部誌は昼を待たずすべて配り終えた。例年だったらあり得ないことだが、やはり場所が良かったようだ。これなら来年度以降、新入部員も見込めるかもしれない。
 自分は卒業してしまうが、この部がなくならず存続していくことは喜ばしい。
 香坂がひとりになるのも忍びないと思ってはいたから。
 ほっとしつつ、麻人は校内をぶらぶらと歩く。
 早めに部誌がなくなったおかげで、少し時間もできた。風紀委員の見回りもかねて、祭りを眺めるのも悪くはない。
 喧騒の中を縫うように歩いているうちに、二年の教室棟に足が向いた。さまざまな模擬店が並ぶ廊下をさしたる感慨もなく進むと、真っ黒に塗られたベニヤ板に白文字で書かれた看板が目に飛び込んで来た。
 幽霊占い、と歪んだ字で書かれている。香坂のクラスだ。
「お化け屋敷なのか占い屋なのか、どっちなんだ」
 ごちたとき、ぱさり、とカーテンが開いて、男子生徒がふたり出てきた。ひとりは制服姿、もうひとりはなぜだか燕尾服を着ている。
 彼らは談笑しながら廊下を歩いていこうとしたが、燕尾服のほうがふっとこちらに気づいた。
「え、杉村先輩?」
 香坂だった。
 大きな目がいつも以上に見開かれる。彼は一緒にいた生徒に手を振ってから、こちらに戻ってきた。
「びっくりしたあ。こんなところでどうしたんですか?」
 にこにこと問いかけてくるが、麻人は口を利けずにいた。
 文化祭なのだ。普段通りの服装でなければならないわけではない。だからとやかく言うべきではないのだ。
 だが、それにしても、と麻人は思う。
 高校生でこれだけ燕尾服が似合うというのもどうなのだ、と。
 燕尾服のかっちりしたラインは細身の体にしっくりとなじんでいたし、漆黒の衣のせいでか、やたら頬が白く見える。
 こいつこんなに色が白かったっけ、と心の内で呟いたとたん、なぜか心臓がことり、と動いた。
「先輩?」
 無言で見つめる麻人を香坂は怪訝そうに眺めていたが、麻人の視線に気づいたのか、我に返ったように、自分の体を見下ろした。
「あ、ええと、これ。俺、占い師なんですよ。うち、幽霊が占いするってコンセプトで、占い師ごとにキャラ設定してて」
「……どんな?」
 燕尾服のキャラクターってなんだろう、と素朴な疑問を感じて問い返すと、香坂はなぜかぱっと顔を赤らめた。
「大正時代の華族……」
「かぞく」
「ファミリーじゃないほうの、華族、です」
「華族」
 繰り返したとたん、香坂の頬の赤味が強くなった。うう、とついぞ聞いたことのない声で呻いて、香坂が顔を片手で覆う。
「香坂?」
 こいつ、恥ずかしがっているのか? いつも生意気で、心臓に毛が生えているのかというくらい、物おじしないこいつが?
