僕はその日、たまたま早く登校した。
 文化祭が終わった校舎は、開催する前と同じような静まり返った空気をしているような気がした。
 教室まで歩いていると、水道のところにいる高月を見かけた。
 朝早くから居るのも何時ぶりくらいだろうか。休む日は朝から姿を見ないから、途中から登校する姿も早退する姿も見たことがないのだ。
 静かな所にいる高月は、まるでその場所に飾られている花瓶のようだ。
 その印象の通り、なるほどと思った。花瓶を洗って水を取り替えているのだろう。担任の先生の趣味で、常に何かしらの花が一輪刺さっている。
 先生は授業をはじめる前に、実際気づいたようだ。
「あら、誰か水を変えてくれたのね」
 誰なのかしら? と先生が聞いても、反応する人はひとりもいなかった。
 僕は優しい犯人の方に視線を向けてみる。でも、高月も自分ではないですよ、と言っていそうな雰囲気だ。
 仕方ないと思ったのか、林が高月さんですとおずおずと答えていた。
「高月さん。こういうときは、自分から申し出なさい。......君は気の利いたことをしているのだから」
 自慢して良いのよ、と告げる先生だったが、高月にはあまり響かないようだった。彼女が少し眉を曲げただけのように見えたのは気のせいだっただろうか。
 とはいえ、たまに学校に通うこの人は誰とも話さない。
 
 最近では高月に対して悪い印象を持っている生徒もいるらしい。
 文化祭の出し物を決めるとき、はじめて彼女の声を聞いて意思の強さを感じ取った生徒もいるだろう。
 でも、実際本番の日には現れなかった。
 それでいて、不登校でありながらテストの日には現れて点を取っていく。
 こんなに浮いてしまっているクラスメイトを視界に入れておきたくないという。
 別にレベルの高い進学校というわけでないのだが、気になるものは気になるだろう。僕にも話が振られたことがあるのだが、さすがに共感することはできなかった。
 
 
 
 次の授業の時間は清掃活動だ。
 自分たちの高校はボランティア活動を重要視している。各クラスが持ち回りで1時間ずつ何かしらの活動を行うことになっていて、うちのクラスは学校の周りの清掃活動をすることになった。
 軽く担任の先生の説明を受けて、皆が散っていった。
 見ると、高月はさっそく歩道に出て手にしたトングで事細かに何かを拾っている。校門の辺りを掃除している僕からもその姿が良く見えた。でも、彼女はなにかきょろきょろとした様子を見せていた。
「どうしたの?」
「これなんですけど......」
 自分の問いかけに高月が見せてくれたのはタバコの吸い殻だ。もうトングの穂先にいっぱいの量だ。
 なぜ捨てないかというと、彼女のもう片手には燃えないゴミの袋を持っていたからだ。
「じゃあ、こっちに入れていいよ」
 高月はありがとうと言って、こちらの燃えるゴミの袋に吸い殻を入れた。
 そして、彼女はそのまま歩いていく。
 なんだか楽しそうに思えたから、自分もそちらについて行くことにした。まるでRPGの冒険をはじめるようだった。
「高月さんさ、せめて車道歩くのやめない? 危ないよ」
「この時間、車あまり来ないんじゃないかしら」
 そう言われてもなんだか心配だ。自分も車道に入っていった。
 これでパーティーがふたりになった。
 
 車道を歩いていると色々わかってくるもので、歩道の植え込みというものは細かいものが落ちていた。
 時期的にツツジの花が咲く季節ではない。うっそうとした雰囲気がする中で、タバコの吸い殻や空き缶、ペットボトルまでたくさんのものが落ちている。
 宝探しのアイテムがこの中に隠されていると思ったら、この作業も楽しく感じられるだろう。
 高月は空き缶を中心に拾っているようだ。
「すごいたくさん落ちてるね」
 僕の驚きにも彼女は表情ひとつ変えないで答える。
「ええ。でも、駅前の植え込みよりはマシですよ」
 そういうものなのだろうか。
 休日になると駅前を中心にボランティア活動が行われるらしい。休む日まで作業をしているとは、頭が下がる思いだ。
 もしかしたら、高月にもそういう一面があるのだろう。
「いいえ、私がよく駅前を歩いているだけで......。それにお店でも......」
 お店? 何のことなのか僕は高月の顔を見た。
 すると、彼女は、あ、と小さく驚いて答えた。
「すみません......。今の忘れてください」
 なんだか歯切れの悪い空気になった。別に詮索する気はないのだから良いのだけど。
 
