なんだか目が回ってきた。
 部長の原稿は上がらないし、クラスではお化け屋敷の準備に追われるし、風紀委員の役目として、文化祭の準備に沸く学内を定期的に見回らなければならない。文化祭だからと言って、羽目をはずす生徒が毎年後を立たないからだ。準備を夜遅くまで続けるうちに、夜食と称してビールを持ち込んだり、花火をしたり、麻雀まで始めてしまうような輩が。
「こら! そこ看板でかすぎ! 規定サイズ守れと生徒会からも言われてるだろうが! でかすぎて廊下が通れん!」
 怒鳴って看板を壁側に押しやる。が、疲れからか、思ったより重いのか、看板は動かない。
「すみませーん」
 ちっともすまなそうに思っていない声を聞き、さらに怒声を浴びせようとして、麻人は強い眩暈を覚えた。
 窓枠を掴んで転倒は免れたが、一瞬視界が激しく揺れた。
「杉村」
 声に目を上げると、伊藤が角材を担いで廊下を歩いてくるところだった。この馬鹿でかい看板、なんたることかメイドカフェと書いてある。またメイドカフェだ。しかもこの看板を作っていたのは伊藤のクラスだったようだ。
「お前、顔色悪いけど。なに、具合悪いの」
「お前が! 原稿入れないから……」
 言いかけて喉がひりつき、麻人は咳き込む。おいおい、と伊藤が角材を廊下に立てかけて近づいてくる。
「マジでやばそうなんだけど。保健室、行くか」
「行くわけないだろう」
 咳を呑み込んだ麻人は、ぶれる視界を頭を振ってやり過ごし、伊藤に食ってかかった。
「お前、原稿入れる気ないんだろう。明日には入れないともう間に合わないのに!」
「いいじゃん、俺の分削ってページ減らせば」
「部長のくせにそんな怠慢許されると思うか!」
 そう叱り飛ばすが、伊藤には相変わらず効果がない。へらへらしながら彼は角材を再び肩に負う。
「頭固いって。俺の分削ってお前が余分に書いてくれても構わないんだぜ」
「そんなんでよくも部長なんてしていられるな!」
「好きでしてるわけじゃ」
 反論しかけて、伊藤は言葉を途切れさせると、眉を寄せ、麻人を覗き込んだ。
「お前、顔色、ほんとヤバい。倒れるなよ?」
「倒れるか。そんなわけ……」
 言い返そうとして、額を押さえる。本気で気分が悪い。
「とにかく……今日中に原稿上げろよ。絶対に。あとこの看板、邪魔だからもう少し隅によせとけ……」
「おい、杉村って」
 背中で伊藤が呼ぶが、麻人はその声を振り切って歩き出した。
 一歩踏み出すたびに視界が揺れる。もしかして蛇行しているのだろうか。だが、この忙しいときに足を止めてはいられない。
 寝込む時間なんて微塵もないのだ。まして仁王の自分が弱みを見せるなど、絶対にあってはならないことだ。
 文化祭の準備でどこの教室も喧騒に満ちている。人の話し声が羽虫のように耳の端でわんわんとうるさい。音を意識的に耳の中から取り除こうと頭を振り、深く息を吸って、階段に足をかける。この上は図書室で、文化祭の準備エリアからは外れているはずだ。少しは休めるかもしれない。
 だが、よろめきながらもあと一段で上りきるというところで、ここまで必死に保ってきた意識が薄れた。手すりに掴まろうとした手も滑る。
 ヤバい、と思っているのに、体が動かない。このままだと落ちる。激しく焦ったが、身体は傾いていく。
 闇雲に手を振り回した瞬間、落下に伴う浮遊感が唐突に途切れた。
 代わりに感じられたのは、自分の手を掴む誰かの手の感触。
 朦朧としながら瞬いた目に、廊下に散らばった本が見えた。図書室から出てきたところで事態に気づいた誰かが、本を投げ出して駆け寄ってきたらしい。
 本を粗末に扱うなよ……と言ってやろうと視線をゆるゆると上げた麻人は、上段から自分を支える相手が香坂であることに気づき、顔を引き攣らせた。
「なんで……お前」
「なんではこっちの台詞なんだけど」
 香坂は声に当惑を滲ませながら、掴んだままの手に力を込めて、麻人の体をぐい、と自分のほうへと引き寄せる。そうされて体がやっと落下の恐怖から解放され、麻人は浅く息をついた。
 その麻人の顔を、香坂が覗き込んでくる。
「先輩……具合、悪いんですか?」
「鬼の霍乱とか言うんだろ」
 かろうじて皮肉を口にするが、声にまったく張りがないことが自分でもわかった。狼狽する麻人を見下ろしながら、香坂は眉を寄せている。
「なんでこんな状態でも、そんな口の利き方なんですか」
「うるさいな。離せよ」
 彼の手を払いたいのに力が入らない。おいおい、本気で鬼の霍乱だ、と内心戸惑っている麻人を、香坂は無言で数秒見下ろしてからそうっと手を離す。
 瞬間、すうっと熱が遠のいていくのが見えた気がした。
 なんだ、今の、と混乱している麻人をよそに、香坂は床にしゃがみ込み、散らばった本を拾い集めている。丁寧に埃を払い、本を胸に抱え直した彼がこちらを向く。彼の行動を我知らず目で追ってしまっていた麻人は、とっさに目を逸らしたが、突然手に温もりを感じてぎょっとして目を上げてしまった。
 なんたることか、香坂によって再び手が取られていた。
「お前……なに……」
「行きますよ。目、瞑っててもいいから足だけ動かしてください。偉そうな口叩けるなら、それくらいはできるでしょ」
 言葉と共にぐい、と手が引っ張られる。
「偉そうってな……」
 言い返そうとしたができなかった。込み上げてきた咳によって喉が塞がれていく。彼の手を振りほどき、その手で口許を覆ったが、咳は押しとどめられず、息苦しさから肩が上下してしまった。くそ、と呻く余裕すらなく、呼吸に翻弄され、前屈みとなった麻人の背中に、つと、掌が触れた。
 霞む目を上げた先にあったのは、眉を顰めた香坂の顔。
「なに……」
「黙って」
 声と共に背中に置かれた手が上下する。
 やめろ、大丈夫だ、と押しのけたかった。けれど、それを阻むように手は麻人の背中をさすり続ける。
 咳を押し込めるように、何度も、何度も。
 必死さすら感じる手の動きに、激しく混乱した。
 自分は……仁王と呼ばれている。
 口が悪く、笑顔もなく、冗談も通じず。
 恐れられ、嫌われ、遠巻きにされ。
 それが当たり前だった。
 その仁王と呼ばれている自分に、こいつはなんでこんなことをするのだろう。
 考えたけれど、まったくわからなかった。
 ただただ、手から伝わる熱が背中に沁みて、その熱に連れ去られるように咳が収まっていくのが、有難かった。
「歩けます?」
 淡々とした感情の少ない声で香坂が問いかけてくる。
 なんとか呼吸はできそうだったけれど、声を出すとまた咳き込みそうで怖い。頷きだけで応えると、香坂が細く息を吐いた。
「肩、貸します?」
 覗き込まれて、これには首を振った。これ以上、こいつの世話になるわけにはいかない。
「ほんとしょうがない人ですね」
 気合を入れねばと、力なく自身の頬を叩く麻人に向かい、ふっと苦笑交じりの声が降ってきた。
 目を上げた麻人は、そこで息を呑んだ。
 透明度の高い鳶色の瞳がすぐ目の前にあった。
 普段から朗らかで、瞳にも笑みを漂わせている香坂だ。だが、こちらを見据える彼の目には、声とは裏腹に笑みなんてかけらもなかった。
 そこにあったのは、いつもの香坂の目にはない、深い色。
 香坂、と名を呼ぼうとした。けれども声が出ない。
 焦る自分の代わりのように落とされたのは、香坂の声だった。
「もっと、頼ってくれればいいのに」
「はあ?」
 やっと声が出た。しかし代償に激しく喉が痛む。喉元を押さえた麻人をやはりじっと見つめてから、香坂は麻人の手を掴んできた。
「保健室行きます」
「大丈夫……」
「聞きません」
 ぴしゃりと言われ、麻人は口を閉じる。黙り込んだ麻人の手を取ったまま、香坂は階段を下っていく。
「先輩に倒れられたら、俺が嫌です」
 俺が嫌って、なんだ。
 考えていて、ひとつの結論に達した。文芸部の部誌もまだ完成できていない。今の段階で倒れられたら困るという意味で、嫌、と言ったのだろう。確かに、今自分がいなくなると作業は確実に滞る。
 こいつに厄介になるなんて、先輩としてあるまじきことだけれども、具合が悪いのは間違いない。できるだけ短期間で復活しなければ。
「すまない」
 歯噛みしながら、麻人が小さく謝罪すると、香坂がぎょっとしたように振り返った。そんなに驚かなくてもいいだろう、と不快になったものの、彼のこの反応も当たり前と言えば当たり前か、と納得する。自分がこいつに礼を言うことなどこれまで一度としてなかったのだから。
 だが、それにしても驚きすぎだとは思う。少しくらい、嫌な顔をしてもバチは当たるまい、と彼を睨もうとした麻人は、そこで固まった。
 しばらく唖然としたようにこちらを見ていた彼が、突然ふうっと笑ったために。
 それは、労わるような柔らかい笑みだった。これまで見たことがないくらい、温度のある、笑みだった。
──だから……なんで、お前が俺にそんな顔するんだよ。
 訊きたかった。けれど、訊けなかった。
 保健室に着くまで、香坂もなにも言わなかった。普段、決して感謝も謝罪もしない麻人の発した言葉についても、からかうような台詞を一切吐かず、彼はただ麻人の手を引いて歩き続けた。
「肺炎! 鉄の男のお前が?」
 博人が頓狂な声を上げる。その声が脳天にやたら響く。
「の、なりかけだ。お前、病人の部屋で騒ぐな……」
「ああ、ごめん」
 博人は、そかそかあ、と呟きながら、勉強机から椅子を引っ張ってきて座った。
「鬼の霍乱ってやつか」
「うるさい」
 数時間前、自嘲気味に香坂に麻人自身が言ったのと同じことを言いやがる。やっぱり双子だ、と麻人は氷枕に頭をめり込ませながら思う。
「文化祭までに治ればいいけど。その様子だと微妙みたいだね」
「根性で治す」
「根性でどうにかなるものじゃないだろ、肺炎なんて。この時期は風邪だってしつこいって言うしさ」
 やれやれと首を振ってから博人は、そうだ、と思い出したように手を打った。
「なんかさっき、麻の後輩とかいう子が来たよ」
 後輩。麻人は布団にもぐりこみつつ、そうか、ともごもごと返す。
「麻の鞄、届けてくれたよ」
「そう」
 保健室に連れて行かれたころには意識が朦朧としていたし、あの後、すぐに校医に病院へ連行されて、その後はそのまま家に連れ帰られてしまったから、鞄のことなどすっかり失念していた。
 鞄を届けに来たという後輩。香坂だろうな、とぼんやりと思う。熱に霞む思考の中、やけにきっぱりとこちらを見た香坂の顔を思い出す。
──もっと頼ってくれればいいのに。
「麻、顔、赤い」
 博人の声で我に返り、麻人はふるふると頭を振って香坂の声をかき消す。
「熱、まだ高そうだね。新しいの、持ってくるし……あ、そうだ」
 麻人の頭の下から保冷剤を抜き取って立ち上がりながら、博人はついでのように訊ねた。
「鞄届けてくれた子、誰だか見当ついてるんだろ、なんて子?」
「なんでそんなこと訊く」
