なんだか目が回ってきた。
 部長の原稿は上がらないし、クラスではお化け屋敷の準備に追われるし、風紀委員の役目として、文化祭の準備に沸く学内を定期的に見回らなければならない。文化祭だからと言って、羽目をはずす学生が毎年後を立たないからだ。準備を夜遅くまで続けるうちに、夜食と称してビールを持ち込んだり、花火をしたり、麻雀まで始めてしまうような輩が。
「こら! そこ看板でかすぎ! 規定サイズ守れと生徒会からも言われてるだろうが! でかすぎて廊下が通れん!」
 怒鳴って看板を壁側に押しやる。が、疲れからか、思ったより重いのか、看板は動かない。
「すみませーん」
 ちっともすまなそうに思っていない声を聞き、さらに怒声を浴びせようとして、麻人は強い眩暈を覚えた。
 窓枠を掴んで転倒は免れたが、一瞬視界が激しく揺れた。
「杉村」
 声に目を上げると、伊藤が角材を担いで廊下を歩いてくるところだった。この馬鹿でかい看板、なんたることかメイドカフェと書いてある。またメイドカフェだ。しかもこの看板を作っていたのは伊藤のクラスだったようだ。
「お前、顔色悪いけど。なに、具合悪いの」
「お前が! 原稿入れないから……」
 言いかけて喉がひりつき、麻人は咳き込む。おいおい、と伊藤が角材を廊下に立てかけて近づいてくる。
「マジでやばそうなんだけど。保健室、行くか」
「行くわけないだろう」
 咳を呑み込んだ麻人は、ぶれる視界を頭を振ってやり過ごし、伊藤に食ってかかった。
「お前、原稿入れる気ないんだろう。明日には入れないともう間に合わないのに!」
「いいじゃん、俺の分削ってページ減らせば」
「部長のくせにそんな怠慢許されると思うか!」
 そう叱り飛ばすが、伊藤には相変わらず効果がない。へらへらしながら彼は角材を再び肩に負う。
「頭固いって。俺の分削ってお前が余分に書いてくれても構わないんだぜ」
「そんなんでよくも部長なんてしていられるな!」
「好きでしてるわけじゃ」
 反論しかけて、伊藤は言葉を途切れさせると、眉を寄せ、麻人を覗き込んだ。
「お前、顔色、ほんとやばい。倒れるなよ?」
「倒れるか。そんなわけ……」
 言い返そうとして、額を押さえる。本気で気分が悪い。
「とにかく……今日中に原稿上げろよ。絶対に。あとこの看板、邪魔だからもう少し隅によせとけ……」
「おい、杉村って」
 背中で伊藤が呼ぶが、麻人はその声を振り切って歩き出した。どうやら蛇行しているようだ。しかし、足を止める気はなかった。
 寝込む時間なんて微塵もないのだ。まして仁王の自分が弱みを見せるなど、絶対にあってはならないことだ。
 文化祭の準備でどこの教室も喧騒に満ちている。人の話し声が羽虫のように耳の端でわんわんとうるさい。深く息を吸って、階段に足をかける。この上は図書室で、文化祭の準備エリアからは外れているはずだ。少しは休めるかもしれない。
 よろめきながら階段を上り切ったところで、意識が一瞬、薄れた。手すりに掴まろうとした手が滑る。
 やばい、と思っているのに、体が動かない。このままだと落ちる。激しく焦ったが、落下に伴う浮遊感は唐突に途切れた。
 誰かの手が、麻人の手を掴んで引き寄せる。
 朦朧としながら瞬いた目に、廊下に散らばった本が見えた。図書室から出てきたところで事態に気づいた誰かが、本を投げ出して駆け寄ってきたらしい。
 本を粗末に扱うなよ……と言ってやろうとして視線をゆるゆると上げた麻人は、自分を支える相手が香坂であることに気づき、顔を引き攣らせた。
「なんで……お前」
「なんではこっちの台詞なんですけど」
 香坂は声に当惑を滲ませながら、掴んだままの手と麻人の顔を見比べる。
「先輩……具合、悪いんですか?」
「鬼の霍乱とか言うんだろ」
