僕の命をきみに捧げるまでの一週間

『桜晴へ
 今日は話さないといけないことがたくさんあります。……というか、謝らないといけないことがあるの。
 クラスに伊藤くんっているでしょ? 昼休みにその子から、桜晴が小説を書いているのを馬鹿にされて、ついカッとなって「人の趣味を笑うなんて悪趣味で、最低だ」って言い返してしまいました。それも、私自身の口調で。彼には「いつから女になった? 二重人格? 気持ち悪い」って言われてしまって……。本当にごめんなさい。もっと、発言には細心の注意を払うべきだった。それが、私のミスで桜晴の名誉を傷つけてしまいました。なんとお詫びを言ったらいいか、正直分かりません。
 でも、これだけは信じてほしい。私は、桜晴の趣味を馬鹿にしてきた彼が、本当に許せなかったの。あ、桜晴が小説を書いていることは、この時初めて知りました。でも、どんな趣味だって笑っていい理由にはならない。それに、小説を書けるなんて、すごく素敵なことだって尊敬してる。実はさっき、桜晴が書いた小説を読んじゃいました。とてもジーンと来て、泣いちゃった。勝手に読んでごめん。でも桜晴は才能あると思う。もしかして、小説家になるのが夢なのかな? もしそうだとしたら、応援します。
 私は今でも伊藤くんのことを許せないし、今後も馬鹿にされたら言い返すつもりです。次からはちゃんと、口調には気をつけます……!
 あと、伊藤くんから桜晴が中学時代に学校で小説を書いていたって話を聞かされたことが、ちょっぴり心配です。これって、ペナルティの対象になるのかな……? だとしたら、不意の出来事だったとはいえ、これも私のミスです。ごめん……。
 私はもっと、桜晴と話してみたいし、もっとあなたのことを知りたい。
 だからどうか、今日のことで入れ替わりが終わりませんように。
 またこうして一週間後もノートでやり取りできることを願っています』

 ノートを書き終えると、桜晴と本当に目の前で対話をしているような心地になっていた。彼は私の前にいないのに、こうして言葉を交わしている。私たちはもう、友達と言っても良いんじゃないだろうか。
 彼がこのノートを読んでどんな反応をするか、ちょっぴり怖いし、もしかしたら幻滅されてしまうかもしれない。その時はその時だ。後の選択は彼に委ねるしかない。
 願わくば、もう少し彼と長くこの非日常な生活を楽しめますように。 
 ひっそりと祈りながら、今日も眠りについた。
 朝起きて、真っ先に頭に浮かんだことは瑛奈と和湖の顔だ。入れ替わって四日目にして、もうこちらの人間関係の中で生きようとしていることに気づいて驚く。これまでは入れ替わり先の生活に馴染むのに時間がかかった。でも今回はいつもと違っていた。美雨という人間を通して、僕は僕らしく生きているような気がする。
 昨日は土曜日だったので、学校には行っていない。
 どうやら僕の世界と美雨の世界では曜日がずれているということに、昨日気がついた。「あれ?」と疑問に思ったけれど、たいした問題ではない。すぐに受け入れて、私服を着た。

 それから昨日、瑛奈と和湖に誘われて、街へ出かけた。初めて女の子同士で遊んだので、かなり疲れた。ドラマの話をしたのは、みんなでカフェでお昼ご飯を食べている時だ。まさか入れ替わって数日で友達と遊びに行くとは思っていなかったので、僕は多少面食らいつつも、楽しい時間を過ごした。

 一つ不思議だったのは、昨日自分の世界に帰ってから話題のドラマについて自分のスマホで検索しても、何もヒットしなかったことだ。もしかしたら動画配信サービスで配信されているドラマなのかもしれない。それか、タイトルを少し間違って記憶してしまっていたか。だがそんな疑問も、夜眠りにつくことにはもう忘れていた。

 朝、美雨と入れ替わり、いつものようにノートを開くと、そこには美雨からのメッセージがずらりと並んでいた。昨日よりも長い文章を、ゆっくりと目で追っていく。
 そこに書かれていることを読んで、僕は正直驚いた。
 彼女に、小説を書いていることを知られてしまったこと。
 そして学校で、伊藤くんに馬鹿にされたことに対し、彼女が怒ったこと。
 彼女自身の口調で喋ってしまったことを謝ってくれているが、それについてはそこまで気にならない。こんなことは入れ替わりでしょっちゅう起こることだ。どうってことない。
 それより……。