「なんでっていうか……。ちょっと興味が」
 布団の端から目を出してらがらの声で問い返す麻人を見下ろし、博人はなぜか声を潜める。
「麻、学校で自分のこと双子だって話してる?」
「……いや……話す必要ないし……」
「だよね」
 博人は一度立ち上がった椅子にもう一度座り直すと、顎に手を当てて唸った。
「彼さ、玄関に出てきた俺見て、杉村先輩のご兄弟ですか? って訊いたんだ。俺たち、知ってる人が見ればまあ、どっちがどっちかわかるだろうけど、知らない人が見分けるのって至難の業じゃん。だからちょっと驚いてさ」
「それ……」
 麻人は学校で自分のことをあまり話さない。話す理由もないからだ。まあ、話す相手がいないというのが最たる理由といえばそうなのだが。
「あの子、どういう子なの」
「どういうって。普通の後輩だよ」
「普通の、ねえ」
 やけに勿体つけた言い方だ。なに、と起き上がろうとして、麻人はくらくらして再び布団に倒れ込んだ。無茶すんなよ、と博人が掛け布団の乱れを直す。
「彼、言ったんだ。麻人に伝えてくれって。後のことは全部任せて、体を休めることだけ考えてください、それと」
「それと……?」
「無理やり出てきたら殴りますから、って」
「はあ?」
 なに言ってるんだあいつ。声を上げかけて喉が軋む。咳き込んだ麻人を見下ろして、博人は、なんかさあ、と呟いた。
「ほっとしたような。寂しいような」
「なに……言ってる……」
 咳を呑み込みながら言うと、博人は少し笑った。
「麻にもあんな風に本気で心配してくれる子がいるんだなあと思ったらさ」
「馬鹿馬鹿しい」
 掛け布団をかぶって麻人は博人に背中を向ける。博人は、ごめんごめん、とやっぱり軽い調子で謝ってから、椅子から再び立ち上がった。
「後輩君も心配してることだし、頭空っぽにして寝ろよ」
 博人が部屋を完全に出て行くのを待って、麻人はそろそろと布団から顔を出した。
 心配、されているのだろうか、自分はあいつに。
 そこまで考えて麻人は即座に否定した。
 嫌われたり、うざがられたりするのならまだしも、心配なんてあるわけがない。あいつには言いたいことをずけずけ言いまくってこきつかっているのだ。絶対にあり得ない。
 あり得ないはずだが、でも。
──しょうがない人ですね。
「馬鹿か俺は」
 熱のせいだろう。こんなにもあいつのことを思い出すのは。体調が万全じゃないから、脳が誤作動しているだけだ。
 そう言い聞かせていたら少し気持ちが落ち着いてきた。
 意地でも早く治す。
 誓って麻人は目を閉じた。
 文化祭、二日目だった。
 結局、完治には一週間かかってしまった。
 熱自体はわりと早く引いたが、しつこい咳がなかなか収まらず、医者からも外出を禁じられたのだ。肺炎で死ぬことも珍しくないんですよ、と脅されてはいかな麻人でも従わざるを得なかった。
 部誌については出来上がったものを、一昨日、香坂が家に持ってきた。感染るから、と止める博人に香坂は、そうですか、と残念そうな顔をしながら部誌を手渡したらしい。
「あの子さあ、麻のこと、ほんっとうに慕ってるんだな」
 博人の台詞を聞かない振りをして、麻人は部誌をめくる、
 伊藤の原稿もそこにはきちんと載せられていた、一年のときから掲載しているシリーズもので、高校教師が主人公のミステリーだ。部誌を出すのは文化祭のときの一回でしかないにも関わらず、このシリーズを待っている人は実は案外いる。
 だからこそ口をすっぱくして原稿を入れることを伊藤に言い続けていたわけだが、麻人が倒れたあの日の感じだと絶対入れなさそうだったのに。
「あいつ……」
 香坂が書いた短歌も載っていた。うまいとは言えない。でも。

 五月雨の 雫落つ軒 辿る君 横顔に差す 陰忘れられず
 古書の香の 満ちた図書室 雪明り 彼の人を待つ 来ぬと知りつつ

 なんだか、心に残る歌だ。
 なんだってあいつはこんなものばかり書くのだろう。ずっとずっとただ誰かを待っているそんな歌を。気づかれもせず、ただ、じっと見つめるだけの心を。
 麻人はあまり人を褒めたりしない。でも、香坂のことは内心認めていた。真面目で、やると言ったことは必ずやり通す。彼はクラス委員長も務めていたはずだから相当多忙なはずなのに、それをおくびにも出さず、部活にだって顔を出す。原稿だって、誰よりも早く入稿してきた。
 そんなあいつだ。麻人が認めるように、誰だって彼のことは認めるはずだ。快活で、器用で、優秀な香坂千影。
 その彼には、こんなひっそりと恋い慕う片想いは似合わない。
 そもそもどんな人なのだろう。香坂が好きになるような人とは。
 きっと香坂に似合いの頭の良い女子だろう。そこまで考えて、麻人は我に返る。
 あいつのことなどどうでもいいはずなのに。
 きっと、憎み合っているのかと思うくらい、いつも本音をぶつけ合っている相手に、予期せず親切にされたせいだ。
 そうに違いない。
 強引に結論づけ、マスクをし、完全防備で向かった学校は、見事にお祭り騒ぎで、病み上がりには少々疲れる場所だった。
 喧騒の中をかいくぐるように、特別教室棟の階段を上る。文芸部のブースがあるのは郷土研究会が発表をしている生物室だ。
「バスケ部のメイドカフェ、十人待ちだって」
「えー、どうしよう」
「ちょっとその辺で待とうよ」
 黄色い声で騒ぐ女生徒たちが生物室へ入っていく。郷土研究会のブースなんて、例年はほとんど注目されないのに、今日は結構な数の人の姿が見える。
 香坂の読みは大当たりだったということか。
 生物室へ足を踏み入れた麻人は、感嘆した。
 郷土研究会の展示がまずは目に入ったが、一言で言って、かなり完成度の高いアカデミックな内容だった。いつもは無作為に飾られているパネルが、順を追ってわかりやすく並べられており、城下町だったこの辺りの歴史が親しみやすい言葉で説明されている。生物室入り口の呼び込み用の黒板も、文字色やフォントサイズまで考え抜かれた凝ったタッチで描かれていて、足を踏み入れてみようと思わせるための工夫が随所に散りばめられているのがわかる。同好会だから、会員は会長と合わせてももう一人しかいないはずだが、展示室で案内にあたっている唯一の会員の男子生徒も、昨年まではあった、展示パネルのそばで文庫本を読みふけるようなやる気のない態度じゃない。訪れた客に積極的に解説している彼を眺め、麻人は感心する。宮川とかいう今年の郷土研究会の会長は、香坂の言う通り相当できる人物らしい。
 そんな華やかな展示の片隅に、文芸部のブースも設置されていた。
 いつもだったらこちらもあまり客入りは見込めないのに、今日は客の姿が見える。長机の上に置かれた部誌も、残り少ないようだ。
 ブースに立ち寄った生徒ににこやかに部誌を手渡しているのは、やはり香坂だった。
「部長は」
 人が切れたのを見計らって近づくと、香坂がふっと顔を上げた。
「杉村先輩」
 麻人の顔を見て咲いたのは、笑顔の花。
 治ったはずなのに、頭の芯がくらり、と揺れた気がした。
「先輩。もういいんですか?」
「ああ」
 ぶっきらぼうに言う麻人を、探るような目がじっと見つめる。なんだよ、と言うと、香坂はゆっくりと再び微笑んだ。
「良かった」
「……ああ……」
 礼を言うべきだろうが、なんだかうまく言えない。横を向いたとき、誰かが隣に立った。
「香坂」
 少し低音の女子の声だ。目を向けると、長い黒髪を背中に梳き流した、背の高い女生徒が立っていた。大人びた端整な面差しだが、鮮やかなピンクの縁の眼鏡をかけていることに目が留まった。
「ああ、ごめん。交代の時間だっけ」
 スマホをちらりと確認しながら、香坂がブースから出てくる。
「結構人、入ってるの」
「そこそこ。みんなお祭り気分で当番忘れるやつばっかりで困る」
 愛想のない口調で言う彼女に、あはは、と笑って香坂は彼女の脇を通り過ぎた。
「ごめんごめん。宮川、昼飯とってないなら、そこにあるパン、食べていいよ。遅れたお詫び」
「もらっとく」
 彼女がひらひらっと手を振る。じゃあね、と香坂も手を振り返してからこちらを見返った。
「先輩、病み上がりにすみませんけど、ここお願いしますね。俺、クラスのほう、行かなきゃいけなくて」
「さっさと行けよ」
 追い払うように手を振ると、くすっと笑って香坂は生物室を出て行った。相変わらずわけがわからない反応だ。
「杉村先輩」
 忙しかったのだろうか。部誌の山が乱れている。整理しようと数冊を机の上で揃えていると、不意に呼びかけられた。香坂が「宮川」と呼んでいた彼女がこちらをじっと見ていた。
 宮川、ああ、郷土研究会の会長か、と頭の中で繋がったのと同時に、彼女が軽く頭を下げて名乗ってきた。
「宮川さくらです。郷土研究会の会長をやっています」
「ああ、香坂に聞いてる」
 頷くと、宮川はゆっくりと頭を上げてこちらを見た。やけに冴え冴えとした目がピンクの縁の眼鏡の向こうから見つめてくる。
「文芸部、盛況みたいですね」
「……君のところの展示のおこぼれだろうけどな」
 普段ならこんなに部誌が捌けたりはしない。ついぽろりと零れた本音を、宮川は黙って受け止めてから、おもむろに部誌の山から一冊取った。
「ずいぶん卑屈な言い方をされるんですね」
「卑屈?」
 これはまた失礼な物言いだ。ムカッとして宮川を見下ろすと、彼女はぱらぱらとページをめくりながら言った。
「これを作るのに、苦労されたんじゃないんですか。それなのにそんなことを言われるなんて驚きです」
「なにが言いたいんだ」
 目の前の女の意図が読めない。低く問い返すと、彼女は部誌を机に戻してこちらに向き直った。
「私、あんまり婉曲にものを言うこと好きじゃないので、はっきり言おうと思いますが」
「奇遇だな。俺もそうだよ」
 なんだか敵意を感じる。わけがわからないが、売られたけんかは買う主義だ。鋭く切り返すと、宮川はまっすぐに麻人を睨んで言い放った。
「いい加減、香坂くんを自由にしてもらえますか」
「香坂?」
 なんでここにあいつの名前が出てくるんだろう。首を傾げた麻人を、宮川はじっと見つめ、整然とした口調で言った。
「杉村先輩だって思ってるんじゃないですか。香坂くんが文芸部なんかにいるのはなんでだろうって」
「なんかとはなんだ」
「なんか、でしょう。うちのおこぼれがないと、部誌を配るのも苦労するくせに」
 なんなんだ、この女は。
 不愉快指数がマックスになった麻人は、宮川を睨み据える。
「確かにうちは弱小だが、それでも、なんか、などと蔑まれる覚えはない」
「おこぼれ、などとおっしゃったのは先輩だと思いますが」
 確かにそうだ。が、こいつ、ムカつく。
 いらいらし始めた麻人の険しい顔にも、彼女は一歩も引く様子がない。
「香坂くんはクラス委員ですし、とても忙しいです。それなのに、弱小文芸部、いいえ、あなたにこき使われて大変迷惑しています」
「君にそれがわかるのか。君は香坂でもないのに」
