放課後、大半の生徒たちは各々の部活に散ったり帰宅したりして、廊下は比較的静かになっていた。家から近かったから、という理由でこの男子校に入学し、一ヶ月が経ったばかりの俺も日直の仕事を終えて帰ろうとしていた。
 しかし、二階の廊下を歩いていて気が付いてしまった。

 何かは分からないが、とても良い匂いがしたのだ。何かの料理の匂い。

 誰もいない廊下でキョロキョロしてしまう。そして、見つけた。
 匂いの出所は二階の渡り廊下を渡った先にある家庭科室だ。家庭科の先生が何かを作っているのだろうか? お願いしたら分けてくれたりするだろうか? と欲望丸出しの俺は歩みを進め、家庭科室のドアを開いた。

 そこに居たのは……、小柄な女子……?

「なんだ、お前、早くドア閉めろ。先生に見つかるだろ?」

 俺を見た瞬間、彼は言った。そう、声は男だった。でも、睫は長いし、顔は可愛いし、俺が身長でかいっていっても男子にしては彼は小柄だし、女子かと思った。癖毛っぽい茶色の毛が柔らかそうだ。

 ――あ、ネクタイ緑……、二年の先輩か。俺、青だし。

 何も言わずにそんなことを考えながら俺は開きっぱなしのドアの前に突っ立っていた。

「おい、だから……」

 先輩が俺をキッと睨んで、そう口を開いたときだった。

「染谷! お前、また勝手に家庭科室で料理して!」

 俺の後ろから声がして、振り向くと生徒指導の田口先生が立っていた。

 ――先輩、染谷っていうんだ……?

「げっ! ……良いじゃん、鍵空いてるんだし……」

 しまった! という顔をしながらも先輩は小声でそんなことを言っていた。

「なんか言ったか?」

「いえ」

「許可なく料理して火事が起こったら大事になるんだ。早く片付けて帰りなさい!」

 怖い顔をしたスポーツ刈りの田口先生が仁王立ちで先輩に言う。近くに立っている俺も耳が痛い。声がでかい。

「はぁ……、へいへい」

 大きな溜息を吐きながら、仕方なさそうに調理していた材料を片付け始める先輩。

「盛満も早く帰れよ?」

「……はい」

 先生に言われ、取り敢えず、俺は先輩の行動を目で追いながら返事だけしておいた。
 数分後、先輩は片付けを終え、こちらに歩いてきた。

「お前の所為だからな?」

 通り過ぎ様、不機嫌そうな顔で、そう言われた。

 その様子を見て思い出したのか、それとも最初から言おうとしていたのか、田口先生が「染谷、まだお前に話がある」と先輩を引き留めた。

「お前、バイトしてるだろ? うちがバイト禁止してるって知ってるよな? バイトやめろ。ただ理由なしにバイト禁止って言ってるんじゃないんだ。色々と理由があって禁止にしてる。もし、自分からやめるって言いにくかったら先生が代わりに言ってや――」

「いやいや、分かったから、自分で言いますから……!」

 田口先生に早口で言われて、先輩はすごく焦ったように言った。

「本当だな? やめてなかったら先生が言うからな?」

「分かりましたよ」

 そう言いながら、とぼとぼと歩き出す先輩の背中は暗い。

「先生、さよなら」

 良い子のように先生に挨拶をして、俺は先輩の後を追った。なんだか放っておけなかったのだ。

「はぁ……、お前の所為で料理してんのバレた。バイトも……」

 先輩は俺が後ろにいることに気が付くなり、文句を垂れた。

「それも俺の所為ですか?」

 俺にそう言われて、先輩はぐぬぬという顔をした。先輩がバイトをやめる羽目になったのは少々可哀想だが、それは俺の所為ではない。

「なんであそこで料理なんてしてたんですか?」

 そう問うと先輩の足がピタッと止まった。

「これからバイトだったからだよ。俺はさ、バイトしないといけないの。貧乏なのに小さな弟と妹がいっぱいいるから、俺も働かなきゃいけないの」

 むすっとした顔で言って、また先輩が早足で歩き出す。

 ――背、ちっさい……。十センチ以上差あるかも。不機嫌そうだけど、なんか可愛い……。もっと話したい……。

「先輩、料理得意なんですか?」

「はぁ? んだ、その質問」

「美味しいもの作れますか? 作れますよね?」

「……ま、まあ、それなりには?」

 足早で歩く先輩を大股で追いながら、そんな会話をする。もう、これは先輩を引き留めるしかないと思った。だって、俺には得しかないから。

「先輩!」

 廊下は走ってはいけないが、全速力で先輩を追い抜いて、俺は先輩の前に立ちはだかり、彼の腕……いや、ネクタイを掴んだ。身体のどこを掴んでも折れてしまいそうな気がしたからだ。

「な、んだよ?」

 必然的に前のめりになる先輩の上目遣いが反則級に可愛い。ああ、ダメだ、この顔が好み過ぎる。

「うちでバイトしませんか?」

「はあ?」

 そのままの状態で提案してみると、意味が分からないという顔をされた。

「俺んち金持ちなんです。でも、毎朝、一人で起きてくるとテーブルの上に一万円札だけ置いてあって、コンビニの弁当とか、そんなんばっかり食ってて……、だから、その一万円で、先輩のご飯買います!」

 深夜まで誰も帰ってこない静かな家でコンビニとかスーパーのご飯をレンジで温めて食べる日々。俺は手先が不器用で料理も出来ないし。なにより、寂しい。

「いっちまん……!? いや、大事にしろよ。つか、なんかムカつく」

 先輩は驚いた顔で自分のネクタイから俺の手を外そうとした。でも、この手を離してあげる気はない。

「いや、あの、うちならバイトっていっても証拠残らないですし、誰かに見られることもない、料理するだけで良いんで」

「おい、俺の話――」

「俺! 先輩の手料理が食べたいんです!」

 誰もいない廊下に俺の声が響く。俺は至って真剣です、という視線を先輩に向けた。

「……食ったことねぇのに、決めていいのかよ、それ」

 先輩は真っ赤になりながら横に視線を逸らした。やっぱり睫が長い。

「良いんです。だって良い匂いしてましたもん。それに、もうそろそろ中間テストですよね? 勉強もうちでしてもらって構わないですから」

 先輩にだってメリットはあるはずだ。料理をするだけであとは静かな空間で自由なことが出来る。それに一万は絶対に普通のバイトでは一日で稼げないだろう。まあ、材料費はそこから引くわけだけど。

「っ……し、仕方ねぇな」

 くっ、という顔をして先輩がついに折れた。

「やった! じゃあ、今から来てください」

「今から!?」

「はい!」

 嬉しすぎて、俺は何も考えずに歩き出していた。校舎に差し込んできた夕日の光で、先輩の瞳が綺麗に透き通って見えたことを俺は一生忘れないだろう。

「おい、ネクタイを離せ! おいおいおいおいっ!!」

 先輩を犬みたいに連れ回してしまったことも。