家に帰ったら熱がぶり返していた。
 景気よく温度の上がった体温計をかざしてぼんやりしていると、ドアが開いて、博人が入ってきた。
「麻、生きてる?」
「死ぬわけあるか……」
「肺炎菌恐るべし。麻をここまで弱らせるとは」
 あっけらかんと言いながら、博人は室内へ入ってくると、鞄を自分のスペースへ放り込んでからこちらへ戻ってきた。
「熱どうなの」
「まだ高い……」
「病院行った?」
「行ったけど……解熱剤は飲みすぎるなって言われたくらい」
「無理して学校なんか行くから」
「うるさい」
 ばさり、と布団を頭からかぶる。明日には下がってるといいけど、とぶつぶつ言っている博人を、布団の陰からそろそろと窺うと、目が合った。
「なに?」
「博人は……彼女いたよな」
「は?」
 思わぬ言葉を聞いたと言うように博人が目を見張る。腰を屈めて麻人に顔を近づけ、博人は小声で訊ねてきた。
「なに? 麻、ついに彼女ができたとか」
「違う」
「じゃあ……好きな子ができたとか」
「違う……」
「告白されたとか」
 ちが、と言いかけて、言葉が止まる。
──先輩が、好きなんですけど。
「うわ、麻に告白するような勇気ある子、いるんだ」
 一瞬で麻人の顔色を読んだ博人はげらげらと笑い出す。双子の弟とは厄介だ。隠し事がまったくできない。
「ここは笑うところじゃないだろ」
「いや、だって。麻みたいなのに告白したら、ひどい言葉でフラれそうなのに」
 確かにその印象は正しい。実際、この性格のせいで周りから恐れ戦かれていて、誰かに好かれるなんてことこれまで一度だってなかったのだ。
 その自分を、好きだ、と言う。
 わけがわからない。
 やはり、からかわれたと考えるのが自然なんだろうが。
──冗談でこんなこと言いません。
「麻、大丈夫? 顔赤いし」
「なあ」
 がばっと布団から飛び起きると、博人が驚いて身を引く。呼びかけたものの、真正面からは見られなくて、麻人は掛け布団の表面を睨んだ。
「好きって言うってことは、付き合いたいとかそういう、ことなんだろうか」
「まあ、そうなんだろうけど。え? 好きです、付き合ってくださいって言われたんじゃないの」
「好きなんですけどって言われた」
「それだけ?」
 俯いたまま頷くと、なんだそれ、と博人は首を捻った。
「気持ちだけでも伝えさせてくださいってやつかな」
「知らないし。大体、その後、軽くキレられた」
「キレるって?」
「いくら真剣に言っても、本気になんてしやしないだろって言われた」
「それって」
 博人はしばらく麻人を見つめてから、ええと、と額を掻いた。
「あのさ、もしかして告白されたって、あの子? 香坂くん」
 名前を聞いたとたん、熱が上がった気がした。布団に前倒しに倒れた麻人をしばらく眺めた後、博人はおもむろに口を開いた。
「いや、なんかさ、ちょっと気にはなってたんだよな。ただの後輩にしてはやけに親切だなとは。だからだったのか」
「落ち着いて分析してる場合じゃないだろう。そもそもこれからどんな顔してあいつと顔合わせればいいんだ」
 博人はなにか言いたげな顔で麻人を見つめている。なに、と怪訝に思って顔を上げると、博人は、ううん、と声を漏らした。
「俺には麻がそこまで悩む理由がわかんないんだけど。別にいいじゃん。付き合う気ないなら放置しておけば。向こうも返事を求めてないんだろ。告白されたからって答えなきゃいけない義務なんてないよ」
「お前はそんな不誠実な態度で人と関わってるのか」
「ちょ、お前がそれ言う? いつだって喧嘩腰で、塩対応のお前が?」
 眉を下げて言い、博人は椅子の背もたれにだらしなくもたれた。
「でもさ、麻としては望んでないんだろ。香坂くんとそういう関係になるの」
「の、の、望んでるとか、望んでない、とか、考えた、ことも……」
 言いかけて麻人は額を押さえる。
──仁王って、恋しちゃだめなんですかね。
 頭の中に声が響き、麻人は額を押さえる。
 そもそも、香坂は口の悪いただの後輩だったのだ。口うるさくてどれだけ邪険にしてもけろっとしてついてくる、ただそれだけの。
 そう、それだけの存在だったはずなのに。
 あのとき、香坂が逃げ出すように走り出したとき、自分は追いかけなければと思ってしまった。
 彼が遠くに行くのが、どうしても、嫌で。
