横から誰かが、愛莉の携帯電話をスッと引き抜いた。
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。
愛莉は顔を上げる。自分の携帯電話を抜き取ったのは、今にも泣き出しそうな顔をしている、田島だった。
「チイトさ……」
困惑するように目配せを送り合う日暮や宵町たちを尻目に、田島は、震える手でスマホを自分の耳元に持っていく。
携帯電話の向こう側では、ひっきりなしに鬼上司が怒鳴っている。
田島はスウっと息を吸い込むと、そんな上司の罵詈雑言を遮るよう、大きな声を張り上げた。
「うるっっっっせえ、聞こえてんだよ!」
『……⁉︎』
「……っ⁉︎」
「え、ちょ」
騒然とする室内。不意打ちの大声だったためか、上司が一瞬、言葉を飲んだようだった。
だが当然、それぐらいで怯む相手ではない。噴火寸前の空気をヒシヒシと纏いながら、上司が低い声で問うてくる。
『……あ? なんだ? 男?? 誰だ君は、僕は今、愛川君と話してるんだ。君はいったい……』
「あん⁉︎ 彼氏だよ彼氏、んなことどうだっていいだろ! っつうかお前こそなんなんだよ。んな怒鳴んなくたって聞こえてるし、ネチネチネチネチ説教のつもりだかなんだか知んねーけどものには言い方ってもんがあるだろうが。彼女、めちゃくちゃ怯えてんじゃねえか!」
『なっ、な、な……』
震えているのに。声が裏返ってるのに。涙目になっているのに。
まるで、内側に隠していた毒素が全て解き放たれていくように、田島の勢いは止まらない。
「なんか変だと思ったんだよ。会社から電話かかってきてるところを見て怯え方が尋常じゃなかったから、絶対何かあると思った。そりゃ毎日、終電間際まで残業させられてアンタみたいな心ないヤツの罵声浴びてたら、逃げ場が欲しくなるし感覚だっておかしくもなるわ。つーかさ、彼女の残業時間とかどうなってんの? そもそもちゃんと把握してんの? 大手企業の役職者だかなんだかしんねーけど、パワハラも大概にしろよてめぇ、訴えんぞ!」
『パ、パワハラ? ああ⁉︎ なに言ってんだお前、誰だか知らんが、そんな勝手なことを言って……彼女に代わりなさい! いい加減にしないと彼女の立場がどうなっても知らんぞ⁉︎ 俺の一存で、減給ぐらい楽にできるんだからな⁉︎』
「はい、今の全部録音しましたー。上等だよクソ野郎。これ以上、彼女に不当な圧力かけてみろ、出るとこ出てやっからS県S市にある田島商店の田島優弥宛に電話かけて来い!」
「は⁉︎ ちょ、おいま……」
「二度と彼女に〝出来が悪い〟とか〝バカ〟とか否定的な言葉使うんじゃねえ! わかったな⁉︎」
言うだけ言って、ブツっと通話を切る田島。
――ツーツーツー。
シン、と静まり返る室内で、田島がただ一人、ゼエゼエと息を吐いている。
日暮と宵町が顔を見合わせて『やっちまったなアイツ』といった顔で引き攣った笑いをこぼすと、緊張の糸が切れたように、田島がその場にへたり込み、愛莉に向かって、地に埋まる勢いで頭を下げた。
「すんません……ほんとすんません……。まじで調子乗りました……」
「……」
「ほんとごめんなさい……俺、はじめて匿名以外で自分の意見、言いました……」
いまだに震えている田島の言葉が、ストレートに愛莉の胸に届く。
「辛そうな愛莉さん見てたら、なんかしんどくて……我慢できなくて……彼氏なんかじゃないのに……録音だってとってないのに……俺なんかじゃなんの責任も取れないのに……ほんと、勝手なことしてすんません……」
心の底から詫びるよう、繰り返し、繰り返し、謝罪の言葉を述べる田島。
たしかに社会人としては、初対面相手にいきなりブチギレるだなんてアウトだろう。
しかも、よりにもよって相手はあの鬼上司だ。ちょっと意見しただけで十倍近い仕返しをされるのが常のあの上司に、あんなに啖呵を切ってしまうなんて。
これからどうすればいいんだろう――という、本来吐露しなければならない心配や言葉は、微塵も出てこなかった。
不思議と、怒りが湧いてこない。
正直、清々した。そればかりか、いつの間にか息がしやすくなっている。
今しがた田島が放った言葉は、本当はきっと、ずっと誰かに言ってもらいたかった言葉で、本当はずっと、自分があの鬼上司に言ってやりたかった言葉なのかもしれない。
「……」