 瞬時に切り返すと、淡々と述べていた宮川の頬に朱が差した。案外簡単に動揺するんだな、と麻人は意地悪く思う。
「香坂がはっきりそう言うのなら仕方ないと思うが、君にそれを言われて、真偽もわからぬまま、そうだね、と納得する理由もないだろう」
「…………香坂くんだって迷惑していると言っています」
 低く吐き捨てられ、麻人は息を呑む。
 まあ、そういうこともあるだろうとは思う。
 傷ついたわけではない。だが、一瞬、言い返すのが遅れた。
「香坂くんが、どうして文芸部にいるか、杉村先輩はわかっていますか」
「さあ」
 かろうじてそう返すと、宮川は麻人をぎらぎらした目で睨みつけてきた。
「杉村先輩を見捨てられないからですよ。あなたのような人を可哀相と思っているからです。香坂がいなくなったら、あなたのそばには誰もいなくなる。だからですよ」
 畳みかけられ、麻人は言葉を失った。
 この女は、なにを言っているのか。
 自分の周りには確かに人がいない。それを悲しいと思ったことがないわけではない。が、この性格だ、仕方ないと弁えている。
 だが、今、叩きつけられた言葉に、確かに麻人は動揺した。どの部分に動揺したのか自分でもわからないが、確かに心が軋んだ。
「いい加減、さっさと引退してください。もう三年ですし、受験勉強に勤しまれたほうがいいんじゃないですか」
「俺は進学しない。就職だ」
「もしかして勉強は得意ではないんですか。あんなに偉そうに、他の生徒には勉強しろとか注意なさるのに」
「言いたいことはそれだけか」
 やっとのことでそう言うと、宮川は大きく息を吸ってから、はい、と頷いた。
「全部言いました。杉村先輩は賢い方だから、私の言いたいこと、わかっていただけたと思います」
「俺は」
 言いかけた麻人はしかし、唐突に肩に手を置かれて言葉を呑み込んだ。その手に強引に引っ張られ、一歩退かされる。きっとなってそちらを睨むと、呆れ顔の伊藤がいた。
「お前ら、怖すぎる」
 蛍光灯に白く透ける金色の髪を掻き上げつつ、伊藤は顎をしゃくって周囲を示してみせる。見回すまでもなく、生物室の中はしん、と静まり返っていた。みな、展示などそっちのけでこちらを注目していた。
「痴話げんかはよそでやってくれ」
「ちょっと待て、痴話げんかってなんだ」
 反論した麻人の肩に置かれた手に、力が加えられた。
「杉村は病み上がりだろ。けんかなんてしないで大人しく座って本配ってろ。たまにはにこやかに接客するようにしろよ。必死こいて作った本が泣くぞ」
 麻人は唇を噛む。悔しいが正論だ。
「宮川はさ、お前、私情でもの言い過ぎ」
「なんですか、私情って」
「ここでそれ言うのはなんだけど」
 不満そうに問い返す宮川に、伊藤は言い淀む。
「持って回った言い方しないでください。気持ち悪い」
「先輩に気持ち悪いってすごいな、お前」
 伊藤は苦笑いすると、麻人の肩に置いていた手を離して後ろ頭を掻く。
「じゃあ言うけど。お前、香坂が好きなのは勝手だけどな、それと文芸部のことをごっちゃにして話すのは違うだろ」
「……なに、言ってるんですか」
 宮川の顔が真っ赤になる。髪から手を離し、伊藤は飄々と指摘した。
「普通、気のない相手のことであんな言い方はしないだろ。まして相手はこいつだぜ。お前、命知らずにもほどがあるって」
「勝手なことを言わないでください。私はただ、同じクラスの子が困っているように見えたから言っただけです」
 金切り声で否定する彼女に、伊藤は諭すように問いかけた。
「香坂が言ったの。困ってるって?」
「はい」
「迷惑だって?」
「はい」
 肯定する声が小さくなる。伊藤ははあっと息をつくと、憐れみが含まれて見える目で宮川を眺めた。
「お前って頭の良いやつだと思ってたけど、嘘は下手だな」
「なんで嘘だなんて思うんです。みんな言ってますよ。香坂が文芸部にいるのは仁王が気の毒だからだって」
「仁王って」
 噴き出して伊藤は麻人を振り向いた。
「ぴったりのあだ名だな、顔面は怖いし、中身も厳しい」
「うるさい」
 横を向いた麻人の前でくすくすとしつこく笑い、伊藤は、ああ笑った、と笑いを収めた。
「確かに仁王についていくのなんて香坂くらいだろうけどさ、あいつ別に嫌々やってないと思うぞ。もし嫌々なら、こいつが倒れた時点で職務放棄してるだろ、普通」
 しみじみと言いながら、伊藤は机の上の部誌を取り上げる。
「あいつは作りたかったんだと思うよ。これをきちんと」
「読む人間なんて数えるほどしかいないもののために?」
「お前さあ」
 ぱたり、と音を立てて部誌のページが閉じられた。
「それ、本人の前で言うなよ。あいつ怒るし。怒ったら仁王なんかよりヤバいぞ」
「……おっしゃる意味が、ほんと、わからないんですけど」
「じゃあいいよ、言ってみろって。お前、あいつの中から抹消されるぞ。これから先、お前の存在はあいつの中で靴の中にたまった砂になる」
 ふざけた口調に宮川が絶句する。
 強く唇を噛んでから、彼女は低く呟いた。
「確かに……言い過ぎでした。謝ります。でも……香坂くんが文芸部にいる意味がやっぱりわかりません」
「まあ、そういう見方もあるだろうけど。それだって本人の自由だろ。大体、俺から見たら、お前が郷土研究会なのも意味がわからないし。とにかく」
 伊藤が苦笑しながら部誌を机に戻す。
「仁王の部活指導が厳しすぎるのは俺も気になっていたから、こっちでちゃんと注意しておく。それでよしとしよう」
 宮川は黙って床を睨んでいたが、伊藤の言葉に肩から力を抜いた。彼女は一度きつい目で麻人を睨みつけてから、ゆっくりと慇懃に一礼した。そのまますたすたと生物室を出て行く。
「おい……誰が仁王だ」
 衝撃から立ち直ろうと必死になりながらなんとか口を開くと、伊藤は肩をすくめた。
「ピンチを救ってやったんだからありがたく思え」
「あんなのピンチでもなんでもない」
 そっぽを向きながら、麻人は長机の向こう側に置かれた椅子に座り込んだ。なんだかどっと疲れた。
 宮川の言葉は大半が中傷で、相手にするまでもないことのように思えたが、その中でもどうしたって見過ごせない部分があった。
「なあ……本当に、香坂はなんでうちの部にいるんだろう」
 零れ落ちた声に自分自身慌てた。自分のものとは思えないほど気弱に響いてしまったからだ。
「おいおい、待てよ。まさか宮川が言ったこと、本気で気にしてるわけ。そんなタイプでもないだろ、お前」
 伊藤が目を剥く。当たり前だ、と麻人が顔を背けると、伊藤は、だよな、と笑った。
「俺にもわからんけど。杉村がいるからじゃないのか」
「気の毒とかそう思ってるってことか」
「お前……本気で体調まだ悪いんじゃないのか」
「治った」
 呆れたように言う伊藤に、麻人は短く言い返す。
「にしては発言がやけに弱気なんだよな」
「うるさい」
 語気荒く返す。伊藤は自身もブースの内側に腰を落ち着け、ぎこぎことパイプ椅子を鳴らした。
「あいつさ、お前がいるからこの部入ったんだと思うぞ」
「なんで」
「部活見学に来たとき、お前の書いた評論を真剣に読んでたからさ。面白いかって訊いたら、はい、って笑ってた覚えがある」
「笑えるような面白いものを書いてはいないと思うが」
「なにが気に入ったんだかは知らないけどさ。とにかくそういうわけだから。そんなに心配するなって」
「心配なんてしてない」
 伊藤の気の遣い方が気に入らない。反発すると、やれやれ、と伊藤は首をすくめた。
「俺もほんとあいつには参ったよ。お前が倒れたからこれで原稿地獄からはおさらばって思ってたのに、今度は香坂が毎日来るんだもん。そのしつこさと言ったら仁王の比じゃなかった」
「……そうなのか」
「だからこいつ本気でちゃんと作りたいんだなって思って、仕方なく書いてやった」
 俺が言ったときにその気になれよ、と文句を言ってやろうとして麻人は口を噤む。
 麻人が部誌を作りたいのは、それが慣わしだからだ。頭が固いと思われるかもしれないが、決められたことにはすべて意味がある。そうでなくても、伊藤の短編を楽しみにしている人々がいる。少ない数でも、文芸部の部誌を待っていてくれる人たちがいる。だからこそ。
 香坂はどうなのだろう。香坂も同じ思いだったのだろうか。
 彼に、ちゃんと訊いてみたいと思った。
 そんなことを思ったのは初めてだった。
 部誌は昼を待たずすべて配り終えた。例年だったらあり得ないことだが、やはり場所が良かったようだ。これなら来年度以降、新入部員も見込めるかもしれない。
 ほっとしつつ、麻人は校内をぶらぶらと歩く。
 早めに部誌がなくなったおかげで、少し時間ができた。風紀委員の見回りもかねて、祭りを眺めるのも悪くはない。
 喧騒の中を縫うように歩いているうちに、二年の教室棟に足が向いた。さまざまな模擬店が並ぶ廊下をさしたる感慨もなく進むと、真っ黒に塗られたベニヤ板に白文字で書かれた看板が目に飛び込んで来た。
 幽霊占い、と歪んだ字で書かれている。香坂のクラスだ。
「お化け屋敷なのか占い屋なのか、どっちなんだ」
 ごちたとき、ぱさり、と入り口のカーテンが開いて、男子生徒がふたり出てきた。ひとりは制服姿、もうひとりはなぜだか燕尾服を着ている。
 彼らは談笑しながら廊下を歩いていこうとしたが、燕尾服のほうがふっとこちらに気づいた。
「え、杉村先輩?」
 香坂だった。
 大きな目がいつも以上に見開かれる。彼は一緒にいた生徒に手を振ってから、こちらに戻ってきた。
「びっくりしたあ。こんなところでどうしたんですか?」
 にこにこと問いかけてくるが、麻人は口を利けずにいた。
 文化祭なのだ。普段通りの服装でなければならないわけではない。だからとやかく言うべきではないのだ。
 だが、それにしても、と麻人は思う。
 高校生でこれだけ燕尾服が似合うというのもどうなのだ、と。
 燕尾服のかっちりしたラインは細身の体にしっくりとなじんでいたし、漆黒の衣のせいでか、やたら頬が白く見える。
 こいつこんなに色が白かったっけ、と心の内で呟いたとたん、なぜか心臓がことり、と動いた。
「先輩?」
 無言で見つめる麻人を香坂は怪訝そうに眺めていたが、麻人の視線に気づいたのか、我に返ったように、自分の体を見下ろした。
「あ、ええと、これ。俺、占い師なんですよ。うち、幽霊が占いするってコンセプトで、占い師ごとにキャラ設定してて」
「……どんな?」
 燕尾服のキャラクターってなんだろう、と素朴な疑問を感じて問い返すと、香坂はなぜかぱっと顔を赤らめた。
「大正時代の華族……」
「かぞく」
「ファミリーじゃないほうの、華族、です」
「華族」
 繰り返したとたん、香坂の頬の赤味が強くなった。うう、とついぞ聞いたことのない声で呻いて、香坂が顔を片手で覆う。
「香坂?」
 こいつ、恥ずかしがっているのか? いつも生意気で、心臓に毛が生えているのかというくらい、物おじしないこいつが?