 意外過ぎて驚きを隠せないでいる麻人の前で、香坂はまだ顔を覆っている。子どもっぽいな、と皮肉を言うことさえ躊躇する反応だ。さて、どうしよう、と、どうにもいたたまれなくなってきたとき、香坂が突然、顔を覆ったままくるっと背中を向けた。
「え、おい⁉」
 そのまま、いきなり走り出す。だああっと去っていく彼をしばらくぽかん、として見送ってから、麻人はとっさに香坂を追って駆けだしていた。
「ちょ、香坂、待てって! おいこら!」
 叫ぶが、香坂は止まらない。しかもとにかく足が速い。なんでもできるところが本当にムカつくやつだ、と憤りをちらと覚えたものの、そんな悠長に考え事をしていられるような、生半可な速さでもなかった。
 くっそ、と足を速めようとして、麻人は胸に苦しさを覚えた。
 喉を這い上がってくる不快感と共に激しい咳が飛び出す。香坂が駆けのぼっていった階段の上り口でたまらず膝を折った麻人は、壁に手を当てて激しく腰を折った。
 ……病み上がりなのを忘れていた。
 マスクすら苦しい。むしり取りたかったが、取ったら周りに迷惑ではないだろうか。咳で揺れる視界でちらりと周りを伺ったとき、先輩! と切羽詰まった声が上から降ってきた。
 燕尾服の裾をなびかせ、香坂が駆け下りてくるところだった。
「先輩? 大丈夫ですか? 先輩?」
 不安そうな声と共に背中に温かい掌の感触が落ちてくる。温もりをまとい、何度も背中を往復する手によって、少しずつ咳が後退していくのがわかった。
 数分後、すっかり呼吸が元通りになり、そろそろと顔を上げると、麻人の横に跪いていた香坂が、ふっと息を漏らした。
「なんで全力で追いかけてくるんですか。先輩は。まったく、もう」
 まだ心配そうに麻人の背中に手を置いたまま、香坂が言う。そう言われて麻人もはて、と首を捻る。
 言われてみれば、追いかける必要はなかった。なのになぜ、自分は追いかけてしまったのだろう。
 いつも不遜なこいつをからかいたかったからだろうか。
 いや、そんなことでここまで走らない。
「大丈夫ですか? 水、買ってきます?」
 気づかわしげな香坂の顔を見返しているうちに、思い出した。
 彼を追いかけたのは、礼を言いたかったからだ。
 部誌のこともそうだ。自宅へ鞄を届けてくれたこともそうだ。
 それと。
 麻人はふっと周囲を見回す。
 ここは、自分が倒れそうになったとき、香坂に助けられた階段だ。
 考えてみればそのこともきちんと礼を言っていなかった。だが、追いかけた理由はやっぱり、それだけじゃない。
「お前が、逃げるから……」
 ぽろりと落ちてしまった本音に焦る。けれど、そうしながら思い知ってもいた。
 香坂が背中を向けたあのとき、どんどん遠ざかっていったあのとき。
 自分の頭の中にあったのが、どんな言葉だったのか、ということを。
 それは、嫌だ、だった。
 頬を紅潮させ、口を押える麻人を、香坂がまじまじと見つめてくる。そんなに見るな、と言い返そうとしても声が出ない。たまらず顔を伏せると、つい、と腕が掴まれた。
「先輩、こっち」
 くいくい、と細い手が麻人の腕を引く。そのまま階段を上らされ、一番上の段までたどり着いたところで腕が離された。
「座って」
 促され、腰を下ろすと、香坂も隣にすとん、と座る。ここは模擬店エリアではないせいか、人声も遠い。踏み荒らされていない雪のような空気が漂っていて、少しほっとしている麻人の横で、香坂が呟いた。
「逃げたのは……恥ずかしかったからです。正直、俺もこの衣装はどうかと思っているので。しかも俺のキャラ名、予言の貴公子なんですよ。ヤバすぎでしょ」
 言いつつ、彼は自身の胸辺りを見下ろす。
「そんなかっこ悪いの、先輩に見せるのはちょっと」
 かっこ悪くはない。そう言ってやりたかったが、どうにもむず痒くて言えない。
「お前、予言とか、できるの」
 代わりに出てきたのは、意味不明なそんな問いだった。意外過ぎる返しだったのか、香坂もきょとんとしている。
 しばらく無言で麻人の顔を見つめた後、香坂は肩を揺らして笑い出した。
「そんなわけないでしょ。嫌だなあ。手相ができるってだけですよ」
 くつくつと笑う。そのいつも通りのからっと明るい声に安堵した。そうか、とマスクの中、ひっそりと笑んだ麻人だったが、次の瞬間、ぎょっとして笑顔が引っ込んだ。
