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 帰宅してから陽葵を観察してみた。夏帆なんかは恋愛をしているときは普段とは浮かれ具合や服装が全然違うからわかりやすいが、味噌汁をお椀に注ぐ陽葵の様子に別段変わったところはないように見える。

 そういえば。電話を無視していた人がいたけれど、そいつがフェラーリの男で喧嘩中の彼氏ってことなのか? いや、彼氏だと決めつけるのは尚早か。陽葵に振られ続けていてもなおアタックを続けている厄介者だということも十分に考えられる。

 そこまで冷静に推理できているのにもかかわらず、私の胸に発生している黒い渦は今も振り払えていなかった。その原因は、男に依存したくないと口にしているのにもかかわらず、結局男の影がちらつく陽葵への苛つきだった。

 私が帰宅すると陽葵はいつも家にいる。私が仕事で不在の日中は職を探しているというけれど、家に監視カメラがあるわけでも陽葵にGPSを付けているわけでもないし、彼女が何をしているかなんてわからない。

「なあにー? 熱い視線を感じるんだけど? わたしのこと好きなの?」

 この霧が晴れなければ仕事に影響が出るかもしれない。意を決して「あのさ」と前置きして、

「陽葵には今、彼氏っているの?」

 遠回しな問いかけなんて性に合わない。直球で聞いてみることにした。

「えー? どうしたの急に? そんなに気になる? ふふ、本当にわたしのこと好きみたいに思えちゃう」

「茶化さないでよ。真面目に聞いてるんだけど」

「……曜ちゃんはいっつも言葉が足りないよね。ムカつくから教えなーい! ごはんどれくらい食べる?」

 この「核心に触れることは許さない」という反応は、着信無視した電話について聞いたときと同じだ。無関係というわけではなさそうだが、踏み込まれたくない領域には足を入れないと決めている。

「……大盛りで」

 めちゃくちゃ気になるし胸のモヤモヤは残ったままだけど、今日もそれ以上問いただすことはできずに口を噤んだ。



「あ! ヤバい! お風呂のお湯出しっぱなしだ!」

 食後にぼんやりと明日の天気予報を観ていると、陽葵はテーブルの上にスマホを置いて慌ただしく風呂場に走っていった。この家は古いから湯船にお湯を溜める際に自動で止まる機能など付いておらず、水温調節も出量調整も手動なのである。

 なんの気なしに置き去りにされたスマホに目をやると、直前まで触っていたからか、ロック画面が解除された状態で新たに受信したメッセージを目にしてしまった。

 その一文は、私の目を見開かせるには十分な衝撃を与えた。

『いくら欲しいの? 陽葵も知ってると思うけど、ラフィールがかなり好調だからね。望む金額を用意できるよ』

 話の前後のやり取りはわからなかったものの、差出人の『水野壱成』という名前は完全に記憶した。

 不可抗力とはいえ陽葵のプライバシーを勝手に覗き見てしまったことに罪悪感を抱き、アプリを開いてまで詳細を確認することはしなかったけれど、気になりすぎた私は差出人の名前を自分のスマホで検索してみることにした。

 幸運なことにわりと有名な人だったらしく、検索窓に名前を入れるとそれらしき人物が検索結果のトップページに出てきた。

 経営者として何かのインタビューに答えている記事に載っていた画像を見ると、日焼けした隆々の筋肉がスーツの上からでもわかるツーブロックの濃い顔をした男だった。記事には四十五歳と書かれているが、いわゆる肉食系っぽい雰囲気を出しているせいか妙に若々しく見える。