「伊藤くんに、言い返してくれたんだ」

 頭の中に浮かんだ映像は、中学時代に想いを寄せていた学級委員長の彼女のことだ。彼女も、吃音で揶揄われる僕を、いつも庇ってくれたんだっけ。
 想像の中で、美雨とその子が重なる。
 会ったこともないのに、どうして美雨は僕のことを庇って、伊藤くんに怒ってくれたんだろう。きっと勇気がいったはずだ。彼女がとても強い人だということがよく分かる。僕は、胸がジンと熱くなって、心の中で彼女に感謝した。
 それから、伊藤くんから僕の過去にまつわる話を聞いてしまったという点だが——これに関しては、正直僕も分からない。
 このまま入れ替わりが続けば、第三者から聞く過去の話はカウントされないということが立証される。待ってみるしかない。

「小説家の夢、バレちゃったか」

 もともと隠していたわけではないが、親にもクラスメイトにも知られていない夢だ。夢、と語れるほど、まだ切実に未来を思い描けていないかもしれない。ただ昔から空想が好きで、ノートに自分が考えたストーリーを書いていた。小説家になりたいと思ったのは、ここ最近のこと。
 まだ見ぬ彼女に自分の小説を読まれたことは小っ恥ずかしく、とてもじゃないが、感想なんて聞けそうにない。ただ、彼女が「才能がある」と言ってくれたことは、少なからず励みになった。
 それから、僕が昨日書いたノートのページを見ると、ドラマの話のところに、『木曜日の九時からだよ!』とコメントが入っていた。そうなのか。昨日は検索で上手く見つけられなかったが、また覚えていれば木曜日に確認してみよう。
「美雨〜起きたの? 朝ごはんあるから食べなさーい」

 一階から美雨の母親が僕を呼ぶ声がする。僕は、「はーい」と返事をして一階へ降りて行った。
 日曜日だというのに、有坂家には母親しかいないのは、彼女の父親が亡くなっているからだと知った。仏間があったのだ。遺影の中で朗らかに笑う美雨の父親は、顔は美雨とは似ていないけれど、その明るそうな性格が彼女に似ているのかもしれないと感じた。

「美雨、次の病院なんだけど、秋頃になるんだって。まだ全然先だけど、一応日程伝えとくわね」

 焼き鮭と、白ごはんと、味噌汁が並んだ食卓で、母親がそんなことを言った。今日は和食なのか——と考える間もなく、僕の思考がぴたりと止まる。

「病院? 歯医者か何か?」

 彼女が何の予定について話しているのか分からず、つい素直に聞き返してしまう。

「何言ってるの、違うわよ。いつもの検査。また平日になるから、学校には遅刻することになるわ」

「検査……」

 突然、病院などと言われて、僕はとても混乱した。
 人には人の事情がある。美雨が何かの病気を患っていて、定期的に検査を受けているのだとしても、別に驚くことはない。でもなぜか、「検査」という言葉に胸がざわざわと揺れた。

「どうしたの? 気分でも悪い? 遅刻するのが嫌だとか?」

「ち、違うよ。ずいぶん先の話、するんだなって、思って」

「ええ、まあ。一応ね。お母さんも忘れちゃうかもしれないし。大事な検査だから、忘れたら大変でしょ?」

「うん、そうだね」

 話の本筋が分からないまま、曖昧に頷く。
 間違いない。美雨は何か、病気を患っているんだ。でも一体何の病気なんだ? 身体的に、特に異常を感じることはない。となれば、精神的なものだろうか。それならば、彼女がこの入れ替わりに臨んでいるのも頷ける。
 定期的な検査を必要としているということは、かなり深刻な病気なのだろう。
 これまで美雨という女の子に抱いていた印象が、ガラリと色を変えた。
 病気の話は、本人には聞きづらい。これ以上ないくらいプライベートに関わる話だ。過去の話に触れる可能性が高い。本人には聞けないから、僕はなんとか母親の話に合わせるしかなかった。
 病院に行く時には、彼女の病気が何であるのか、分かるはずだ。


 僕たちはそれから、順調に入れ変わりの毎日を楽しんだ。
 木曜日の九時に自分の家で『きみが描いた恋模様』をやっているかどうか確認したけど、やっぱり番組表に載っていなかった。彼女に、「曜日と時間間違えてない?(笑)」と聞いたが、「ひどいな、私は物覚え、いい方なんです」と返された。それ以降、彼女の気分を害するかもと思い、結局何も聞けていない。瑛奈たちもドラマの話題をすることがなくなったので、僕の中ではどうでもよくなっていた。

