃいけない理由ってありますか? 万人受けするから白って考えているのであれば、ちょっと安易すぎると思います。あと、スクエアトゥにしたのは大人っぽさを狙ったんじゃないですか? それなのに踵部分のストラップにゴムを入れてますよね? 確かに履きやすくはなりますが、子どもっぽさと庶民的な印象を与えてしまいます。せっかくのオーダーメイドシューズなのに、高級感が失われたら意味がないと思います」
「でも購入層を狭めたくなくて。誰にでも受ける靴を作るべきだと思ったんだよ」
「それは各大手メーカーがビッグデータを基に、こぞって研究し製作しています。真っ向勝負して勝てるとは思いません。個人でやっていくならもっと『ここで作って良かった』と思ってもらえる個性やサービスを出していかないと、生き残るのは難しいと思います」
言い返したい気持ちをぐっと堪えて、後輩からの厳しい駄目出しをメモに残していった。
それからも廣瀬は、可愛らしい声で淡々と私の靴の問題点を指摘していった。その内容はショックを受けるものも多かったが決して私を貶してやろうとか鬱憤を晴らしてやろうとか邪念が入っている感じではなく、正確で納得のできるものだった。
廣瀬が大人っぽくなったのはきっと、髪が伸びたことだけが原因ではない。後輩を指導する立場になり、今までより強い責任感を持って仕事をして結果も出していることで、少しずつ自信がついてきたからなのだろう。
私たちが注文した飲み物はとっくに空になっていたけれど、私たちの可愛気のないお喋りはまだまだ終わりそうになかった。
二人分のドリンク代を支払い、店を出た。
「今日は本当にありがとう。私、もっといい靴を作れるように努力するよ」
謝辞をもう一度口にすると、廣瀬は手をぶんぶんと横に振った。
「い、いえ! 気にしないでください! 夏目先輩から連絡をいただけて嬉しかったですし、それに……わたし、先輩には本当にお世話になったので、少しでも恩返しがしたかったんです。今日みたいなアドバイスでも参考になるなら、いくらでもさせていただきます!」
「ありがと。この礼はいつか必ず返すから。何かしてほしいこととかあったら、考えておいて」
あの泣き虫でネガティブだった後輩の成長と頼りになる言葉に、胸が温かくなった。
廣瀬も頑張っている。短い時間だったけれど、私ももっと頑張らなければと素直に思える、力をもらえる再会だった。
「……なんでも、ですか? じゃあ、一つだけ我儘を言わせてください。……夏目先輩。他の誰の前で弱音を吐いていいです。だけど、わたしの前でだけは、いつまでも格好いい憧れの先輩のままでいてください」
あまりにも身勝手な要求に目を瞬かせた。私がその言葉の意味を尋ねるより先に、廣瀬は真剣な眼差しで私を見据えながら続けた。
「夏目先輩はわたしの目標で、指針で、いつまでも背中を追いかけていたいと思わせてくれるたった一人の憧れの人なんです。もしも先輩が格好悪かったら、仕事においてわたしのやる気だとか向上心が失われてしまいますから」
廣瀬の我儘は私にとって重圧以外の何物でもなく、応えられる気がしなかった。
頭では「無理だ」と明確な拒否をしているし、「私に依存するな」と断るに相応しい理由まで用意できていた。
それなのに、どうしてだろう。
「……うん、わかった。廣瀬の憧れの先輩のままでいられるように、もっと頑張って結果を出すから」
私はまるで魔法をかけられたみたいに、彼女の望む返事をしていたのだった。
私の回答に満足したのか、廣瀬はあの頃のように可愛らしい「後輩」としての笑顔を見せた。
休みを利用して東京に帰ってきたのは、気分転換というよりは陽葵と顔を合わせたくなかったのが大きな理由だ。昨日の朝も陽葵の顔を見ないまま家を出て、新幹線の中から『三日間は家に帰らない』とメッセージを送っておいた。陽葵が私の言動を正しく理解しているならば、今頃荷造りに励んでいるはずだ。