気がつけば、愛莉の頬に温かい涙が伝っていた。
日暮も、宵町も、青木も、なにも言わずに二人のやりとりを静観している。
力なく笑う田島は、今一度、全員の耳に届くような声色で言った。
「誹謗中傷の件も……ほんとすみませんでした。俺、ちゃんと自分の嫉妬と向き合います。もう二度としません。なんか、自分の批判で大事な人が傷ついてんの見たら、とんでもないことしたなって……今ではマジで反省してます。告発文の犯人探しとかも……もうどうでもいいっす」
顔を上げた彼の瞳には、もう、一片の濁りもない。
戸惑うよう顔を見せ合う日暮や宵町を傍目に、田島は愛莉をまっすぐに見つめて続ける。
「だから愛莉さんも……もう、やめましょう。愛莉さんのことだから、きっと、疲れてんのに無理して、ファンサしようって必死に頑張ってるうちに、頭ん中麻痺して、気づいたら他人の作品に寄せすぎちゃったってだけすよね?」
「……」
「俺はそう信じてますから。そんな辛い顔をして作品を書き続けてたって、真のファンは、嬉しくないっすよ」
返す言葉が出なかった。
もう、何も反論する余地がない。
全て、田島の言う通りなのだ。
「ですぎたこと言ってホントすんません……でも俺、やっぱり愛莉さんが心配だか……」
「ありがとう」
ようやく、自分の口からこぼれたその一言。
不意をつかれたように田島が顔をあげ、日暮も、宵町も、青木も、息を呑むような顔で、こちらを見ている。
――認めちゃダメ。
――謝ったらダメ。
――全てが壊れる。
もう一度、頭の中で回る上司の言葉。
でももう、そんなこと、どうでもいい。
「ごめんなさい」
まるで憑き物が落ちたかのように、深々と頭を下げて、ただ素直に、真摯に、謝罪の言葉を紡ぐ。
「ごめ……なさい、本当にごめんなさい……」
今さら気がつく。本当はもう、自分の世界はとっくに壊れていたのかもしれない。
許されることではないけれど、だからといって謝罪もせずに、被害者を蔑ろにしていいはずがなかった。
「チイトさんのいう通り、です……本当に、ごめんなさい……」
自分の犯した過ちと向き合って、自分の弱さと向き合って、償って、もう一度、一から出直したい。
そして今度こそ、借り物の言葉よりも、自分自身で思い描いた言葉で、自分の世界を届けたいと、心の底から願った。
愛莉はその思いを貫くよう、謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめ、なさい……」
「愛莉さん……」
「お、おい。それは盗作について謝ってんのか?」
日暮に問われ、こくりと頷く。
俯けば、溜め込んでいた涙がボロボロと落ちていった。
「告発文は、本当に、私じゃないです……。でも、盗作、は……チイトさんの言う通り、で……」
素直に白状すれば、ああやはりと、目前で日暮や宵町、青木が嘆息を吐いて目配せを送り合う気配を感じた。
顔を上げるのが怖い。責め立てられるのが怖い。けれどもう、逃げるのはやめよう。
ただ黙って、震えながら頭を下げ続けていると、傍らで黙って話を聞いていた田島が口を挟んだ。
「もういいじゃないすかセイさん。愛莉さんはもう二度としないと思います。それに、彼女を許すかどうかを決めるのは俺らじゃない、被害者の方です。魔がさしてしまった者同士の俺やセイさんには責める権利ないかと……」
それを言われると言い返せない日暮は、ぐっと呻くように押し黙っている。
田島に「ね? 愛莉さん」と優しく背を撫でられると、愛莉の中で張り詰めていた何かが途切れ、嗚咽が止まらなくなった。
深く頷く。もう、二度としない。
「もう、しません……誓い、ます……」
――これでもう、皇愛莉はおしまいだ。
自分で蒔いた種だとはいえ辛い現実に涙は止まらないし、今後の不安を考えると今すぐにでも膝から崩れ落ちたいような心境だったけれど、でもなぜだろう。肩の力が一気に抜けて、心は軽くなった気分だった。
ようやく罪を認めた愛莉の心からの謝罪に、日暮と宵町、そして青木は顔を見合わせて、失笑をこぼしている。
「なによ……やっぱり黒なんじゃない。ってかなんで田島まで泣いてんのよ」
呆れ顔で肩をすくめる宵町。表情を曇らせていた日暮は、ため息一つ落とすと、さっさと身繕いを始めた。
「勝手に美談で終わらせんなって感じだけどな」
「って何よあなた、あんなに息巻いてたのに帰るの?」