「ちょ、なんだよ」
 隣に座った香坂によって、左手が握られていた。
「せっかくだし、俺が手相見てあげますよ。一年のときも文化祭で占いの館やってて、そのときも占い師だったんで。よく当たるって評判だったんですよ、俺。そのときのキャラネームはなんだったかな。千里眼の貴公子だったかな」
「貴公子かぶりかよ」
 毒づきつつ、麻人は手を引っ込めようともがく。
「手相なんていい。そんな非科学的なもの、俺には必要ない」
「あれ、もしかして怖い結果が出たら、とか怯えてたりします?」
「誰が」
 むっとして動きを止めると、先輩に限ってそれはないですよね、と香坂が笑う。間近で閃いた笑顔に思わず気を呑まれたが、香坂は気づく様子もなく、麻人の手に視線を落としている。
「なに見ましょうか。恋愛運とか、見ちゃいます?」
「恋愛?」
 よりにもよって恋愛運と来た。麻人が嘲り笑うと、香坂が細い首を傾けた。
「なにかおかしいですか?」
「おかしいだろ。お前、俺が恋愛なんてすると思う? 仁王なんて変なあだ名つけられるこの俺が? 恐れられすぎて誰もそばに寄りつきたがらないのに。恋愛もないだろ」
 片方の肩を下げるようにし、皮肉げに笑ってみせてから、麻人は、はて、と笑みを消した。それもそうですよね、と明るく切り返してくるかと思ったのに、香坂の顔には笑みがかけらも浮かんでいなかった。
「仁王って、恋しちゃだめなんですかね」
 低い声が耳を打つ。声もなく見返すと、彼はふうっと瞼を持ち上げて麻人を見た。
「誰かを守るために厳しさを持つ。そんな仁王だからこそ、誰かに守られる恋をしたってよくないですか」
 香坂の声はなぜか少し震えており、睫毛に覆われた大きな目もかすかに揺れている。
 香坂、と呼びかけようとする声を遮るように、きゅっと、握られた手に力が込められた。
「今、言うべきか、迷うんですが」
「なに」
 香坂は一度言葉を切る。遠くで奇声のような歓声が上がる。拍手と笑い声。風に乗って流れてくるそれらはまるで異世界からの音のようだ。
 静けさと喧騒の上澄みを掬ったような空気の中、やたら澄んだ目がひたと麻人に向けられていた。
「俺は、先輩が好きなんですけど。キスしたいなあっていう意味で」
 ぽかん、と麻人は口を開けた。
 目の前の香坂の顔を凝視する。香坂は相変わらずの感情の読めない顔でこちらを見つめるばかりだ。
「冗談だろ」
「冗談でこんなこと言いません」
 ふうっと香坂の口許に苦笑いが浮かぶ。ひょい、と投げ出されるように手が離された。
「いや……あの……ちょっと待て。冷静になろう」
 今、こいつはなんて言った? キスしたい? 冗談だろう。いや冗談じゃないとも言った。
「冷静になったって今言ったことが気の迷いだったなんて言ったりはしませんけど」
 混乱している麻人の顔をちらっと見て、香坂はやっぱり少し震えた声で言い、膝の上に片肘で頬杖をつく。
 ますますもってどういうことなのか意味がわからず、麻人はパニックになった。
「冷静で……その、冷静でも、そんなこと言えちゃうのか」
「言えちゃいますね」
 だって、と言って香坂はふいっと不愉快そうに顔を背けた。
「俺がいくら真剣に言っても、先輩は本気になんてしてくれないんでしょ」
 麻人はぱくぱくと口を開け閉めする。言葉を継ごうとしたができなかった。
 ピピピ、とかすかな電子音が空気を読まずに鳴ったのはそのときだった。
「ああ、時間だ」
 頬杖を解いて、彼は燕尾服のポケットからスマホを取り出す。電子音を吐き散らすそれを操作すると、スマホはすぐに沈黙した。
「俺、行かないと」
 音を境目になにかが切り替わったように、表情がするりと変わる。いつもの後輩の顔に戻った香坂は、麻人の隣から身軽に立ち上がった。
「じゃあ」
「あ、ああ」
 なにか言うべきだとは思った。けれどなにも出てこない。
 軽い足音を立て、香坂は階段を下っていく。
 呼び止めたい衝動に襲われながら彼の背中を見送っていると、一番下まで下りた香坂が、視線に引かれたようにこちらを見上げた。
 その顔を見たとたん、呼吸が止まった。
 香坂はただ微笑んでいた。けれど、その笑顔はいつもの後輩の顔とは違うもののように麻人には見えた。
「また後で。先輩」
 青い色にまみれたような、ざらつきのある笑みをたたえ、彼はそう言って麻人に手を振ってよこした。