「ちょっと、どこまで行ってたのよー!」
 学校に戻ると、咲良のお𠮟りを受けた。どうやら、一番最後に戻ってきたのが自分たちだったようだ。つい調子に乗って拾いすぎてしまった。
 燃えないゴミの袋は空き缶とペットボトルでいっぱいになっていて、高月の細い腕とは不釣り合いに見える。
 
 高月はいつもこうだ。
 このように細かい清掃活動を行ったほか、教室の掃除では休んでいる人の分まで机を運んだりどこからかチョークを補充したりしている。
 皆が気づかないところまで細かく作業をしているのを見ることができるのだ。
 そんな些細な優しさは評価されるべきなのに、誰も見ようとしないのかもしれない。



 その日の放課後に帰宅していると、交差点のところで数人のグループを見つけた。
 それはこの間みたいな他校の高校生ではなく、高月が他のクラスメイトと話していた。咲良と林だ。文化祭の飾り付け組がそのまま仲良くなっていて、なんだかおもしろい。
「朝倉くん!」
 こちらに気づいた咲良が大きく手を振って呼び掛けている。少し声が大きすぎる。イヤホン越しでも響くし、なにより恥ずかしい。
「......どうしたの?」
 彼女は待っていましたと言わんばかりに胸を張って答える。手には何かの紙が握られている。ファミレスのクーポンだ。
「クーポン付きのチラシが家に入っててさ、誰か誘おうと思ってふたりに声をかけたんだ。でもさ、行くなら最大人数までしっかりと割り引いてもらった方が良いでしょ?」
 なるほど。
 ちゃっかり者の彼女らしい説明だ。でも、自分で良いのだろうか。
「綾人じゃなくて良いの?」
 ......自分なんかより仲良いでしょう。と言おうと思ったが、少しだけ唇を尖らしながら被せ気味に答えられてしまった。
「なんか、好きな漫画の発売日が今日だって言ってて。すぐ帰っちゃったわ。
それに、林ちゃんが居るから君の方が合っているかも」
 塾に行くまでなら付き合うのも悪くないだろう。時間というキーワードから、僕は高月の方をちらりと見た。
「......ファミレスっていうところは行ったことがないんだけど。今日は、少し時間ありますから」
 視線からトスをもらった彼女が答える。その表情はあまり変わっていないようだが、どこか楽しそうにも思える。
 高月の台詞とタイミングを合わせて、信号機が青に変わった。さあ行こう、と言う咲良の号令の元、駅に向かってイチョウ並木の道を歩き出した。

