ただの、後輩だったはずなのだ。
少し前までは確かにそうだった。
でも、いつからだろう。いつから、変わってきたのか。
自分の気持ちもわからない。けれど、何よりわからないのは、そのただの後輩の側の気持ちだ。
こいつはなぜ、嫌われ者である俺にキスするのか。
人気者のこいつが、なぜ。
杉村麻人はすぐ目の前にある、つややかな目を見返す。
通常の先輩後輩ではあり得ない距離からこちらに向けられてくるそれを。
「言ったじゃないですか。こんなことしちゃうくらい好きなんで」
麻人の口から唇を離し、彼はそう言い放った。
ただの後輩が、頬を上気させながら、そう言った。
☆☆☆
忙しい。
忙しいという漢字は、心がなくなると書くから口に出すのはよくない、と使い古された言葉でしたり顔で言ったのは、弟の博人だ。が、忙しいものは忙しい。
「先輩」
まったく、この書類の山は一体なんなんだ。そもそもにおいてこれを処理すべき部長はどこへ行った。少しは部長らしい行いをしようとは思わんのか。
「先輩って」
私立菊塚高等学校の文化祭は毎年六月の中旬に行われる。この時期に行われる理由は諸説あって定かではないが、一番有力なのは、梅雨時のじめじめした時期こそ、学生らしい活気ある活動をすべきと、何代目かの校長が言ったからだとか。真実の程はともかく、この時期の開催は、生徒にはかなりきつい。学校の決めたスケジュールとはいえ、当然、他の高校と同じように中間テストがあり、その後すぐに文化祭になるからだ。しかも菊塚の文化祭は近隣高校からも注目されるほど、活発で、派手だ。各部主催の出し物においては、部間で熾烈な注目度争いが勃発しており、他の部よりいかに突出した内容にするか、部活の本来の活動そっちのけでしのぎを削っている。しかも、文化祭の準備というのは、部だけではむろんなく、各クラスでの出し物の準備も同時進行で行われるものだ。文化祭に命をかけているような部に所属し、なおかつクラスの実行委員を受け持っていようものなら、学校への泊まり込みも余儀なくされる。
ここ、文芸部においてももちろん、文化祭の準備をしなければならない。が、文芸部は、派手好きの菊塚にあっても極めて地味、かつ消極的で、文化祭での活動といえば、部誌を発行するのみだった。他の部に比べれば、それほど過酷な環境ではないのだ。断じて。にもかかわらず。
「部長自らが原稿上げずにふらついて行方不明って意味不明だろうが!」
「杉村先輩ってば!」
ぱかんと肩を叩かれ、麻人は剣呑な目つきで振り返った。
「なに」
「いらいらしすぎです」
言いながら肩をすくめたのは、部員の一人、香坂千影だった。色素が薄く、やたら目が大きい。黙って立っていると、血統書付きの猫のように見える。
正直、麻人はこいつが苦手だ。
「うるさい。いらいらして当然だろうが。お前、暇なら部長探してこいよ」
「探してますけど、見つかりません」
あっさりと首を振る香坂に、麻人はちっと舌打ちをした。
「使えないな」
香坂は麻人をまじまじと見つめてから、ため息をついた。
「言っておきますけど、先輩の人使いの荒さについていけてるの俺くらいだと思います」
「そんな理不尽なことを言ってはいないだろうが」
「……先輩」
はあっとさらに盛大な息を吐いて、香坂は手にした名簿を麻人の眼前に突きつけた。
「見てください。今年に入って三人も辞めました。部員数はいまや四人。あと二人いなくなったら部ではなく、同好会へ格下げなんです」
「それが俺のせいだと?」
「違うとでも?」
即座に切り返されて、麻人は口を噤む。確かに自分は口が悪い。多分、ものすごく。
中学の頃の級友に、成績は悪いけれど、明るくて人気者のやつがいた。そいつは麻人にもよく話しかけてきて、テスト前になると、勉強を教えろと付きまとってきた。しぶしぶ教えてやったものの、あまりの出来の悪さにうんざりしてつい、「お前、学校には給食のためだけに来ているのか」と言って以来、誰とでも分け隔てなく接するやつだったはずのそいつが、卒業までついに一度も麻人に話しかけてこなくなった。
別に悪気があったわけではない。それでも、その気がなくても言葉は刃になって相手を傷つける。漠然とはわかっているが、鎧さながらに身に着いてしまった口調の荒さを直すことは難しい。
「そもそも」
勢いづいたのか、香坂は手にした書類をばん、と麻人の前に叩きつけ、机に両手をどん、と突いた。
「今日、俺は部誌の充実を図れという先輩の言いつけで、演劇部と天文部、はては園芸部にまで協力を要請し、部誌に掲載するための原稿をかき集めてきたわけです。皆、俺の苦境を汲み取ってか、しぶしぶながらも原稿を入れてくださいました。一重に、俺の尽力の賜物だと思うわけです」
「もはや文芸部の部誌というくくりでは収まらない内容に成り果ててはいるがな」
苦々しく呟いた麻人の声を無視し、ますます勢いづいて香坂は身を乗り出した。圧倒され、麻人は思わず背を反らす。
「その俺を、こともあろうに使えないと? 本気でそうおっしゃるわけですか」
「だから、俺のせいでみんな辞めたとは限らないだろうが。お前のその、なんというか押しつけがましい感じが気に入らなかったとか」
言い返したとたん、香坂は目を剝いた。猫のように大きな目がまん丸になる。
「先輩って……なんでそんなに性格悪いんですか?」
「そう言い切るお前は性格悪くないのか」
皮肉で切り返した麻人を瞬きなく数秒見つめてから、香坂は姿勢を元に戻し、背筋を伸ばした。
「悪いですよ。そうでなければここにはいられません」
大体、と言って、香坂は麻人に指を突きつける。
「先輩、陰でなんて呼ばれてるか知ってます?」
「知らない。興味もない」
「そういうところは尊敬するんですけどね」
やれやれ、と嘆いてみせてから、香坂は、さて、と気持ちを切り替えるように手元の書類に目を落とし、ペンでなにやら書き込みながら報告を再開した。
「とりあえず、部長以外の誌面については埋まりそうですね。東野先輩の原稿も明日までにはいただけそうですし」
「東野こそ、もうちょっとここに来て手伝いをすべきだろうが」
「無理です」
机の上に散乱している書類を手早くまとめながら、香坂は断言した。
「杉村ってあれ何様? 自分が一番偉いと思ってるわけ。ほんとマジ無理」
流れるように言われた台詞をしばらく噛みしめてから、麻人はがたんと椅子を蹴立てて立ち上がる。
「おい待て。それ、あの変人がそう言ったのか!」
「いまさら驚くことですか? 東野さんの小説、片っ端からけなしまくって、しかも去年の部誌上でも酷評してましたよね。情景描写の仕方や言葉の言い回し、キャラクター造形の未熟さまで一つ一つをあげつらって。あそこまでして嫌われていないほうがおかしいでしょう」
「それは! だってお前はあいつの書いた小説、どう思うんだよ。内容といい、文章力といい、駄作だろ、あんなの」
「理数系の東野さんがなんで文芸部にいるわけ? と訊きたくなるくらい、確かに粗いですし、万人受けするものではないと思いますけど」
「ほら」
まとめた書類の向きを揃えて麻人の前に置き直し、淡々と感想を述べる香坂に、麻人は我が意を得たりという顔をする。が、そんな麻人を制するように、香坂は、だけど、と続けた。
「俺は結構好きですよ。救いのある、優しい物語が多いから」
ふっと目を上げて麻人を見て、彼は首を傾げてみせた。
「杉村先輩こそ、なんでいつもあんなかたっ苦しいものしか書かないんですか? 言葉は難解だし、読むほうも肩が凝っちゃいますよ」
「かたっ苦しくて悪かったな。あれくらいの文章が読み解けないようじゃ、大学入試も危ういな」
「そういうことじゃなくて」
香坂は腰に軽く手を当てて、麻人を見下ろす。
「東野先輩のようにとまでは言いませんけど、もうちょっと柔らかいもの書いたっていいと思いますけど。あれだけ書ける先輩なんですからお手の物でしょう」
「この俺が、東野みたく優しさ全開のもの書いたら気持ち悪かろうが」
「そうですねえ」
香坂は書類の山の一つを取り上げて、ぱらぱらとめくる。美術部に頼んで書いてもらった表紙のイラストのサンプルだ。
どう見ても文芸部の部誌には言えない、と思いつつ、それも確認しないとな、と言いかけたとき、香坂が不意に微笑んだ。
「俺は読んでみたいですけどね。杉村先輩が書いた優しさ全開のもの」
「はあ?」
思い切り煙たい顔をお見舞いしてやる。香坂は構わず肩をすくめてから、さて、と書類を机に戻した。
「伊藤先輩探してきますー」
部室にしている科学準備室を、身軽にするりと出て行く香坂を見送り、麻人はひとり、苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。
俺の書いた優しさ全開のもの、だと。
心の奥で毒づく。
あり得ない。
そもそもにおいて、そんなものを書いて誰が喜ぶのだろう。物珍しさを覚える者はいるだろうが、大半は薄気味悪さに当惑するだけだ。
さんざん棘のあることを言っておいて、こんなふやけたものを書くなんて理解不能とか、気持ち悪いとか、非難を山ほどされて、敬遠されるのがオチだ。
当たり前だ。
軽く首を振って、麻人は香坂が集めてきた原稿をチェックするべく、ノートパソコンを立ち上げる。
まず開いたのは演劇部の部長が書いた戯曲だ。戦争で離れ離れになった恋人同士。紆余曲折、何度もすれ違い、最後には再会。涙のハッピーエンド。
さらさらと流し読みしてから、乱暴にパソコンを閉じ、麻人は椅子の背もたれに身を預ける。
軽く片手を上げて目元を押さえた自分の口から、ちくしょう、と声が漏れた。
危ないところだった。
もう少しで泣くところだった。
学校で泣くなんて絶対、あってはならない。
首を振って立ち上がり、麻人は窓を開ける。
五月のさわやかな風に目を細め、心を落ち着けようと深呼吸したとき、背後でドアが開く気配がした。
振り向いて、麻人は目を尖らせる。
「お前……」
「なに、暇そうじゃん、お前」
文芸部の部長である、伊藤春樹が、いつもの気だるげな口調で言い、後ろ頭を掻きながらすたすたと科学準備室に入ってくるところだった。
飄々とした態度にふつふつと怒りが湧く。
「香坂にお前を探させていたんだが」
「ああ、知ってる。かわすのに苦労させられたー。あいつしつこいんだもん」
「探されている理由くらい思い当たるよな」
「思い当たりたくないなあ」
ふざけた物言いをしながら、伊藤は壁際の戸棚を開ける。ビーカーに混じって置かれているマグカップを取り出してから、戸棚の並びに置かれたコーヒーメーカーに目をやる。コーヒーが湧いていないのを確認し、コーヒーないのかよ、とぼやきながら、伊藤は戸棚を探ってインスタントコーヒーの瓶を取り出した。相変わらずの態度と行動だ。
「原稿、どうなってる」
「お前馬鹿だろ」
伊藤は鼻で笑い、カップに粉をふり入れ、窓際に置かれたポットから熱湯を注ぐ。湯気の上がるマグカップを取り上げながら、伊藤は机に行儀悪く腰かける。
