恵梨香さんのウエディングシューズ製作は、『サン・メイド』に思わぬ良効果をもたらしてくれた。
友達の多い彼女がSNSで『サン・メイド』の宣伝をしてくれたことで、問い合わせと注文の数がぐんと増えて大忙しの日々が続いたのだ。
しかし嬉しい悲鳴を上げたのも一時だった。二ヶ月も経つと注文は落ち着き、再び売上が減ってしまった。辛うじて利益は出ているとはいえ目標数値からは大きく下回っており、このままでは先細りしていずれは店を畳むことになるのは想像に難くなかった。
このままではダメだ。何かしらの改革をしなければ『サン・メイド』に先はない。
一層焦り始めた四月後半、宮城県笹森市ではちょうど桜が満開だった。花見をしようと陽葵に誘われたけれど、先の見えない現状にとてもそんな気分にはなれなかった。
近隣の店にチラシを置いてもらえるようにお願いしたり、セミオーダーの価格を下げたり、ディスプレイの靴を一新してみたりといろいろ試してみたものの、思っていたほどの成果は現れなかった。
ゴールデンウイークという稼ぎ時に結果が出なかったことで、相当気が滅入ってしまった。顔にも出てしまっていたのだろう。夕食の配膳を終えた陽葵が私の顔色を窺うように尋ねてきた。
「曜ちゃん、機嫌悪い? ……もしかしてわたしのせいだったりする?」
陽葵にこんな気を遣わせていることを情けなく思った。
「いや違う、ごめん。陽葵のせいじゃないから」
「……なんかあったの? 眉間の皺、すんごいことになってるよ?」
「……あまりに靴が売れないもんだから、どうしようかなって……真綿で首を締められている感じが続いて、落ち込んでるだけ」
いつか自分の店を持ちたいと夢を抱いたときから描いていたシミュレーションでは、店はいつも繁盛していて上手くいっていた。だけど、現実はそんなに甘くない。数字としてシビアに出される厳しい売上に打ちひしがれていた。
「そうなんだ……じゃあ、わたしの胸貸してあげようか? いっぱい泣いていいよ?」
「……いらない。女の胸で泣く趣味はないから」
「じゃあ膝枕は? 疲れているみたいだし、ちょっと眠ったらどう? ほら、人肌に触れていると安心してぐっすり寝られると思うし!」
陽葵の慰め方は親しい男、もしくは未就学児にするものとしか思えなかった。
「いや、いいって。どうした急に? 私、そんなに心配されるような顔してる?」
「してるよ! それに……わたし、曜ちゃんの仕事のことは全然わかんないけど、曜ちゃんのために何かしてあげたいんだもん」
「大丈夫、悩んではいるけど腐ってはいないから。……まだやれることはたくさんあるし! 心配かけてごめん。ごはん、冷めないうちに食べよ。いただきます」
陽葵の気持ちは嬉しい。だけど私は陽葵には愚痴を零すことはあれど、仕事のことでは頼りにしないというルールを自分に課していた。未だにやりたいことが見つけられず定職にも就いていない陽葵の自立のために、社会で働く女としての背中を見せると決めているからだ。
「でも……うん、よし! お酒飲もうよ! とことん付き合うし! レモンサワーもハイボールもぜーんぶわたしが作ってあげるから!」
「……陽葵は美人かもしんないけど、男をダメにするタイプの女だなあ」
落ち込んでいるときに優しくされたら誰だって心が揺らぐっていうのに、それが陽葵のようにとことん人を甘やかして尽くしてくれる美人だったなら、大抵の男は堕落してしまうのかもしれない。
「えー? なんでわたしがダメンズ製造機って呼ばれていたこと知ってるの? 曜ちゃん、わたしのこと好きだからいろいろ調べちゃった?」
「初耳だし好きじゃないし調べてないっての」
それからいつものように雑談しながら夕食をつついていると、陽葵のスマホが着信音を響かせた。だが画面を確認した陽葵は無視を決め込んでいた。
「電話? 出なくていいの?」
「……んー、後でかけ直すから、いいの」
一緒に暮らしてもう十ヶ月が経つけれど、暇さえあればいつだってスマホを触っていて返信も早い陽葵が、こんなに面倒臭そうに放置をするのは珍しいと思った。
「誰? 新しい男?」
「曜ちゃん、このワラビの和え物美味しい? 太ちゃんに作り方を教えてもらったんだよ。アク抜きが面倒だけど、自信あるんだー」