 意外過ぎて驚きを隠せないでいる麻人の前で、香坂はまだ顔を覆っている。子供っぽいな、と皮肉を言うことさえ躊躇する反応だ。さて、どうしよう、と、どうにもいたたまれなくなってきたとき、香坂が突然、顔を覆ったままくるっと背中を向けた。
「え、おい⁉」
 そのまま、走り出す。だああっと去っていく彼をしばらくぽかん、として見送ってから、麻人はとっさに香坂を追って駆けだしていた。
「ちょ、香坂、待てって! おいこら!」
 叫ぶが、香坂は止まらない。しかもとにかく足が速い。なんでもできるところが本当にムカつくやつだ、と憤りをちらと覚えたものの、そんな悠長に考え事をしていられるような、生半可な速さでもなかった。
 くっそ、と足を速めようとして、麻人は胸に苦しさを覚えた。
 喉を這い上がってくる不快感と共に激しい咳が飛び出す。香坂が駆けのぼっていった階段の上り口でたまらず膝を折った麻人は、壁に手を当てて激しく腰を折った。
 ……病み上がりなのを忘れていた。
 マスクすら苦しい。むしり取りたかったが、取ったら周りに迷惑ではないだろうか。咳で揺れる視界でちらりと辺りを窺ったとき、先輩! と切羽詰まった声が上から降ってきた。
 燕尾服の裾をなびかせ、香坂が駆け下りてくるところだった。
「先輩? 大丈夫ですか? 先輩?」
 不安そうな声と共に背中に掌の感触が落ちてくる。温もりをまとい、何度も背中を往復する手によって、少しずつ咳が後退していくのがわかった。
 ……この間みたいに。
 数分後、すっかり呼吸が元通りになり、そろそろと顔を上げると、麻人の横に跪いていた香坂が、ふうっと息を漏らした。
「なんで全力で追いかけてくるんですか。先輩は。まったくもう」
 まだ心配そうに麻人の背中に手を置いたまま、香坂が言う。そう言われて麻人も、はて、と首を捻る。
 言われてみれば、追いかける必要はなかった。なのになぜ、自分は追いかけてしまったのだろう。
 いつも不遜なこいつをからかいたかったからだろうか。
 いや、そんなことでここまで走らない。
「大丈夫ですか? 水、買ってきます?」
 気づかわしげな香坂の顔を見返しているうちに、思い出した。
 彼を追いかけたのは、礼を言いたかったからだ。
 部誌のこともそうだ。自宅へ鞄を届けてくれたこともそうだ。
 それと。
 麻人はふっと周囲を見回す。
 ここは、自分が倒れそうになったとき、香坂に助けられた階段だ。
 考えてみればそのこともきちんと礼を言っていなかった。だが、追いかけた理由はやっぱり、それだけじゃない。
「お前が、逃げるから……」
 ぽろりと落ちてしまった本音に焦る。けれど、そうしながら思い知ってもいた。
 香坂が背中を向けたあのとき、どんどん遠ざかっていったあのとき。
 自分の頭の中にあったのが、どんな言葉だったのか、ということを。
 それは。
 嫌だ、だった。
 頬を紅潮させ、口を押さえる麻人を、香坂がまじまじと見つめてくる。そんなに見るな、と言い返そうとしても声が出ない。たまらず顔を伏せると、つい、と腕が掴まれた。
「先輩、こっち」
 くいくい、と細い手が麻人の腕を引く。そのまま階段を上らされ、一番上の段までたどり着いたところで腕が離された。
「座って」
 促され、腰を下ろすと、香坂も隣にすとん、と座る。ここは模擬店エリアではないせいか、人声も遠い。踏み荒らされていない雪のような空気が漂っていて、少しほっとしている麻人の横で、香坂が呟いた。
「逃げたのは……恥ずかしかったからです。正直、俺もこの衣装はどうかと思っているので。しかも俺のキャラ名、予言の貴公子なんですよ。ヤバすぎでしょ」
 言いつつ、彼は自身の胸辺りを見下ろす。
「そんなかっこ悪いの、先輩に見せるのはちょっと」
 かっこ悪くはない。そう言ってやりたかったが、どうにもむず痒くて言えない。
「お前、予言とか、できるの」
 代わりに出てきたのは、意味不明なそんな問いだった。意外過ぎる返しだったのか、香坂もきょとんとしている。
 しばらく無言で麻人の顔を見つめた後、香坂は肩を揺らして笑い出した。
「そんなわけないでしょ。手相ができるってだけですよ」
 くつくつと笑う。そのいつも通りのからっと明るい声に安堵した。そうか、とマスクの中、ひっそりと笑んだ麻人だったが、次の瞬間、ぎょっとして笑顔が引っ込んだ。
「ちょ、なんだよ」
 隣に座った香坂によって、左手が握られていた。
「せっかくだし、俺が手相見てあげますよ。一年のときも文化祭で占いの館やってて、そのときも占い師だったんで。よく当たるって評判だったんですよ、俺。そのときのキャラネームはなんだったかな。千里眼の貴公子だったかな」
「貴公子かぶりかよ」
 毒づきつつ、麻人は手を引っ込めようともがく。
「手相なんていい。そんな非科学的なもの、俺には必要ない」
「あれ、もしかして怖い結果が出たら、とか怯えてたりします?」
「誰が」
 むっとして動きを止めると、先輩に限ってそれはないですよね、と香坂が笑う。間近で閃いた笑顔に思わず気を呑まれたが、香坂は気づく様子もなく、麻人の手に視線を落としている。
「なに見ましょうか。恋愛運とか見ちゃいます?」
「恋愛?」
 よりにもよって恋愛運と来た。麻人が嘲り笑うと、香坂が細い首を傾けた。
「なにかおかしいですか?」
「おかしいだろ。お前、俺が恋愛なんてすると思う? 仁王なんて変なあだ名つけられるこの俺が? 恐れられすぎて誰もそばに寄りつきたがらないのに。恋愛もないだろ」
 片方の肩を下げるようにし、皮肉げに笑ってみせてから、麻人は、はて、と笑みを消した。それもそうですよね、と明るく切り返してくるかと思ったのに、香坂の顔には笑みがかけらも浮かんでいなかった。
「仁王って、恋しちゃだめなんですかね」
 低い声が耳を打つ。声もなく見返すと、彼はふうっと瞼を持ち上げて麻人を見た。
「誰かを守るために厳しさを持つ。そんな仁王だからこそ、誰かに守られる恋をしたってよくないですか」
 香坂の声はなぜか少し震えており、睫毛に覆われた大きな目もかすかに揺れている。
 香坂、と呼びかけようとする声を遮るように、きゅっと、握られた手に力が込められた。
「今、言うべきか、迷うんですが」
「なに」
 香坂は一度言葉を切る。遠くで奇声のような歓声が上がる。拍手と笑い声。風に乗って流れてくるそれらはまるで異世界からの音のようだ。
 静けさと喧騒の上澄みを掬ったような空気の中、やたら澄んだ目がひたと麻人に向けられていた。
「俺は、先輩が好きなんですけど。キスしたいなあっていう意味で」
 ぽかん、と麻人は口を開けた。
 目の前の香坂の顔を凝視する。香坂は相変わらずの感情の読めない顔でこちらを見つめるばかりだ。
「冗談だろ」
「冗談でこんなこと言いません」
 ふうっと香坂の口許に苦笑いが浮かぶ。ひょい、と乱暴な仕草で手が離された。
「いや……あの……ちょっと待て。冷静になろう」
 今、こいつはなんて言った? キスしたい? 冗談だろう。いや冗談じゃないとも言った。
「冷静になったって今言ったことが気の迷いだったなんて言ったりはしませんけど」
 混乱している麻人の顔をちらっと見て、香坂はやっぱり少し震えた声で言い、膝の上に片肘で頬杖をつく。
 ますますもってどういうことなのか意味がわからず、麻人はパニックになった。
「冷静で……その、冷静でも、そんなこと言えちゃうのか」
「言えちゃいますね」
 だって、と言って香坂はふいっと不愉快そうに顔を背ける。
「俺がいくら真剣に言っても、先輩は本気になんてしてくれないんでしょ」
 麻人はぱくぱくと口を開け閉めする。言葉を継ごうとしたができなかった。
 ピピピ、とかすかな電子音が空気を読まずに鳴ったのはそのときだった。
「ああ、時間だ」
 頬杖を解いて、彼は燕尾服のポケットからスマホを取り出す。電子音を吐き散らすそれを操作すると、スマホはすぐに沈黙した。
「俺、行かないと」
 音を境目になにかが切り替わったように、表情がするりと変わる。いつもの後輩の顔に戻った香坂は、麻人の隣から身軽に立ち上がった。
「じゃあ」
「あ、ああ」
 なにか言うべきだとは思った。けれどなにも出てこない。
 軽い足音を立て、香坂は階段を下っていく。
 呼び止めたい衝動に襲われながら彼の背中を見送っていると、一番下まで下りた香坂が、視線に引かれたようにこちらを見上げた。
 その顔を見たとたん、呼吸が止まった。
 香坂はただ微笑んでいた。けれど、その笑顔はまたもや、普段の後輩の顔とは違うもののように麻人には見えた。
「また後で。先輩」
 青い色にまみれたような、ざらつきのある笑みをたたえ、彼はそう言って麻人に手を振ってよこした。
 家に帰ったら熱がぶり返していた。
 景気よく温度の上がった体温計をかざしてぼんやりしていると、ドアが開いて、博人が入ってきた。
「麻、生きてる?」
「死ぬわけあるか……」
「肺炎菌恐るべし。麻をここまで弱らせるとは」
 あっけらかんと言いながら、博人は室内へ入ってくると、鞄を自分のスペースへ放り込んでからこちらへ戻ってきた。
「熱どうなの」
「まだ高い……」
「病院行った?」
「行ったけど……解熱剤は飲みすぎるなって言われたくらい」
「無理して学校なんか行くから」
「うるさい」
 ばさり、と布団を頭からかぶる。明日には下がってるといいけど、とぶつぶつ言っている博人を、布団の陰からそろそろと窺うと、目が合った。
「なに?」
「博人は……彼女いたよな」
「は?」
 思わぬ言葉を聞いたと言うように博人が目を見張る。腰を屈めて麻人に顔を近づけ、博人は小声で訊ねてきた。
「なに? 麻、ついに彼女ができたとか」
「違う」
「じゃあ……好きな子ができたとか」
「違う……」
「告白されたとか」
 ちが、と言いかけて、言葉が止まる。
──先輩が、好きなんですけど。
「うわ、麻に告白するような勇気ある子、いるんだ」