「できてたら逃げ回らないだろ」
「いばるな!」
怒鳴って麻人は机をばん、と叩いた。
「そもそもにおいてだな、お前はなにをやってる。部誌の準備もいまや佳境だ。なのにお前はどうだ。原稿は入れない、部誌の取りまとめに協力もしない、部室に来るのはコーヒーを飲むため。それが部長のすることか。年に一回の部誌の刊行だぞ。部長のお前がきっちり仕切るべきだろうに!」
「言ったじゃん、部誌なんて毎年出さなくてもいいって。文芸部なんて注目されてないんだからさ」
「毎年やっていることは毎年やる」
きっぱり言うと、伊藤は大げさに肩をすくめた。
「出た、無駄に真面目なマニュアル人間」
「誰が!」
「お前」
速攻で言い、伊藤はコーヒーに息を吹きかけ熱を冷ましながら目だけを上げた。
「そういう堅物なとこは悪くないと思うけどさ、ごり押しするきつい性格は直さないと周りから弾かれるぞ」
「弾くとかそういう年齢でもなかろう。来年には卒業なんだぞ」
「お前が思うより周りは子供だ」
苦笑いし、伊藤はコーヒーをちびりちびりと飲む。
「知ってるぞ、結構陰でいろいろ言われてるよな」
「またそれか」
香坂といい、伊藤といい、どいつもこいつも同じようなことを言いやがる。
「陰で言われることになにか実害でも?」
香坂に返したときと同様、無表情に言ってのけると、伊藤はしばらくぽかんと麻人を眺めてから、いや、と首を振り、コーヒーをずずっとすすった。
古本特有の湿った香りを吸い込み、麻人ははたきを持ち上げる。棚の埃を払って回り、乱れた書棚を手早く直す。減っている本があるのを見て、本棚下の引き出しを開けて本を補充した後、書棚の上の本を整理するため脚立を移動したとき、すみません、と声が聞こえ、麻人はレジへと取って返した。
会計を終え、本をビニール袋に入れて手渡す。ありがとうございました、と声をかけて、さて、と作業の続きに戻ろうとした麻人の前に影が差す。
「なに。寄り道?」
無愛想に言うと、双子の弟の博人は軽く唇を尖らせた。
「いいじゃん、俺だってたまには本読むんだって。麻みたく難しいのは読めないけど」
博人とは一卵性の双子だから顔かたちはそっくりだ。でも、見る者に与える印象は真逆だと思う。
博人は笑顔が多い。いつもにこにこしていて、誰からも好かれる。自分の顔なんて特別好きにはなれないが、博人の顔は表情豊かな良い顔だと思う。
性格の善し悪しはやっぱり顔に出るものかもしれない。
「バイト、何時まで?」
「八時」
「じゃ、待ってるから、一緒に帰ろう」
「気持ち悪いこと言わないで先に帰れよ、叔母さんが心配する」
露骨に顔をしかめると、博人は真顔になった。
「それ、麻のこともだよ」
「ああ?」
「心配。叔母さん、麻のことも心配してる」
目が真剣だ。麻人はやれやれとため息をついてから、レジ台を離れ、店の奥へと足を向ける。
「ああ、ちゃんと帰るし」
まったく、子供扱いしないでほしいものだ。内心そう思っている麻人に、それでも博人は食い下がってくる。
「麻人さ……無理しすぎ。叔母さんだってバイトすることなんてないって言ってくれてるじゃん。その上、勉強もして、部活もしてなんて倒れる」
「倒れるほどやわじゃない」
鼻先で笑って、麻人はひらひらと手を振った。さっさと帰れ、と態度で示すと、博人は不満そうに麻人を睨んでから、じゃあな、と言って店を出て行った。
自分だって馬鹿じゃない。博人の言うことが正しいことだってわかる。わかるけれど、それに従わなきゃいけない理由もない。
途中だった本棚の整理をするべく、店の奥へと進む。脚立を引っ張り出し、本棚の上段の整理をしていたとき、店の入り口から話し声が聞こえてきた。
脚立に乗ったまま、そちらを覗き見ると、制服姿の二人連れが入ってきた。麻人と同じ菊塚の制服だ。
店に入ってきたものの、雑談に夢中の様子で、レジへすぐに来そうではない。まあいいか、と脚立の上で作業を続ける麻人の耳に、甲高い彼女たちの声が飛び込んできた。
「にしてもさ、聞いた? ほら、文芸部の話」
「文芸部って? ああ……もしかしてあの話?」
「そうそう」
「仁王」
くすくすと笑い合う声に麻人は首を傾げる。文芸部の名前が出たが、仁王ってなんだろう。
「あの人知ってる? 文芸部でも新入部員全員辞めさせたりしてるけど、クラスでもあんな感じなんだって。掃除当番がどうとか、授業は真面目に受けろとか。従わないとお前それでも学生かー! って怒鳴るの、ほんとあり得ない」
「よく知ってるね、クラス違うのに」
「あんたなんで知らないの。有名人よー。すっごい嫌われ者」
「ああ……確かに言葉きついよね」
「きついとかじゃなくてあれは凶器よー。友達で泣かされた子、いるもん。字、汚すぎだろ。読ませる気あるのか! とか言ったんだって」
「ひどーい」
「ひどいよねー。普通あんな言い方しなくない?」
「ほんとほんと」
声が同調する。
ことここに至り、ようやくわかった。
ああ、仁王とは自分のことだったわけか。香坂や伊藤が言っていたのもきっとこのことだろう。
随分な言われようだ。でも言われても仕方ないとは思う。彼女たちの言うことの八割くらいは本当だ。
委員会の際、板書された文字があまりにも読みづらく「この字はソか? リか? わからん。書き直してくれ」とは言った。それがこう伝わるわけか。
しかし仁王とは。
寺の山門からこちらを睨みつけてくる、憤怒に燃えた仏像の表情が脳裏に浮かんでくる。
自分はあんな形相を普段しているのだろうか。頬を撫でつつ、麻人は自身の体を見下ろす。
そもそも、あそこまで筋肉隆々でもないのに。
「センスのないあだ名だ」
くんくん、とエプロンの端が引っ張られたのはそのときだった。ぎょっとしてそちらを見ると、脚立のすぐ下からこちらを見上げている大きな目と目が合った。驚きすぎて脚立が揺れる。その脚立を横合いから支えたのは、目の主である香坂だった。
「おま……なんで?」
「なんでっていうか」
香坂はぽかんと開いた大きな目で麻人を見上げてから、スマホを引っ張り出してかざしてみせた。
「東野さんの原稿データ、もらえたんで。さっき先輩宛に送ったんですけど、まったく既読にならないし。一応、口頭でも伝えておこうかなと」
「ってか! お前、なんで俺のバイト先知ってるわけ」
ここでバイトしていることを知っているのは、養い親である叔母と博人だけだ。学校の人間には誰にも話していない。話す相手もそもそもいない。
気味悪さを覚えつつ香坂を眺めると、ふふ、と彼は不敵に笑った。
「俺はですね、杉村先輩のストーカーなんで」
「はあ?」
自分のものとは思えない頓狂な声が出た。そのときになって、麻人は気がついた。さっきまで姦しく聞こえていた噂話が聞こえなくなっている。
脚立の上から入り口を窺うと、猛烈に気まずそうな顔をした二人組がそそくさと店を出ていくところだった。
「お前のせいで客が逃げた」
「え、俺のせいですか?」
香坂が心外だと言いたげに瞬きをする。
「そもそもそんな仏頂面で客商売なんてよく選びましたよね」
しみじみと言う香坂を睨みつけ、麻人は本棚の本を整理して脚立を下りた。
「無駄口叩いてないで早く帰れ。もう遅いぞ」
しっしと手を振ると、香坂は、はいはい、と言葉だけ返してくる。相変わらず生意気だ。
「東野の原稿、お前は読んだの」
癇に障るやつだが仕事が早いのは助かるな、と思いつつ麻人が問うと、ええ、と軽い応えがあった。
「どうだった」
エプロンが埃っぽい。ぱたぱたとはたいている麻人に向かい、香坂はくすっと笑う。
「相変わらずの東野ワールドですよ」
言われて麻人は顔を引き攣らせた。
「涙腺狙いの恋愛小説ってことか」
「ええ。でも良い話でした」
淡々とした声だったが、本心からのもののようだ。麻人はレジの奥の椅子に腰かけながら、スマホでデータを検める。『冬の桜』。どこかで聞いたタイトルだ。
「つまらなそうだな」
「読む前からそんなこと言うのはどうかと思いますけど」
非難めいた声を無視し、むっつりと原稿に目を落とす。冒頭数行をさらさらと読んだところで、麻人はスマホをポケットに戻した。
「読まないんですか?」
「家で読む」
仕事中だしな、と言い訳したとき、香坂がくすっと笑った。
なんだよ、と睨んだ視線の先で、猫のような目がふっと細められた。
「読んで泣いても、俺が慰めてあげますけど?」
「はあ?」
勝手に頬が赤くなる。ごまかすように大声を上げると、香坂はもう一度、くすりと笑ってから一礼した。
「じゃあ、これで失礼します。また明日」
するりと背中を向けて店を出て行く彼を、麻人はあっけに取られて見送る。
前から変なやつだ変なやつだとは思っていたが、やはりとびきり変なやつだ。
こんな三流の小説を読んで、俺が泣いたりすると本気で思っているのだろうか。
泣くわけがない。
そうだ、仁王とまで呼ばれているこの自分が、そんな簡単に泣くわけが……。
「麻」
帰宅後、夕飯を食べ終え、自室で勉強机に向かってぐすぐすと鼻をすすっていると、風呂上りの博人に呆れられた。
「また泣いてるの」
「またってなんだよ。泣くわけあるか」
鼻声で抗議するが、博人は構わずに麻人の肩ごしにパソコンの画面を覗き込む。次いで、やっぱり、と呆れたような声が漏れた。
「麻ってこの人の書いたの読むといっつも泣くよな」
「泣いてないと言ってるだろうが」
そそくさと目尻を拭ったものの無駄だったかもしれない。博人は聞く耳を持たず、これ見よがしに首を振っている。
「素直じゃないよな。別に泣いたっていいじゃん」
「うるさい。早く寝ろよ」
手を振って博人を追い払う。弟は、ほんと天邪鬼だよな、とぼやきつつ、間仕切りの向こうの自分の部屋へと退散していった。
冬の桜。それは不治の病におかされた主人公とその幼馴染の悲しい恋の物語。死を恐れ、絶望する主人公に幼馴染の彼女は、勇気づけようと必死に声をかけ続ける。しかしそんな彼女を主人公は邪険に扱う。それでも彼女は主人公の傍らにあり続ける。どれだけ罵倒されても彼女の微笑みは消えない。彼女の想いが伝わったのは、雪が桜のように降り注ぐ冬の朝。主人公の命の期限はもう残り少ない。そのときになって主人公は初めて彼女の愛の深さを知る。一緒にいたいのに、もういられない。病とは違う痛みで胸が張り裂けそうになりながらも、主人公は彼女に微笑みかける。彼女がそうしてくれたように。その笑みを見て、彼女が初めて、泣いた。雪が桜のように散る、空の下で。
「あのくそ眼鏡め……」
歯噛みしながら、麻人はパソコンを閉じ、服の袖で涙を乱暴に拭った。
東野雪弥の書いた小説を読むと泣く。悔しいことにそれは真実だ。
拙い文体なのに、なぜか泣ける。そもそもにおいて、自分はこういう泣かせようという小説が苦手だ。
こうなるのがわかっているから、学校では原稿を読まない。うっかり読んで泣いたりしてそれを見られたら面倒くさい。
忌々しい思いで鼻をかんでいた麻人は、そこで嫌な一言を思い出して動きを止めた。
──読んで泣いても、俺が慰めてあげますけど?