 六月、お互いに期末テストの勉強に追われ、ノートでのやりとりが「勉強お疲れ」とか、「私の姿でひどい点とらないでね!」とか、勉強の話題に変わった。
 僕が勉強が苦手だと話すと、「じゃあ私が教えてあげる」という。どうやって、と聞いたら、「私のノートにポイントまとめておくから、それ見て勉強して」と言われた。
 僕は彼女のまとめてくれたノートを見ながら勉強に励んだ。
 美雨として受けた期末テストは、各教科軒並み二十点ほど上がっていて、僕自身度肝を抜かされた。それでも、成績優秀の彼女からすれば、前回より点数が下がっており、ノートでたくさん小言を頂戴した。だが、最終的には僕の努力を認めてくれて、「この調子で次も頑張って」と励ましてくれたから、彼女は良い人だ。
 反対に、美雨の方は僕の身体で好成績を収めている。テスト後に担任に呼び出されて、カンニングを疑われたとぷりぷり怒っていた。そりゃ担任からしたら、あまりの成績の飛躍に、疑いをかけたくもなるだろう。最終的に、中間テストの時に、体調がすこぶる悪かったんです、と言い切って納得させたようだ。まあ、成績が上がった生徒に対し証拠もなくカンニングを疑い続けるのも良くないと思ってくれたらしい。

「クラスで一目置かれるようになった。どんなもんだい!」

 彼女が胸を逸らして鼻高々に自慢する姿が目に浮かぶ。
 僕はノートを読みながら、部屋で一人、お腹を抱えて笑った。
 七月になると、美雨の学校でも、僕の学校でも夏休み前の浮ついた空気が教室に流れ出した。僕は瑛奈と和湖が夏休みの遊びに誘ってくるかと思っていたのだが、和湖の方が吹奏楽部の練習で忙しいらしく、意外にもほとんど予定は埋まらなかった。ただ、花火大会だけは、和湖も部活後に行けるということだった。

「花火大会か。それって、何時から?」

「花火自体は八時からだけど、祭りは五時ぐらいからやってるよ」

「そっか。うーん」

 花火が始まる八時は、ちょうど僕と美雨が入れ替わりから戻る時間だ。
 となると、僕自身は花火を見ることはできない。美雨はきっと花火を見たいだろう。

「分かった。花火大会の日、空けておくよ」

「ありがとう! 三人で行けるね」

 僕の返事に、瑛奈と和湖が嬉しそうに弾んだ声を上げる。この頃になると、僕も二人に対して愛着を感じるようになっていた。花火を一緒に見られないのは残念だが、せっかくなら美雨に、友達との思い出を作ってあげたい。
 僕はノートに、花火大会の件について書いて、美雨に伝えた。
 美雨は、「えー良かったの?」と聞いてきたが、僕は純粋に花火を楽しんできてほしいということを彼女に伝えた。

『ありがとう。すごく楽しみ』

 彼女の嬉しそうな表情がまた頭に浮かんで、僕はそれだけで満たされた気分になった。
 あれ、どうして僕は今、嬉しいと感じているのだろう。花火を見られないことが残念なはずなのに、どうしてか胸の高鳴りが抑えられない。僕は、美雨を笑顔にさせることに、言いようもないほどの喜びを覚えていた。

「美雨に、会ってみたいな」

 思わず口から漏れた言葉に、何を言っているんだと恥ずかしくなり、頭を振った。
 入れ替わった先で、相手と実際に会ってみたいなんて思ったことは一度もない。それなのに、美雨に対してだけは、素直に会って話したいと思う。

