古本特有の湿った香りを吸い込み、麻人ははたきを持ち上げる。棚の埃を払って回り、乱れた書棚を手早く直す。減っている本があるのを見て、本棚下の引き出しを開けて本を補充した後、書棚の上の本を整理するため脚立を移動したとき、すみません、と声が聞こえ、麻人はレジへと取って返した。
会計を終え、本をビニール袋に入れて手渡す。ありがとうございました、と声をかけて、さて、と作業の続きに戻ろうとした麻人の前に影が差す。
「なに。寄り道?」
無愛想に言うと、双子の弟の博人は軽く唇を尖らせた。
「いいじゃん、俺だってたまには本読むんだって。麻みたく難しいのは読めないけど」
博人とは一卵性の双子だから顔かたちはそっくりだ。でも、見る者に与える印象は真逆だと思う。
博人は笑顔が多い。いつもにこにこしていて、誰からも好かれる。自分の顔なんて特別好きにはなれないが、博人の顔は表情豊かな良い顔だと思う。
性格の善し悪しはやっぱり顔に出るものかもしれない。
「バイト、何時まで?」
「八時」
「じゃ、待ってるから、一緒に帰ろう」
「気持ち悪いこと言わないで先に帰れよ、叔母さんが心配する」
露骨に顔をしかめると、博人は真顔になった。
「それ、麻のこともだよ」
「ああ?」
「心配。叔母さん、麻のことも心配してる」
目が真剣だ。麻人はやれやれとため息をついてから、レジ台を離れ、店の奥へと足を向ける。
「ああ、ちゃんと帰るし」
まったく、子供扱いしないでほしいものだ。内心そう思っている麻人に、それでも博人は食い下がってくる。
「麻人さ……無理しすぎ。叔母さんだってバイトすることなんてないって言ってくれてるじゃん。その上、勉強もして、部活もしてなんて倒れる」
「倒れるほどやわじゃない」
鼻先で笑って、麻人はひらひらと手を振った。さっさと帰れ、と態度で示すと、博人は不満そうに麻人を睨んでから、じゃあな、と言って店を出て行った。
自分だって馬鹿じゃない。博人の言うことが正しいことだってわかる。わかるけれど、それに従わなきゃいけない理由もない。
途中だった本棚の整理をするべく、店の奥へと進む。脚立を引っ張り出し、本棚の上段の整理をしていたとき、店の入り口から話し声が聞こえてきた。
脚立に乗ったまま、そちらを覗き見ると、制服姿の二人連れが入ってきた。麻人と同じ菊塚の制服だ。
店に入ってきたものの、雑談に夢中の様子で、レジへすぐに来そうではない。まあいいか、と脚立の上で作業を続ける麻人の耳に、甲高い彼女たちの声が飛び込んできた。
「にしてもさ、聞いた? ほら、文芸部の話」
「文芸部って? ああ……もしかしてあの話?」
「そうそう」
「仁王」
くすくすと笑い合う声に麻人は首を傾げる。文芸部の名前が出たが、仁王ってなんだろう。
「あの人知ってる? 文芸部でも新入部員全員辞めさせたりしてるけど、クラスでもあんな感じなんだって。掃除当番がどうとか、授業は真面目に受けろとか。従わないとお前それでも学生かー! って怒鳴るの、ほんとあり得ない」
「よく知ってるね、クラス違うのに」
「あんたなんで知らないの。有名人よー。すっごい嫌われ者」
「ああ……確かに言葉きついよね」
「きついとかじゃなくてあれは凶器よー。友達で泣かされた子、いるもん。字、汚すぎだろ。読ませる気あるのか! とか言ったんだって」
「ひどーい」
「ひどいよねー。普通あんな言い方しなくない?」
「ほんとほんと」
声が同調する。
ことここに至り、ようやくわかった。
ああ、仁王とは自分のことだったわけか。香坂や伊藤が言っていたのもきっとこのことだろう。
随分な言われようだ。でも言われても仕方ないとは思う。彼女たちの言うことの八割くらいは本当だ。
委員会の際、板書された文字があまりにも読みづらく「この字はソか? リか? わからん。書き直してくれ」とは言った。それがこう伝わるわけか。
