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 完成した靴を取りに来る瀬川夫妻を逸る気持ちで待っていた私だったが、二人が来店した瞬間に嫌な予感で胸がざわついた。

 瀬川さんは心底申し訳なさそうな顔をしていて、恵梨香さんは不機嫌オーラ全開で瀬川さんと目を合わせようとしない。そう、二人が初めて一緒に来店したときと同じ雰囲気を纏っていたからだ。

 恵梨香さんは商談スペースに着席するなり、私に有無を言わせぬほどの強い口調で要望を告げた。

「シュークリップのガラスの薔薇なんですけど、やっぱりシンビジウムに変えられませんか? あ、あとヒールは五センチから十センチにしたいんです」

 女らしくない私にも、ちゃんと女の勘というものは備わっていたらしい。とんでもない相談に私は耳を疑い、「はい?」なんて客商売ではあるまじき言葉がつい零れた。

「夏目さんはシンビジウムって知ってます? あたしの誕生花だってこの間知ったんですけど、花言葉が『誠実な愛情』なんですよ。もう、ビビッと来ました! 結婚式にピッタリですよね! 色もね、シルバーからローズピンクにしたいなって。あと、ヒールの高さも俊哉の身長に合わせて低めにしようって話し合ったじゃないですか。でもやっぱり、高いヒールの方が見栄えがいいと思うんですよね。あ、もちろんお金は上乗せしてもらって構いませんので、変更をお願いします」

 無茶苦茶な仕様変更を饒舌に語る恵梨香さんに圧倒されて唖然とする私の代わりに、瀬川さんは大きな溜息を吐いて彼女を咎めた。

「金の問題じゃない。恵梨香、式まであと一週間しかないんだぞ? 今更文句を言ったって作り直しは無理だ」

「だって変えたくなっちゃったんだから、しょうがないじゃん! それにオーダーメイドシューズだったら自分の好きなように作れるんだよって、俊哉が言ったんだよ?」

「そういう意味で言ったんじゃない。頼むから諦めてくれ。もうこれ以上の我儘は堪えられないぞ」

「はあ? 何それ? あたしのことを受け止められる度量がないってこと?」

 口論を始める二人の声を聞きながら、私は承るか断るかで迷っていた。

 注文をいただいた際に交わした契約書に則れば、恵梨香さんの要望は「できません」と突っぱねる一択しかない。だがこの仕様変更を断ってしまえば、恵梨香さんはきっと一00パーセント満ち足りた気持ちで結婚式を挙げることが難しくなってしまうだろう。

 一生に一度の大切な式で履く靴を私に任せてくれたのに、彼女の中では苦い記憶として残ることが心苦しくて決断できなかったのだ。

 私は靴職人であると同時に『サン・メイド』の経営者でもある。靴は決して慈善事業で作っているわけではない。それにここで恵梨香さんの要望を受け入れてしまったら、不平等にならないためにも今後他のお客様にも同等のサービスを提供しなければならない。この先の店のことを考えても、彼女の要望を呑むわけにはいかない。

 私は覚悟を持って恵梨香さんの目を見て、息を吸った。

「……完成はかなりギリギリになると思います。もしかしたら、式には間に合わないかもしれません。それから、仕様変更にかかる金額は一度完成した後ということもあり……計算し直してまた後でお伝えしますが、かなり高額になります。それでも、私に任せてくれますか?」

 何が私にそうさせたのだろう。断る理由はいくらでもあったはずなのに、私が口にしていたのは、仕様変更に伴う条件の提示だった。

 もし二人がこの条件を呑んで私に再度の注文をしてくれるなら、私は靴職人としての意地と誇りをかけて死ぬ気で完成させてみせると決意していた。

 瀬川さんは動揺からか変な声を出し、恵梨香さんは目に見えて明るい表情になった。それから少しだけ二人で話して最終的に出した結論は、

「……妻の我儘で多大なお手数をおかけしてしまい、申し訳ないです。ですが……お願いしてもいいでしょうか? 結婚式は妻にとって、最高のものにしてあげたいんです」

 私が話したリスクを了承し、完成したウエディングシューズの仕様を変えることだった。

「承りました。最高の結婚式を彩るお手伝いができるよう、全力を尽くします」

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 恵梨香さんのウエディングシューズの修正には体力も気力も時間も取られるが、それだけに終始するわけにはいかない。

 私の仕事は言うまでもなく、なるべくたくさんのお客様にオーダーメイドシューズの魅力を訴え、靴を製作し、売上にして店を切り盛りすることだ。

 今週に入ってから客足が増えたこともあり、店の通常業務と並行しながらのウエディングシューズ製作は思っていた以上に時間が取れずかなり焦燥した。

 あまりの忙しさに家にはシャワーをするためだけに帰るのが日課となり、陽葵は私が帰宅する度におにぎりやサンドイッチを持たせてくれるようになった。

「はい、おにぎり二個包んでおいたからね。こっちが鮭で、こっちが昆布だよ」

「ありがと。それじゃ、行ってくる」

「……ねえ曜ちゃん。人間ってね、忙しすぎるとそのあたりの記憶がすっぽり抜けちゃうんだって。今の生活だと、わたしとの思い出も何年か後に思い出せなくなっちゃうよ? 嫌じゃない?」

 毎日毎日「休め」と言っても首を縦に振らない私に対して、陽葵は説得の言い回しを変えてきた。

「……少しは休めって言いたいんでしょ? わかってる。でも今は休まない。少しでも気を抜いたら、間に合わなかったときに後悔しかしない。そんなのは嫌だから。完成するまでは頑張らないと」

 もし間に合わなかった際は、完成させた仕様変更前の靴を履いてもらうという話になっている。疲れが限界に近づいてくると現実的な逃げ道が私を誘ってくるけれど、もう辞めたいと思ったことは一度もない。

「そっか……うん、わかった。わたしはおにぎりを作ることくらいしかできないけど、曜ちゃんのこと応援してるからね。あと少し頑張ってね!」

 数日間だけでも陽葵に店の手伝いをお願いしようかという考えが頭を過ぎったけれど、口に出すことはしなかった。

「うん。陽葵はちゃんと戸締まりして寝なよ?」

 私の中の取るに足らないプライドが、陽葵に頼ろうとする気持ちを抑制したからだ。

 私は一人で、自分の力だけで完成させることしか考えなかった。

          ◇

 結婚式まであと一日。

 私は深夜に店内で一人、黙々とウエディングシューズの仕上げ作業に取り組んでいた。

 今日の午前中までに完成させる予定だったのだが間に合わず、瀬川さんと相談して明日の朝結婚式場に直接届けにいくことになった。

 今日の徹夜は確定している。プレッシャーで穴が開きそうな胃にコーヒーを流して、ひたすらに手を動かした。

 静かな作業場で靴と向き合っていると、大きな重圧と強い孤独を対価に極限まで集中力が磨かれていった。革がどう縫製されたがっているのか、糸はどこを縫っていけば美しくなれるのか、靴の指示で手が動いていく感覚を覚えたのは今日が初めてだった。

 まるで一足の靴と対話でもするかのような不思議な感覚の中にいながら、自分の理想の靴を作り上げるイメージがふと浮かんだ。

 たぶんきっと今、私は靴職人として成長している真っ最中なのだろうと思った。

 完成間近のウエディングシューズに見つめられた気がして、甲革を優しく撫でてみた。

 ――大丈夫、お前は綺麗だよ。必ず主人のところへ届けてやるからね。

 こんなメルヘンな行動に至るあたり、どうやら私は相当に疲れているようだ。

 私の言葉を聞いたウエディングシューズは、心なしか笑ったように見えた。