 一瞬で麻人の顔色を読んだ博人はげらげらと笑い出す。双子の弟とは厄介だ。隠し事がまったくできない。
「ここは笑うところじゃないだろ」
「いや、だって。麻みたいなのに告白したら、ひどい言葉でフラれそうなのに」
 確かにその印象は正しい。実際、この性格のせいで周りから恐れ戦かれていて、誰かに好かれるなんてことこれまで一度だってなかったのだ。
 その自分を、好きだ、と言う。
 わけがわからない。
 やはり、からかわれたと考えるのが自然なんだろうが。
──冗談でこんなこと言いません。
「麻、大丈夫? 顔赤いし」
「なあ」
 がばっと布団から飛び起きると、博人が驚いて身を引く。呼びかけたものの、真正面からは見られなくて、麻人は掛け布団の表面を睨んだ。
「好きって言うってことは、付き合いたいとかそういう、ことなんだろうか」
「まあ、そうなんだろうけど。え? 好きです、付き合ってくださいって言われたんじゃないの」
「好きなんですけどって言われた」
「それだけ?」
 俯いたまま頷くと、なんだそれ、と博人は首を捻った。
「気持ちだけでも伝えさせてくださいってやつかな」
「知らないし。大体、その後、軽くキレられた」
「キレるって?」
「いくら真剣に言っても、本気になんてしやしないだろって言われた」
「それって」
 博人はしばらく麻人を見つめてから、ええと、と額を掻いた。
「あのさ、もしかして告白されたって、あの子? ええと、この間届け物に来てくれた……そうだ、香坂くん」
 名前を聞いたとたん、熱が上がった気がした。布団に前倒しに倒れた麻人をしばらく眺めた後、博人はおもむろに口を開いた。
「いや、なんかさ、ちょっと気にはなってたんだよな。ただの後輩にしてはやけに親切だなとは。だからだったのか」
「落ち着いて分析してる場合じゃないだろう。そもそもこれからどんな顔してあいつと顔合わせればいいんだ」
 博人はなにか言いたげな顔で麻人を見つめている。なに、と怪訝に思って顔を上げると、博人は、ううん、と声を漏らした。
「俺には麻がそこまで悩む理由がわかんないんだけど。別にいいじゃん。付き合う気ないなら放置しておけば。向こうも返事を求めてないんだろ。告白されたからって答えなきゃいけない義務なんてないよ」
「お前はそんな不誠実な態度で人と関わってるのか」
「ちょ、お前がそれ言う? いつだって喧嘩腰で、塩対応のお前が?」
 眉を下げて言い、博人は椅子の背もたれにだらしなくもたれた。
「でもさ、麻としては望んでないんだろ。香坂くんとそういう関係になるの」
「の、の、望んでるとか、望んでない、とか、考えた、ことも……」
 言いかけて麻人は額を押さえる。
──仁王って、恋しちゃだめなんですかね。
 頭の中に声が響き、麻人は額を押さえる。
 そもそも、香坂は口の悪いただの後輩だったのだ。口うるさくてどれだけ邪険にしてもけろっとしてついてくる、ただそれだけの。
 そう、それだけの存在だったはずなのに。
 あのとき、香坂が逃げ出すように走り出したとき、自分は追いかけなければと思ってしまった。
 彼が遠くに行くのが、どうしても、嫌で。
 階下で、博人を呼ぶ声がする。おっと、と博人が椅子から立ち上がる。
「ご飯できたみたいだ。食べられる?」
「食欲ない」
「そっか」
 博人は麻人を眺めてから、ぽんと麻人の頭に手を置いた。
「なんか食べやすいもの持ってくるから。横になってろよ」
「……ああ」
「なあ、麻」
 頷いて布団にもぐりこむ麻人の頭の上で博人が麻人を呼んだ。
「なんだよ」
 もごもごと返事をすると、博人はちょっと黙ってから、唐突に言った。
「一度さ、話、してみたいんだけど。香坂くんと」
 話す? なにを。声を出せぬまま顔だけ出す麻人に、博人がにやっと笑いかけてくる。次いで、ぽんぽん、と宥めるような手つきで布団が叩かれた。
「興味あるんだよ。命知らずに麻に好きって言えるところとかにさ」


 結局、熱は翌日も下がらなかった。
 今日は文化祭の後片付けが中心で授業はない。とはいえ、文芸部のブースの撤去作業をしなければならない。
 よろよろと起き上がったところで、博人に見つかった。
「学校行く気じゃないだろうな」
「行かないわけにいくまい。準備も任せきりだったんだ。この上片付けもしないなんてそんなわけにはいかない」
「真面目すぎ。そういうのは後輩にお願いして休めって」
 後輩、と聞いたとたんに再び頭がくらっとした。博人がため息をついてぽん、と麻人の肩を押す。おい、と言いかけて嘘みたいに膝が砕けた。横合いのベッドにへたりと座り込んだ麻人を見下ろし、博人は、馬鹿、と零した。
「休めって。大丈夫だよ。片付けくらい、誰かがやるって。麻は気にしすぎ」
「借りを作ったら返さないといけなくなる。それは困る」
「戦国武将かよ」
 呆れ果てた顔で腕組みした博人は、びしっと麻人の顔の前に指を突きつけた。
「とにかく。一歩でも家を出たら麻の昔の写真、ネットに流出させるから。今と違って可愛いし、知ってる人が見たらさぞ驚くだろうな」
「おま……それって犯罪だろ」
「そうそう。俺を犯罪者にしないためにも寝てろよ」
 笑って博人は部屋を出て行く。博人こそ、子供のころと違って、随分したたかになったものだ。
 でも、この世で一番麻人を心配してくれているのは、博人だとは思う。
 のろのろとベッドに横になりながら、目を閉じる。熱の向こうから眠気が襲ってくる。ゆるゆるとその波に身を任せて麻人は眠った。


 煙草と酒の臭い。淀んだ空気。
 頬にへばりつく、ざらついた畳の感触。
 視線の先に、壁側を向いて立つ、裸足の足がある。畳に指が突き刺さるくらい強く踏みしめて、その人は立っている。
 目だけを動かして周りを見回す。ビール瓶や脱ぎ散らかした衣類、部屋の隅にたまった埃。食い散らかされた弁当がら。そして。
 立ちはだかる足の先。蹲る子供の影が見えた。
 子供は泣いている。床に丸くなって頭を抱え込み泣きじゃくる。切れ切れの涙声で、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も謝って、子供は体を小さくする。
 その声に、足の主が小さく震えた。
 ぎくしゃくと上げた視線の先、その人の手元が見えた。
 ビール瓶を握った手がそこにはあった。
 手は痙攣しながら、ゆるゆると持ち上げられる。高く、高く振り上げられたビール瓶が、暗い蛍光灯の光に鈍く光った。
 子供の泣き声が高くなる。
 振り下ろされた手に、悲鳴を上げたのは自分だ。
 食い込んでくる畳の目から頬を引き剥がし、手を伸ばす。裸足の足に必死にしがみつく。不意を突かれた相手がたたらを踏む。
 彼がなにかを言う。怒鳴り声がどんな言葉を形作ったのか、判然とはしない。けれどそこにこめられた感情は感じられた。声にあったのは、嘆き、怒り、そして……空虚な現実への絶望。
 足に絡みついた自分の手を乱暴に蹴り解き、彼はこちらに向き直る。
 そして、ビール瓶を持った手が、再び振りかざされる。
 自分の上に。
 その人の顏は、よく、見えない。でもその人が泣いているのが自分にはわかった。
 とめどなく零れた涙が頬を伝い、畳へと落ちる。
 吐き散らされた濁った声とは対照的に、流れ落ちていく雫は透明で、室内の薄暗い照明の中でもきらり、と輝いた。
 茶色い軌跡がゆっくりと迫ってくる。それを自分は瞬きもせず、ただ、見ていた。
 目を開けると、見慣れた天井が見えた。
 なんのことはない。自分の部屋だ。
 ほっと、安堵の息が漏れた。
 べったりと額に張りついた前髪を掻き上げて、身を起こす。体が汗でべたついているが、体調は思ったより悪くなさそうだ。
 ベッドから起き上がった麻人は、ふらふらしながら部屋を出た。階下からはなにやらだし汁の良い香りがする。
 台所に顔を出すと、麻人と博人の母の妹であり養い親の遠子が、鍋を掻き回しながらびっくりしたような顔をした。
「あら……?」
 叔母はもう五十近いが、とてもそうは見えない。独身だからだろうか。でも、子供を育てたことなどないにも関わらず、叔母は麻人と博人を躊躇なく引き取り、育ててくれた。
 父親に殺されかけた自分たちを。
 恩は感じている。おそらくは愛情も。けれども自分は素直じゃないから、博人のように手放しで叔母になつくことができない。
 実の親なんかより親だと思っているのに、素直に言えない。
 それでも、叔母の態度は、麻人に対しても博人に対しても、分け隔てがない。
 姿かたちはそっくりな自分たちを、今はきっちりと見分け、別の人間として個性を尊重した接し方をしてくれる。
「博人……? 違うわよね、麻人よね。学校、行ったんじゃなかったの?」
 だから、叔母がそう言ったことに、麻人は違和感を覚えた。
 叔母はぼんやりと佇む麻人を、確認するように目を眇めて見つめている。
「……は?」
 ずっと声を出していなかったからかくぐもった声が出る。咳払いして麻人は叔母に頭を下げた。
「ごめん、学校、連絡するの忘れて寝てた……」
「それは、まあいいんだけど」
 なんだか歯切れが悪い。首を傾げた麻人の前で、叔母は眉間を揉んでいる。
「制服着て出かけるところ見た気がして。私、昨日遅かったから、寝ぼけてたのかしらねえ」
「それ……」
 嫌な予感がする。
 とっさに台所を駆け出して階段を駆け上る。叔母が驚いているだろうことはわかったが、フォローするよりなにより、まずは確かめたかった。
 二階の自室に転がり込んだ麻人はクローゼットを開けて愕然とした。
「あのやろう……」
 いつもの場所、クローゼットの右端にかけてあるはずの菊塚高校のモノトーンの制服が消えていた。
 マジかよ、と零しながら、クローゼットの左端を見ると、グレーのスラックスと白のシャツ、水色のネクタイという、博人の学校の制服が見えた。
 麻人の制服がなくて、博人の制服が残っている。これの意味するところは。
「ふざけんなよ……あいつは」