「ああ、帰る。なんか……結局全員同じ穴の狢かよと思ったら、急にシラけたしな」
「ちょっと。勝手に一括りにしないでよ。……でもまぁ、わからなくもないけど」
「セイさん……」
青木が心配そうに声をかけると、日暮は苦笑した顔で返す。
「悪いな、春奈ちゃん。なんか一気にほとぼりが冷めたっていうか……無性に自分の現実が心配になってきたわ。子が待ってるし、500万はもうアテにできないし、家帰って一息ついたら、マジな職探ししねえと」
「そうですか……。でも、それがいいかもしれませんね。わたしも……もう、これ以上は、誰も責める気はありませんし、家に帰って、今後のことについて考えようかと……」
悲しげに、でも、どこか割り切れたような表情で顔を見合わせ、頷き合う日暮と青木。
青木はぺこりと会釈をすると、嗚咽を繰り返す愛莉とそれを慰める田島をそのままに、日暮と連れ立ってそっと部屋を出ていく。
「アホくさ……。もういいわ、あとは好きにして。付き合ってらんないし、アタシも帰る」
そしてあの宵町も。美談や同情に流された、というよりは、すでに瀕死となっている他人を踏みつけている場合ではないと判断したのだろう。
こうしている間にも世界は回り、現実は歩みを止めることなく進んでいく。
彼女にとってもまた、明日はやってくるのだから。
「あーあ……。ノベ大、獲りたかったなぁ」
その一言を残して、宵町も静かに部屋を後にした。
残された愛莉と田島は、しばらくそのまま懺悔の言葉と励ましを繰り返し……やがて彼女たちも、気持ちの整理をつけて部屋を出ていく。
――結局、告発文の真犯人が特定できることはなく、解散となったその場。
その後、受賞候補者の誰一人として、世間に向けての発信がないままに時はすぎていき、やがて混沌としていた読者選考期間も終わりを迎える。
炎上により、最終的に例年より多くの投票数が集まったようだが、コメント欄が非表示になっていたため、それが純粋な投票によるものなのか、それとも野次のために投じられた票なのか、それは、ノベルマ編集部のみぞ知るという。
かくして、第五回ノベルマーケット大賞は、四月下旬に結果発表を迎えた――。
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。
愛莉は顔を上げる。自分の携帯電話を抜き取ったのは、今にも泣き出しそうな顔をしている、田島だった。
「チイトさ……」
困惑するように目配せを送り合う日暮や宵町たちを尻目に、田島は、震える手でスマホを自分の耳元に持っていく。
携帯電話の向こう側では、ひっきりなしに鬼上司が怒鳴っている。
田島はスウっと息を吸い込むと、そんな上司の罵詈雑言を遮るよう、大きな声を張り上げた。
「うるっっっっせえ、聞こえてんだよ!」
『……⁉︎』
「……っ⁉︎」
「え、ちょ」
騒然とする室内。不意打ちの大声だったためか、上司が一瞬、言葉を飲んだようだった。
だが当然、それぐらいで怯む相手ではない。噴火寸前の空気をヒシヒシと纏いながら、上司が低い声で問うてくる。
『……あ? なんだ? 男?? 誰だ君は、僕は今、愛川君と話してるんだ。君はいったい……』
「あん⁉︎ 彼氏だよ彼氏、んなことどうだっていいだろ! っつうかお前こそなんなんだよ。んな怒鳴んなくたって聞こえてるし、ネチネチネチネチ説教のつもりだかなんだか知んねーけどものには言い方ってもんがあるだろうが。彼女、めちゃくちゃ怯えてんじゃねえか!」
『なっ、な、な……』
震えているのに。声が裏返ってるのに。涙目になっているのに。
まるで、内側に隠していた毒素が全て解き放たれていくように、田島の勢いは止まらない。
「なんか変だと思ったんだよ。会社から電話かかってきてるところを見て怯え方が尋常じゃなかったから、絶対何かあると思った。そりゃ毎日、終電間際まで残業させられてアンタみたいな心ないヤツの罵声浴びてたら、逃げ場が欲しくなるし感覚だっておかしくもなるわ。つーかさ、彼女の残業時間とかどうなってんの? そもそもちゃんと把握してんの? 大手企業の役職者だかなんだかしんねーけど、パワハラも大概にしろよてめぇ、訴えんぞ!」
『パ、パワハラ? ああ⁉︎ なに言ってんだお前、誰だか知らんが、そんな勝手なことを言って……彼女に代わりなさい! いい加減にしないと彼女の立場がどうなっても知らんぞ⁉︎ 俺の一存で、減給ぐらい楽にできるんだからな⁉︎』
