不躾な質問だったのにもかかわらず、水野さんはふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「……あなたのことを心配していましたよ。友達思いなんです、陽葵は」
その返事に、私は強い苛立ちを覚えた。
友達だなんて、私たち二人ですら口にしたことのない単語を、第三者が簡単に口にしないでほしい。
私と陽葵は一緒に遊びに行ったことがない。趣味も違う。好みの音楽も違う。好きな男のタイプも違う。
同居しているだけで共通する部分なんて年齢くらいしかない私たちの関係を、果たして「友達」と呼んでいいものかわからない。
自分でも確信が持てない曖昧な私たちの関係を一言で言い切って、知ったような口を利いて、こいつこそ陽葵のなんだっていうんだ。
「お優しいですね。水野様は陽葵の彼氏なんですか?」
「いえ……これから夫になるために、今はアプローチをかけている最中です。そのうちあなたにも陽葵から報告があると思いますよ」
私の嫌味にも気づかずに水野さんは得意気だったが、陽葵からは彼氏どころか好きな人がいる話すら聞かされていないし、浮ついた様子も見られない。段階をすっ飛ばしていきなり夫になると発言するあたり、きっと彼の独り相撲なのだろう。
……というか、以前陽葵が口にしていた「生理的に無理な押しの強い社長さん」とは、水野さんのことではないだろうか?
「僕は一応、リラクゼーションサロンを運営している会社の社長をやっています。宮城県だと仙台市にしか店舗がないからご存じないかもしれませんが、『ラフィール』って聞いたことありませんか? あの店の系列会社です」
マウントを取り始めた彼から差し出された名刺を受け取りつつ、聞かずにはいられなかった質問をぶつけた。
「……陽葵はこの店の経営を心配していたってことですか?」
「まあ、単刀直入に言えばそうですね。素敵なお店ですけどね、僕も実際に足を運んでみて、少々メスを入れた方がいいのかなあという気はしています」
悔しさで拳を握りしめた。
陽葵に体調を心配されるのは慣れっこだ。だけど経営について心配されるのは、今まで陽葵にいいところを見せようと思って背筋を伸ばしてきた私にとって、今までの頑張りを否定されたようで屈辱だったのだ。
「この店の開業資金はどこからですか? 融資ですと、年齢や経験で審査が通りにくいかと思いますが……」
「いえ。幸い祖父が遺してくれたお金がありますので、自己資金です」
明らかに私を馬鹿にしたような口調にカチンときて、つい余計な情報を漏らしてしまった。
後悔したもののすでに遅く、水野さんは鼻で笑った。
「あー、だからですか。若い女の子の遊びにしては、贅沢だなあと思いましたよ。いいですね、裕福なご家庭は」
これで嫌味を言っているつもりがないのだとしたら、この男は人を苛つかせる天才だと思った。殴り掛かりたい気持ちを必死に堪えて、営業用の笑顔を取り繕った。
「お代は結構ですので、今すぐにお引き取りください。本日はご来店くださりありがとうございました」
「靴を作って、接客をして、さらにオーナーとしての仕事をしなければならない。若い女の子にはかなりハードな仕事ですよね。僕にこの店の経営を任せてくれるなら、確実に利益が出るようになりますよ。あなたも靴作りに専念できますし、軌道に乗れば全国展開できる可能性だってあります。まあつまり、買収の相談です。悪い話ではないと思いますよ?」
「遠慮しておきます。どれだけ利益が出なくとも、たとえ店が潰れることになってしまっても、最後まで自分の力だけでやってみたいんです」
「意固地になる必要なんかありませんよ。僕はあなたのためを思って言っているんです」
「いえ、結構です。人に任せるなら開業した意味がありませんから」
断り続けているのに、どうしてこの人は引き下がろうとしないのだろう。私が活かせていないだけで、この店は相当儲けの出るポテンシャルでも秘めているのだろうか。
疑問に思う私の頭の中を読んだかのように、彼はその言葉を口にした。
「それに、僕に経営を任せてくれた方が陽葵も安心すると思いますよ。友人やご両親、周りの方々の精神をすり減らすような心配をされ続けるのは、あなただって心苦しいでしょう?」
聞いた瞬間に直感した。水野さんが必死になって私に関わろうとしてくるのは、『サン・メイド』に金の匂いを感じて乗っ取ろうと考えているわけではない。
弱者へ手を差し伸べる強者という演出をして、陽葵へのアピールのダシに使いたいだけなのだ。
今までに感じたことのないほどの強い激情が体の奥から込み上げた。
ふざけんな。自分の店を持つのは靴職人になると決めたときから抱いていた夢だ。経営が上手くいっていないとはいえ、毎日掃除をして、どうすればお客様が増えるか無い知恵を絞りながら試行錯誤して、誠意を持って向き合ってきた私の大切な場所なのだ。
『サン・メイド』で叶えていきたい夢はまだたくさんある。人生を懸けて築き上げていきたい私の城に、汚い足で踏み込もうとすんな。
――この店を、そんなくだらないことに使おうとするんじゃねえよ!