 テーブルの上には各々が頼んだ飲み物と、サンドイッチの盛り合わせが並んでいる。その光景を見て、ただひとりを除いて萎縮している。
「何みんな固まっているのよ。みんなで食べると美味しいし、私お腹空いたんだから」
 咲良は早速ひとつ取って食べた。高校生の女子はこんなに食べるものなのだろうか。
 こちらに向いた咲良の視線が刺さる。"男の子なら食べるべき"という謎のテレパシーを感じて、僕は慌てて首を横に振る。
「本当においしそうね、私の分も食べて」
「高月さん、いつもそんなんでお腹空かないの? いろんな意味で痩せちゃうよ」
 さりげなく譲った高月の昼食は、いつもコンビニのサンドイッチを食べている。毎日代わり映えしないという印象だ。
「ええ。......私、夜も食べないことが多いから」
 それを聞いて、つい場の空気が静まり返る。他の座席の声が響いている。漫画の感想がどうのこうのと、良くこちらまで届いていた。
 話の流れを変えようと、林が慌てながら口を開いた。
「そ、それにしても高月さん。アイスコーヒーにブラックなんて素敵ですね、まるで大人みたい」
「そ、そんなことはありませんよ......」
 なぜか萎縮する高月に対して、咲良も話に参加する。
「ホントだよ、女子はみんな思っているんだから。それにしても、ビートルズを聴くなんて素敵だよ。流行りのJ-POPなんて眼がないって感じでかっこいいわ」
 大人な人は、ますます眉を曲げてしまった。
 ビートルズが話題に出たのは、今日の授業でのことだった。英語の教科書に題材として載っていて、先生は雑談交じりに10曲、曲名を挙げられる人はいないかと尋ねていた。
 そこに細々と手を挙げて答えたのが高月だった。
 先生は顔を喜ばせてその答えを歓迎していた。しかし、聞き終わった後にはため息交じりに声をかけていた。
「高月さん、もっと自身満々に言って良いのよ。あなたの好きなものなのだから」
 自分の好きなものを言いだしづらいなんて、なんだか淋しさを感じてしまう。そう思ってしまい、つい高月の顔を見てしまった。他のふたりもそうしている。
「......お父さんが、好きだったから」
 なるほど。家族の影響と言うのは大きいだろうな。
 高月は珍しく自分から話を進めてくれた。
「......私、なんていうか。好きなものを、好きって言えなくて」
 分かる気がしてしまった。咲良や綾人がいつもたくさんの話をしてくれるのは、それは聞き手となる存在がいるから成り立つようなものだ。
 話し相手が居ない高月にしてみれば、それすら高い壁なのだろう。そして、自分の興味について話すのは、無駄にアピールをしてしまうからと考えてしまっているのかもしれない。
「またまた。掃除の時間だって細かくやっているじゃない、素敵だよ」
「それは、私が好きでやっているんですよ。ついつい細かく手を動かしてしまう癖は、小さい頃から自然と身に付いていました。......昔、小学生の頃に、その様子を見ていた先生が言ったの。"高月さんばかりに気を遣わせるんじゃありません"って......」
 ......そうじゃないと、彼女が傷つくでしょう? その言葉は幼い高月の心に刺さったという。
 高月はよく好きで細かな作業をしていたのだという。
 ただ、クラスメイトは彼女にやってもらえるからと全く手伝いもしなかった。
 ひとりだけに重荷を背負わせている。
 担任の先生はこう理解してしまった。だから"みんなで楽しく手を動かしましょう"というメッセージを伝えたはずなのに、上手く伝わらなかったのだろう。
 それ以来、高月は何かをすると目立ってしまうからいやでしなくなってしまった。
「私、高月さんだからって思ってるよ」
 咲良はサンドイッチを放り込みながら言った。高月が少し顔を上げた。
「そりゃ、クラスメイトなんて色んな人が居るわけだ。先生の言葉を借りるわけじゃないけど、それが混ざってうちのクラスが出来上がるわけだよね。自分のことを言うのは苦手でもさ、君は周りのことを見てるじゃない」
 どこかの男子とは違うよね、そういう彼女の言葉に皆が笑ってしまった。高月も口に手を当てている。その様子を見て、僕はひとつのことを気づいたのだ。
 高月は自然と会話を広げられている。まるでうさぎのように思えた。
 飼われているうさぎは飼い主に慣れるまで感情表現を表に出さないという。文化祭の飾り付け組が、心にもカラフルな仕掛けを施したというのだろうか。
 高月はみんなでいると会話に困ってしまうけれど、少人数ならそんなことはない。
 
 ここで、高月が腕時計を見ながら立ち上がった。
「時間が無いから、ごめんなさい」
 そっか、と咲良が手を振って声を掛けていた。どうだった、と尋ねている。......どうだった、と聞かれてもと彼女は少し困っている。やがて、ひとつの回答をみせた。
「......美味しかったです」
 少し朱色に染まった頬ははにかんでいるようにも、感動しているようにも見える、不思議なものだった。こういうのを青春というのだろうか。と何気に考えてしまった。
 
 ひとりいなくなったテーブルで、咲良が言った。
「私、高月さんと居ると和む気がする」
 ......あの子、自分が出している雰囲気が自分で分かっていないんだよ。そう語る彼女は、窓の外を眺めて少しうっとりする目線を見せていた。
 夕陽に照らされた頬がきらめいている。それは、羨ましいとも見守っていたいとも、色んな気持ちが込められている気がした。
 高月 リツ花が学校に居る日だけでも、きちんと接してあげよう。



 みんなと別れた僕は、レンタル屋でビートルズのCDを借りることにした。
 別に高月の興味を押さえておきたいわけでなかったが、やはり教えてくれるとこちらも興味がわくものだ。
 CDを手にした瞬間、ひとつの言葉が僕の心によみがえる。
 "お父さんが、好きだったから"
 ......"好きだったから"という言い回しが気になった。なぜ過去形なんだろうか。
 特に深い意味がなければ良いのだが、ふとした心配が頭をよぎったんだ。