着信主のことは絶対に話したくないという強い意思を感じる。誰にだって踏み込まれたくない領域はあると思うが、陽葵の場合はこの電話の相手なのかもしれない。
「……美味しいよ。なんか懐かしい味だと思ってたけど、じいちゃん直伝だったか」
だったら無理に踏み込まない。それが同居人としての最低限のマナーだ。
「良かったー! ワラビいっぱい採りすぎちゃったから、これからしばらくは食卓に出すつもりだったの。嫌いって言われたらどうしようかと思ってたんだあ」
「あ、じゃあ高久さんのところに少し持って行っていい? いつも頂いてばかりだし、たまにはお返しがしたい」
高久のおば様からはいつも野菜や果物をたくさんもらっているので、何かお返しがしたいと思っていたところだ。
「おっけー。じゃあ、大きめのタッパーに入れておくね」
そう言って見せた朗らかな笑顔は、いつもの陽葵のものだった。
◇
翌日が定休日だったこともあり、私は早速ワラビの和え物を詰め込んだタッパーを持参して高久さんの家のインターホンを押した。引き戸を開けたおば様は割烹着姿で、家の中からは筑前煮のいい匂いがした。
「あら曜ちゃん! なんだか顔を見るのが久しぶりな気がするわ。忙しくしてるみたいねえ」
「ご無沙汰しております。あの、これワラビの和え物です。作りすぎてしまったので良かったら召し上がってください」
「まあー、ありがとう! 曜ちゃんが作ったの? 岸谷さんからも毎年いただいていたから、なんだか感慨深いものがあるわねえ」
「いえ、恥ずかしながら私は料理の方はからっきしなんです。これは私の友人が作ったものですが、味は保証しますよ」
それからおば様の孫娘がピアノを辞めて空手を始めたことや、来月予定されている笹森市長選挙のことなどたわいのない世間話をした。
「おば様、髪の毛切りましたよね? 今くらい短い方が若々しくて素敵ですよ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないの! この間白髪染めしたついでにね、ちょっと思い切っちゃった! いい年だし旦那には呆れられるんだけどね、来月には趣味でやってる社交ダンスの大会もあるし、せめてみすぼらしくない格好にしたいじゃない?」
私の偏見なのかもしれないけれど、笹森市に住む高齢の女性はお洒落をしたり、美容に気を遣ったりすることを恥ずかしいと考えている人が多い気がする。
おば様もいつもすっぴんで服装も同じパターンの地味なものしか着ておらず、足元はいつもサンダルかスニーカーで、パンプスを履いている姿など見たことはない。
私は今まで、知り合いに積極的に営業をかけたことがなかった。オーダーメイドシューズはお客様から要望を受けて作り上げるのが然るべき形であると、個人的な思い込みがあったからだ。だけど今の経営状況を考慮すれば、そんな高尚なことを言っている場合ではなかった。
「あの、おば様。もし良かったら、今度ウチの店で靴を作ってみませんか? 靴の仕様はすべてご希望通りのものになりますし、足を丁寧に採寸しておば様専用のサイズで作りますので、姿勢も美しくなります。歩くのが楽になるので健康にもいいですよ」
決して悪いものを勧めているわけではないのに、なぜか罪悪感と後悔が混ざったような感情を抱いた。昔、久しぶりに遊んだ友達に彼女が勤めている保険会社の生命保険に勧誘された日のことを思い出したのだ。
――純粋な友情だけで成り立ってきた今までの関係が壊れてしまった、その日のことを。
私が勝手に抱いた気まずさが伝わったとは思わないが、おば様はわかりやすく愛想笑いを零して早口で捲くし立てた。
「曜ちゃんのお店の靴ね、確かにお洒落で可愛いんだけど、ちょっとね、アタシみたいなおばさんが履くには勿体ない気がするのよねえ。ほら、アタシなんかスーパーか畑くらいしか行かないじゃない? すぐ汚してボロボロにしちゃうし、安い靴で十分なのよぉ」
そう言われてしまっては、これ以上の営業トークはとても続ける気にはなれなかった。
「……きゅ、急にすみませんでした。お夕飯作りの最中でしたよね? そろそろ失礼します」
「ごめんねえ……あ、ちょっと待っててね曜ちゃん」