久々の東京は本当に人が多く感じられる。電車を乗り継いで向かったのは、廣瀬と待ち合わせをしている喫茶店だ。忙しいなか外回り営業の合間を縫って、私との時間を作ってくれた廣瀬には感謝している。
コーヒーを啜りながら廣瀬を待った。今のところ遅れるという連絡は来ていないが、激務かつイレギュラーもよく発生する会社だからどうなるかわからない。気ままに待とうと窓の外をぼんやりと眺めると、雨が降り始めていた。
折りたたみ傘を持ってきて良かったと思うと同時に、陽葵と過ごしたあの暴風雨の夜を思い出して胸が痛んだ。雨音が聞こえないようにイヤホンで耳を塞いで、スマホのプレイリストから明るい曲を選んで再生した。
「夏目先輩! お久しぶりです! お元気ですか?」
声をかけられて顔を上げると、廣瀬は満面の笑みを浮かべていた。
「廣瀬! 忙しいのにごめんね。っていうか、なんか雰囲気変わった? 彼氏でもできた?」
再会の喜びで顔が綻ぶ。たった一年と三ヶ月間会わなかっただけなのに、髪が伸びた廣瀬はやけに大人っぽくなったように感じた。
「できませんよぉ、仕事が忙しすぎて恋愛どころじゃないですもん。それに、その辺の男よりも夏目先輩の方がよっぽど格好いいので理想が高くなっちゃったんですよ? どう責任取ってくれるんですか?」
「彼氏ができない理由に仕事は挙げていいけど、私のせいにはしないでよ」
外見は大人っぽくなったというのに、屁理屈をこねて私にじゃれてくるところは変わらなくて笑みが零れた。
廣瀬は注文したアイスティーを飲みながら、今日の取引先の営業担当が変わって話が物凄くスムーズに行くようになったことや、先輩の早坂さんの結婚相手が目玉がひっくり返るくらいの美人で、披露宴は美女と野獣そのものの構図だったことなど近況を語った。
「あ、そうそう。夏目先輩が辞めた後、新村さんが目に見えてしょんぼりしていたらしいですよ。後任の伊東さんが『俺、毎回八つ当たりされて死にそう』って愚痴ってました」
「新村さんがしょんぼり? それは私がいなくなって寂しいからじゃなくて、思う存分いびれる相手がいなくなってストレスが溜まってるだけだって」
「先輩の方はどうですか? お店の方は軌道に乗りましたか?」
廣瀬にとってはなんの気なしに尋ねたであろうその質問を、私は待ち構えていた。
「ああ、えっと……廣瀬に一つ、お願いがあるんだけど」
リュックサックの中から一足のウェッジサンダルを取り出して、廣瀬に手渡した。今日、忙しい廣瀬にわざわざ時間を作ってもらった理由の一つだ。
「デザインから仕上げまで全工程を私が担った、ウチの店オリジナルシューズだ。この夏、セミオーダーのサンプルとして広告に載せようと思ってる。……廣瀬はこの靴、どう思う? お金を出して買いたいと思うか?」
私の顔と手渡されたサンダルを交互に見て、廣瀬は頷いた。
「えっ……その……厚みのあるウェッジソールで流行りを押さえていますし、奇をてらわないシンプルなデザインもいいと思います。幅広い年代の人に手にとってもらえそうですよね」
「建前はいいから。正直な感想を教えてほしい」
私の瞳から逃れるようにあからさまに視線を外した廣瀬は、答え辛そうに口ごもった。
「……わかりました。先輩のためだと思って、言わせていただきます。……わたしだったらこの靴は、買いません。同じような靴なら、もっと安価に手に入る量販店で買うと思います」
どんな批評も受け止める覚悟をしてきたつもりだが、最初から最後まで自分の手で作り上げたいわば我が子のような靴が否定されるのは、理屈ではなく辛いものがある。顔に出ないように平静を装いながら、メモ帳とペンを取り出した。