香坂はなんであんなことを言ったのだろう。あいつの前でそんな素振りを見せたことなんて一度だってないのに。
自分は文芸部の副部長として、毅然とした顔しか見せていないはずだ。人望はまったくないが、泣くような弱さも脆さも見せたことは決してない。
それなのに、あいつは妙に確信めいた口調でああ言った。
やっぱり嫌なやつだ。
そもそもにおいて、あいつの書くものも気に食わない。
並木道 偶然触れた 手の熱さ 落ち葉見る度 思い出されて
傘の群れ 雨音の向こう 君の声 掻き消えることなく 胸に満ちゆく
香坂が書くのはたいていが短歌だ。しかもどれも密やかに想う片想いを歌ったものばかり。
ひっそりと誰かを想ったりするタイプだろうか。あいつが。
あり得ない。
周りに恐れられる杉村麻人に平気で歯向かってくるあいつに、そんな繊細な部分があってたまるか。
「麻人、そろそろ寝ろよ」
間仕切りの向こうから博人が声をかけてくる。ああ、と返事をして、麻人はスタンドを消した。
「おい、杉村、杉村ってば!」
階段を下っていると、上から声が降ってきた。
億劫な顔を隠さず見上げる。見覚えのある顔がこちらを見下ろしていた。廊下の窓から差し込む夕日に、銀縁眼鏡の縁が光っている。
「何回呼ばせるんだよ」
「なにか用か」
渋い顔で抗議する彼に、麻人も仏頂面で返事をする。
「用がなければ呼んじゃだめなのか」
踊り場からこちらを見下ろしていたのは、東野雪弥だった。切れ長の目を眼鏡の奥で細くし、麻人を眺めてから、東野は手すりから身を乗り出した。
「香坂に聞いたんだけど、伊藤まだ原稿上げてないんだって?」
「ああ」
苦々しく頷くと、東野は皮肉に笑ってみせた。
「そもそもにおいて伊藤が部長ってのがわからないんだけど。お前がやればいいだろ」
「お前は俺が嫌いなんだろうが」
「嫌いだけど。それがなに」
心底嫌そうに吐き捨ててから、東野はため息交じりに言った。
「少なくとも、伊藤よりお前のほうがきちんと俺の文章を読んでいると思う」
「…………なんでそう思う」
もしや、こいつの小説を読んで、うっかり涙ぐんだ姿を目撃されていたのか。ひやっとしながらも口調だけは冷淡に問い返すと、東野はふいっと横を向いた。
「お前の評論、ムカつくから読みたくないんだけど、それでもつい読んでしまう。お前がけなすところは俺がいつもだめだと感じているところだから」
ぼそぼそと言ってから、東野はこちらに視線を戻した。
「けど、今回はそう簡単にはけなさせないからな。今度のやつ、結構自信があるんだ。きっちり読んでくれ」
もう読んださ、しかも泣かされたぜこのやろう、と思ったが、麻人は顔に出さず、ああ、と短く頷いた。
正直、驚いていた。
東野雪弥は、顔がものすごく良い。だがそれに反比例するように性格はかなり変だ。変人と言っていいだろう。
理数系クラスで常にトップクラスの成績を修めているが、本人の趣味は、泣ける恋愛小説を書くこと。図書室のあらゆる本を読み漁り、貸出履歴に彼の名前を見ない本はないと言ってもきっと過言ではない。性格は偏屈で特定の人間としか一切話さず、気に入らない授業をする教師には、わざと教師ですら答えられないような難解な質問をして授業を妨害する。ようするに非常に厄介なやつだ。
その東野に麻人は猛烈に嫌われている。麻人は態度が大きく、口が悪く、評論で自分の作品を正面からけなすからだ。
友好的な態度など、期待できるはずもなく、顔を合わせれば冷たい言葉の応酬になるのが常だった。
ようは相性が最悪なのだ。しかも東野は麻人を嫌っていることを公言している。
その東野がだ。この自分に、きっちり読んでくれ、などと言うとは。
「前から聞きたかったんだけど、なんでお前が恋愛小説?」
踊り場を見上げて問うと、東野は眼鏡の縁に手をやった。
「変かな」
「変だろ。恋愛に興味あるなら、言い寄ってくるやつらにもっと優しくしてやればいいだろうに」
東野は信じられないほどもてる。彼の性格を知っている自分などは、性格抜きに外見だけで愛情を抱けるなんて、彼女たちは菩薩かなにかなのだろうか、とただただ感心するばかりなのだが。
「お前馬鹿か」
東野はせせら笑い、手すりに寄りかかった。
「小説なんてのは全部虚構だ。現実に起きなさそうな幻想だからこそ、人はそれに希望や夢や憧れを抱く。現実とは対極にあるものだからこそ書く価値がある。それに比べれば現実の、しかも高校生同士の恋愛なんて、興味が持てるわけないだろ」
「そういうものか」
わけがわからない上にやっぱり鼻につくやつだ。会話を切り上げ、階段を下ろうとした麻人に、なあ、と東野が声をかけてきた。
「あいつにはそういうの訊いてみたことないのか」
「あいつ?」
「香坂」
さらりと告げられた名前に、麻人は首を傾げる。
「なんでここにあいつの名前が?」
「言っちゃなんだけど、あいつの短歌にしろ詩にしろ、あいつのキャラ的にあり得ないだろ。あいつってどっちかって言うと俺寄りの人間だと思うから」
「お前寄りってなんだよ」
「人に興味がない。合理的で冷淡」
「お前、自分のことそんなふうに思ってるのか」
呆れ顔を隠さずに言うと、東野は、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあね。だからこそ、あいつの作品読むと、こいつはなにを思ってこれを書くのかと気になるんだ。虚構だからこそ価値があると思う俺とは違うものが、あいつの短歌にはあるような気がしてさ」
「訊いてみたらいいだろ。本人に」
「訊いたさ。でも教えてくれなかった」
東野は軽く手を広げて首を振る。芝居がかった仕草だが、嫌になるほどさまになっている。
「あいつでも恋しているとかそういうことかもしれないけどな」
「あいつが?」
「あり得ない話でもないだろ。お前、あいつをなんだと思ってるわけ。高校生男子だし、好きな人くらいいるだろ」
「いないとおかしいみたいな言い方はどうなんだ」
「そこまでは言ってない。けど、まあ、確かに自分の台詞が自分に跳ね返ってはくるな」
苦い口ぶりで返してから、さて、と言って、東野は踊り場から頭を引っ込めた。ひらひらっと手だけが振ってよこされる。
「まあ、部誌についてはあと任せたし。しっかり頼むわ」
言われなくても、と思いつつ、階段を下り始めた麻人の脳内では、先ほどの東野との会話がリプレイされていた。
香坂が恋。
考えられないことではないが、それにしてもどうも妙な感じだ。
そもそも恋ってなんなのだろう。言ってはなんだが、この年になるまで麻人は恋らしい恋をした覚えがない。恋愛小説は知識程度には読んだことがあるものの、どうもぴんと来ないし、恋愛にこれといって必要を感じたこともない。
香坂はそんな麻人とは違うだろうが、いつもはきはきと物怖じしないあいつが、小説のように悩んだり不安になったり赤くなったり青くなったりするところなんて、想像がつかない。
実際のところ、どうなのだろう。
「杉村先輩!」
声にふっと視線を転じると、件の香坂が階段の下からこちらを見上げていた。
「あれ、今東野先輩もいました?」
「…………ああ」
さっきの会話をよもや聞かれてはいまいな、と麻人は気まずく目を逸らす。香坂は怪訝そうに首を傾げてから身軽に階段を上ってきて、麻人の横に並んだ。
「確認したいことがあるんですけど。今、ちょっといいですか」
「ああ」
「文芸部の本、郷土研究会の展示と一緒に展示することになりましたけど、問題ありませんよね」
報告された内容に麻人は渋面を作る。
「郷土研究会って……お前、それ、配る気ないだろう」
「いいえ、大ありですけど」
郷土研究会とはその名の通り、この地域に伝わる、伝説やら、わらべ歌やら、郷土料理やらを調査している、非常にマイナーな同好会である。年に一回研究成果の発表のため、会報の発行を行うところは文芸部と同じだが、それに加えて文化祭にはパネル展示を特別教室の一角で行うのが常だ。が、いつも展示スペースには引くほど閑古鳥が鳴いている。その郷土研究会の展示室に、文芸部の本も並ぶと香坂は言う。
「そもそもうちみたいにこそっと部誌を出すような地味な部に、展示場所をあれこれ言える権利なんてないでしょう」
「だからって郷土研究会はないだろ。あそこ、まったくやる気なくて、毎年、去年の使い回しのパネル展示するだけだろうに」
「今年の部長はそうでもなさそうでしたよ。知ってます? 二年の宮川さくら。彼女が今年の郷土研究会の部長で」
「部長じゃなくて会長だろ」
「細かいですね」
香坂は顔をしかめてから、気を取り直すように続けた。
「その会長の彼女、俺と同じクラスですけど、結構な切れ者で、今回の展示場所もなんと、バスケ部のメイドカフェの隣なんですよ」
「去年も思ったが、毎年毎年、メイドカフェ多すぎじゃないのか。第一、バスケ部ってあそこ男ばっかりだろ。女バスは確か今は活動してないよな」
うんざりしながら言うと、香坂は大きく頷いた。
「まあ、去年も女装系とか男装系とか着ぐるみとか? いろいろありましたよね。けど、重要なのはそこではなくて、バスケ部がやるってとこなんですよ。うちのバスケ部、かなり強いですからね。だからこそ注目されてるんですよ。そのバスケ部の隣の部屋を郷土研究会が引き当てたそうで。これなら客足も見込めるはずです」
胸を張った香坂に麻人はちょっと驚く。この情熱はどこから湧いてくるのだろう。自分なんかよりよっぽど部誌を配ろうと必死なように見える。
なんです? と不思議そうに香坂がこちらを見上げてくる。焦って彼から目を逸らし、麻人は言った。
「よくもまあ、諜報員さながらに情報を集めてこられるな。八方美人のお前らしい」
飛び出した憎まれ口に麻人は少し慌てる。こんな言い方をするつもりはないのに、つい出てしまう。条件反射のようなものだ。
香坂は黙っている。そろそろと彼の顔を窺うと、やたら大きな目がこちらを食い入るように見ているのに気づいた。
「なに」
ぶっきらぼうに問う。香坂はしばらく黙ってからなぜか少し笑った。
思いも寄らぬ反応に唖然とした麻人の前で、微笑んだまま、彼は腕組みをした。
「先輩って、ほんっとうに性格悪いですねえ」
「やかましい」
まあまあひどい言われようだが、腹は立たなかった。むしろ少しほっとした。
このあくの強い性格のせいで人が離れていくのだということを、麻人はちゃんとわかっている。問題はあるだろうと思うが、それでも麻人はそれを改めてこなかった。弟の博人に注意されようと、教師に諭されようと。