一度家の中に入っていったおば様が再び玄関先に戻ってくると、両手にビニール袋を二つ提げていた。
「これ、ウチで採れたほうれん草ね。ちょっと小ぶりかもしれないけど、味はなかなかなのよぉ。良かったら持っていって?」
ビニール袋の中に綺麗な緑色をしたほうれん草がひしめいているのを見て、目を丸くした。
「い、いいんですか? こんなに頂いちゃって」
「いいのいいの! どうせ食べきれなくて腐らせちゃうだけだから! 夏になったらきゅうりとトマトもお裾分けするわね」
「あ……ありがとうございます。何かお返しできるものがありましたら、すぐに持ってきますので!」
「お返しなんていいのよぉ、人間関係は持ちつ持たれつとはいえ、ギブアンドテイクだけじゃ寂しいじゃない? 若い子はたくさん食べていっぱい働きなさい、ね?」
菩薩顔とはこんな表情を指すのだろうと思った。家族や友人とはまた違った類の温かな愛情に何度も礼を述べて、その場を去ろうとしたそのときだった。
「あ、曜ちゃん。曜ちゃんと一緒に住んでいる綺麗な女の子って、どこかのお嬢様だったりするのかしら? 昨日ね、馬のマークの外車が曜ちゃん家の前に停まっていたんだけど、その子と話していたスーツの男性の身なりがあまりにも良かったから、ビックリしちゃって」
黒い馬をエンブレムとしている外車なら、疎い私でもフェラーリだと知っている。高級車を乗り回す金持ちの男に心当たりはないが、陽葵と金持ちの男に繋がりがあるのは容易に想像ができる。
陽葵は男に頼らないで生きていきたいと口にする癖に、あいつの周りにはいつだって男の影がある。本当に自立する気があるのか、疑わしくなってくる。
「……和え物、その子が作ったんです。お嬢様だったら山に入って山菜採って、自炊はしないですよ。家じゃスウェットを着て安い酒ばっか飲んでる庶民なんです」
「そうなの? やあねえ、アタシも普段年寄りばっかり見てるから、お洒落している若くて綺麗な女の子を見ると、皆お嬢様に見えちゃうのよねえ」
ケタケタと笑うおば様と一緒に笑顔を作りながらも、私の胸には不信感のようなマイナスよりの感情が黒く渦巻き始めていた。
友達の多い彼女がSNSで『サン・メイド』の宣伝をしてくれたことで、問い合わせと注文の数がぐんと増えて大忙しの日々が続いたのだ。
しかし嬉しい悲鳴を上げたのも一時だった。二ヶ月も経つと注文は落ち着き、再び売上が減ってしまった。辛うじて利益は出ているとはいえ目標数値からは大きく下回っており、このままでは先細りしていずれは店を畳むことになるのは想像に難くなかった。
このままではダメだ。何かしらの改革をしなければ『サン・メイド』に先はない。
一層焦り始めた四月後半、宮城県笹森市ではちょうど桜が満開だった。花見をしようと陽葵に誘われたけれど、先の見えない現状にとてもそんな気分にはなれなかった。
近隣の店にチラシを置いてもらえるようにお願いしたり、セミオーダーの価格を下げたり、ディスプレイの靴を一新してみたりといろいろ試してみたものの、思っていたほどの成果は現れなかった。
ゴールデンウイークという稼ぎ時に結果が出なかったことで、相当気が滅入ってしまった。顔にも出てしまっていたのだろう。夕食の配膳を終えた陽葵が私の顔色を窺うように尋ねてきた。
「曜ちゃん、機嫌悪い? ……もしかしてわたしのせいだったりする?」
陽葵にこんな気を遣わせていることを情けなく思った。
「いや違う、ごめん。陽葵のせいじゃないから」
「……なんかあったの? 眉間の皺、すんごいことになってるよ?」
「……あまりに靴が売れないもんだから、どうしようかなって……真綿で首を締められている感じが続いて、落ち込んでるだけ」
いつか自分の店を持ちたいと夢を抱いたときから描いていたシミュレーションでは、店はいつも繁盛していて上手くいっていた。だけど、現実はそんなに甘くない。数字としてシビアに出される厳しい売上に打ちひしがれていた。
「そうなんだ……じゃあ、わたしの胸貸してあげようか? いっぱい泣いていいよ?」
「……いらない。女の胸で泣く趣味はないから」
「じゃあ膝枕は? 疲れているみたいだし、ちょっと眠ったらどう? ほら、人肌に触れていると安心してぐっすり寝られると思うし!」