 M&Aで大きくなった、主に関東を中心に『ラフィール』というリラクゼーションサロンを運営している会社の社長らしいが、フェラーリ男はこいつなのだろうか。

「はー、ギリギリ間に合ったよお。曜ちゃん、お先にお風呂どうぞー」

「あ、うん。それじゃ、お先に……」

 戻ってきた陽葵と目を合わせられないまま、風呂場へ直行した。

 素直に認めよう。私の頭の中の大半を占めているのは『サン・メイド』だけど、残りは不本意ながら陽葵のことだった。

 だが陽葵を気にしている場合ではないはずだ。仕事だけに集中しなければ、売上を伸ばすことだけを考えなければ、赤字まみれの現状を打破するなんて出来やしないのに。

 ざぶんと湯船に頭を潜らせて、心を整えようと試みる。

 頑張らなきゃ。自分の意志で開いた(ゆめ)を、こんなに早く終わらせてたまるか。

 自分を追い込むやり方しか成果の出し方を知らない私は、仕事以外のすべてのものを後回しにしようと心に決めた。

          ◇

 売上を上向きにするために試行錯誤を繰り返し、手探りで藻掻きながら仕事に取り組んだ。

 季節は六月。六日連続の雨で街の雰囲気もなんとなく鬱屈としていたその日の朝、通勤用のベロアスニーカーの紐が切れた。よく意外だと言われるが、おみくじや占いの結果を気にするタイプである私は、嫌な予感に不安を募らせながら出勤した。

 今日も注文はない。溜息を吐いた十五時、大きな排気音に驚いて店の外を見ると、駐車場にスカイブルーの外車が停まった。車種はフェラーリだ。頭の中で何かが繋がる音がして、私の心臓は大きく跳ねた。

 扉が開いたときのベルの音がお客様の来店を知らせる。背筋を伸ばして「いらっしゃいませ」と丁寧に出迎えた私は、予想していた人物の姿を視認した。

「素敵なお店ですね。あなたが一人で経営されているのですか?」

 仕事に集中しようと決めたはずなのに、その顔と名前を忘れることはできなかったようだ。

 ブランド物のスーツに身を包み穏やかに話しかけてきた男は、水野壱成――陽葵にメッセージを送っていたその人だった。高久のおば様が話していたフェラーリ男は、水野壱成で間違いないだろう。

「はい、若輩ながら昔から自分の城を持つのが夢で、昨年オープンさせていただきました」

 水野さんは店内をゆっくりと見渡しながら頷き、自分の靴を見せるように軽く足を上げた。

「実は、僕が今履いている靴もオーダーメイドなんですよ。昔銀座で作ってもらったのですが、足に完全にフィットする履き心地、高級感、傷やリサイズに対応するアフターサービス、どれも決して安くない金額に見合った素晴らしい買い物でした。自分で言うのもなんですが、いい感じに馴染んでいると思いませんか?」

「ええ。牛の本革で作られたブラウンの甲革が、お客様の風格を助長するかのように美しく馴染んでいますね。靴職人として、お客
様が靴を大切にされていると嬉しく思います」

 陽葵と金のやり取りをしていたことから胡散臭い男だと先入観を持って構えていたが、オーダーメイドシューズの良さをわかっているので好感度が上がった。もしかしたら悪い人ではないのかもしれない、そう思っていた矢先のことだった。

「オーダーメイドシューズは素晴らしい。商売として目をつけるのもわかります。しかしこの店は採算は取れているのですか? 今も店内にいる客は僕一人ですし、少なくとも繁盛しているようには見えませんが……」

 社長として店の経営状態に首を突っ込みたくなる性分なのか、単に嫌みが言いたいのか。

 出会って数分しか話していない私には彼の人格なんぞ知る由もないが、少なくともこの一言で彼に抱き始めていた僅かな好意が、明確な敵意へとシフトしたのは確かだった。

「僕の知り合いの靴職人は定期的に靴作りの体験教室を開いて、講師としても収入を得ていますよ。靴作り体験は人気が高く、需要があるそうですね。あなたはやらないのですか?」

