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 こういうときに同居は辛い。腫れた目を陽葵に見られたくないと思っても、顔を合わせないのは難しいからだ。

「ただいまー……」

「おかえり曜ちゃん! 今日は結構早かったんだね」

 憂鬱な気持ちで帰宅した私は、テーブルの上に置かれている札束を見て唖然とした。

「……ど……どうしたの、これ」

 束ねられた一万円札の厚さから考えると、百万円くらいだろうか。状況整理が上手くできずに反応が遅れた私の顔色を窺いながら、陽葵は明るい声色で説明を始めた。

「曜ちゃん最近、仕事で困っているように見えたから……ほら、お金があった方ができることも増えるでしょ? 広告を出すとか仕事道具を充実させるとか、お店の利益になるように使ってほしいなって思って」

「……誰がこんなこと頼んだ? このお金はどうやって工面したの? っていうか、お金なら別に困ってないから」

 水野さんの歪んだ笑みが脳裏にチラつき苛ついた私は、自分でも驚くほど刺々しく陽葵の厚意を否定していた。

「でも、お金は持っているに越したことはないよ!」

「――水野さんって、社長さんなんだって? 身なりからして、随分儲かってそうだったな」

 陽葵の表情は一瞬で強張り、白い肌は真っ青になった。

 あからさまな動揺を見せる陽葵に対して、苛立ちをぶつけずにはいられなかった。

「ウチの店に来たんだよ。いろいろ話したけど……まあ、人の話を聞こうとしない男だったよ。頼んでもないのに私のためとか言って、買収の話を持ち掛けてきたり……陽葵はさあ、ああいう強引で、思い通りにならないと豹変するような男が好みなの?」

「ち、違うよ……! わたし、わたしは……水野さんが曜ちゃんのお店にまで行くとは思わなくて……」

「陽葵に気に入られたくて必死なんでしょ。どうでもいいけどさ。それで? この金はあいつに貰ったの? もしかして、恋人になる代わりに金を貰う約束でもした?」

 自分でも驚くほど冷たく、蔑んだ声が出た。陽葵は口を開きかけたけれど、下手に弁明しても無駄だと察したのだろうか、やがて何も言わずに私から目を逸らした。

 その沈黙は肯定と同義だ。私は声を荒らげずにはいられなかった。

「たかが同居人のために好きでもなんでもない男と付き合うとか、何考えてんの⁉」

「……恋人にはなってないよ。来週、泊まりでデートする約束はしたけれど……」

「なんで!? 女を蔑視して満足するような男に愛想振り舞いて、悔しくないの⁉ 男に頼らずに、やりたいことを見つけるために頑張るんじゃなかったの!?」

 このとき初めて、私は怒りよりも悲しみを覚えていることに気がついた。

 陽葵とは別に約束を交わしていたわけじゃないのに、勝手に裏切られた気分になっていたのだ。

 こんな笑い話、陽葵に知られたくなんかなかったのに、気持ちが馬鹿正直に声色に乗ったせいか伝わってしまったらしい。顔を上げた陽葵の大きな瞳には、泣きそうな顔をした私の姿が映っていた。

「……ごめんなさい……でもわたし、曜ちゃんのために何もできないんだもん! 靴作りのアドバイスとかできないし、経営のことなんてもっとわかんないし! でも曜ちゃんは毎日辛そうにしてるし、どうしても役に立ちたかったんだもん!」

「そ……そういうのは余計なお世話っていうんだよ!」

「曜ちゃんが悪いんだよ!? わたしに心配かけたくなかったら、辛そうな顔なんてしないで! 余計な真似されたくなかったら、ちゃんとお店を繁盛させてよ! わたしは曜ちゃんにも太ちゃんにも感謝してるの! だからバカなりに恩を返したかったの!」