 吐き捨てて、麻人は乱暴に着替えを引っ張り出してクローゼットを閉じた。


 文化祭の後片付けに沸く学内は、みんなまだ思い思いの格好をしていて、制服ではない麻人を見咎める者はいない。
 幾分まだふらふらするが、歩けないほどではない。足を踏みしめながら、二年の教室へと向かうと、撤去の真っ最中らしく、あちこちから板切れを破壊するような音とともに、盛大に埃が噴き出していた。
 喉を刺激されそうで一瞬怯んだものの、ここまで来て引き返すわけにもいかない。マスクに覆われた口許を片手で覆い、麻人は二年C組の前まで辿り着く。
「香坂はいるか」
「香坂?」
 幽霊占い、と書かれた例のおどろおどろしい看板を下ろしている男子生徒に近づいて訊ねる。彼は怪訝そうな顔をしながらも、教室の中へ、香坂いるー? と叫んだ。いないよー、と誰かが返してくるのを受け、彼はひょいっとこちらを振り向いた。
「いないって」
「そうか」
 どうやら自分があの仁王だとは気づいていないようだ。マスクをしてきて良かったかもしれない。
「香坂なら仁王と一緒にゴミ捨て場のほうにいるの見たかも」
 通りかかった女子が思い出したように言う。
 やっぱりか、と舌打ちしながら、麻人は彼女に軽く頭を下げた。
「助かった」
「あ……いえ……」
 驚いたように首を振ったものの、彼女はなにかを感じたのか、じいっとこちらを観察してくる。もしやばれたか、と慌てふためきながら、麻人はそそくさと踵を返した。背中で彼女が看板を外している男子に言うのが聞こえて、麻人は一層慌てた。
「今のさあ、仁王に似てない?」
「そうかあ? 仁王が礼なんて言わないだろ。大体、ゴミ捨て場のとこにいたんじゃねえの、仁王。え、まさかのドッペル?」
「仁王のドッペルって。それはきついわ」
 好き勝手言ってくれる。そもそも前々から思っていたが、寺の山門に設置されている仁王像は二体で一対が一般的だ。ひとりで仁王とはどういうことだ。
 言いたいことはいろいろあったが、怒りはそこまででもなかった。
 これが、普通の反応だ。
 仁王が礼なんて言うわけがない。高飛車で意地が悪くて石頭。その認識が正しい。
 おかしいのはあいつのほうだ。
 好き、なんて。
「あの馬鹿野郎が」
 悪態を突くと、通りすがった教師がぎょっとした顔をしたが、構っていられなかった。
 ゴミ捨て場は、特別教室棟の裏にある。文化祭の後片付けに賑わう廊下を生徒の間を縫って走り、麻人は教室棟と特別教室棟を繋ぐ渡り廊下から中庭に走り出た。上靴で出てはいけないことになっていたが、気にしてなどいられなかった。
 中庭を走り抜け、校舎の角を曲がろうとして、麻人はとっさに校舎の陰に身を寄せた。
 積み重ねられた段ボールの山の前、探していたふたりがいた。
「これで全部だな」
「そうですね」
 淡々とした声で言い、香坂が手の中に残った最後の一枚と思われる段ボールを、山の頂上に伸び上って乗せる。
「お手伝いいただいて助かりました。ひとりで運ぶのは大変だったもので」
「まったく。他の部員に手伝ってもらえばいいものを」
 苦々しく言った博人の声を聞いて、麻人は仰天した。双子だから似ていて当たり前だが、口調が自分にそっくりだったからだ。
「お前がそんな頑張るのはやっぱり俺のためなわけ」
 博人が手を腰に当てて、香坂を見下ろす。お前、なに言ってるんだこのやろう、と飛び出したくなったものの、麻人はぎりぎりで踏み留まった。
「違いますよ」
 くすっと香坂が笑い、ゆっくりと振り向く。カッターシャツの襟元を少し開けているので細い首が見える。その首を傾げて、香坂は博人を見た。
「本当は最初から訊きたかったんですけど、先輩の弟さんがなんでそんな格好でここにいらっしゃるんですか? 今日、榊高校、普通に授業ある日ですよね」
 博人の顔は背中を向けているので見えないが、背中が強張った。顔を見なくてもわかる。かなり動揺している。
 だが……正直、麻人も度肝を抜かれていた。
 博人の言動は、内容はともあれ、麻人にそっくりだった。所作も、言葉遣いも、声の出し方も。さすがは双子と手を叩きたいくらいに。博人は器用だと思う。自分ではこうも完璧に博人をトレースなんてできない。
「ううんと」
 博人の背中の強張りが解けた。長い腕を持ち上げて、首筋を掻く。その仕草で、博人があっさりと麻人の仮面を外したのがわかった。
「なんでわかった? 言っちゃなんだけど、俺と麻って叔母さんでさえ、見分けるのにかなり時間がかかったくらい似てるはずだけど」
「おばさん?」
「麻に聞いてない? 俺たち親いなくて、親戚の家に厄介になってるんだよ。その叔母さんが俺たち見分けられるようになるのにも、そうだな、三か月以上かかったかな。でも、俺と君が会ったの、ここ一週間くらいだろ」
「あんまり、似てると思いませんけど」
 香坂が目を眇め、じろじろと博人を眺め回す。
「杉村先輩のほうがもうちょっとこう、意地悪い顔をしていますし」
 意地悪いってなんだ、と憤然となりながらも、出て行くことができず、息を殺している麻人の前で、博人が深く息を吐いた。
「その意地悪いのが、君、なんで好きなわけ」
 今度は香坂が口を噤んだ。彼はしばらく黙りこくってから、ゆっくりと顔を上げた。
「答えないといけませんか」
「いけなくはないけど、からかうならもうちょっと他にいるだろ。麻はおっかない顔ばっかりしてるけど、根は素直だし、冗談を真に受けるタイプだよ。君の相手にはならないと思う」
「からかう」
 鸚鵡返しに呟いてから、香坂は静かな声で訊ねた。
「先輩がそう言ったんですか。からかわれていると?」
「いいや。俺がそう思っただけ」
 あっさりと否定したものの、博人は淡々と続けた。
「だけど普通に考えて、君みたいな陽キャが麻みたいなの好きになるなんてことが、そもそもないだろう」
 博人は長い腕を組み、少し姿勢を崩す。いつものだらしない立ち方だ。わが弟ながらその立ち方だけは直してほしいものだ。
「君を探してここに来て、何人か捕まえて、君の居場所を聞いて回った中にね、眼鏡の可愛い子がいてね」
 眼鏡。
 嫌な予感がする。校舎の壁に押し当てたままの背中が汗ばむ。
「そうしたらさ、その子、なんて言ったと思う? 香坂に構うのやめろって言ったでしょう、香坂はあなたの道具じゃないんだから、って」
 絶対、宮川だ。博人のやつ、よりにもよって彼女に声をかけることもないだろうに。
「わが兄ながら、ずいぶんな嫌われようだと思ったよ。けど多分、あの眼鏡の子、君のこと好きなんじゃないかな。そうじゃなきゃ、あんな言い方しないだろうし」
「それで?」
 香坂は、博人をまっすぐに見つめ、冷淡に返す。
「そうだとして、なんで、俺が先輩をからかわないといけないんですか」
「からかうと面白いだろ。いつも鬼のような顔してるのに、こと恋愛に関しては奥手で。嫌われ者のあいつを陰で笑うのは、面白い遊びなんじゃないの」
 おいおい、博人、どうしたんだ、本当に。
 いつもの博人なら誰に対してもそんな突っかかるような物言いはしない。麻人よりはるかに温厚で、大人で、友人ともけんかなどそうそうしない。むしろ、けんかをした友人の仲裁ばかりしている気苦労の多いやつ、それが麻人の双子の弟のはずなのだ。でもその博人がこんな言い方をするということはつまり。
 博人は、本気で怒っている。
「俺は嫌いなんだ。麻を悪く言うのはいい。でも麻を信用させて裏切る、そういうのだけは許せない。麻は、純粋で……裏切られることに慣れてない」
 博人は腕組みを解くと、香坂に一歩近づいた。間合いを詰め、自分より背の低い彼の襟元を掴み上げる。
「お前みたいなのが麻を好きなんてあり得ない。麻が動揺するのを見て面白かったかよ」
「すみませんが」
 しばらく黙って聞いていた香坂が声を発する。彼は手をのろのろと上げ、襟元を掴んでいる博人の手を掴んだ。
「手を離していただけますか」
「離してもいいけど。麻をからかうのを今後やめてもらえれば」
「そもそもにおいて、からかってはいませんが」
 掴んだ手で博人の手を体から引き剥がしながら、香坂は低く続けた。
 その声を聞いて、麻人は少なからず驚いていた。
 香坂はいつも生意気な口調で突っかかってくるが、その根底にあるものは怒りではない。そもそも、彼はあまり感情でものを言わない。認めるのも癪だが、香坂も博人同様、麻人より精神年齢が上なのだ。普段の彼を見ていれば、それくらいはわかる。
 つまり、こちらも怒っている。
「弟さんだからと言って、先輩のなにもかもを知っているみたいな言い方、不愉快なのでやめていただけますか」
「はあ? じゃあお前は麻のなにを知ってるって?」
「知らないかもしれませんが、それでも俺よりも近いみたいな言い方をされると、激しくムカつきます」
 おいおい、一体なんの話になってるんだ。これは間に入って止めたほうがいいんだろうか。いや、でも、なんと言って出て行けばいいものか。
 大体、なんでこんなことになってるんだ。
「つまり……本気でうちの兄貴を好きだと」
「……はい」
 ぎゅっと心臓を捕まれたような気がした。息を殺したまま、立ち尽くす麻人の耳に、香坂の声が聞こえた。
 掠れた、頼りなく揺れた声だった。
「俺は先輩が好きです。すみません」
「どこが」
「……言わないといけませんか」
「だめだな」
 博人の追及に香坂が俯く。その頬が赤い。唇が、なにかを答えようと、開いた。
 そこまでが我慢の限界だった。
「なにを勝手に話している。お前ら」
 よろよろと校舎の陰から出ると、睨み合っていたふたりがそろってこちらを見た。
「おま……なんでいるんだよ」
 博人が心底驚いたように呟くのと、香坂が掴んだままだった博人の手を手荒く離したのは同時だった。
 呆然と見つめる麻人の目に、真っ赤になって俯く香坂の顔が映った。
「お前ら、一体……」
