「痴話げんかはよそでやってくれ」
「ちょっと待て、痴話げんかってなんだ」
 反論した麻人の肩に置かれた手に、力が加えられた。
「杉村は病み上がりだろ。けんかなんてしないで大人しく座って本配ってろ。たまにはにこやかに接客するようにしろよ。必死こいて作った本が泣くぞ」
 麻人は唇を噛む。悔しいが正論だ。
「宮川はさ、お前、私情でもの言い過ぎ」
「なんですか、私情って」
「ここでそれ言うのはなんだけど」
 不満そうに問い返す宮川に、伊藤は言い淀む。
「持って回った言い方しないでください。気持ち悪い」
「先輩に気持ち悪いってすごいな、お前」
 伊藤は苦笑いすると、麻人の肩に置いていた手を離して後ろ頭を掻く。
「じゃあ言うけど。お前、香坂が好きなのは勝手だけどな、それと文芸部のことをごっちゃにして話すのは違うだろ」
「……なに、言ってるんですか」
 宮川の顔が真っ赤になる。髪から手を離し、伊藤は飄々と指摘した。
「普通、気のない相手のことであんな言い方はしないだろ。まして相手はこいつだぜ。お前、命知らずにもほどがあるって」
「勝手なことを言わないでください。私はただ、同じクラスの子が困っているように見えたから言っただけです」
 金切り声で否定する彼女に、伊藤は諭すように問いかけた。
「香坂が言ったの。困ってるって?」
「はい」
「迷惑だって?」
「はい」
 肯定する声が小さくなる。伊藤ははあっと息をつくと、憐れみが含まれて見える目で宮川を眺めた。
「お前って頭の良いやつだと思ってたけど、嘘は下手だな」
「なんで嘘だなんて思うんです。みんな言ってますよ。香坂が文芸部にいるのは仁王が気の毒だからだって」
「仁王って」
 噴き出して伊藤は麻人を振り向いた。
「ぴったりのあだ名だな、顔面は怖いし、中身も厳しい」
「うるさい」
 横を向いた麻人の前でくすくすとしつこく笑い、伊藤は、ああ笑った、と笑いを収めた。
「確かに仁王についていくのなんて香坂くらいだろうけどさ、あいつ別に嫌々やってないと思うぞ。もし嫌々なら、こいつが倒れた時点で職務放棄してるだろ、普通」
 しみじみと言いながら、伊藤は机の上の部誌を取り上げる。
「あいつは作りたかったんだと思うよ。これをきちんと」
「読む人間なんて数えるほどしかいないもののために?」
「お前さあ」
 ぱたり、と音を立てて部誌のページが閉じられた。
「それ、本人の前で言うなよ。あいつ怒るし。怒ったら仁王なんかよりヤバいぞ」
「……おっしゃる意味が、ほんと、わからないんですけど」
「じゃあいいよ、言ってみろって。お前、あいつの中から抹消されるぞ。これから先、お前の存在はあいつの中で靴の中にたまった砂になる」
 ふざけた口調に宮川が絶句する。
 強く唇を噛んでから、彼女は低く呟いた。
「確かに……言い過ぎでした。謝ります。でも……香坂くんが文芸部にいる意味がやっぱりわかりません」
「まあ、そういう見方もあるだろうけど。それだって本人の自由だろ。大体、俺から見たら、お前が郷土研究会なのも意味がわからないし。とにかく」
 伊藤が苦笑しながら部誌を机に戻す。
「仁王の部活指導が厳しすぎるのは俺も気になっていたから、こっちでちゃんと注意しておく。それでよしとしよう」
 宮川は黙って床を睨んでいたが、伊藤の言葉に肩から力を抜いた。彼女は一度きつい目で麻人を睨みつけてから、ゆっくりと慇懃に一礼した。そのまますたすたと生物室を出て行く。
「おい……誰が仁王だ」
 衝撃から立ち直ろうと必死になりながらなんとか口を開くと、伊藤は肩をすくめた。
「ピンチを救ってやったんだからありがたく思え」
「あんなのピンチでもなんでもない」
 そっぽを向きながら、麻人は長机の向こう側に置かれた椅子に座り込んだ。なんだかどっと疲れた。
 宮川の言葉は大半が中傷で、相手にするまでもないことのように思えたが、その中でもどうしたって見過ごせない部分があった。
「なあ……本当に、香坂はなんでうちの部にいるんだろう」
 零れ落ちた声に自分自身慌てた。自分のものとは思えないほど気弱に響いてしまったからだ。
「おいおい、待てよ。まさか宮川が言ったこと、本気で気にしてるわけ。そんなタイプでもないだろ、お前」
 伊藤が目を剥く。当たり前だ、と麻人が顔を背けると、伊藤は、だよな、と笑った。
「俺にもわからんけど。杉村がいるからじゃないのか」
「気の毒とかそう思ってるってことか」
「お前……本気で体調まだ悪いんじゃないのか」
「治った」
 呆れたように言う伊藤に、麻人は短く言い返す。
「にしては発言がやけに弱気なんだよな」
「うるさい」
 語気荒く返す。伊藤は自身もブースの内側に腰を落ち着け、ぎこぎことパイプ椅子を鳴らした。
「あいつさ、お前がいるからこの部入ったんだと思うぞ」
「なんで」
「部活見学に来たとき、お前の書いた評論を真剣に読んでたからさ。面白いかって訊いたら、はい、って笑ってた覚えがある」
「笑えるような面白いものを書いてはいないと思うが」
「なにが気に入ったんだかは知らないけどさ。とにかくそういうわけだから。そんなに心配するなって」
「心配なんてしてない」
 伊藤の気の遣い方が気に入らない。反発すると、やれやれ、と伊藤は首をすくめた。
「俺もほんとあいつには参ったよ。お前が倒れたからこれで原稿地獄からはおさらばって思ってたのに、今度は香坂が毎日来るんだもん。そのしつこさと言ったら仁王の比じゃなかった」
「……そうなのか」
「だからこいつ本気でちゃんと作りたいんだなって思って、仕方なく書いてやった」
 俺が言ったときにその気になれよ、と文句を言ってやろうとして麻人は口を噤む。
 麻人が部誌を作りたいのは、それが慣わしだからだ。頭が固いと思われるかもしれないが、決められたことにはすべて意味がある。そうでなくても、伊藤の短編を楽しみにしている人々がいる。少ない数でも、文芸部の部誌を待っていてくれる人たちがいる。だからこそ。
 香坂はどうなのだろう。香坂も同じ思いだったのだろうか。
 彼に、ちゃんと訊いてみたいと思った。
 そんなことを思ったのは初めてだった。