背筋を伸ばして、正論だと思うことを言うこと。そこに信念があるのだから、なにも曲げることはないとそう思うから。
でも、それが万人に受け入れられも、褒められもしない態度であることくらいは理解している。
実際、香坂に指摘されるまでもなく、文芸部では多くの部員が部を去った。その理由の多くが自分のせいだという自覚もある。責任だって感じないわけではない。皆が思うほど、わかっていないわけではないのだ。
それでもこの性格は直りそうにない。憎まれ口は磨きがかかっていくし、人には遠巻きにされ続ける。
唯一笑って話しかけてくる相手と言えば、目の前のこいつだけだろうか。部長の伊藤も、東野も、遠巻きにこそしないが、それでも一線を引いて接していることは感じられるから。
こいつにはその線さえない。
だからかもしれない。悪態を突いた自分を、笑って流したこいつに安堵してしまったのは。
とはいえ、あまり自分らしくない感情だ。
自身の心境に困惑しながらも、仏頂面のまま、麻人は階段を下り始めた。
「お前のクラスはなにするの」
世間話程度に訊くと、香坂は軽い口調で答えた。
「うちは占いですね」
「子供っぽいことするのな」
毎年この手のことをするクラスは多い。占いなんて非科学的なもの、よくもまあ熱中できる。
馬鹿にしたのが伝わったのか、香坂はちょっと眉を上げてから、涼しい顔で応戦してきた。
「先輩のクラスはあれでしょ、お化け屋敷。そっちのほうが子供っぽいと思いますけど」
「うるさい。俺だってやりたくない」
お化け屋敷なんてものを高校三年にもなってやるなんて、と反対したのだが、多勢に無勢、押し切られたのだ。
不機嫌な顔で押し黙った麻人の隣で、香坂も黙っている。なんだよ、とそちらを見たのと同時だった。
「そんなこと言いながらも、先輩は頑張っちゃうんでしょ。みんなより、ずっと」
さらり、と香坂が言った。いつもとは少し違う、柔らかい声の調子に、え、と驚いて見下ろすと、香坂もこちらを見た。
香坂の猫のような目がすうっと麻人を映した。
瞬間、返事が遅れた。黙りこくって彼の目を見返す麻人に、にっこりと香坂は笑い、階段を下りきったところでぺこりと頭を下げた。
「じゃあ俺、クラスのほうの準備あるんでここで」
「ああ……」
曖昧に頷く麻人を尻目に、香坂はすたすたと軽快な足取りで遠ざかっていく。廊下でクラスメイトらしい女子に声をかけられ、朗らかに会話しながら去っていく彼の背中をしばらく麻人は眺めた。
麻人は知っている。彼が勉強も運動もかなりできて、頭も切れ、数多のクラブから声がかかっていることを。実際、この自分と渡り合ってやっていけるだけのコミュニケーション能力があるのだ。どこでだって通用するはずなのに。
なんだってあいつは文芸部にいるのだろう。
そこまで考えて麻人はふっと我に返った。
あいつのことなんてどうでもいい。
文化祭まであと何日もないのだ。余計なことを考えている時間はない。
麻人は軽く息を吐くと、自身の教室へと足早に歩き出した。
なんだか目が回ってきた。
部長の原稿は上がらないし、クラスではお化け屋敷の準備に追われるし、風紀委員の役目として、文化祭の準備に沸く学内を定期的に見回らなければならない。文化祭だからと言って、羽目をはずす生徒が毎年後を立たないからだ。準備を夜遅くまで続けるうちに、夜食と称してビールを持ち込んだり、花火をしたり、麻雀まで始めてしまうような輩が。
「こら! そこ看板でかすぎ! 規定サイズ守れと生徒会からも言われてるだろうが! でかすぎて廊下が通れん!」
怒鳴って看板を壁側に押しやる。が、疲れからか、思ったより重いのか、看板は動かない。
「すみませーん」
ちっともすまなそうに思っていない声を聞き、さらに怒声を浴びせようとして、麻人は強い眩暈を覚えた。
窓枠を掴んで転倒は免れたが、一瞬視界が激しく揺れた。
「杉村」
声に目を上げると、伊藤が角材を担いで廊下を歩いてくるところだった。この馬鹿でかい看板、なんたることかメイドカフェと書いてある。またメイドカフェだ。しかもこの看板を作っていたのは伊藤のクラスだったようだ。
「お前、顔色悪いけど。なに、具合悪いの」
「お前が! 原稿入れないから……」
言いかけて喉がひりつき、麻人は咳き込む。おいおい、と伊藤が角材を廊下に立てかけて近づいてくる。
「マジでやばそうなんだけど。保健室、行くか」
「行くわけないだろう」
咳を呑み込んだ麻人は、ぶれる視界を頭を振ってやり過ごし、伊藤に食ってかかった。
「お前、原稿入れる気ないんだろう。明日には入れないともう間に合わないのに!」
「いいじゃん、俺の分削ってページ減らせば」
「部長のくせにそんな怠慢許されると思うか!」
そう叱り飛ばすが、伊藤には相変わらず効果がない。へらへらしながら彼は角材を再び肩に負う。
「頭固いって。俺の分削ってお前が余分に書いてくれても構わないんだぜ」
「そんなんでよくも部長なんてしていられるな!」
「好きでしてるわけじゃ」
反論しかけて、伊藤は言葉を途切れさせると、眉を寄せ、麻人を覗き込んだ。
「お前、顔色、ほんとヤバい。倒れるなよ?」
「倒れるか。そんなわけ……」
言い返そうとして、額を押さえる。本気で気分が悪い。
「とにかく……今日中に原稿上げろよ。絶対に。あとこの看板、邪魔だからもう少し隅によせとけ……」
「おい、杉村って」
背中で伊藤が呼ぶが、麻人はその声を振り切って歩き出した。
一歩踏み出すたびに視界が揺れる。もしかして蛇行しているのだろうか。だが、この忙しいときに足を止めてはいられない。
寝込む時間なんて微塵もないのだ。まして仁王の自分が弱みを見せるなど、絶対にあってはならないことだ。
文化祭の準備でどこの教室も喧騒に満ちている。人の話し声が羽虫のように耳の端でわんわんとうるさい。音を意識的に耳の中から取り除こうと頭を振り、深く息を吸って、階段に足をかける。この上は図書室で、文化祭の準備エリアからは外れているはずだ。少しは休めるかもしれない。
だが、よろめきながらもあと一段で上りきるというところで、ここまで必死に保ってきた意識が薄れた。手すりに掴まろうとした手も滑る。
ヤバい、と思っているのに、体が動かない。このままだと落ちる。激しく焦ったが、身体は傾いていく。
闇雲に手を振り回した瞬間、落下に伴う浮遊感が唐突に途切れた。
代わりに感じられたのは、自分の手を掴む誰かの手の感触。
朦朧としながら瞬いた目に、廊下に散らばった本が見えた。図書室から出てきたところで事態に気づいた誰かが、本を投げ出して駆け寄ってきたらしい。
本を粗末に扱うなよ……と言ってやろうと視線をゆるゆると上げた麻人は、上段から自分を支える相手が香坂であることに気づき、顔を引き攣らせた。
「なんで……お前」
「なんではこっちの台詞なんだけど」
香坂は声に当惑を滲ませながら、掴んだままの手に力を込めて、麻人の体をぐい、と自分のほうへと引き寄せる。そうされて体がやっと落下の恐怖から解放され、麻人は浅く息をついた。
その麻人の顔を、香坂が覗き込んでくる。
「先輩……具合、悪いんですか?」
「鬼の霍乱とか言うんだろ」
かろうじて皮肉を口にするが、声にまったく張りがないことが自分でもわかった。狼狽する麻人を見下ろしながら、香坂は眉を寄せている。
「なんでこんな状態でも、そんな口の利き方なんですか」
「うるさいな。離せよ」
彼の手を払いたいのに力が入らない。おいおい、本気で鬼の霍乱だ、と内心戸惑っている麻人を、香坂は無言で数秒見下ろしてからそうっと手を離す。
瞬間、すうっと熱が遠のいていくのが見えた気がした。
なんだ、今の、と混乱している麻人をよそに、香坂は床にしゃがみ込み、散らばった本を拾い集めている。丁寧に埃を払い、本を胸に抱え直した彼がこちらを向く。彼の行動を我知らず目で追ってしまっていた麻人は、とっさに目を逸らしたが、突然手に温もりを感じてぎょっとして目を上げてしまった。
なんたることか、香坂によって再び手が取られていた。
「お前……なに……」
「行きますよ。目、瞑っててもいいから足だけ動かしてください。偉そうな口叩けるなら、それくらいはできるでしょ」
言葉と共にぐい、と手が引っ張られる。
「偉そうってな……」
言い返そうとしたができなかった。込み上げてきた咳によって喉が塞がれていく。彼の手を振りほどき、その手で口許を覆ったが、咳は押しとどめられず、息苦しさから肩が上下してしまった。くそ、と呻く余裕すらなく、呼吸に翻弄され、前屈みとなった麻人の背中に、つと、掌が触れた。
霞む目を上げた先にあったのは、眉を顰めた香坂の顔。
「なに……」
「黙って」
声と共に背中に置かれた手が上下する。
やめろ、大丈夫だ、と押しのけたかった。けれど、それを阻むように手は麻人の背中をさすり続ける。
咳を押し込めるように、何度も、何度も。
必死さすら感じる手の動きに、激しく混乱した。
自分は……仁王と呼ばれている。
口が悪く、笑顔もなく、冗談も通じず。
恐れられ、嫌われ、遠巻きにされ。
それが当たり前だった。
その仁王と呼ばれている自分に、こいつはなんでこんなことをするのだろう。
考えたけれど、まったくわからなかった。
ただただ、手から伝わる熱が背中に沁みて、その熱に連れ去られるように咳が収まっていくのが、有難かった。
「歩けます?」
淡々とした感情の少ない声で香坂が問いかけてくる。
なんとか呼吸はできそうだったけれど、声を出すとまた咳き込みそうで怖い。頷きだけで応えると、香坂が細く息を吐いた。
「肩、貸します?」
覗き込まれて、これには首を振った。これ以上、こいつの世話になるわけにはいかない。
「ほんとしょうがない人ですね」
気合を入れねばと、力なく自身の頬を叩く麻人に向かい、ふっと苦笑交じりの声が降ってきた。
目を上げた麻人は、そこで息を呑んだ。
透明度の高い鳶色の瞳がすぐ目の前にあった。
普段から朗らかで、瞳にも笑みを漂わせている香坂だ。だが、こちらを見据える彼の目には、声とは裏腹に笑みなんてかけらもなかった。
そこにあったのは、いつもの香坂の目にはない、深い色。
香坂、と名を呼ぼうとした。けれども声が出ない。
焦る自分の代わりのように落とされたのは、香坂の声だった。
「もっと、頼ってくれればいいのに」
「はあ?」
やっと声が出た。しかし代償に激しく喉が痛む。喉元を押さえた麻人をやはりじっと見つめてから、香坂は麻人の手を掴んできた。
「保健室行きます」