 なにを言っていいかわからない。奇妙な沈黙に支配された空気の中、動いたのは香坂だった。ゆるゆると顔を上げた彼は、まだ幾分赤い顔のまま、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
 しかし、その目は伏せられたままだ。ようやく彼が目を上げたのは、麻人の傍らに辿り着いたときだった。彼は頬を染めて麻人を見上げ、なにかを言いたげに唇を開いた後、一度閉じてから、思い直したように口を動かした。
「具合、大丈夫なんですか」
「え……あ……ああ、大丈夫……だけど」
「良かった」
 呟いて、彼はふっと微笑んだ。その笑みになぜか胸がどきりとする。固まってしまった麻人に彼は軽く一礼すると、すっと脇を通り過ぎた。
「あの子さあ」
 背後で零れた声により、弟の存在を思い出す。麻人は憤りながら博人へ駆け寄った。
「お前! なんでここに……」
「いいだろ。会ってみたかったんだよ。麻に告白するような気合入ったやつに」
 だけど、と呟いて、博人は片方の手を腰に当て、香坂の去った方向を眺める。
「ヤバいな。なに、あの可愛い生きもの」
「可愛い?」
「可愛いじゃん。だってあいつ、本気で麻のこと、好きだよ」
「な……」
 言葉を失った麻人に視線を戻し、博人は真剣な顔をした。
「麻、気づかなかった?」
「なにを」
 つっけんどんに返すと、博人はもう一度彼の去ったほうを見た。当然もう、彼の姿はそこにはない。だが、博人は飽きもせずそちらを眺めている。
「あいつ、今、わざわざ麻の左側から話しかけてた」
 その言葉の意味を理解するのに、時間はかからなかった。
 はっとして彼の去った方向を見る麻人に、博人は、本当に気がついてなかったのか、と呆れた顔をした。
「すっごい自然にそうしてたから、多分いつもそうなんだろう。あいつ……気づいてるんだ。お前の耳のこと」
「まさか。気づかれるはずがない。俺は学校でそんな素振りを見せたことはないはずだ」
「麻、言いにくいけど、よく見ていればわかるよ」
 表情を曇らせた博人から、麻人は顔を背ける。この話題は……好きじゃない。
 だが、今日の博人は許してくれないようだった。
「お前の右耳、ほとんど聞こえてないこと、あいつ、わかってる。多分、それだけお前のこと見てるってことだ。そうじゃなきゃ、あんなふうにはできない」
 言われて、麻人は思わず口許を押さえた。
 思い出してみれば、確かにそうだからだ。彼は、いつも自分の左側に立っていた。左側から、生意気な口調で、麻人を非難したり、意見したり、笑ったりしていた。
 いつも。
「なんで……。俺は、周りに仁王って呼ばれてるんだぞ。そんな俺に」
「わからないけど。でも」
 博人の手が労わるように麻人の肩を、ぽんぽん、と叩いた。
「俺はうれしいよ。どうしようもないくらい、うれしいんだ」
 右耳が音を拾えなくなったのは、八歳のころからだ。左耳は問題なく聞こえるが、右耳に関しては完全に機能が失われてしまっていた。
 苦労はあった。だが、耳が聞こえない、そのことで、人から同情されるなんてまっぴらだったから、必要を感じない限り、自分から伝えることはなかった。聴力に関するトラブルが煩わしかったために、人を遠ざけるようにもなった。
 しかし、まったく人と関わらないわけにもいかない。スムーズに生活したくて唇を読む術は身に着けた。それでも時々、かけられた言葉を拾いきれないことはある。そうならないために、極力、正面から人と接するようにしてきた。どうしても隣り合わせで話をしなければならないときは、左側を向けて話すように心がけていた。
 けれど、思い返してみれば、その努力を、香坂の前ではした覚えがない。
 気づいていてもよさそうなものなのに、まったく気づかなかった。
 それは多分、香坂があまりにも自然に左隣にいたから。
 そう気づいてから、どうしても香坂に会えない。
 文芸部に籍を置いて以来、委員会や、バイト、やむを得ぬ用事がない限りは部活へ出ていたが、文化祭が終わってこの一週間、部室に顔を出せずにいる。
 どんな顔をしていいのか、本気でわからないのだ。
「杉村」
 今日は雨だ。渡り廊下で、軒下から滴り落ちる雫を眺めていると、声が聞こえた。声を辿ると、東野が立っていた。
「ああ、なに」
「部誌読んだ。今回もけなしてくれてどうも」
「ああ、どういたしまして」
 投げ捨てるように返事をする。東野はむっとした顔をしたが、苛立ちを口に出すことはせず、渡り廊下の手すりに背中を押し当ててこちらを見た。
「部誌の話はともかくさ、ちょっと相談があるんだけど」
「お前が? 俺に?」
「なに、その言い方」
 東野が嫌そうに眉間にしわを寄せる。そう言われても、東野が相談などと自分に言ってきたことなど、これまで一度もなかった。唖然としながらもとりあえず促してみる。
「相談って?」
「部誌、好評だったの、聞いてる?」
 手すりに寄りかかり前髪を掻き上げて東野が問いかけてくる。
「そうなのか」
「杉村って本当に周りの噂とか興味ないんだな」
 呆れた顔をしながら、東野は肩に落ちてきた雨の雫を片手で払う。
「地味ながらもなかなか面白いものを書くってんで、そこそこ噂になってるよ。まあ、やっぱり伊藤のミステリーが一番人気みたいだけど」
「そうか」
 当たり障りなく相槌を打つ。東野は咳払いをして続けた。
「本題に入ると、新聞部から、コラムを書いてみないかって話があってさ」
「新聞部? なんで」
 校内新聞は月一回発行されていて、校区内で起こったニュース、誰それが書道のコンクールで入賞したとか、物理の安田先生に女の赤ちゃんが、とか、近隣の商店街にてイベント開催とか、ローカル情報を細々と掲載しているものだ。それほど注目されてはいないが、ほのぼのとしたカラーは校内で肯定的に捉えられている。
「俺のクラスに新聞部の部長がいてね、文芸部の部誌を読んで、新聞部の感性とは違う風を入れてみるのも面白いだろうって。一応コラムってことにしてるけど、紙面のその部分は好きに使っていいって話だ」 
「へえ……」
「へえじゃなくて。面白いと思うんだけど。やってみないか」
 呆れた顔をしつつ、東野が身を乗り出してくる。
「それ、伊藤には?」
 確認すると、東野は目に見えて嫌な顔をした。
「何度言わせる。あのお飾りの部長に言うよりお前に言うほうが早いだろう」
「……香坂には」
 香坂、と名前を口にするとき、なぜか緊張した。ぎこちなく響いただろうその名前に、東野はさして異変を感じなかったのか、けろりとした顔で頷いた。
「話した。さっき会ったから。いいと思いますが、杉村先輩に相談してみてくださいって」
「……そうか」
 あいつらしい答え方だ。
「とりあえず、お前と香坂で詳細話してみてくれ。必要であれば俺も書くし」
 さて話は終わった、と言いたげに手すりから身を起こした東野を、内心慌てながら麻人は引き留めた。
「新聞部の部長から言われたのはお前だろ。お前が詳細詰めればいいだろうが」
「俺にはそういうのは向かない。知ってるだろう」
「丸投げか」
「丸投げじゃない。適材適所で動くべきだと言っただけだ。もともとうちの部はほとんど活動らしい活動なんてしてないんだから問題ないだろ」
 こいつ、なんてこと言いやがる。
 気分を害した麻人は、憤然と言い返す。
「お前は活動していないと言っているが、活動はしている。研究発表も隔週でしている」
「杉村と香坂だけだろ。それやってるの」
 鼻で笑われ、むっとしたものの、言い返せなかった。確かに真面目に活動しているのは自分と香坂だけだ。
──香坂は……やはり俺が好きだから、文芸部にいるのだろうか。俺と一緒にいたいから、隔週の研究発表も面倒な顏一つせず毎回行っていたのだろうか。
 もしそうだとしたら、文芸に対する冒涜だ。
 拳を握りしめる麻人になど頓着せず、東野は話をまとめにかかる。
「まあそういうわけだから、あとはそっちで決めてくれ」
「いや……それは……困る」
「なんで」
 東野が面倒そうに目を細める。いや、と口ごもった麻人をしばらく眺めてから、はあっとため息をついて、東野は手すりにもう一度背中を預けた。
「俺たちは三年だし、もうすぐ引退だけど、後輩のためにも、文化祭以外での発表の場っていうの、考えてやってもいいんじゃないのか。俺たちが卒業しても香坂は残るんだから」
 東野の言葉がまっすぐに胸に突き刺さり、麻人は目を見開いた。
──俺は本当にだめだ。
 真っ先に胸を占めたのは、猛烈な自己嫌悪の感情だった。
 香坂が個人的な思慕から文芸部に入部したのだとしても、彼が文芸部に貢献してきた事実は変わらない。
 彼は……この自分が倒れた後も、必死に部誌を作るため奔走してくれたのだ。おそらくとても忙しかったろうに、それでも働き続けた。それこそがゆるぎない事実だというのに。
 入部の理由はどうであれ、香坂は文芸部の部員だというのに。
 彼がこの先、この部をつぶそうと、活動を休止することになろうと、それは彼の自由だ。けれども、もしも続けていきたいと思うのならば、その機会を摘み取っていいわけがない。
 自分は……香坂の先輩なのだ。彼を、先輩として指導する立場にあるのに。
 どうかしていた。
「香坂と……話してみる」
「おう」
 頼んだ、と軽く片手を上げると、東野はすたすたと渡り廊下を遠ざかっていく。
 雨粒が、軒先を流れ落ちる。激しさを増した雨をもう一度見てから、麻人はそっと呼吸を整えた。
 とはいうものの、あいつだって顔を合わせるのは、気まずいのではないだろうか。
 だとしたらここにはいないよな、と思いつつ、科学準備室の扉を開けると、予想に反し、室内では香坂がマグカップ片手に読書をしていた。
「あれ、杉村先輩」
 麻人に気づいた彼は、本を開いたまま、にっこりと笑う。
 まったくいつも通りに。
「今日は委員会の日じゃなかったんですか?」
「明日になった」
 表情を取り繕いながらそう言い、麻人は扉を閉める。香坂は、そうですか、と言って棚からもう一つマグカップを出す。