「うん、助かる。良くないところを具体的に指摘してもらっていい?」
「……まず色なんですけど、白じゃなきゃいけない理由ってありますか? 万人受けするから白って考えているのであれば、ちょっと安易すぎると思います。あと、スクエアトゥにしたのは大人っぽさを狙ったんじゃないですか? それなのに踵部分のストラップにゴムを入れてますよね? 確かに履きやすくはなりますが、子どもっぽさと庶民的な印象を与えてしまいます。せっかくのオーダーメイドシューズなのに、高級感が失われたら意味がないと思います」
「でも購入層を狭めたくなくて。誰にでも受ける靴を作るべきだと思ったんだよ」
「それは各大手メーカーがビッグデータを基に、こぞって研究し製作しています。真っ向勝負して勝てるとは思いません。個人でやっていくならもっと『ここで作って良かった』と思ってもらえる個性やサービスを出していかないと、生き残るのは難しいと思います」
言い返したい気持ちをぐっと堪えて、後輩からの厳しい駄目出しをメモに残していった。
それからも廣瀬は、可愛らしい声で淡々と私の靴の問題点を指摘していった。その内容はショックを受けるものも多かったが決して私を貶してやろうとか鬱憤を晴らしてやろうとか邪念が入っている感じではなく、正確で納得のできるものだった。
廣瀬が大人っぽくなったのはきっと、髪が伸びたことだけが原因ではない。後輩を指導する立場になり、今までより強い責任感を持って仕事をして結果も出していることで、少しずつ自信がついてきたからなのだろう。
私たちが注文した飲み物はとっくに空になっていたけれど、私たちの可愛気のないお喋りはまだまだ終わりそうになかった。
二人分のドリンク代を支払い、店を出た。
「今日は本当にありがとう。私、もっといい靴を作れるように努力するよ」
謝辞をもう一度口にすると、廣瀬は手をぶんぶんと横に振った。
「い、いえ! 気にしないでください! 夏目先輩から連絡をいただけて嬉しかったですし、それに……わたし、先輩には本当にお世話になったので、少しでも恩返しがしたかったんです。今日みたいなアドバイスでも参考になるなら、いくらでもさせていただきます!」
「ありがと。この礼はいつか必ず返すから。何かしてほしいこととかあったら、考えておいて」
あの泣き虫でネガティブだった後輩の成長と頼りになる言葉に、胸が温かくなった。
廣瀬も頑張っている。短い時間だったけれど、私ももっと頑張らなければと素直に思える、力をもらえる再会だった。
「……なんでも、ですか? じゃあ、一つだけ我儘を言わせてください。……夏目先輩。他の誰の前で弱音を吐いていいです。だけど、わたしの前でだけは、いつまでも格好いい憧れの先輩のままでいてください」
あまりにも身勝手な要求に目を瞬かせた。私がその言葉の意味を尋ねるより先に、廣瀬は真剣な眼差しで私を見据えながら続けた。
「夏目先輩はわたしの目標で、指針で、いつまでも背中を追いかけていたいと思わせてくれるたった一人の憧れの人なんです。もしも先輩が格好悪かったら、仕事においてわたしのやる気だとか向上心が失われてしまいますから」
廣瀬の我儘は私にとって重圧以外の何物でもなく、応えられる気がしなかった。
頭では「無理だ」と明確な拒否をしているし、「私に依存するな」と断るに相応しい理由まで用意できていた。
それなのに、どうしてだろう。
「……うん、わかった。廣瀬の憧れの先輩のままでいられるように、もっと頑張って結果を出すから」
私はまるで魔法をかけられたみたいに、彼女の望む返事をしていたのだった。
私の回答に満足したのか、廣瀬はあの頃のように可愛らしい「後輩」としての笑顔を見せた。