「そういう色恋沙汰の駆け引きは余所でやっていただけませんか? 迷惑です」
相手がお客様とはいえ、ここまで喧嘩を売られたのだ。言い値で買ってやろうじゃないか。
「……あなたは経営者のくせに、自分から店を潰そうとするんですね」
水野さんは呆れたように溜息を吐いた。
「水野様はどうして、この店が潰れることを前提でお話されるんですか? あまり気分のいいものではありません」
「僕は知識と経験からこの店の未来を危惧して、あなたにも危機感を持ってほしいと思っているだけです。不快になられたのならばやはり、あなたは経営者として未熟ですよ。向いていない」
「経営者といえども人間ですから。私は、あなたにこの店を渡すつもりなんてありません。もう一度言います。どうか、お引き取りください」
それから私にとっては不快でしかない押し問答が続いた。いい加減に辟易し始めた頃、すっかり口調の荒くなった水野さんは唾を飛ばして言った。
「陽葵の友達のくせに、どうしてあいつと違ってそんなに可愛気がないんだ? ニコニコ笑って男を立てるだけで手に入る幸せがあるのに、わざわざ難儀な生き方をするなよ!」
「難儀? 男に気を遣って生きていく方が、私にとってはよっぽど苦痛ですけど」
経営者としてではなく男女の話を持ち出した水野さんを、私は極めて冷ややかな目で見ていた。一分一秒でも早く帰ってほしい。いつもはお客様の来店を願ってやまないのだが、今だけはこんな空気の悪い店内に誰も来ないようにと祈っていた。
「はあ……少しは陽葵を見習えよ。あいつに上目遣いで頼まれたら、断れない男なんていない。女なら女らしく、女を武器にした方が生きやすいだろうが」
「それ、全然褒め言葉じゃないので陽葵の前で言わない方がいいですよ。むしろ侮辱だってあなたは気づいていないんでしょうけど」
水野さんは舌打ちをして大きな溜息を吐いた。最初に店に入ってきた男と同一人物だとは思えない。その外面に騙されて泣かされる女に同情する。
「……まあ、いい。後にあなたは、俺に媚びを売っておけば良かったと後悔する羽目になる。まずは今日、家に帰ったときに実感してください」
捨て台詞を吐き、水野さんは磨き上げられた革靴の音を鳴らして店を出て行った。
フェラーリの轟音が完全に聞こえなくなってから、私は荒ぶった感情を落ち着かせるために天井を仰いで深呼吸をした。だけど未熟な私は自分の気持ちを上手くコントロールできず、時間が経っても体中を迸るマグマのような怒りに苛まれて発狂しそうだった。
悔しい。あんな、女を男のご機嫌取りにしか考えていないような奴に振り回されている自分が情けない。もしもこの店が誰にも文句の言えないくらいの人気店だったなら、あんな言葉なんて笑って受け流すくらいの応対ができたのだろうか。
作業場の椅子に座っていた私は、机の上に落ちた水滴を見た。それが自分の目から零れ落ちたものだと自覚した後は、拳を握り締め、口を真一文字に結んで抑えようと試みた。しかし抵抗むなしく、堰を切ったように溢れ出てくるそれを堪えることはできなかった。
私が何より悔しかったのは、私が人生を懸けてやっているこの仕事を「裕福な家庭に育った若い女の遊び」だと一笑に付されたことだった。私の決意も努力も、周りから見れば遊んでいるようにしか見えていない。売れないオーダーメイドシューズ店で一人働く私が、世間からどう評価されているのか実感させられた。
誰もいない店内で一人、私は目が赤くなるまで泣いた。
「……あなたのことを心配していましたよ。友達思いなんです、陽葵は」
その返事に、私は強い苛立ちを覚えた。
友達だなんて、私たち二人ですら口にしたことのない単語を、第三者が簡単に口にしないでほしい。
私と陽葵は一緒に遊びに行ったことがない。趣味も違う。好みの音楽も違う。好きな男のタイプも違う。
同居しているだけで共通する部分なんて年齢くらいしかない私たちの関係を、果たして「友達」と呼んでいいものかわからない。
自分でも確信が持てない曖昧な私たちの関係を一言で言い切って、知ったような口を利いて、こいつこそ陽葵のなんだっていうんだ。
「お優しいですね。水野様は陽葵の彼氏なんですか?」