「先輩も飲みます?」
 ああ、とぎこちなく頷いて、指定席である窓を背にした椅子に腰を下ろす。
「東野先輩がさっき来ましたよ」
 コーヒーメーカーからコーヒーを注ぎながら、香坂が言う。このコーヒーメーカーは科学教師が自分用に持ち込んだものだが、文芸部の顧問でもある彼はめったにここに来ないため、いまや文芸部の備品と化している。
 どうぞ、と、ことんと、机にカップが置かれる。その横には、麻人しか使わないスティックシュガーとスプーンが添えられていた。
 考えてみれば、これもそうだ。
 香坂は、なにも言わなくてもスティックシュガーを添える。
 全然、意識していなかったが、毎回、そうだった。
 勝手に頬が熱くなる。赤くなる顔をごまかすように意味なく咳払いをしながら、麻人は砂糖をコーヒーへ勢いよく投入する。
 本気で、困った。
「先輩は聞きました? 新聞部のコラムの話」
 言いながら、香坂は椅子を引いて座る。それは麻人が座る椅子の左前、いつも香坂が座る席だった。
「ああ」
「どう思います?」
 香坂は机の上に伏せてあった本を広げながら訊ねる。宮沢賢治全集、とある。少し意外だ。
「お前は、どうしたいんだ」
「そうですねえ。面白いとは思いますけど、ただ、コンスタントに書くとなると、うちの部は人が少ないし、いろいろ難しいですね」
「……俺たちも、卒業するしな」
「……そうですね」
 そう言って香坂は横顔だけでひっそりと笑う。
 その顔を見ていたら、胸が詰まった。カップをかたんと置くと、ふっと香坂が本から目を上げた。
「香坂は……」
「はい?」
 きょとん、と香坂が目を瞬く。本当にいつも通りの、まったく変わらない顔で。
「先輩、どうかしました?」
 だめだ。
 やっぱりまっすぐにこいつの顔が見られない。
 多分、かなり不自然だったはずだが、麻人は事務椅子を回し、壁際に置かれた備品棚のほうへ体を向けた。
「香坂は、書くの、好きか」
「好きですけど」
 淡々とした声が背中から聞こえてくる。そうか、と呟いて、麻人は次の言葉を探す。
 その間も頬に宿った熱は、まったく散ってくれない。
「顔、赤いですけど、熱、まだあるんですか?」
「いや」
 彼のほうを見ないまま首を振る。心配してくれていることはわかるのだが、いかんせん、振り返る勇気がない。頑な態度のせいか、背後で香坂も沈黙する。
 気詰まりな時間が数秒過ぎたときだった。
 いきなり、視界が回転した。
 眩暈か、と慌てたがそうではなく、突然の視界のぶれは、座っていたキャスター付きの椅子を容赦なく回されたためだった。
「こっち、向いて」
 椅子を回した犯人の硬い声が降ってくる。見上げるしかできない麻人の額に、乾いた掌がつと、触れた。間近く見えるのは、曇りのない双眸。
「熱は、なさそうですね」
 そのとき、先ほどまで雨雲によって遮断されていたはずの陽光が、すうっと窓辺に落ちた。窓を透かし、室内へと広がる夏の始まりの白んだ日差しが、降りかかってくる。麻人の目の前で、彼の鳶色の瞳が淡く、透けた。
「もしかして、意識しちゃってます?」
 瞳に吸い寄せられていた意識が、かけられた声と共に戻ってきて、麻人は動揺した。
 あたふたと香坂の手から遠ざかろうと頭を引くのと、香坂がすっと麻人から手を引いたのは同時だった。
 彼の顔には朗らかないつもの笑みが浮かべられていた。
「困るんですよね。そんなんじゃ、部活にならないし」
「俺が悪いのか!」
 どうかしている。まったく、どうかしている。
 見とれてしまっていた自分を隠すように怒鳴ると、香坂は、いいえ、と首を振った。
「俺が悪いですよ」
 あっさりと言って、香坂はふうっと息をつく。
「まさかこんなに避けられると思ってなくて。この一週間、俺がどんな気持ちでここに通っていたか、わかってます?」
「なんで俺が責められる」
 そもそもの原因はお前じゃないか。不満を声に宿して返すと、香坂は細い腕を組んで麻人を見下ろしてきた。
「まったく、人の気持ちを好き勝手掻き乱すんだから。先輩らしいですね」
「どっちが掻き乱した!」
 怒りを覚え、立ち上がるが、香坂はまったく動じない。くすっと笑って目を細めただけだ。しかも、
「まあ、こんな言い争いより建設的な話、しませんか」
などと、至極淡々と言う。苛立ちながらも麻人が椅子に不承不承座り直すと、香坂は事務的な調子で話を戻した。
「新聞部の件、難しいかもしれないけど、俺は受けたいです。先輩はどうですか」
「それは……」
 口を開きかけて、麻人は迷った。香坂は黙って麻人の返事を待っている。
……数秒考えたがやはり、事務的に話を進められそうにはなかった。
「お前、なんで文芸部に入った」
「は?」
「その……お前が部に入ったのは……ふ、不純な動機からじゃ……ないよな……」
「不純な動機?」
 言われた意味がわからなかったらしく、香坂は首を傾げる。しかしこれ以上言葉を重ねて説明するなんて麻人には無理だった。
 真っ赤になって顔を背ける。と、突然、笑い声が響いた。
「先輩って……なんでそんなに可愛いんですか」
「なに!」
 かっとなって再度椅子から立ち上がるが、香坂は構わずにしつこく笑いながら、自席に戻った。椅子に腰を落ち着けたものの、顔を伏せてまだ笑っている。
「おい! お前、なんなんだ!」
「二年の香坂千影ですが」
 笑みがたっぷりと含まれた、ふざけ調子の名乗りが返ってくる。おい! と怒鳴ると、香坂は笑いを収めて、伏せていた本を引き寄せた。
「まさかそんな馬鹿みたいなことを訊かれると思わなくて。失礼しました」
「馬鹿みたいってなんだ! 馬鹿みたいって! ようするにやっぱりお前、俺をからかって……」
 言いかけてふっと麻人は口を噤む。
 博人の声を思い出す。
──あいつ、お前のこと本気で好きだよ。
「なんでそうなるんですか」
 呆れ果てた顔をし、香坂は一度取り上げた本を再び机に戻して、こちらを見た。
「あのですね、言わせていただきますが、俺は色恋で部活を選んだりするようなそんなロマンチックな性格していませんよ」
「じゃあ……なんで……」
「先輩と同じだと思いますよ。読書が好きで、文章で表現したいと思っているから」
 それに、と笑って香坂は手元にあった部誌をぱらぱらとめくる。
「俺好きなんですよ。こうやって原稿集めたり、編集したりするの。ゆくゆくはそっち方面に進みたいと思っていますし」
「そう、なのか」
「そうです」
 頷いて、香坂は麻人にまっすぐ顔を向ける。
「安心しました?」
 なんと返していいか本気でわからない。頬がまだ赤いだろうことが自分でもわかって困惑していると、香坂は、やれやれ、と肩をすくめた。
「別にふたりきりだからって襲いかかったりしませんし。そんな緊張されても困るんです。こっちだってどれだけ恥ずかしいかわかってます?」
「じゃあなんであんなこと言うんだよ!」
 全部麻人が悪いみたいな口ぶりだ。憤りが止まらず、麻人は怒鳴った。
「お前が変なこと言うから……俺は……非常に困ってる。お前が困る以上にだ。大体、なんだってよりにもよって俺にあんなこと言う。もっと他にいいやついるだろう。お前は趣味が悪すぎる」
 先輩は卑屈ですねえ、とか、いつもの軽い口調で返事はある。そうタカをくくっていた。が、彼はなにも言わない。あれ、と戸惑っている麻人の前で、香坂が唐突に立ち上がった。椅子がぎぎい、と不穏な音を立てた。
 なに、と言いかけた麻人に向き直った彼が、不意に歩を踏み出す。なぜかそのまま詰め寄られ、間合いがほとんどなくなり、麻人は慌てふためいた。
「ちょ、香坂?」
 動揺して下がろうとしたが、それを許さぬというように香坂の手が麻人の腕を掴む。引っ張られて前屈みにつんのめると、自分より頭半分背の低い香坂の顔に顔が近づいた。
「先輩のこと好きですけど、そういう発言は本気でムカつきます」
「意味が、わからないんだが」
「ああ、まったく」
 香坂ははああっとため息をつくと、掴んだままの腕をさらに引いた。なに、と言いかけて……言えなかった。
 温かいなにかに唇が塞がれていた。
 目の前にあるのは、先ほど麻人を捉えた、湖面のように艶やかな瞳。
──これはまさか、キスされているんじゃなかろうか。
 キス、の二文字を頭の中で思い浮かべたとたん、ひっくり返りそうになった。だが、完全に脳がバグってしまっているのか、体がまったく動かない。
 唇越しにじわじわと伝わってくる熱さにくらくらする。が、掴まれた腕も振りほどけぬままでいる間に、熱はすうっと遠のいた。
 唇が解かれていた。
「俺、冗談でこういうことはしないです」
 言葉を失ってただ呆然と間近く彼の顔を見返すと、耐え兼ねたように視線が逸らされた。
「言ったじゃないですか。こんなことしちゃうくらい好きなんで。趣味が悪いとか、なんで俺にとか、もっと他にいるだろうとか、そういうの本気で腹が立つんで」
「こう……さか……」
「ほんと、嫌になる」
 吐き散らすようなため息と共に、香坂が勢いよく麻人の胸を突いた。
「一つだけ言っておきますけど、先輩を好きなことと、部活のことは別物ですから。先輩が俺を避けてここに来ないとしても、俺は部活を辞めたりしません。見損なわないでください」
「あ、ああ」
 勢いに押されて頷くと、香坂はふっと肩から力を抜く。そのまま、すたすたと戸口へと向かう彼を、麻人はとっさに呼び止めた。
「待てよ」
 扉に手をかけた香坂が振り返る。少し頬が赤い。
 多分、自分はもっと赤面しているに違いない。そう思ったけれど、悔しくて、麻人は平静を装った声で言った。若干声は裏返っていたし、完全に失敗はしていたがそれよりも、このまま出ていかせるわけにはいかないという気持ちが勝っていた。
「し、新聞部の件、話すべきだろ」
 香坂が驚いたように目を見張る。しばらく言葉もなくこちらを見つめてから、彼は小さく笑みを零した。
「そういうとこ……やっぱり好きです」