「大丈夫……」
「聞きません」
ぴしゃりと言われ、麻人は口を閉じる。黙り込んだ麻人の手を取ったまま、香坂は階段を下っていく。
「先輩に倒れられたら、俺が嫌です」
俺が嫌って、なんだ。
考えていて、ひとつの結論に達した。文芸部の部誌もまだ完成できていない。今の段階で倒れられたら困るという意味で、嫌、と言ったのだろう。確かに、今自分がいなくなると作業は確実に滞る。
こいつに厄介になるなんて、先輩としてあるまじきことだけれども、具合が悪いのは間違いない。できるだけ短期間で復活しなければ。
「すまない」
歯噛みしながら、麻人が小さく謝罪すると、香坂がぎょっとしたように振り返った。そんなに驚かなくてもいいだろう、と不快になったものの、彼のこの反応も当たり前と言えば当たり前か、と納得する。自分がこいつに礼を言うことなどこれまで一度としてなかったのだから。
だが、それにしても驚きすぎだとは思う。少しくらい、嫌な顔をしてもバチは当たるまい、と彼を睨もうとした麻人は、そこで固まった。
しばらく唖然としたようにこちらを見ていた彼が、突然ふうっと笑ったために。
それは、労わるような柔らかい笑みだった。これまで見たことがないくらい、温度のある、笑みだった。
──だから……なんで、お前が俺にそんな顔するんだよ。
訊きたかった。けれど、訊けなかった。
保健室に着くまで、香坂もなにも言わなかった。普段、決して感謝も謝罪もしない麻人の発した言葉についても、からかうような台詞を一切吐かず、彼はただ麻人の手を引いて歩き続けた。
「肺炎! 鉄の男のお前が?」
博人が頓狂な声を上げる。その声が脳天にやたら響く。
「の、なりかけだ。お前、病人の部屋で騒ぐな……」
「ああ、ごめん」
博人は、そかそかあ、と呟きながら、勉強机から椅子を引っ張ってきて座った。
「鬼の霍乱ってやつか」
「うるさい」
数時間前、自嘲気味に香坂に麻人自身が言ったのと同じことを言いやがる。やっぱり双子だ、と麻人は氷枕に頭をめり込ませながら思う。
「文化祭までに治ればいいけど。その様子だと微妙みたいだね」
「根性で治す」
「根性でどうにかなるものじゃないだろ、肺炎なんて。この時期は風邪だってしつこいって言うしさ」
やれやれと首を振ってから博人は、そうだ、と思い出したように手を打った。
「なんかさっき、麻の後輩とかいう子が来たよ」
後輩。麻人は布団にもぐりこみつつ、そうか、ともごもごと返す。
「麻の鞄、届けてくれたよ」
「そう」
保健室に連れて行かれたころには意識が朦朧としていたし、あの後、すぐに校医に病院へ連行されて、その後はそのまま家に連れ帰られてしまったから、鞄のことなどすっかり失念していた。
鞄を届けに来たという後輩。香坂だろうな、とぼんやりと思う。熱に霞む思考の中、やけにきっぱりとこちらを見た香坂の顔を思い出す。
──もっと頼ってくれればいいのに。
「麻、顔、赤い」
博人の声で我に返り、麻人はふるふると頭を振って香坂の声をかき消す。
「熱、まだ高そうだね。新しいの、持ってくるし……あ、そうだ」
麻人の頭の下から保冷剤を抜き取って立ち上がりながら、博人はついでのように訊ねた。
「鞄届けてくれた子、誰だか見当ついてるんだろ、なんて子?」
「なんでそんなこと訊く」
「なんでっていうか……。ちょっと興味が」
布団の端から目を出してらがらの声で問い返す麻人を見下ろし、博人はなぜか声を潜める。
「麻、学校で自分のこと双子だって話してる?」
「……いや……話す必要ないし……」
「だよね」
博人は一度立ち上がった椅子にもう一度座り直すと、顎に手を当てて唸った。
「彼さ、玄関に出てきた俺見て、杉村先輩のご兄弟ですか? って訊いたんだ。俺たち、知ってる人が見ればまあ、どっちがどっちかわかるだろうけど、知らない人が見分けるのって至難の業じゃん。だからちょっと驚いてさ」
「それ……」
麻人は学校で自分のことをあまり話さない。話す理由もないからだ。まあ、話す相手がいないというのが最たる理由といえばそうなのだが。
「あの子、どういう子なの」
「どういうって。普通の後輩だよ」
「普通の、ねえ」
やけに勿体つけた言い方だ。なに、と起き上がろうとして、麻人はくらくらして再び布団に倒れ込んだ。無茶すんなよ、と博人が掛け布団の乱れを直す。
「彼、言ったんだ。麻人に伝えてくれって。後のことは全部任せて、体を休めることだけ考えてください、それと」
「それと……?」
「無理やり出てきたら殴りますから、って」
「はあ?」
なに言ってるんだあいつ。声を上げかけて喉が軋む。咳き込んだ麻人を見下ろして、博人は、なんかさあ、と呟いた。
「ほっとしたような。寂しいような」
「なに……言ってる……」
咳を呑み込みながら言うと、博人は少し笑った。
「麻にもあんな風に本気で心配してくれる子がいるんだなあと思ったらさ」
「馬鹿馬鹿しい」
掛け布団をかぶって麻人は博人に背中を向ける。博人は、ごめんごめん、とやっぱり軽い調子で謝ってから、椅子から再び立ち上がった。
「後輩君も心配してることだし、頭空っぽにして寝ろよ」
博人が部屋を完全に出て行くのを待って、麻人はそろそろと布団から顔を出した。
心配、されているのだろうか、自分はあいつに。
そこまで考えて麻人は即座に否定した。
嫌われたり、うざがられたりするのならまだしも、心配なんてあるわけがない。あいつには言いたいことをずけずけ言いまくってこきつかっているのだ。絶対にあり得ない。
あり得ないはずだが、でも。
──しょうがない人ですね。
「馬鹿か俺は」
熱のせいだろう。こんなにもあいつのことを思い出すのは。体調が万全じゃないから、脳が誤作動しているだけだ。
そう言い聞かせていたら少し気持ちが落ち着いてきた。
意地でも早く治す。
誓って麻人は目を閉じた。
文化祭、二日目だった。
結局、完治には一週間かかってしまった。
熱自体はわりと早く引いたが、しつこい咳がなかなか収まらず、医者からも外出を禁じられたのだ。肺炎で死ぬことも珍しくないんですよ、と脅されてはいかな麻人でも従わざるを得なかった。
部誌については出来上がったものを、一昨日、香坂が家に持ってきた。感染るから、と止める博人に香坂は、そうですか、と残念そうな顔をしながら部誌を手渡したらしい。
「あの子さあ、麻のこと、ほんっとうに慕ってるんだな」
博人の台詞を聞かない振りをして、麻人は部誌をめくる、
伊藤の原稿もそこにはきちんと載せられていた、一年のときから掲載しているシリーズもので、高校教師が主人公のミステリーだ。部誌を出すのは文化祭のときの一回でしかないにも関わらず、このシリーズを待っている人は実は案外いる。
だからこそ口をすっぱくして原稿を入れることを伊藤に言い続けていたわけだが、麻人が倒れたあの日の感じだと絶対入れなさそうだったのに。
「あいつ……」
香坂が書いた短歌も載っていた。うまいとは言えない。でも。
五月雨の 雫落つ軒 辿る君 横顔に差す 陰忘れられず
古書の香の 満ちた図書室 雪明り 彼の人を待つ 来ぬと知りつつ
なんだか、心に残る歌だ。
なんだってあいつはこんなものばかり書くのだろう。ずっとずっとただ誰かを待っているそんな歌を。気づかれもせず、ただ、じっと見つめるだけの心を。
麻人はあまり人を褒めたりしない。でも、香坂のことは内心認めていた。真面目で、やると言ったことは必ずやり通す。彼はクラス委員長も務めていたはずだから相当多忙なはずなのに、それをおくびにも出さず、部活にだって顔を出す。原稿だって、誰よりも早く入稿してきた。
そんなあいつだ。麻人が認めるように、誰だって彼のことは認めるはずだ。快活で、器用で、優秀な香坂千影。
その彼には、こんなひっそりと恋い慕う片想いは似合わない。
そもそもどんな人なのだろう。香坂が好きになるような人とは。
きっと香坂に似合いの頭の良い女子だろう。そこまで考えて、麻人は我に返る。
あいつのことなどどうでもいいはずなのに。
きっと、憎み合っているのかと思うくらい、いつも本音をぶつけ合っている相手に、予期せず親切にされたせいだ。
そうに違いない。
強引に結論づけ、マスクをし、完全防備で向かった学校は、見事にお祭り騒ぎで、病み上がりには少々疲れる場所だった。
喧騒の中をかいくぐるように、特別教室棟の階段を上る。文芸部のブースがあるのは郷土研究会が発表をしている生物室だ。
「バスケ部のメイドカフェ、十人待ちだって」
「えー、どうしよう」
「ちょっとその辺で待とうよ」
黄色い声で騒ぐ女生徒たちが生物室へ入っていく。郷土研究会のブースなんて、例年はほとんど注目されないのに、今日は結構な数の人の姿が見える。
香坂の読みは大当たりだったということか。
生物室へ足を踏み入れた麻人は、感嘆した。
郷土研究会の展示がまずは目に入ったが、一言で言って、かなり完成度の高いアカデミックな内容だった。いつもは無作為に飾られているパネルが、順を追ってわかりやすく並べられており、城下町だったこの辺りの歴史が親しみやすい言葉で説明されている。生物室入り口の呼び込み用の黒板も、文字色やフォントサイズまで考え抜かれた凝ったタッチで描かれていて、足を踏み入れてみようと思わせるための工夫が随所に散りばめられているのがわかる。同好会だから、会員は会長と合わせてももう一人しかいないはずだが、展示室で案内にあたっている唯一の会員の男子生徒も、昨年まではあった、展示パネルのそばで文庫本を読みふけるようなやる気のない態度じゃない。訪れた客に積極的に解説している彼を眺め、麻人は感心する。宮川とかいう今年の郷土研究会の会長は、香坂の言う通り相当できる人物らしい。
そんな華やかな展示の片隅に、文芸部のブースも設置されていた。
いつもだったらこちらもあまり客入りは見込めないのに、今日は客の姿が見える。長机の上に置かれた部誌も、残り少ないようだ。
ブースに立ち寄った生徒ににこやかに部誌を手渡しているのは、やはり香坂だった。
「部長は」
人が切れたのを見計らって近づくと、香坂がふっと顔を上げた。
「杉村先輩」
麻人の顔を見て咲いたのは、笑顔の花。
治ったはずなのに、頭の芯がくらり、と揺れた気がした。
「先輩。もういいんですか?」
「ああ」
ぶっきらぼうに言う麻人を、探るような目がじっと見つめる。なんだよ、と言うと、香坂はゆっくりと再び微笑んだ。
「良かった」
「……ああ……」
礼を言うべきだろうが、なんだかうまく言えない。横を向いたとき、誰かが隣に立った。