 きみは、どんなふうに笑って、どんなふうに話してくれるんだろう。
 僕の中では勝手に、朗らかで、でも時々大人っぽい雰囲気の女の子という印象だけど、実際のきみはどんな人なのかな。
 もしもこの先、きみが望んでくれさえすれば、入れ替わりをやめた後でも、僕たちは会えたりするのだろうか。
 そこまで考えて、馬鹿なことを期待するな、ともう一人の自分が警告した。
 僕たちは入れ替わりという非日常の中で出会ったんだ。リアルで会えるなら、入れ替わりの対象には選ばれていない気がする。単なる僕の勘だけど、現実で会うのはなんだか違うような気もしていた。
 それに、彼女だって実際に僕に会いたいなんて思ってくれないだろう。
 これは、二次元と同じ。僕たちはきっと会うことができない。彼女は僕にとって、いちばん近くて、いちばん遠い存在だった。
 花火大会の当日、僕は午後五時から八時まで、三人でお祭りを楽しんだ。彼女が暮らす美瑛町から電車に乗って富良野まで向かう。公園で行われる花火大会には、多くの人でごった返していた。慣れない女性用の浴衣を着るのは苦労したけれど、浴衣を身に纏った美雨の姿は最高に美しかった。
 まもなく花火大会が始まります、というアナウンスが流れ、三人で必死に場所取りをした。
 良い場所を発見したことに満足していると、身体がすっと僕の世界へと引き戻されるのが分かった。
 それまでお祭りを存分に満喫していたので、このまま僕自身が花火を見るつもりになっていたけど、違う。彼女に身体を返すのだ。僕は、十分満たされた気持ちでぼんやりと掠れていく瑛奈たちを見送った。
 美雨、精一杯楽しんでね。
 心の中で呟いて、僕は彼女とバトンタッチした。

『花火大会、めちゃくちゃ楽しかったー!』と、彼女のノートに書かれているのを目にした時には、嬉しくて心臓が二度ほど跳ね上がった。
 良かった……僕は、美雨を笑顔にしてあげられたんだ。
 なんて、違う違う。笑顔にしたのは僕じゃなくて、瑛奈と和湖だ。大好きな友達と一緒に見る花火は、さぞ美しかっただろう。

「あれ、まだ続きがある」

 ページをめくると、まだノートは続いていた。僕はゆっくりと彼女の言葉を目で追いかける。

『こんなに楽しい花火大会だったのは、きっと桜晴のおかげです。
 もちろん去年のお祭りも楽しかったんだけどさ、今年は桜晴に大切なひとときを譲ってもらったっていう現実があるでしょ? 私は、桜晴が私に、快く友達と花火を見せてくれようとしたその気持ちが、すごく嬉しかった。
 だから去年よりも、楽しいって思えたんだと思う。 
 改めて、今日は本当にありがとう。
 本音を言えばね、花火を見ながら、隣に桜晴がいてくれたらな——なんて、ちょっと恥ずかしいことも考えてた。そんなこと、できるわけないのにね。
 あ、今のは忘れて? たぶん今日私、酔っ払ってる! ラムネ飲みすぎたかなあ? ラムネで酔っ払えるなんて、私、将来お酒飲まなくても楽しく生きていけるかも。
 それじゃあ、また』

 美雨が綴る心の内を覗き見て、僕は胸に温かな灯火が灯るようだった。
 僕の人生の中で、誰かに心から感謝されたのは初めてなような気がする。
 思えばずっと、他人に笑われたり、陰で悪く言われたりする人生だった。吃音を発症してからは自分に自信がなく、周囲と関わることさえ避けて。そんな僕が、誰かに邪魔者扱いされることはあっても、感謝されることなどないと思っていた。

「僕は……きみと会えたことが、たまらなく嬉しいんだ」

 気がつけば口から本音が漏れ出ていてはっとする。
 僕は、こんなにも美雨との入れ替わりの日々を楽しんでいる。彼女と入れ替われたことに、至上の喜びを感じている。それは、彼女が僕をまっすぐに受け入れ、僕のことを真剣に考えてくれているからだ。
 たとえ面と向かって話すことができなくても、僕たちはこのノートで繋がっている。
 それって、教室でただすれ違うだけのクラスメイトよりもずっと、心の絆は深くなっているということではないだろうか。
 僕は机の上にさしていた一冊のノートを取り出し、ページを開いた。
「備忘録」。最近、書きかけていた小説だ。
 ここしばらく筆が進んでおらず、プロローグしか書いていなかった。
 二ページ目を捲り、ゆっくりと文字を綴り始める。今の僕が感じている素直な気持ちを。作り話を書くのに、自分の本音を綴るなんてどうかしている。でも、僕は今猛烈に書きたい気分だった。
 小説家になる夢なんて、心の底では叶いっこないと諦めている。でも、ただ好きだから書くのだ。夢を叶えるのが難しくても、書き続けることだけは辞めたくなかった。
 だって、彼女が認めてくれた夢だから。
 僕はこの日、小説の続きを書き始めた。
 図書館に行ったり、母親と海に行ったり、美雨としての夏休みはそれなりに充実した日々を送った。現実世界で僕は夏も家に閉じこもって小説を書いてばかりだったので、こんなふうにアクティブに動き回ったのは久しぶりだ。案外、外の世界もいいかもしれない。夏の日差しは容赦なく肌を突き刺してくるけれど、本州に比べると、北海道の夏はかなり涼しかった。それでも夏が終わる頃には、僕は美雨の身体で少し日焼けをしていて、ノートで美雨に小言を言われた。