陽葵の慰め方は親しい男、もしくは未就学児にするものとしか思えなかった。
「いや、いいって。どうした急に? 私、そんなに心配されるような顔してる?」
「してるよ! それに……わたし、曜ちゃんの仕事のことは全然わかんないけど、曜ちゃんのために何かしてあげたいんだもん」
「大丈夫、悩んではいるけど腐ってはいないから。……まだやれることはたくさんあるし! 心配かけてごめん。ごはん、冷めないうちに食べよ。いただきます」
陽葵の気持ちは嬉しい。だけど私は陽葵には愚痴を零すことはあれど、仕事のことでは頼りにしないというルールを自分に課していた。未だにやりたいことが見つけられず定職にも就いていない陽葵の自立のために、社会で働く女としての背中を見せると決めているからだ。
「でも……うん、よし! お酒飲もうよ! とことん付き合うし! レモンサワーもハイボールもぜーんぶわたしが作ってあげるから!」
「……陽葵は美人かもしんないけど、男をダメにするタイプの女だなあ」
落ち込んでいるときに優しくされたら誰だって心が揺らぐっていうのに、それが陽葵のようにとことん人を甘やかして尽くしてくれる美人だったなら、大抵の男は堕落してしまうのかもしれない。
「えー? なんでわたしがダメンズ製造機って呼ばれていたこと知ってるの? 曜ちゃん、わたしのこと好きだからいろいろ調べちゃった?」
「初耳だし好きじゃないし調べてないっての」
それからいつものように雑談しながら夕食をつついていると、陽葵のスマホが着信音を響かせた。だが画面を確認した陽葵は無視を決め込んでいた。
「電話? 出なくていいの?」
「……んー、後でかけ直すから、いいの」
一緒に暮らしてもう十ヶ月が経つけれど、暇さえあればいつだってスマホを触っていて返信も早い陽葵が、こんなに面倒臭そうに放置をするのは珍しいと思った。
「誰? 新しい男?」
「曜ちゃん、このワラビの和え物美味しい? 太ちゃんに作り方を教えてもらったんだよ。アク抜きが面倒だけど、自信あるんだー」
着信主のことは絶対に話したくないという強い意思を感じる。誰にだって踏み込まれたくない領域はあると思うが、陽葵の場合はこの電話の相手なのかもしれない。
「……美味しいよ。なんか懐かしい味だと思ってたけど、じいちゃん直伝だったか」
だったら無理に踏み込まない。それが同居人としての最低限のマナーだ。
「良かったー! ワラビいっぱい採りすぎちゃったから、これからしばらくは食卓に出すつもりだったの。嫌いって言われたらどうしようかと思ってたんだあ」
「あ、じゃあ高久さんのところに少し持って行っていい? いつも頂いてばかりだし、たまにはお返しがしたい」
高久のおば様からはいつも野菜や果物をたくさんもらっているので、何かお返しがしたいと思っていたところだ。
「おっけー。じゃあ、大きめのタッパーに入れておくね」
そう言って見せた朗らかな笑顔は、いつもの陽葵のものだった。
◇
翌日が定休日だったこともあり、私は早速ワラビの和え物を詰め込んだタッパーを持参して高久さんの家のインターホンを押した。引き戸を開けたおば様は割烹着姿で、家の中からは筑前煮のいい匂いがした。
「あら曜ちゃん! なんだか顔を見るのが久しぶりな気がするわ。忙しくしてるみたいねえ」
「ご無沙汰しております。あの、これワラビの和え物です。作りすぎてしまったので良かったら召し上がってください」
「まあー、ありがとう! 曜ちゃんが作ったの? 岸谷さんからも毎年いただいていたから、なんだか感慨深いものがあるわねえ」
「いえ、恥ずかしながら私は料理の方はからっきしなんです。これは私の友人が作ったものですが、味は保証しますよ」
それからおば様の孫娘がピアノを辞めて空手を始めたことや、来月予定されている笹森市長選挙のことなどたわいのない世間話をした。
「おば様、髪の毛切りましたよね? 今くらい短い方が若々しくて素敵ですよ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないの! この間白髪染めしたついでにね、ちょっと思い切っちゃった! いい年だし旦那には呆れられるんだけどね、来月には趣味でやってる社交ダンスの大会もあるし、せめてみすぼらしくない格好にしたいじゃない?」