「香坂」
少し低音の女子の声だ。目を向けると、長い黒髪を背中に梳き流した、背の高い女生徒が立っていた。大人びた端整な面差しだが、鮮やかなピンクの縁の眼鏡をかけていることに目が留まった。
「ああ、ごめん。交代の時間だっけ」
スマホをちらりと確認しながら、香坂がブースから出てくる。
「結構人、入ってるの」
「そこそこ。みんなお祭り気分で当番忘れるやつばっかりで困る」
愛想のない口調で言う彼女に、あはは、と笑って香坂は彼女の脇を通り過ぎた。
「ごめんごめん。宮川、昼飯とってないなら、そこにあるパン、食べていいよ。遅れたお詫び」
「もらっとく」
彼女がひらひらっと手を振る。じゃあね、と香坂も手を振り返してからこちらを見返った。
「先輩、病み上がりにすみませんけど、ここお願いしますね。俺、クラスのほう、行かなきゃいけなくて」
「さっさと行けよ」
追い払うように手を振ると、くすっと笑って香坂は生物室を出て行った。相変わらずわけがわからない反応だ。
「杉村先輩」
忙しかったのだろうか。部誌の山が乱れている。整理しようと数冊を机の上で揃えていると、不意に呼びかけられた。香坂が「宮川」と呼んでいた彼女がこちらをじっと見ていた。
宮川、ああ、郷土研究会の会長か、と頭の中で繋がったのと同時に、彼女が軽く頭を下げて名乗ってきた。
「宮川さくらです。郷土研究会の会長をやっています」
「ああ、香坂に聞いてる」
頷くと、宮川はゆっくりと頭を上げてこちらを見た。やけに冴え冴えとした目がピンクの縁の眼鏡の向こうから見つめてくる。
「文芸部、盛況みたいですね」
「……君のところの展示のおこぼれだろうけどな」
普段ならこんなに部誌が捌けたりはしない。ついぽろりと零れた本音を、宮川は黙って受け止めてから、おもむろに部誌の山から一冊取った。
「ずいぶん卑屈な言い方をされるんですね」
「卑屈?」
これはまた失礼な物言いだ。ムカッとして宮川を見下ろすと、彼女はぱらぱらとページをめくりながら言った。
「これを作るのに、苦労されたんじゃないんですか。それなのにそんなことを言われるなんて驚きです」
「なにが言いたいんだ」
目の前の女の意図が読めない。低く問い返すと、彼女は部誌を机に戻してこちらに向き直った。
「私、あんまり婉曲にものを言うこと好きじゃないので、はっきり言おうと思いますが」
「奇遇だな。俺もそうだよ」
なんだか敵意を感じる。わけがわからないが、売られたけんかは買う主義だ。鋭く切り返すと、宮川はまっすぐに麻人を睨んで言い放った。
「いい加減、香坂くんを自由にしてもらえますか」
「香坂?」
なんでここにあいつの名前が出てくるんだろう。首を傾げた麻人を、宮川はじっと見つめ、整然とした口調で言った。
「杉村先輩だって思ってるんじゃないですか。香坂くんが文芸部なんかにいるのはなんでだろうって」
「なんかとはなんだ」
「なんか、でしょう。うちのおこぼれがないと、部誌を配るのも苦労するくせに」
なんなんだ、この女は。
不愉快指数がマックスになった麻人は、宮川を睨み据える。
「確かにうちは弱小だが、それでも、なんか、などと蔑まれる覚えはない」
「おこぼれ、などとおっしゃったのは先輩だと思いますが」
確かにそうだ。が、こいつ、ムカつく。
いらいらし始めた麻人の険しい顔にも、彼女は一歩も引く様子がない。
「香坂くんはクラス委員ですし、とても忙しいです。それなのに、弱小文芸部、いいえ、あなたにこき使われて大変迷惑しています」
「君にそれがわかるのか。君は香坂でもないのに」
瞬時に切り返すと、淡々と述べていた宮川の頬に朱が差した。案外簡単に動揺するんだな、と麻人は意地悪く思う。
「香坂がはっきりそう言うのなら仕方ないと思うが、君にそれを言われて、真偽もわからぬまま、そうだね、と納得する理由もないだろう」
「…………香坂くんだって迷惑していると言っています」
低く吐き捨てられ、麻人は息を呑む。
まあ、そういうこともあるだろうとは思う。
傷ついたわけではない。だが、一瞬、言い返すのが遅れた。
「香坂くんが、どうして文芸部にいるか、杉村先輩はわかっていますか」
「さあ」
かろうじてそう返すと、宮川は麻人をぎらぎらした目で睨みつけてきた。
「杉村先輩を見捨てられないからですよ。あなたのような人を可哀相と思っているからです。香坂がいなくなったら、あなたのそばには誰もいなくなる。だからですよ」
畳みかけられ、麻人は言葉を失った。
この女は、なにを言っているのか。
自分の周りには確かに人がいない。それを悲しいと思ったことがないわけではない。が、この性格だ、仕方ないと弁えている。
だが、今、叩きつけられた言葉に、確かに麻人は動揺した。どの部分に動揺したのか自分でもわからないが、確かに心が軋んだ。
「いい加減、さっさと引退してください。もう三年ですし、受験勉強に勤しまれたほうがいいんじゃないですか」
「俺は進学しない。就職だ」
「もしかして勉強は得意ではないんですか。あんなに偉そうに、他の生徒には勉強しろとか注意なさるのに」
「言いたいことはそれだけか」
やっとのことでそう言うと、宮川は大きく息を吸ってから、はい、と頷いた。
「全部言いました。杉村先輩は賢い方だから、私の言いたいこと、わかっていただけたと思います」
「俺は」
言いかけた麻人はしかし、唐突に肩に手を置かれて言葉を呑み込んだ。その手に強引に引っ張られ、一歩退かされる。きっとなってそちらを睨むと、呆れ顔の伊藤がいた。
「お前ら、怖すぎる」
蛍光灯に白く透ける金色の髪を掻き上げつつ、伊藤は顎をしゃくって周囲を示してみせる。見回すまでもなく、生物室の中はしん、と静まり返っていた。みな、展示などそっちのけでこちらを注目していた。
「痴話げんかはよそでやってくれ」
「ちょっと待て、痴話げんかってなんだ」
反論した麻人の肩に置かれた手に、力が加えられた。
「杉村は病み上がりだろ。けんかなんてしないで大人しく座って本配ってろ。たまにはにこやかに接客するようにしろよ。必死こいて作った本が泣くぞ」
麻人は唇を噛む。悔しいが正論だ。
「宮川はさ、お前、私情でもの言い過ぎ」
「なんですか、私情って」
「ここでそれ言うのはなんだけど」
不満そうに問い返す宮川に、伊藤は言い淀む。
「持って回った言い方しないでください。気持ち悪い」
「先輩に気持ち悪いってすごいな、お前」
伊藤は苦笑いすると、麻人の肩に置いていた手を離して後ろ頭を掻く。
「じゃあ言うけど。お前、香坂が好きなのは勝手だけどな、それと文芸部のことをごっちゃにして話すのは違うだろ」
「……なに、言ってるんですか」
宮川の顔が真っ赤になる。髪から手を離し、伊藤は飄々と指摘した。
「普通、気のない相手のことであんな言い方はしないだろ。まして相手はこいつだぜ。お前、命知らずにもほどがあるって」
「勝手なことを言わないでください。私はただ、同じクラスの子が困っているように見えたから言っただけです」
金切り声で否定する彼女に、伊藤は諭すように問いかけた。
「香坂が言ったの。困ってるって?」
「はい」
「迷惑だって?」
「はい」
肯定する声が小さくなる。伊藤ははあっと息をつくと、憐れみが含まれて見える目で宮川を眺めた。
「お前って頭の良いやつだと思ってたけど、嘘は下手だな」
「なんで嘘だなんて思うんです。みんな言ってますよ。香坂が文芸部にいるのは仁王が気の毒だからだって」
「仁王って」
噴き出して伊藤は麻人を振り向いた。
「ぴったりのあだ名だな、顔面は怖いし、中身も厳しい」
「うるさい」
横を向いた麻人の前でくすくすとしつこく笑い、伊藤は、ああ笑った、と笑いを収めた。
「確かに仁王についていくのなんて香坂くらいだろうけどさ、あいつ別に嫌々やってないと思うぞ。もし嫌々なら、こいつが倒れた時点で職務放棄してるだろ、普通」
しみじみと言いながら、伊藤は机の上の部誌を取り上げる。
「あいつは作りたかったんだと思うよ。これをきちんと」
「読む人間なんて数えるほどしかいないもののために?」
「お前さあ」
ぱたり、と音を立てて部誌のページが閉じられた。
「それ、本人の前で言うなよ。あいつ怒るし。怒ったら仁王なんかよりヤバいぞ」
「……おっしゃる意味が、ほんと、わからないんですけど」
「じゃあいいよ、言ってみろって。お前、あいつの中から抹消されるぞ。これから先、お前の存在はあいつの中で靴の中にたまった砂になる」
ふざけた口調に宮川が絶句する。
強く唇を噛んでから、彼女は低く呟いた。
「確かに……言い過ぎでした。謝ります。でも……香坂くんが文芸部にいる意味がやっぱりわかりません」
「まあ、そういう見方もあるだろうけど。それだって本人の自由だろ。大体、俺から見たら、お前が郷土研究会なのも意味がわからないし。とにかく」
伊藤が苦笑しながら部誌を机に戻す。
「仁王の部活指導が厳しすぎるのは俺も気になっていたから、こっちでちゃんと注意しておく。それでよしとしよう」
宮川は黙って床を睨んでいたが、伊藤の言葉に肩から力を抜いた。彼女は一度きつい目で麻人を睨みつけてから、ゆっくりと慇懃に一礼した。そのまますたすたと生物室を出て行く。
「おい……誰が仁王だ」
衝撃から立ち直ろうと必死になりながらなんとか口を開くと、伊藤は肩をすくめた。
「ピンチを救ってやったんだからありがたく思え」
「あんなのピンチでもなんでもない」
そっぽを向きながら、麻人は長机の向こう側に置かれた椅子に座り込んだ。なんだかどっと疲れた。
宮川の言葉は大半が中傷で、相手にするまでもないことのように思えたが、その中でもどうしたって見過ごせない部分があった。
「なあ……本当に、香坂はなんでうちの部にいるんだろう」
零れ落ちた声に自分自身慌てた。自分のものとは思えないほど気弱に響いてしまったからだ。
「おいおい、待てよ。まさか宮川が言ったこと、本気で気にしてるわけ。そんなタイプでもないだろ、お前」
伊藤が目を剥く。当たり前だ、と麻人が顔を背けると、伊藤は、だよな、と笑った。
「俺にもわからんけど。杉村がいるからじゃないのか」
「気の毒とかそう思ってるってことか」
「お前……本気で体調まだ悪いんじゃないのか」
「治った」
呆れたように言う伊藤に、麻人は短く言い返す。
「にしては発言がやけに弱気なんだよな」
「うるさい」
語気荒く返す。伊藤は自身もブースの内側に腰を落ち着け、ぎこぎことパイプ椅子を鳴らした。
「あいつさ、お前がいるからこの部入ったんだと思うぞ」