 九月になると、美雨の高校では秋の運動会の練習が始まった。僕の都立西が丘高校も、確か十月に運動会があるというので、美雨の方も『運動会だね』とノートに綴っていた。
 僕たちは一年生なので、各高校で運動会までの練習がどんなふうに進むのか知らない。お互いのノートで、『今日は競技選手決めだった』とか、『応援合戦を練習した』とか、こまめに報告をし合う。大体やることは同じなんだけど、美雨はしきりに『九月なのに暑すぎ!』と文句を言ってきた。まあ確かに、本州の九月なんてまだ夏みたいなもんだ。北海道が涼しすぎる。彼女がノートに向かってぷりぷり怒っている姿を想像するのも、僕は楽しかった。

『そういえば、江川くんと一緒に応援団に入ったよー。練習、楽しいね! 身体がめちゃくちゃよく動くんだもん』

「応援団!?」

 彼女の言葉に、僕は度肝を抜かされる。
 応援団といえば、応援合戦の時に会場の真ん中で舞を踊る人たちのことだよな……。
 僕も高校の運動会は初めてだが、応援団というのは周囲の噂で知っていた。現に、美瑛東高校でも応援団が募られ、クラスの目立つ男子たちが立候補している。女子の方はチアリーディングがあり、こちらもダンスが好きな女子が参加していた。
 それにしても、僕が応援団なんて、ありえない。
 僕は運動神経がいい方ではない。そりゃ、美雨に比べたらまだ動ける方だと思うけれど、応援団みたいな細やかな動きで舞うことが向いているとは思えない。
 それでも美雨は、練習が楽しいと言う。
 美雨にとっては、僕みたいな運動能力でも「よく動ける」方に入るのだろう。僕も、数ヶ月間美雨の身体に入っていることで、彼女がどれだけ運動が苦手かというのは理解している。だから、僕と入れ替わって運動の喜びを感じているのなら、まあ嬉しいことではあった。

 それにしても、吃音が治ったといい、成績が急に伸びたといい、運動会で応援団をするといい、クラスのみんなは僕のことを今どう思っているのだろうか。昼間、自分の学校に行くことがないから分からない。でも時々、午後八時に自分の身体に戻った後、江川くんからメッセージが来ていることがあった。
 彼は僕に、「今度メシ行こうぜ」とか、「一緒にテスト勉強しないか?」とか、気軽に誘ってくれていた。まさか、人気者の彼がわざわざ僕に声をかけてくれるとは思っておらず、僕はいつも返信に迷っていた。美雨がどれだけ昼間学校で彼と良い関係性を築いているのかよく分かる。僕はしばらく考えた後、彼からの誘いに乗るようにした。
 その約束も、全て美雨が僕として遂行することになるのだけれど、僕は満足だった。
 美雨が、この関係をつくってくれたんだ。本当に彼女には頭が下がる思いだ。僕は彼女を前にしたら、きっと彼女のことを直視できない。それくらい、彼女の残した功績は大きかった。
 十月の一週目の日曜日、美雨の通う美瑛東高校で、運動会当日を迎えた。
 この辺りの十月の平均気温はなんと十度前後のようで、運動会が始まる前はとても寒かった。運動会といえば、初夏やまだ暑さの残る秋に行われる印象なので、とても新鮮な気分だ。

「美雨、やっほー」

「瑛奈、和湖、おはよう」

「おはよう〜」

 運動会の朝、教室は非日常イベントの開始を前に、全員がソワソワしているのが分かった。特に瑛奈は、表情がガチガチに固まっている。実は彼女、チアリーディングをするので運動会前から緊張しているのだ。