私の偏見なのかもしれないけれど、笹森市に住む高齢の女性はお洒落をしたり、美容に気を遣ったりすることを恥ずかしいと考えている人が多い気がする。
おば様もいつもすっぴんで服装も同じパターンの地味なものしか着ておらず、足元はいつもサンダルかスニーカーで、パンプスを履いている姿など見たことはない。
私は今まで、知り合いに積極的に営業をかけたことがなかった。オーダーメイドシューズはお客様から要望を受けて作り上げるのが然るべき形であると、個人的な思い込みがあったからだ。だけど今の経営状況を考慮すれば、そんな高尚なことを言っている場合ではなかった。
「あの、おば様。もし良かったら、今度ウチの店で靴を作ってみませんか? 靴の仕様はすべてご希望通りのものになりますし、足を丁寧に採寸しておば様専用のサイズで作りますので、姿勢も美しくなります。歩くのが楽になるので健康にもいいですよ」
決して悪いものを勧めているわけではないのに、なぜか罪悪感と後悔が混ざったような感情を抱いた。昔、久しぶりに遊んだ友達に彼女が勤めている保険会社の生命保険に勧誘された日のことを思い出したのだ。
――純粋な友情だけで成り立ってきた今までの関係が壊れてしまった、その日のことを。
私が勝手に抱いた気まずさが伝わったとは思わないが、おば様はわかりやすく愛想笑いを零して早口で捲くし立てた。
「曜ちゃんのお店の靴ね、確かにお洒落で可愛いんだけど、ちょっとね、アタシみたいなおばさんが履くには勿体ない気がするのよねえ。ほら、アタシなんかスーパーか畑くらいしか行かないじゃない? すぐ汚してボロボロにしちゃうし、安い靴で十分なのよぉ」
そう言われてしまっては、これ以上の営業トークはとても続ける気にはなれなかった。
「……きゅ、急にすみませんでした。お夕飯作りの最中でしたよね? そろそろ失礼します」
「ごめんねえ……あ、ちょっと待っててね曜ちゃん」
一度家の中に入っていったおば様が再び玄関先に戻ってくると、両手にビニール袋を二つ提げていた。
「これ、ウチで採れたほうれん草ね。ちょっと小ぶりかもしれないけど、味はなかなかなのよぉ。良かったら持っていって?」
ビニール袋の中に綺麗な緑色をしたほうれん草がひしめいているのを見て、目を丸くした。
「い、いいんですか? こんなに頂いちゃって」
「いいのいいの! どうせ食べきれなくて腐らせちゃうだけだから! 夏になったらきゅうりとトマトもお裾分けするわね」
「あ……ありがとうございます。何かお返しできるものがありましたら、すぐに持ってきますので!」
「お返しなんていいのよぉ、人間関係は持ちつ持たれつとはいえ、ギブアンドテイクだけじゃ寂しいじゃない? 若い子はたくさん食べていっぱい働きなさい、ね?」
菩薩顔とはこんな表情を指すのだろうと思った。家族や友人とはまた違った類の温かな愛情に何度も礼を述べて、その場を去ろうとしたそのときだった。
「あ、曜ちゃん。曜ちゃんと一緒に住んでいる綺麗な女の子って、どこかのお嬢様だったりするのかしら? 昨日ね、馬のマークの外車が曜ちゃん家の前に停まっていたんだけど、その子と話していたスーツの男性の身なりがあまりにも良かったから、ビックリしちゃって」
黒い馬をエンブレムとしている外車なら、疎い私でもフェラーリだと知っている。高級車を乗り回す金持ちの男に心当たりはないが、陽葵と金持ちの男に繋がりがあるのは容易に想像ができる。
陽葵は男に頼らないで生きていきたいと口にする癖に、あいつの周りにはいつだって男の影がある。本当に自立する気があるのか、疑わしくなってくる。
「……和え物、その子が作ったんです。お嬢様だったら山に入って山菜採って、自炊はしないですよ。家じゃスウェットを着て安い酒ばっか飲んでる庶民なんです」
「そうなの? やあねえ、アタシも普段年寄りばっかり見てるから、お洒落している若くて綺麗な女の子を見ると、皆お嬢様に見えちゃうのよねえ」
ケタケタと笑うおば様と一緒に笑顔を作りながらも、私の胸には不信感のようなマイナスよりの感情が黒く渦巻き始めていた。