「いえ……これから夫になるために、今はアプローチをかけている最中です。そのうちあなたにも陽葵から報告があると思いますよ」
私の嫌味にも気づかずに水野さんは得意気だったが、陽葵からは彼氏どころか好きな人がいる話すら聞かされていないし、浮ついた様子も見られない。段階をすっ飛ばしていきなり夫になると発言するあたり、きっと彼の独り相撲なのだろう。
……というか、以前陽葵が口にしていた「生理的に無理な押しの強い社長さん」とは、水野さんのことではないだろうか?
「僕は一応、リラクゼーションサロンを運営している会社の社長をやっています。宮城県だと仙台市にしか店舗がないからご存じないかもしれませんが、『ラフィール』って聞いたことありませんか? あの店の系列会社です」
マウントを取り始めた彼から差し出された名刺を受け取りつつ、聞かずにはいられなかった質問をぶつけた。
「……陽葵はこの店の経営を心配していたってことですか?」
「まあ、単刀直入に言えばそうですね。素敵なお店ですけどね、僕も実際に足を運んでみて、少々メスを入れた方がいいのかなあという気はしています」
悔しさで拳を握りしめた。
陽葵に体調を心配されるのは慣れっこだ。だけど経営について心配されるのは、今まで陽葵にいいところを見せようと思って背筋を伸ばしてきた私にとって、今までの頑張りを否定されたようで屈辱だったのだ。
「この店の開業資金はどこからですか? 融資ですと、年齢や経験で審査が通りにくいかと思いますが……」
「いえ。幸い祖父が遺してくれたお金がありますので、自己資金です」
明らかに私を馬鹿にしたような口調にカチンときて、つい余計な情報を漏らしてしまった。
後悔したもののすでに遅く、水野さんは鼻で笑った。
「あー、だからですか。若い女の子の遊びにしては、贅沢だなあと思いましたよ。いいですね、裕福なご家庭は」
これで嫌味を言っているつもりがないのだとしたら、この男は人を苛つかせる天才だと思った。殴り掛かりたい気持ちを必死に堪えて、営業用の笑顔を取り繕った。
「お代は結構ですので、今すぐにお引き取りください。本日はご来店くださりありがとうございました」
「靴を作って、接客をして、さらにオーナーとしての仕事をしなければならない。若い女の子にはかなりハードな仕事ですよね。僕にこの店の経営を任せてくれるなら、確実に利益が出るようになりますよ。あなたも靴作りに専念できますし、軌道に乗れば全国展開できる可能性だってあります。まあつまり、買収の相談です。悪い話ではないと思いますよ?」
「遠慮しておきます。どれだけ利益が出なくとも、たとえ店が潰れることになってしまっても、最後まで自分の力だけでやってみたいんです」
「意固地になる必要なんかありませんよ。僕はあなたのためを思って言っているんです」
「いえ、結構です。人に任せるなら開業した意味がありませんから」
断り続けているのに、どうしてこの人は引き下がろうとしないのだろう。私が活かせていないだけで、この店は相当儲けの出るポテンシャルでも秘めているのだろうか。
疑問に思う私の頭の中を読んだかのように、彼はその言葉を口にした。
「それに、僕に経営を任せてくれた方が陽葵も安心すると思いますよ。友人やご両親、周りの方々の精神をすり減らすような心配をされ続けるのは、あなただって心苦しいでしょう?」
聞いた瞬間に直感した。水野さんが必死になって私に関わろうとしてくるのは、『サン・メイド』に金の匂いを感じて乗っ取ろうと考えているわけではない。
弱者へ手を差し伸べる強者という演出をして、陽葵へのアピールのダシに使いたいだけなのだ。
今までに感じたことのないほどの強い激情が体の奥から込み上げた。
ふざけんな。自分の店を持つのは靴職人になると決めたときから抱いていた夢だ。経営が上手くいっていないとはいえ、毎日掃除をして、どうすればお客様が増えるか無い知恵を絞りながら試行錯誤して、誠意を持って向き合ってきた私の大切な場所なのだ。
『サン・メイド』で叶えていきたい夢はまだたくさんある。人生を懸けて築き上げていきたい私の城に、汚い足で踏み込もうとすんな。
――この店を、そんなくだらないことに使おうとするんじゃねえよ!