「なんで」
「部活見学に来たとき、お前の書いた評論を真剣に読んでたからさ。面白いかって訊いたら、はい、って笑ってた覚えがある」
「笑えるような面白いものを書いてはいないと思うが」
「なにが気に入ったんだかは知らないけどさ。とにかくそういうわけだから。そんなに心配するなって」
「心配なんてしてない」
伊藤の気の遣い方が気に入らない。反発すると、やれやれ、と伊藤は首をすくめた。
「俺もほんとあいつには参ったよ。お前が倒れたからこれで原稿地獄からはおさらばって思ってたのに、今度は香坂が毎日来るんだもん。そのしつこさと言ったら仁王の比じゃなかった」
「……そうなのか」
「だからこいつ本気でちゃんと作りたいんだなって思って、仕方なく書いてやった」
俺が言ったときにその気になれよ、と文句を言ってやろうとして麻人は口を噤む。
麻人が部誌を作りたいのは、それが慣わしだからだ。頭が固いと思われるかもしれないが、決められたことにはすべて意味がある。そうでなくても、伊藤の短編を楽しみにしている人々がいる。少ない数でも、文芸部の部誌を待っていてくれる人たちがいる。だからこそ。
香坂はどうなのだろう。香坂も同じ思いだったのだろうか。
彼に、ちゃんと訊いてみたいと思った。
そんなことを思ったのは初めてだった。
部誌は昼を待たずすべて配り終えた。例年だったらあり得ないことだが、やはり場所が良かったようだ。これなら来年度以降、新入部員も見込めるかもしれない。
ほっとしつつ、麻人は校内をぶらぶらと歩く。
早めに部誌がなくなったおかげで、少し時間ができた。風紀委員の見回りもかねて、祭りを眺めるのも悪くはない。
喧騒の中を縫うように歩いているうちに、二年の教室棟に足が向いた。さまざまな模擬店が並ぶ廊下をさしたる感慨もなく進むと、真っ黒に塗られたベニヤ板に白文字で書かれた看板が目に飛び込んで来た。
幽霊占い、と歪んだ字で書かれている。香坂のクラスだ。
「お化け屋敷なのか占い屋なのか、どっちなんだ」
ごちたとき、ぱさり、と入り口のカーテンが開いて、男子生徒がふたり出てきた。ひとりは制服姿、もうひとりはなぜだか燕尾服を着ている。
彼らは談笑しながら廊下を歩いていこうとしたが、燕尾服のほうがふっとこちらに気づいた。
「え、杉村先輩?」
香坂だった。
大きな目がいつも以上に見開かれる。彼は一緒にいた生徒に手を振ってから、こちらに戻ってきた。
「びっくりしたあ。こんなところでどうしたんですか?」
にこにこと問いかけてくるが、麻人は口を利けずにいた。
文化祭なのだ。普段通りの服装でなければならないわけではない。だからとやかく言うべきではないのだ。
だが、それにしても、と麻人は思う。
高校生でこれだけ燕尾服が似合うというのもどうなのだ、と。
燕尾服のかっちりしたラインは細身の体にしっくりとなじんでいたし、漆黒の衣のせいでか、やたら頬が白く見える。
こいつこんなに色が白かったっけ、と心の内で呟いたとたん、なぜか心臓がことり、と動いた。
「先輩?」
無言で見つめる麻人を香坂は怪訝そうに眺めていたが、麻人の視線に気づいたのか、我に返ったように、自分の体を見下ろした。
「あ、ええと、これ。俺、占い師なんですよ。うち、幽霊が占いするってコンセプトで、占い師ごとにキャラ設定してて」
「……どんな?」
燕尾服のキャラクターってなんだろう、と素朴な疑問を感じて問い返すと、香坂はなぜかぱっと顔を赤らめた。
「大正時代の華族……」
「かぞく」
「ファミリーじゃないほうの、華族、です」
「華族」
繰り返したとたん、香坂の頬の赤味が強くなった。うう、とついぞ聞いたことのない声で呻いて、香坂が顔を片手で覆う。
「香坂?」
こいつ、恥ずかしがっているのか? いつも生意気で、心臓に毛が生えているのかというくらい、物おじしないこいつが?
意外過ぎて驚きを隠せないでいる麻人の前で、香坂はまだ顔を覆っている。子供っぽいな、と皮肉を言うことさえ躊躇する反応だ。さて、どうしよう、と、どうにもいたたまれなくなってきたとき、香坂が突然、顔を覆ったままくるっと背中を向けた。
「え、おい⁉」
そのまま、走り出す。だああっと去っていく彼をしばらくぽかん、として見送ってから、麻人はとっさに香坂を追って駆けだしていた。
「ちょ、香坂、待てって! おいこら!」
叫ぶが、香坂は止まらない。しかもとにかく足が速い。なんでもできるところが本当にムカつくやつだ、と憤りをちらと覚えたものの、そんな悠長に考え事をしていられるような、生半可な速さでもなかった。
くっそ、と足を速めようとして、麻人は胸に苦しさを覚えた。
喉を這い上がってくる不快感と共に激しい咳が飛び出す。香坂が駆けのぼっていった階段の上り口でたまらず膝を折った麻人は、壁に手を当てて激しく腰を折った。
……病み上がりなのを忘れていた。
マスクすら苦しい。むしり取りたかったが、取ったら周りに迷惑ではないだろうか。咳で揺れる視界でちらりと辺りを窺ったとき、先輩! と切羽詰まった声が上から降ってきた。
燕尾服の裾をなびかせ、香坂が駆け下りてくるところだった。
「先輩? 大丈夫ですか? 先輩?」
不安そうな声と共に背中に掌の感触が落ちてくる。温もりをまとい、何度も背中を往復する手によって、少しずつ咳が後退していくのがわかった。
……この間みたいに。
数分後、すっかり呼吸が元通りになり、そろそろと顔を上げると、麻人の横に跪いていた香坂が、ふうっと息を漏らした。
「なんで全力で追いかけてくるんですか。先輩は。まったくもう」
まだ心配そうに麻人の背中に手を置いたまま、香坂が言う。そう言われて麻人も、はて、と首を捻る。
言われてみれば、追いかける必要はなかった。なのになぜ、自分は追いかけてしまったのだろう。
いつも不遜なこいつをからかいたかったからだろうか。
いや、そんなことでここまで走らない。
「大丈夫ですか? 水、買ってきます?」
気づかわしげな香坂の顔を見返しているうちに、思い出した。
彼を追いかけたのは、礼を言いたかったからだ。
部誌のこともそうだ。自宅へ鞄を届けてくれたこともそうだ。
それと。
麻人はふっと周囲を見回す。
ここは、自分が倒れそうになったとき、香坂に助けられた階段だ。
考えてみればそのこともきちんと礼を言っていなかった。だが、追いかけた理由はやっぱり、それだけじゃない。
「お前が、逃げるから……」
ぽろりと落ちてしまった本音に焦る。けれど、そうしながら思い知ってもいた。
香坂が背中を向けたあのとき、どんどん遠ざかっていったあのとき。
自分の頭の中にあったのが、どんな言葉だったのか、ということを。
それは。
嫌だ、だった。
頬を紅潮させ、口を押さえる麻人を、香坂がまじまじと見つめてくる。そんなに見るな、と言い返そうとしても声が出ない。たまらず顔を伏せると、つい、と腕が掴まれた。
「先輩、こっち」
くいくい、と細い手が麻人の腕を引く。そのまま階段を上らされ、一番上の段までたどり着いたところで腕が離された。
「座って」
促され、腰を下ろすと、香坂も隣にすとん、と座る。ここは模擬店エリアではないせいか、人声も遠い。踏み荒らされていない雪のような空気が漂っていて、少しほっとしている麻人の横で、香坂が呟いた。
「逃げたのは……恥ずかしかったからです。正直、俺もこの衣装はどうかと思っているので。しかも俺のキャラ名、予言の貴公子なんですよ。ヤバすぎでしょ」
言いつつ、彼は自身の胸辺りを見下ろす。
「そんなかっこ悪いの、先輩に見せるのはちょっと」
かっこ悪くはない。そう言ってやりたかったが、どうにもむず痒くて言えない。
「お前、予言とか、できるの」
代わりに出てきたのは、意味不明なそんな問いだった。意外過ぎる返しだったのか、香坂もきょとんとしている。
しばらく無言で麻人の顔を見つめた後、香坂は肩を揺らして笑い出した。
「そんなわけないでしょ。手相ができるってだけですよ」
くつくつと笑う。そのいつも通りのからっと明るい声に安堵した。そうか、とマスクの中、ひっそりと笑んだ麻人だったが、次の瞬間、ぎょっとして笑顔が引っ込んだ。
「ちょ、なんだよ」
隣に座った香坂によって、左手が握られていた。
「せっかくだし、俺が手相見てあげますよ。一年のときも文化祭で占いの館やってて、そのときも占い師だったんで。よく当たるって評判だったんですよ、俺。そのときのキャラネームはなんだったかな。千里眼の貴公子だったかな」
「貴公子かぶりかよ」
毒づきつつ、麻人は手を引っ込めようともがく。
「手相なんていい。そんな非科学的なもの、俺には必要ない」
「あれ、もしかして怖い結果が出たら、とか怯えてたりします?」
「誰が」
むっとして動きを止めると、先輩に限ってそれはないですよね、と香坂が笑う。間近で閃いた笑顔に思わず気を呑まれたが、香坂は気づく様子もなく、麻人の手に視線を落としている。
「なに見ましょうか。恋愛運とか見ちゃいます?」
「恋愛?」
よりにもよって恋愛運と来た。麻人が嘲り笑うと、香坂が細い首を傾けた。
「なにかおかしいですか?」
「おかしいだろ。お前、俺が恋愛なんてすると思う? 仁王なんて変なあだ名つけられるこの俺が? 恐れられすぎて誰もそばに寄りつきたがらないのに。恋愛もないだろ」
片方の肩を下げるようにし、皮肉げに笑ってみせてから、麻人は、はて、と笑みを消した。それもそうですよね、と明るく切り返してくるかと思ったのに、香坂の顔には笑みがかけらも浮かんでいなかった。
「仁王って、恋しちゃだめなんですかね」
低い声が耳を打つ。声もなく見返すと、彼はふうっと瞼を持ち上げて麻人を見た。
「誰かを守るために厳しさを持つ。そんな仁王だからこそ、誰かに守られる恋をしたってよくないですか」
香坂の声はなぜか少し震えており、睫毛に覆われた大きな目もかすかに揺れている。
香坂、と呼びかけようとする声を遮るように、きゅっと、握られた手に力が込められた。
「今、言うべきか、迷うんですが」
「なに」
香坂は一度言葉を切る。遠くで奇声のような歓声が上がる。拍手と笑い声。風に乗って流れてくるそれらはまるで異世界からの音のようだ。
静けさと喧騒の上澄みを掬ったような空気の中、やたら澄んだ目がひたと麻人に向けられていた。
「俺は、先輩が好きなんですけど。キスしたいなあっていう意味で」
ぽかん、と麻人は口を開けた。
目の前の香坂の顔を凝視する。香坂は相変わらずの感情の読めない顔でこちらを見つめるばかりだ。