「瑛奈、肩の力抜いた方がいいよ〜」

「それは分かってる! 分かってるんだけど、そう簡単にはいかないのっ」

「それなら、私がおまじないかけてあげる。右手出して」

「和湖のおまじないなんて、うさんくさーい」

 そう言いながらも、ちゃんと指示通りに右手を差し出す瑛奈。和湖は何をするつもりなのかと思いながら観察していたが、瑛奈の手のひらに「の」の字を書き始める。僕は、そのあまりにも常套すぎるおまじないに、思わずぷっと吹き出した。

「はい、今書いた字を飲み込んだら大丈夫!」

 得意げに言い放つ和湖に、瑛奈はジト目を向ける。

「これ、小学生がやるやつじゃん! 和湖ったらどんだけ天然なの!?」

「え〜吹奏楽部ではコンクールの本番前にいつもこうしてるよ?」

「……あんたの部活、平和そうだね」

「そんなことないよ。大会前は殺伐としてるんだから」

 ぷりぷりと頬を膨らませて怒る和湖。僕は、和湖が部活中に殺伐とした空気にのまれているところを見てみたいなと、意地悪なことを思った。
 結果的に、天然和湖のおまじないが効いたのか、瑛奈は表情がほぐれて、いつも通りの彼女に戻っていた。

「美雨は、大丈夫? 運動会なんて一番苦手でしょ」

「うう……そうなんだよね。でも、せっかくの行事だし、楽しむ」

 ここ数ヶ月間の経験で、美雨がどれだけ運動音痴なのか身に染みて感じていた。特に、運動会で一年生女子全員で参加するダンスがあるのだが、その練習では何度周りとのズレを感じて焦ったことか。

「うん、楽しもうね。あ、でもダンスでこけないようにしなよ」

「瑛奈、そんなこと言ったら美雨が余計緊張して失敗しちゃうよう」

 二人はそれぞれ言いたいことを言って、私を揶揄っている。とはいえ、私が緊張しないように励まそうとしてくれていることは分かった。

「二人とも、ありがとう。なんとか最後まで頑張ります!」

 きっと、美雨ならこう返事をするだろうな——という想像をしながら、二人に笑顔を向ける。僕の中で、美雨の像がどんどん出来上がっていて、発言する時には常に、「本物の美雨なら」と考えるようになった。
 これまでの入れ替わりでは、割と好き勝手させてもらっていたというのに。
 これも、相手が彼女だったからこそ、自然に身についたことだ。
 もう認めよう。僕は美雨のことを、いつどんな時だって考えてしまう——。

「全校生徒の皆さんに連絡です。開会式は九時からとなります。運動場に整列するよう、お願いします」

 全校生徒向けにアナウンスが流れると、クラスのみんながぶわっと教室から溢れ出した。

「私たちも行こう」

「うん!」

 仲良し三人組で、運動場へ向かう。
 今日は美雨にとって、大切な思い出になる予定の日だ。
 実際は僕が経験することになるのだが、今日の出来事をノートにたくさん綴ろう。美雨が、瑛奈や和湖、クラスのみんなと駆け抜ける青春の一ページが、華やかなものになるように。
 全校生徒が集まり、先生たち、それから観覧しに来た保護者たちが生徒を囲う。運動会前のこのシンと静まり返る空気を、心地よいと思ったのは人生で初めてだ。
 冷えた空気の中、冴え渡る空の下で開会宣言をする女子生徒が壇上に上がる。彼女が息を吸う音が、マイクを通じて響いた。