 かろうじて皮肉を口にするが、声にまったく張りがないことが自分でもわかる。狼狽する麻人を見下ろしながら、香坂は険しい顔をして、麻人を支える手に力を込めた。
「なんでこんな状態でも、そんな口の利き方なんですか」
「うるさいな。離せよ」
 彼の手を払おうとしたが、力が入らない。おいおい、本気で鬼の霍乱だ、と焦っている麻人を、香坂は無言で数秒見下ろしてからそうっと手を離す。そうして階段に散らばった本を拾い集めて戻ってきた彼は、なにを思ったのか再び麻人の手を取り、そのまま階段を下り始めた。
「お前……なに……」
「目、瞑っててもいいから足だけ動かしてください。偉そうな口叩けるなら、それくらいはできるでしょう」
「偉そうってな……」
 言いかけて喉が締めつけられるように痛んだ。息を吸い込むと咳が競りあがってくる。空いた片手で口許を覆うと、香坂は手を離して階段を上り、麻人の横に並んだ。
 込み上げてくる咳のせいで息ができない。肩を上下させる自分の背中に手が当てられ、さすられる。なんでこいつにこんな介抱みたいなことをされているんだろう、と忌々しくなったが、それでもそうされているうちに少しずつ呼吸が楽になってきた。
「歩けます?」
 淡々とした感情の少ない声で香坂が問う。頷きだけで答えると、ふっと香坂が息を吐いた。
「肩、貸します?」
 覗き込まれて、これには首を振った。これ以上、こいつの世話になるなんて我慢ならない。先輩の沽券に関わる。
「ほんとしょうがない人ですね」
 気合を入れねばと、力なく自身の頬を叩く麻人に向かい、ふっと苦笑交じりの声が降ってきた。目を上げた麻人は、そこでなぜか息を呑んだ。
 透明度の高い鳶色の瞳がすぐ目の前にあった。
 普段から朗らかで、瞳にも笑みを漂わせている香坂だ。だが、こちらを見据える彼の目には、声とは裏腹に笑みなんてかけらもなかった。
 そこにあったのは、いつもの香坂の目にはない、深い色。
 香坂、と名を呼ぼうとした。けれども声が出ない。
 その麻人の背中に手を当てたまま、香坂がぽつりと言った。
「肩に力入り過ぎで、ほんと見てられない」
「はあ?」
 声を上げかけて、再び喉が痛む。喉元を抑えた麻人をやはりじっと見つめてから、香坂は再び麻人の手を掴んだ。
 おい、と抗おうとしたが、冷ややかな目を向けられ、思わず口を噤む。一瞥で麻人を黙らせた香坂は、感情の欠落した声で宣言した。
「保健室行きます」
「大丈夫……」
「聞きません」
 ぴしゃりと言われ、麻人は再び口を閉じる。黙り込んだ麻人の手を取ったまま、香坂は階段を下っていく。
「先輩に倒れられたら、俺が嫌です」
 俺が嫌って、なんだ。
 考えていて、ひとつの結論に達した。文芸部の部誌もまだ完成できていない。今の段階で倒れられたら困るという意味で、嫌、と言ったのだろう。確かに、今自分がいなくなると作業は滞るだろうし、長く倒れているわけにはいかない。
 こいつに厄介になるなんて、先輩としてあるまじきことだけれども、具合が悪いのは間違いない。できるだけ短期間で復活しなければ。
「すまない」
 くそ、と思いながら、麻人が小さく謝罪すると、香坂がぎょっとしたように振り返った。そんなに驚かなくてもいいだろう、と不快になったが、彼のこの反応も当たり前と言えば当たり前だ。自分がこいつに礼を言うことなどこれまで一度としてなかったのだから。
 だが、それにしても驚きすぎだろう。苛立って彼を睨もうとした麻人は、そこで固まった。
 しばらく唖然としたようにこちらを見ていた彼が、突然ふっと笑った。
 それは、労わるような柔らかい笑みだった。
 それを見たら、言葉が出なくなった。
 保健室に着くまで、香坂はなにも言わなかった。普段、決して感謝も謝罪もしない麻人の発した言葉についても、からかうような台詞を一切吐かず、彼はただ麻人の手を引いて歩き続けた。