「はい、今の全部録音しましたー。上等だよクソ野郎。これ以上、彼女に不当な圧力かけてみろ、出るとこ出てやっからS県S市にある田島商店の田島優弥宛に電話かけて来い!」
「は⁉︎ ちょ、おいま……」
「二度と彼女に〝出来が悪い〟とか〝バカ〟とか否定的な言葉使うんじゃねえ! わかったな⁉︎」
言うだけ言って、ブツっと通話を切る田島。
――ツーツーツー。
シン、と静まり返る室内で、田島がただ一人、ゼエゼエと息を吐いている。
日暮と宵町が顔を見合わせて『やっちまったなアイツ』といった顔で引き攣った笑いをこぼすと、緊張の糸が切れたように、田島がその場にへたり込み、愛莉に向かって、地に埋まる勢いで頭を下げた。
「すんません……ほんとすんません……。まじで調子乗りました……」
「……」
「ほんとごめんなさい……俺、はじめて匿名以外で自分の意見、言いました……」
いまだに震えている田島の言葉が、ストレートに愛莉の胸に届く。
「辛そうな愛莉さん見てたら、なんかしんどくて……我慢できなくて……彼氏なんかじゃないのに……録音だってとってないのに……俺なんかじゃなんの責任も取れないのに……ほんと、勝手なことしてすんません……」
心の底から詫びるよう、繰り返し、繰り返し、謝罪の言葉を述べる田島。
たしかに社会人としては、初対面相手にいきなりブチギレるだなんてアウトだろう。
しかも、よりにもよって相手はあの鬼上司だ。ちょっと意見しただけで十倍近い仕返しをされるのが常のあの上司に、あんなに啖呵を切ってしまうなんて。
これからどうすればいいんだろう――という、本来吐露しなければならない心配や言葉は、微塵も出てこなかった。
不思議と、怒りが湧いてこない。
正直、清々した。そればかりか、いつの間にか息がしやすくなっている。
今しがた田島が放った言葉は、本当はきっと、ずっと誰かに言ってもらいたかった言葉で、本当はずっと、自分があの鬼上司に言ってやりたかった言葉なのかもしれない。
「……」
気がつけば、愛莉の頬に温かい涙が伝っていた。
日暮も、宵町も、青木も、なにも言わずに二人のやりとりを静観している。
力なく笑う田島は、今一度、全員の耳に届くような声色で言った。
「誹謗中傷の件も……ほんとすみませんでした。俺、ちゃんと自分の嫉妬と向き合います。もう二度としません。なんか、自分の批判で大事な人が傷ついてんの見たら、とんでもないことしたなって……今ではマジで反省してます。告発文の犯人探しとかも……もうどうでもいいっす」
顔を上げた彼の瞳には、もう、一片の濁りもない。
戸惑うよう顔を見せ合う日暮や宵町を傍目に、田島は愛莉をまっすぐに見つめて続ける。
「だから愛莉さんも……もう、やめましょう。愛莉さんのことだから、きっと、疲れてんのに無理して、ファンサしようって必死に頑張ってるうちに、頭ん中麻痺して、気づいたら他人の作品に寄せすぎちゃったってだけすよね?」
「……」
「俺はそう信じてますから。そんな辛い顔をして作品を書き続けてたって、真のファンは、嬉しくないっすよ」
返す言葉が出なかった。
もう、何も反論する余地がない。
全て、田島の言う通りなのだ。
「ですぎたこと言ってホントすんません……でも俺、やっぱり愛莉さんが心配だか……」
「ありがとう」
ようやく、自分の口からこぼれたその一言。
不意をつかれたように田島が顔をあげ、日暮も、宵町も、青木も、息を呑むような顔で、こちらを見ている。
――認めちゃダメ。
――謝ったらダメ。
――全てが壊れる。
もう一度、頭の中で回る上司の言葉。
でももう、そんなこと、どうでもいい。
「ごめんなさい」
まるで憑き物が落ちたかのように、深々と頭を下げて、ただ素直に、真摯に、謝罪の言葉を紡ぐ。
「ごめ……なさい、本当にごめんなさい……」
今さら気がつく。本当はもう、自分の世界はとっくに壊れていたのかもしれない。
許されることではないけれど、だからといって謝罪もせずに、被害者を蔑ろにしていいはずがなかった。
「チイトさんのいう通り、です……本当に、ごめんなさい……」
自分の犯した過ちと向き合って、自分の弱さと向き合って、償って、もう一度、一から出直したい。
