「ヤミさん、愛莉さんきましたー」
 扉を開けてすぐ、ふわりと漂うエキゾチックな香りにまぎれ、香ばしいチキンとジャスミンライスの匂いが鼻孔をくすぐる。
 こぢんまりとした部屋の中には、ブラウン系の長机が一つと、ゆったりとしたバリのリゾート風ソファが並んでいる。そのソファの一番奥の隅を陣取り、マイペースにカオマンガイを食べていた人物と目があった。
 ――アシンメトリーに切り揃えられた黒髪に、ボルドー系のメッシュ。口元には一つ、両耳には複数のピアスがジャラジャラと付けられ、服装はちょっと変わった黒のロングワンピース。ややロックテイストのメイクに、スプーンを持つ長い指の爪先には人目を引くような真紅のマニキュアが塗られている。
 なるほど。田島のいう通り、確かに個性的な印象だなと愛莉は納得する。
 目があった途端、ギッと、ものすごい形相で睨まれた気がするが、気のせいだろうか。
「こ、こんにちは。お待たせしました、皇愛莉です」
 少々気圧されつつも、第一印象が大事だと思ってしっかりと挨拶をする。一対二では緊張するが、二対一であればだいぶ気が楽だ。
 ぺこりとお辞儀をしてからチラリと視線を飛ばすと、宵町らしき女性は、
「……どうも。ヨイマチです」
 ふい、と目を逸らし、ぼそりと一言。
 表情も態度も、怒っているんだろうか、と不安になるような空気を醸し出している。
 助けを求めるように田島を見ると、彼は『ね?』と、苦笑気味にアイコンタクトを送ってきた。
 よくここまで間がもったものだと愛莉が感心していると、
「田島サン」
「ふぁいっ」
 ふいに、宵町がシャープな目つきと尖った声で田島の名を呼んだ。
 不機嫌そうな視線が今度は田島に向けられているが、どうやらあの睨みつけるような目つきは、自分だからそうされたというわけではなく、誰に対してもああらしいと、愛莉は理解することにした。
「それはそうと、置き忘れてる携帯、鳴ってましたけど」
「あ、やべっ、忘れてた……」
 田島は取ってきたばかりのドリンクを宵町と自分の席に置くと、机の上に置きっぱなしになっていた自分のスマホを持ち上げて中身を確認している。
 宵町はまたしてもそっけなく視線を逸らしていたが、ドリンクを渡されたとき、ほんのわずかにペコっと頭を下げていたことを、愛莉は見逃さなかった。……根は悪い人じゃないのかもしれない。
「青春ジャンルの青木さんからですか?」
「あ、いや、ただの通知っすね。〝NARERUYO〟で、自分が書いた応援コメントに作者からの返信がつきました、みたいな」
 自分も〝NARERUYO〟に登録があるので、その機能は知っている。
 だが、勤務中にスマホが鳴っても困るので、愛莉はそういった類の通知機能を全てオフにしていた。わざわざ書いたコメントに対する返信通知までオンにするとは、田島のマメさが窺えるようだ。
「さすが元トップランカーですね。私も〝NARERUYO〟に登録してあるんですが、その機能、全部オフにしてます……」
「あは。いやまあ、自分は創作仲間との交流なくしてトップランカーには上りつめられませんでしたから。愛莉さんはそういう書き手同士の交流とかしなくても、熱狂的なファンいっぱいいませんでしたっけ?」
「へっ? あ、いや。〝ファン〟だなんてそんな!」
「……」
「またまたあ。畑違いだからあまり詳しくはないっすけど、愛莉さんって確か、愛莉信者って呼ばれてる熱烈ファンがめっちゃいるって噂ですよね? 純粋な読者が多くてうらやましーっすわ」
 いったいどこで仕入れた情報なのか。愛莉は苦笑を浮かべつつ、丁重に返す。
「そんなことないですってば。私も同ジャンルの書き手さんとはよく交流する方ですよ。リアルで会ったこととかはないんですけど、書き手同士の作品の読み合いとかはかなりしてきましたし」
「え、マジすか? 愛莉さんクラスの人気作家でも読み合いとかするんですか??」
「しますよー。最近は仕事が忙しくてあまり回れてませんけど。純粋なファンが多い作者さんといえば、むしろ、青春の青木さんの方が……」
 ――と、謙遜を交えて会話をぼかそうとしたそのとき、再び田島の携帯電話が軽快な音楽を奏でた。愛莉と、無言の宵町の視線が田島に集中する。
 田島はすいすいと画面を操作したのち、パッと顔を上げて言った。
「おっ。噂をすれば青春の春奈さんからだ。もう近くまできてるっぽいっす。ちょっと俺、外に出て目印になってきますね!」
 いうが早いか、田島は腰を上げて部屋を飛び出していく。
 パタン、と扉が閉まれば、室内にはシンとした重たい沈黙が広がった。
「……」
「……」
 会話はない。エキゾチックな香りと、さりげないBGMと、宵町がカオマンガイのチキンを頬張る音だけが緩やかに室内を満たしている。
 根は悪い人じゃなさそうだが、どうにもとっつきにくいなあと、愛莉は薄い笑いを浮かべたまま、空いてる席に着席した。
「青春部門の春奈さん、来られるみたいでよかったですね」
「……自分は別に、どちらでも」
 気を遣って会話を紡いだものの、返事はその一言だけ。
 彼女がいようがいなかろうが、どちらでも構わないという意味合いだろうか?
(この人、会話する気なさそうなのに、本当になんで参加する気になったんだろう……)
 ついそんなことを考えてしまったのは、自分だけの秘密。
 愛莉は結局、もくもくとカオマンガイを食べ続ける宵町と向かい合わせになったまま、田島の帰りを無言で待ち続けることとなったのだった。