 階下で、博人を呼ぶ声がする。おっと、と博人が椅子から立ち上がる。
「ご飯できたみたいだ。食べられる?」
「食欲ない」
「そっか」
 博人は麻人を眺めてから、ぽんと麻人の頭に手を置いた。
「なんか食べやすいもの持ってくるから。横になってろよ」
「……ああ」
「なあ、麻」
 頷いて布団にもぐりこむ麻人の頭の上で博人が麻人を呼んだ。
「なんだよ」
 もごもごと返事をすると、博人はちょっと黙ってから、唐突に言った。
「一度さ、話、してみたいんだけど。香坂くんと」
「なんで」
 話す? なにを。声を出せぬまま顔だけ出す麻人に、博人がにやっと笑いかけてくる。次いで、ぽんぽん、と宥めるような手つきで布団が叩かれた。
「興味あるんだよ。命知らずに麻に好きって言えるところとかにさ」


 結局、熱は翌日も下がらなかった。
 今日は文化祭の後片付けが中心で授業はない。とはいえ、文芸部のブースの撤去作業をしなければならない。
 よろよろと起き上がったところで、博人に見つかった。
「学校行く気じゃないだろうな」
「行かないわけにいくまい。準備も任せきりだったんだ。この上片付けもしないなんてそんなわけにはいかない」
「真面目すぎ。そういうのは後輩にお願いして頼めって」
 後輩、と聞いたとたんに再び頭がくらっとした。博人がため息をついてぽん、と麻人の肩を押す。おい、と言いかけて嘘みたいに膝が砕けた。横合いのベッドにへたりと座り込んだ麻人を見下ろし、博人は、馬鹿、と零した。
「休めって。大丈夫だよ。片付けくらい、誰かがやるって。麻は気にしすぎ」
「借りを作ったら返さないといけなくなる。それは困る」
「戦国武将かよ」
 呆れ果てた顔で腕組みした博人は、びしっと麻人の顔の前に指を突きつけた。
「とにかく。一歩でも家を出たら麻の昔の写真、ネットに流出させるから。今と違って可愛いし、知ってる人が見たらさぞ驚くだろうな」
「おま……それって犯罪だろ」
「そうそう。俺を犯罪者にしないためにも寝てろよ」
 笑って博人は部屋を出て行く。博人こそ、子供のころと違って、随分したたかになったものだ。
 でも、この世で一番麻人を心配してくれているのは、博人だとは思う。
 のろのろとベッドに横になりながら、目を閉じる。熱の向こうから眠気が襲ってくる。ゆるゆるとその波に身を任せて麻人は眠った。


 煙草と酒の臭い。淀んだ空気。
 頬にへばりつく、ざらついた畳の感触。
 視線の先に、壁側を向いて立つ、裸足の足がある。畳に指が突き刺さるくらい強く踏みしめて、その人は立っている。
 目だけを動かして周りを見回す。ビール瓶や脱ぎ散らかした衣類、部屋の隅にたまった埃。食い散らかされた弁当がら。そして。
 立ちはだかる足の先。蹲る子供の影が見えた。
 子供は泣いている。床に丸くなって頭を抱え込み泣きじゃくる。切れ切れの涙声で、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も謝って、子供は体を小さくする。
 その声に、足の主が小さく震えた。
 ぎくしゃくと上げた視線の先、その人の手元が見えた。
 ビール瓶を握った手がそこにはあった。
 手は痙攣しながら、ゆるゆると持ち上げられる。高く、高く振り上げられたビール瓶が、暗い蛍光灯の光に鈍く光った。
 子供の泣き声が高くなる。
 振り下ろされた手に、悲鳴を上げたのは自分だ。
 食い込んでくる畳の目から頬を引き剥がし、手を伸ばす。裸足の足に必死にしがみつく。不意を突かれた相手がたたらを踏む。
 彼がなにかを言う。怒鳴り声がどんな言葉を形作ったのか、判然とはしない。けれどそこにこめられた感情は感じられた。声にあったのは、嘆き、怒り、そして……空虚な現実への絶望。
 足に絡みついた自分の手を乱暴に蹴り解き、彼はこちらに向き直る。
 そして、ビール瓶を持った手が、再び振りかざされる。
 自分の上に。
 その人の顏は、よく、見えない。でもその人が泣いているのが自分にはわかった。
 とめどなく零れた涙が頬を伝い、畳へと落ちる。
 吐き散らされた濁った声とは対照的に、流れ落ちていく雫は透明で、室内の薄暗い照明の中でもきらり、と輝いた。
 茶色い軌跡がゆっくりと迫ってくる。それを自分は瞬きもせず、ただ、見ていた。