そして今度こそ、借り物の言葉よりも、自分自身で思い描いた言葉で、自分の世界を届けたいと、心の底から願った。
愛莉はその思いを貫くよう、謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめ、なさい……」
「愛莉さん……」
「お、おい。それは盗作について謝ってんのか?」
日暮に問われ、こくりと頷く。
俯けば、溜め込んでいた涙がボロボロと落ちていった。
「告発文は、本当に、私じゃないです……。でも、盗作、は……チイトさんの言う通り、で……」
素直に白状すれば、ああやはりと、目前で日暮や宵町、青木が嘆息を吐いて目配せを送り合う気配を感じた。
顔を上げるのが怖い。責め立てられるのが怖い。けれどもう、逃げるのはやめよう。
ただ黙って、震えながら頭を下げ続けていると、傍らで黙って話を聞いていた田島が口を挟んだ。
「もういいじゃないすかセイさん。愛莉さんはもう二度としないと思います。それに、彼女を許すかどうかを決めるのは俺らじゃない、被害者の方です。魔がさしてしまった者同士の俺やセイさんには責める権利ないかと……」
それを言われると言い返せない日暮は、ぐっと呻くように押し黙っている。
田島に「ね? 愛莉さん」と優しく背を撫でられると、愛莉の中で張り詰めていた何かが途切れ、嗚咽が止まらなくなった。
深く頷く。もう、二度としない。
「もう、しません……誓い、ます……」
――これでもう、皇愛莉はおしまいだ。
自分で蒔いた種だとはいえ辛い現実に涙は止まらないし、今後の不安を考えると今すぐにでも膝から崩れ落ちたいような心境だったけれど、でもなぜだろう。肩の力が一気に抜けて、心は軽くなった気分だった。
ようやく罪を認めた愛莉の心からの謝罪に、日暮と宵町、そして青木は顔を見合わせて、失笑をこぼしている。
「なによ……やっぱり黒なんじゃない。ってかなんで田島まで泣いてんのよ」
呆れ顔で肩をすくめる宵町。表情を曇らせていた日暮は、ため息一つ落とすと、さっさと身繕いを始めた。
「勝手に美談で終わらせんなって感じだけどな」
「って何よあなた、あんなに息巻いてたのに帰るの?」
「ああ、帰る。なんか……結局全員同じ穴の狢かよと思ったら、急にシラけたしな」
「ちょっと。勝手に一括りにしないでよ。……でもまぁ、わからなくもないけど」
「セイさん……」
青木が心配そうに声をかけると、日暮は苦笑した顔で返す。
「悪いな、春奈ちゃん。なんか一気にほとぼりが冷めたっていうか……無性に自分の現実が心配になってきたわ。子が待ってるし、500万はもうアテにできないし、家帰って一息ついたら、マジな職探ししねえと」
「そうですか……。でも、それがいいかもしれませんね。わたしも……もう、これ以上は、誰も責める気はありませんし、家に帰って、今後のことについて考えようかと……」
悲しげに、でも、どこか割り切れたような表情で顔を見合わせ、頷き合う日暮と青木。
青木はぺこりと会釈をすると、嗚咽を繰り返す愛莉とそれを慰める田島をそのままに、日暮と連れ立ってそっと部屋を出ていく。
「アホくさ……。もういいわ、あとは好きにして。付き合ってらんないし、アタシも帰る」
そしてあの宵町も。美談や同情に流された、というよりは、すでに瀕死となっている他人を踏みつけている場合ではないと判断したのだろう。
こうしている間にも世界は回り、現実は歩みを止めることなく進んでいく。
彼女にとってもまた、明日はやってくるのだから。
「あーあ……。ノベ大、獲りたかったなぁ」
その一言を残して、宵町も静かに部屋を後にした。
残された愛莉と田島は、しばらくそのまま懺悔の言葉と励ましを繰り返し……やがて彼女たちも、気持ちの整理をつけて部屋を出ていく。
――結局、告発文の真犯人が特定できることはなく、解散となったその場。
その後、受賞候補者の誰一人として、世間に向けての発信がないままに時はすぎていき、やがて混沌としていた読者選考期間も終わりを迎える。
炎上により、最終的に例年より多くの投票数が集まったようだが、コメント欄が非表示になっていたため、それが純粋な投票によるものなのか、それとも野次のために投じられた票なのか、それは、ノベルマ編集部のみぞ知るという。
かくして、第五回ノベルマーケット大賞は、四月下旬に結果発表を迎えた――。