 暴虐的な理論をぶつけられた私は、感情を司る脳の機能がぶっ壊れたのか、なぜか冷静さを取り戻していった。一度深呼吸をして、静かに尋ねた。

「じゃあなんで、水野さんを頼ったの? 全然知らない男から買収を提案されたり、お金を貰ったり……そんなことされて私が喜ぶとでも思った?」

「……さっきも言ったけど、水野さんが曜ちゃんのお店に行って買収の話をしてくるなんて思ってなかった。予想外だったの。でも……」

 言いづらいことだったのか陽葵は躊躇いを見せたが、私を見据えて告げた。

「……お金は受け取ってくれると思った。もう曜ちゃん一人の力じゃ、お店はどうにもならないと思ったから。……これ以上苦しそうな曜ちゃんのこと、見ていられなかったの」

 張り詰めていた糸のようなものが、プツンと切れた音がした。

 目の前に陽葵が立っていなければ膝から崩れ落ち、そのまま涙の海に飲み込まれてしまいそうなくらいショックが大きかった。

 陽葵が自分の道を探そうとするやる気に繋がればと思い、私は懸命に働く姿を見せてきたつもりだった。だが、私の背中では力不足だったのだ。

 惨めだった。乾いた笑みを浮かべながら、床に落ちたテーブルの上にあった札束を手に取って、陽葵に差し出した。

「私が不甲斐ないせいで嫌な思いをさせて、ごめん。でも、このお金はどうしても受け取りたくない。このまま水野さんに返して、デートは取り消しなよ。あとさ、陽葵に気を遣わせたくないから一緒に夕食を食べるのはやめよう。陽葵なら私の店の様子なんて、私の顔を見ればすぐわかっちゃうでしょ?」

 これ以上心配されないようにあえて淡々と、互いにとっての最善策を提案したつもりだった。だけど陽葵は札束を受け取らず、問い詰めるように顔を近づけてきた。

「曜ちゃんは、わたしのことが嫌いなの?」

「嫌いなやつとこんなに長く一緒に住むわけないじゃん。わざわざ言わなくてもわかると思うけど」

「なにそれ? 言ってくれなきゃわかんないよ。言葉足らずのくせに伝える努力もしないで勝手に傷ついて、それでも理由を言わずに自分の気持ちをわかってもらおうなんて、傲慢すぎ」

 超のつく正論に言い返すことができなかった。次に発するべき言葉を必死に模索していると、陽葵の瞳から一筋の涙が流れていた。
陽葵はそれを手のひらで雑に拭って、私を見つめた。

「曜ちゃんはいつだって格好いいよ? でも……曜ちゃんは一度でも想像したことがあった? わたしが曜ちゃんを応援したい気持ち、曜ちゃんに嫉妬する気持ち、曜ちゃんが笑ったときに嬉しくなる気持ち、曜ちゃんと一緒にいて惨めになる気持ち……曜ちゃんは自分のことばっかりで、わたしの気持ちなんて全然わからないでしょ? だからわたしが今こんなに怒っている理由もわからないんでしょ?」

 震える声で私に訴えかける陽葵の言葉を、黙って受け止めた。最後まで聞いたうえで、どうしても陽葵の口から正直に話してほしいことがあるからだ。

「……ねえ、陽葵。……本当は……私と一緒に暮らすのは……嫌だって、思っていたの?」

 目が合った陽葵は辛そうに顔を背けて、蚊の鳴くような声で口にした。

「……うん……嫌だった、よ……」

 その言葉を聞いた瞬間、全身から力が抜けていってしまった。

 同時に、これ以上陽葵と一緒に暮らしていくのは不可能なのだと悟った。

「そっか……それじゃあ……悪いんだけど、出て行ってくれる?」

 駄々をこねる子どものように、あるいは自分勝手なモラハラ男のように口にした急過ぎる別れの言葉ですら、陽葵は従順に飲み込んでそっと居間を出て行った。

 ――ねえ、じいちゃん。じいちゃんが救いたいと思って手を差し伸べた女に、私は何もしてやれなかった。ごめん。

 一年間続いた陽葵との生活は、この日終わりを告げた。