「冗談だろ」
「冗談でこんなこと言いません」
ふうっと香坂の口許に苦笑いが浮かぶ。ひょい、と乱暴な仕草で手が離された。
「いや……あの……ちょっと待て。冷静になろう」
今、こいつはなんて言った? キスしたい? 冗談だろう。いや冗談じゃないとも言った。
「冷静になったって今言ったことが気の迷いだったなんて言ったりはしませんけど」
混乱している麻人の顔をちらっと見て、香坂はやっぱり少し震えた声で言い、膝の上に片肘で頬杖をつく。
ますますもってどういうことなのか意味がわからず、麻人はパニックになった。
「冷静で……その、冷静でも、そんなこと言えちゃうのか」
「言えちゃいますね」
だって、と言って香坂はふいっと不愉快そうに顔を背ける。
「俺がいくら真剣に言っても、先輩は本気になんてしてくれないんでしょ」
麻人はぱくぱくと口を開け閉めする。言葉を継ごうとしたができなかった。
ピピピ、とかすかな電子音が空気を読まずに鳴ったのはそのときだった。
「ああ、時間だ」
頬杖を解いて、彼は燕尾服のポケットからスマホを取り出す。電子音を吐き散らすそれを操作すると、スマホはすぐに沈黙した。
「俺、行かないと」
音を境目になにかが切り替わったように、表情がするりと変わる。いつもの後輩の顔に戻った香坂は、麻人の隣から身軽に立ち上がった。
「じゃあ」
「あ、ああ」
なにか言うべきだとは思った。けれどなにも出てこない。
軽い足音を立て、香坂は階段を下っていく。
呼び止めたい衝動に襲われながら彼の背中を見送っていると、一番下まで下りた香坂が、視線に引かれたようにこちらを見上げた。
その顔を見たとたん、呼吸が止まった。
香坂はただ微笑んでいた。けれど、その笑顔はまたもや、普段の後輩の顔とは違うもののように麻人には見えた。
「また後で。先輩」
青い色にまみれたような、ざらつきのある笑みをたたえ、彼はそう言って麻人に手を振ってよこした。
家に帰ったら熱がぶり返していた。
景気よく温度の上がった体温計をかざしてぼんやりしていると、ドアが開いて、博人が入ってきた。
「麻、生きてる?」
「死ぬわけあるか……」
「肺炎菌恐るべし。麻をここまで弱らせるとは」
あっけらかんと言いながら、博人は室内へ入ってくると、鞄を自分のスペースへ放り込んでからこちらへ戻ってきた。
「熱どうなの」
「まだ高い……」
「病院行った?」
「行ったけど……解熱剤は飲みすぎるなって言われたくらい」
「無理して学校なんか行くから」
「うるさい」
ばさり、と布団を頭からかぶる。明日には下がってるといいけど、とぶつぶつ言っている博人を、布団の陰からそろそろと窺うと、目が合った。
「なに?」
「博人は……彼女いたよな」
「は?」
思わぬ言葉を聞いたと言うように博人が目を見張る。腰を屈めて麻人に顔を近づけ、博人は小声で訊ねてきた。
「なに? 麻、ついに彼女ができたとか」
「違う」
「じゃあ……好きな子ができたとか」
「違う……」
「告白されたとか」
ちが、と言いかけて、言葉が止まる。
──先輩が、好きなんですけど。
「うわ、麻に告白するような勇気ある子、いるんだ」
一瞬で麻人の顔色を読んだ博人はげらげらと笑い出す。双子の弟とは厄介だ。隠し事がまったくできない。
「ここは笑うところじゃないだろ」
「いや、だって。麻みたいなのに告白したら、ひどい言葉でフラれそうなのに」
確かにその印象は正しい。実際、この性格のせいで周りから恐れ戦かれていて、誰かに好かれるなんてことこれまで一度だってなかったのだ。
その自分を、好きだ、と言う。
わけがわからない。
やはり、からかわれたと考えるのが自然なんだろうが。
──冗談でこんなこと言いません。
「麻、大丈夫? 顔赤いし」
「なあ」
がばっと布団から飛び起きると、博人が驚いて身を引く。呼びかけたものの、真正面からは見られなくて、麻人は掛け布団の表面を睨んだ。
「好きって言うってことは、付き合いたいとかそういう、ことなんだろうか」
「まあ、そうなんだろうけど。え? 好きです、付き合ってくださいって言われたんじゃないの」
「好きなんですけどって言われた」
「それだけ?」
俯いたまま頷くと、なんだそれ、と博人は首を捻った。
「気持ちだけでも伝えさせてくださいってやつかな」
「知らないし。大体、その後、軽くキレられた」
「キレるって?」
「いくら真剣に言っても、本気になんてしやしないだろって言われた」
「それって」
博人はしばらく麻人を見つめてから、ええと、と額を掻いた。
「あのさ、もしかして告白されたって、あの子? ええと、この間届け物に来てくれた……そうだ、香坂くん」
名前を聞いたとたん、熱が上がった気がした。布団に前倒しに倒れた麻人をしばらく眺めた後、博人はおもむろに口を開いた。
「いや、なんかさ、ちょっと気にはなってたんだよな。ただの後輩にしてはやけに親切だなとは。だからだったのか」
「落ち着いて分析してる場合じゃないだろう。そもそもこれからどんな顔してあいつと顔合わせればいいんだ」
博人はなにか言いたげな顔で麻人を見つめている。なに、と怪訝に思って顔を上げると、博人は、ううん、と声を漏らした。
「俺には麻がそこまで悩む理由がわかんないんだけど。別にいいじゃん。付き合う気ないなら放置しておけば。向こうも返事を求めてないんだろ。告白されたからって答えなきゃいけない義務なんてないよ」
「お前はそんな不誠実な態度で人と関わってるのか」
「ちょ、お前がそれ言う? いつだって喧嘩腰で、塩対応のお前が?」
眉を下げて言い、博人は椅子の背もたれにだらしなくもたれた。
「でもさ、麻としては望んでないんだろ。香坂くんとそういう関係になるの」
「の、の、望んでるとか、望んでない、とか、考えた、ことも……」
言いかけて麻人は額を押さえる。
──仁王って、恋しちゃだめなんですかね。
頭の中に声が響き、麻人は額を押さえる。
そもそも、香坂は口の悪いただの後輩だったのだ。口うるさくてどれだけ邪険にしてもけろっとしてついてくる、ただそれだけの。
そう、それだけの存在だったはずなのに。
あのとき、香坂が逃げ出すように走り出したとき、自分は追いかけなければと思ってしまった。
彼が遠くに行くのが、どうしても、嫌で。
階下で、博人を呼ぶ声がする。おっと、と博人が椅子から立ち上がる。
「ご飯できたみたいだ。食べられる?」
「食欲ない」
「そっか」
博人は麻人を眺めてから、ぽんと麻人の頭に手を置いた。
「なんか食べやすいもの持ってくるから。横になってろよ」
「……ああ」
「なあ、麻」
頷いて布団にもぐりこむ麻人の頭の上で博人が麻人を呼んだ。
「なんだよ」
もごもごと返事をすると、博人はちょっと黙ってから、唐突に言った。
「一度さ、話、してみたいんだけど。香坂くんと」
話す? なにを。声を出せぬまま顔だけ出す麻人に、博人がにやっと笑いかけてくる。次いで、ぽんぽん、と宥めるような手つきで布団が叩かれた。
「興味あるんだよ。命知らずに麻に好きって言えるところとかにさ」
結局、熱は翌日も下がらなかった。
今日は文化祭の後片付けが中心で授業はない。とはいえ、文芸部のブースの撤去作業をしなければならない。
よろよろと起き上がったところで、博人に見つかった。
「学校行く気じゃないだろうな」
「行かないわけにいくまい。準備も任せきりだったんだ。この上片付けもしないなんてそんなわけにはいかない」
「真面目すぎ。そういうのは後輩にお願いして休めって」
後輩、と聞いたとたんに再び頭がくらっとした。博人がため息をついてぽん、と麻人の肩を押す。おい、と言いかけて嘘みたいに膝が砕けた。横合いのベッドにへたりと座り込んだ麻人を見下ろし、博人は、馬鹿、と零した。
「休めって。大丈夫だよ。片付けくらい、誰かがやるって。麻は気にしすぎ」
「借りを作ったら返さないといけなくなる。それは困る」
「戦国武将かよ」
呆れ果てた顔で腕組みした博人は、びしっと麻人の顔の前に指を突きつけた。
「とにかく。一歩でも家を出たら麻の昔の写真、ネットに流出させるから。今と違って可愛いし、知ってる人が見たらさぞ驚くだろうな」
「おま……それって犯罪だろ」
「そうそう。俺を犯罪者にしないためにも寝てろよ」
笑って博人は部屋を出て行く。博人こそ、子供のころと違って、随分したたかになったものだ。
でも、この世で一番麻人を心配してくれているのは、博人だとは思う。
のろのろとベッドに横になりながら、目を閉じる。熱の向こうから眠気が襲ってくる。ゆるゆるとその波に身を任せて麻人は眠った。
煙草と酒の臭い。淀んだ空気。
頬にへばりつく、ざらついた畳の感触。
視線の先に、壁側を向いて立つ、裸足の足がある。畳に指が突き刺さるくらい強く踏みしめて、その人は立っている。
目だけを動かして周りを見回す。ビール瓶や脱ぎ散らかした衣類、部屋の隅にたまった埃。食い散らかされた弁当がら。そして。
立ちはだかる足の先。蹲る子供の影が見えた。
子供は泣いている。床に丸くなって頭を抱え込み泣きじゃくる。切れ切れの涙声で、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も謝って、子供は体を小さくする。
その声に、足の主が小さく震えた。
ぎくしゃくと上げた視線の先、その人の手元が見えた。
ビール瓶を握った手がそこにはあった。
手は痙攣しながら、ゆるゆると持ち上げられる。高く、高く振り上げられたビール瓶が、暗い蛍光灯の光に鈍く光った。
子供の泣き声が高くなる。
振り下ろされた手に、悲鳴を上げたのは自分だ。
食い込んでくる畳の目から頬を引き剥がし、手を伸ばす。裸足の足に必死にしがみつく。不意を突かれた相手がたたらを踏む。
彼がなにかを言う。怒鳴り声がどんな言葉を形作ったのか、判然とはしない。けれどそこにこめられた感情は感じられた。声にあったのは、嘆き、怒り、そして……空虚な現実への絶望。
足に絡みついた自分の手を乱暴に蹴り解き、彼はこちらに向き直る。
そして、ビール瓶を持った手が、再び振りかざされる。
自分の上に。
その人の顏は、よく、見えない。でもその人が泣いているのが自分にはわかった。
とめどなく零れた涙が頬を伝い、畳へと落ちる。
吐き散らされた濁った声とは対照的に、流れ落ちていく雫は透明で、室内の薄暗い照明の中でもきらり、と輝いた。
茶色い軌跡がゆっくりと迫ってくる。それを自分は瞬きもせず、ただ、見ていた。