「そういう色恋沙汰の駆け引きは余所でやっていただけませんか? 迷惑です」
相手がお客様とはいえ、ここまで喧嘩を売られたのだ。言い値で買ってやろうじゃないか。
「……あなたは経営者のくせに、自分から店を潰そうとするんですね」
水野さんは呆れたように溜息を吐いた。
「水野様はどうして、この店が潰れることを前提でお話されるんですか? あまり気分のいいものではありません」
「僕は知識と経験からこの店の未来を危惧して、あなたにも危機感を持ってほしいと思っているだけです。不快になられたのならばやはり、あなたは経営者として未熟ですよ。向いていない」
「経営者といえども人間ですから。私は、あなたにこの店を渡すつもりなんてありません。もう一度言います。どうか、お引き取りください」
それから私にとっては不快でしかない押し問答が続いた。いい加減に辟易し始めた頃、すっかり口調の荒くなった水野さんは唾を飛ばして言った。
「陽葵の友達のくせに、どうしてあいつと違ってそんなに可愛気がないんだ? ニコニコ笑って男を立てるだけで手に入る幸せがあるのに、わざわざ難儀な生き方をするなよ!」
「難儀? 男に気を遣って生きていく方が、私にとってはよっぽど苦痛ですけど」
経営者としてではなく男女の話を持ち出した水野さんを、私は極めて冷ややかな目で見ていた。一分一秒でも早く帰ってほしい。いつもはお客様の来店を願ってやまないのだが、今だけはこんな空気の悪い店内に誰も来ないようにと祈っていた。
「はあ……少しは陽葵を見習えよ。あいつに上目遣いで頼まれたら、断れない男なんていない。女なら女らしく、女を武器にした方が生きやすいだろうが」
「それ、全然褒め言葉じゃないので陽葵の前で言わない方がいいですよ。むしろ侮辱だってあなたは気づいていないんでしょうけど」
水野さんは舌打ちをして大きな溜息を吐いた。最初に店に入ってきた男と同一人物だとは思えない。その外面に騙されて泣かされる女に同情する。
「……まあ、いい。後にあなたは、俺に媚びを売っておけば良かったと後悔する羽目になる。まずは今日、家に帰ったときに実感してください」
捨て台詞を吐き、水野さんは磨き上げられた革靴の音を鳴らして店を出て行った。
フェラーリの轟音が完全に聞こえなくなってから、私は荒ぶった感情を落ち着かせるために天井を仰いで深呼吸をした。だけど未熟な私は自分の気持ちを上手くコントロールできず、時間が経っても体中を迸るマグマのような怒りに苛まれて発狂しそうだった。
悔しい。あんな、女を男のご機嫌取りにしか考えていないような奴に振り回されている自分が情けない。もしもこの店が誰にも文句の言えないくらいの人気店だったなら、あんな言葉なんて笑って受け流すくらいの応対ができたのだろうか。
作業場の椅子に座っていた私は、机の上に落ちた水滴を見た。それが自分の目から零れ落ちたものだと自覚した後は、拳を握り締め、口を真一文字に結んで抑えようと試みた。しかし抵抗むなしく、堰を切ったように溢れ出てくるそれを堪えることはできなかった。
私が何より悔しかったのは、私が人生を懸けてやっているこの仕事を「裕福な家庭に育った若い女の遊び」だと一笑に付されたことだった。私の決意も努力も、周りから見れば遊んでいるようにしか見えていない。売れないオーダーメイドシューズ店で一人働く私が、世間からどう評価されているのか実感させられた。
誰もいない店内で一人、私は目が赤くなるまで泣いた。