「私はまだまだ、人に教えられるような器ではありませんから」

 怒りを堪えて静かに答えると、水野さんはふっと感じの悪い笑みを浮かべた。

「ホームページを拝見しましたが、この店は革靴のクリーニングもやっていらっしゃるのですね? この靴を綺麗にしていただけませんか?」

「……かしこまりました。少々お時間がかかりますので、あちらの待合スペースでお待ちいただいても、外出されても構いません。いかがされますか?」

「あなたの仕事を見ていてもいいですか? 邪魔はしませんので」

 また不快な言葉を吐かれそうで嫌だったが、靴の製作も修理もクリーニングも少しでもお客様に興味関心を抱いて頂けるように、誰でも見学ができるスペースを設けてある。このコンセプトがある以上、私の好き嫌いで例外なんて作ってはならなかった。

「もちろんです。では、こちらにお掛けいただき靴をお脱ぎください」

 オーダーを受けるにあたって記入してもらった申込書の氏名欄には、予想通り『水野(みずの)壱成(いっせい)』とあった。

 私を観察せんとする水野さんに、あえて見せつけるように淡々と作業を開始していった。

 高級靴は種類こそ様々あれど、ほぼすべてが動物の皮から作られている。水野さんの靴も牛革製だ。ゆえに優しく、自分の肌にするのと同じようにブラシを当てる必要がある。

 靴の型崩れを防ぐためにシューキーパーを入れ、乾いたブラシを使って表面の埃を落とし、メイク落とし用のパフにクレンジングウォーターをつけて汚れを落としていった。

「へえ、汚れってそうやって落とすんですね。女の人ならではのやり方ですね」

「いえ、性別は関係ありません。洗剤を使うよりもクレンジング液を使った方が汚れ落ちが良く、革がしっとりするんです。最近の靴職人の世界ではむしろ常識とも言えますね」

 腹が立ったとはいえこんな棘のある言い方をするなんて、お客様に対して失礼すぎる。

 朗らかに笑え。穏やかに応対しろ。

 脳味噌はそう命令しているのに、感情が追いつかずに無愛想になってしまう自分の未熟さが恥ずかしかった。会社員時代に「女は感情的だから仕事ができない」と決めつけ鼻で笑った男たちの言葉を、私自身で証明することになってしまうではないか。

 ゆっくりと息を吐きながら頭を冷やそうと努めつつ、手にポリッシングクロスを巻きつけて続けた。

「次に、リムーバーでワックスを落としていきます。ご自身でお手入れをされる場合は汚れだけでなく色や栄養分まで落としてしまう危険がありますので、できればこういった専門店にお任せすることを勧めます」

「はは、商売上手ですね。はい、そうさせていただきます」

 それにしてもこの靴、本当に職人の腕が素晴らしい。縫製も釘打も微細狂うことなく精確で、革の良さを最大限に活かした吊り込みがしてある。腰裏に記載されたサインをこっそり覗いて、永進堂(えいしんどう)の知念さんという方が製作したのだと知った。

 永進堂は国内で有名な高級靴の老舗だ。大手とはいえ、企業に雇用されている一職人ですらこんなに高レベルな靴を仕上げられるのに、なんの実績も経験もない私が独立するのはやはり世間知らずの思い上がりだったのではないか?

 胸の奥から湧き上がってくる不安と羞恥を水野さんに悟られぬよう、一心不乱にワックスを落としていった。

 ワックスを完全に落としきってから、靴の色に合わせた栄養クリームを傷みの目立つ個所から塗り込んでいった。終わったらオイルクリームを塗って表面に艶を出し、底面には栄養分の多い専用耐水クリームを塗った。最後に鏡面仕上げ用のワックスで表面を磨き上げて光沢を出したら完成だ。

「クリーニングは以上となります。仕上がりを確認していただけますか?」

 革靴を手に取りくるりと全面を確認した水野さんは、頷いて目を細めた。

「……うん、美しいですね。ありがとうございます。やっぱり靴が綺麗だと仕事の効率も上がる気がしますから」

 磨き上げた靴に足を通す水野さんの満足そうな顔を見た瞬間、私は無意識のうちに問いかけていた。

「陽葵に言われて、ここに来たんですか?」