「ただ今より、令和九年度美瑛東高校運動会を開会いたします!」

 会場で一気に湧き上がる拍手。生徒も、先生も、観客も、みんながこれから始まる運動会というエンタメに期待している証拠だ。男も女も関係ない。運動音痴の自分でさえ、興奮してしまう——はずだった。
 僕は、みんなと同じようにわーっと拍手をする寸前で、手を止める。
 いま、彼女は何て言った?
 確か、「令和九年度(・・・・・)」って。
 おかしい。僕が生きている世界は、二〇二四年——令和六年だ。
 でも聞き間違いじゃなければ、さっきのアナウンスは「九年」と言った。そこに違和感を抱いている人は誰もいない。僕は、途端に頭がズキズキと痛くなるような心地がして、うえ、と小さくその場でえずいた。
 幸い、誰にも気づかれず、それ以上の大ごとにはならなかった。 
 美雨の暮らしているこの世界は、二〇二七年の世界……なのか。
 思えば一回目の入れ替わりの時だって、入れ替わり先の人間の部屋で、古臭い筆箱や分厚いゲーム機を目にしていた。おかしいな、とは感じたが、そういう趣味の人なんだと思っていた。 
 この世界でも、僕は年度を確認することがなかった。
 入れ替わり中はスマホも相手のものを持つことになる。僕は、あまり他人のスマホをじろじろ見るのは好きではないので、必要最低限の使用に抑えていた。せいぜい瑛奈や和湖、母親と連絡をとる時ぐらい。学校でも、日付を意識することはあっても、わざわざ分かりきった年度を確認しようとしなかった。
 僕はてっきり、美雨とは同じ年代を生きているのだと思っていた。
 でも本当は違ったのだ。
 僕と美雨は、時代をすれ違っている——。
 あまりにも重大な事実に気づいて、心臓がドクン、ドクンと大きく脈打つ。
 そうだ。木曜日の九時に話題のドラマが見られなかったのも、あのドラマが二〇二七年に放送されているものだからだ。考えてみればとても単純なことだった。
 気づいてみれば、確かにびっくりすることではあったが、それでもこの入れ替わりの生活において、何か支障があるわけではないと感じた。
 開会式中は動揺しまくりで汗が止まらなかったものの、退場して応援席に座る頃には、なんとか暴れていた心臓も落ち着いていた。

「美雨、まだ全然動いてないのにもう汗だくじゃん。これ使いな」

「あ、ありがとう」

 みんな、「寒い寒い」と言っているのに、自分だけ瑛奈から渡されたタオルで汗を拭っている。この先どんな一日になるのか——想像することに精一杯になっていた。
 運動会の一日は、予想もつかないほど盛り上がった。
 小学校や中学校とは全然違う。各ブロックが一体となって競技に取り組む。応援だって盛大で、自分が競技に出ていない時でも、チームの一員として頑張っているという自覚が生まれた。
 一番の見所である応援合戦では、男子の応援団の舞に続き、女子のチアリーディングが運動場に華を咲かせる。瑛奈は、朝の緊張を感じさせないくらい楽しそうに振り切って踊っていた。僕は温かい拍手を送る。今日まで大変だった練習を乗り越えて、踊り輝く彼女がとてもまぶしかった。
 昼休憩を挟み、午後からはいよいよ一年生のダンスの時間がやってきた。
 ブロック関係なしに、全員で一丸となってひとつのダンスを披露する。曲は何曲か組み込まれており、メリハリのある動きもあれば、滑らかな動きが求められる場面もある。
 僕は練習通り、必死に手足を動かした。他の子に比べると多少ぎこちないが、今までで一番上手く踊れたとは思う。
 ダンスが終了した後、会場に響き渡る拍手を聞いて、心底ほっとしていた。
 美雨が苦手な運動を、なんとか最後までやり切ることができた。
 すべてのプログラムが終わり、僕たちが所属している赤ブロックが優勝した時には、クラスのみんなで大盛り上がりした。

「お疲れ美雨。ダンスうまかったよー!」

「ありがとう。瑛奈のチアもすごかった。本当に、たくさん練習したんだね」

「まあね! 本番めちゃくちゃ楽しかったからやって良かった!」

「私、瑛奈のチアこっそり動画撮ったんだ〜」

「え、あんた運動会中にスマホ持ち歩いてたの?」

「うん。普通じゃないかな?」

 くるりと大きな瞳をこちらに向ける和湖は、悪さを知らない子猫のようで末おろそしい。
 このあと、一年一組のみんなで打ち上げに行こうという話になった。
 開始時間は午後六時から。もしかしたら途中で美雨と入れ替わるかもしれない。
 でも、あの花火大会の日と同じように、美雨にもみんなと一緒に運動会の終わりのひとときを満喫してほしかったから、ちょうどいい。
 美雨の弾けるような笑顔がまた頭の中に浮かぶ。
 これからも、少しでも長く美雨と関わり続けたいし、少しでも多く、美雨のことを笑顔にしたい。
 自然と彼女のことを考えている自分が、中学時代に人目を気にしているばかりだった頃と比べると、全然違っていることに気づく。
 僕は変われるんだ。
 他人に嗤われてばかりだった自分でも、こんなふうに誰かを笑顔にしたいと思えている。
 それだけでもう、美雨には伝えきれないほどの感謝をしていた。

僕の命をきみに捧げるまでの一週間

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