しかし仁王とは。
寺の山門からこちらを睨みつけてくる、憤怒に燃えた仏像の表情が脳裏に浮かんでくる。
自分はあんな形相を普段しているのだろうか。頬を撫でつつ、麻人は自身の体を見下ろす。
そもそも、あそこまで筋肉隆々でもないのに。
「センスのないあだ名だ」
くんくん、とエプロンの端が引っ張られたのはそのときだった。ぎょっとしてそちらを見ると、脚立のすぐ下からこちらを見上げている大きな目と目が合った。驚きすぎて脚立が揺れる。その脚立を横合いから支えたのは、目の主である香坂だった。
「おま……なんで?」
「なんでっていうか」
香坂はぽかんと開いた大きな目で麻人を見上げてから、スマホを引っ張り出してかざしてみせた。
「東野さんの原稿データ、もらえたんで。さっき先輩宛に送ったんですけど、まったく既読にならないし。一応、口頭でも伝えておこうかなと」
「ってか! お前、なんで俺のバイト先知ってるわけ」
ここでバイトしていることを知っているのは、養い親である叔母と博人だけだ。学校の人間には誰にも話していない。話す相手もそもそもいない。
気味悪さを覚えつつ香坂を眺めると、ふふ、と彼は不敵に笑った。
「俺はですね、杉村先輩のストーカーなんで」
「はあ?」
自分のものとは思えない頓狂な声が出た。そのときになって、麻人は気がついた。さっきまで姦しく聞こえていた噂話が聞こえなくなっている。
脚立の上から入り口を窺うと、猛烈に気まずそうな顔をした二人組がそそくさと店を出ていくところだった。
「お前のせいで客が逃げた」
「え、俺のせいですか?」
香坂が心外だと言いたげに瞬きをする。
「そもそもそんな仏頂面で客商売なんてよく選びましたよね」
しみじみと言う香坂を睨みつけ、麻人は本棚の本を整理して脚立を下りた。
「無駄口叩いてないで早く帰れ。もう遅いぞ」
しっしと手を振ると、香坂は、はいはい、と言葉だけ返してくる。相変わらず生意気だ。
「東野の原稿、お前は読んだの」
癇に障るやつだが仕事が早いのは助かるな、と思いつつ麻人が問うと、ええ、と軽い応えがあった。
「どうだった」
エプロンが埃っぽい。ぱたぱたとはたいている麻人に向かい、香坂はくすっと笑う。
「相変わらずの東野ワールドですよ」
言われて麻人は顔を引き攣らせた。
「涙腺狙いの恋愛小説ってことか」
「ええ。でも良い話でした」
淡々とした声だったが、本心からのもののようだ。麻人はレジの奥の椅子に腰かけながら、スマホでデータを検める。『冬の桜』。どこかで聞いたタイトルだ。
「つまらなそうだな」
「読む前からそんなこと言うのはどうかと思いますけど」
非難めいた声を無視し、むっつりと原稿に目を落とす。冒頭数行をさらさらと読んだところで、麻人はスマホをポケットに戻した。
「読まないんですか?」
「家で読む」
仕事中だしな、と言い訳したとき、香坂がくすっと笑った。
なんだよ、と睨んだ視線の先で、猫のような目がふっと細められた。
「読んで泣いても、俺が慰めてあげますけど?」
「はあ?」
勝手に頬が赤くなる。ごまかすように大声を上げると、香坂はもう一度、くすりと笑ってから一礼した。
「じゃあ、これで失礼します。また明日」
するりと背中を向けて店を出て行く彼を、麻人はあっけに取られて見送る。
前から変なやつだ変なやつだとは思っていたが、やはりとびきり変なやつだ。
こんな三流の小説を読んで、俺が泣いたりすると本気で思っているのだろうか。
泣くわけがない。
そうだ、仁王とまで呼ばれているこの自分が、そんな簡単に泣くわけが……。
「麻」
帰宅後、夕飯を食べ終え、自室で勉強机に向かってぐすぐすと鼻をすすっていると、風呂上りの博人に呆れられた。
「また泣いてるの」
「またってなんだよ。泣くわけあるか」
鼻声で抗議するが、博人は構わずに麻人の肩ごしにパソコンの画面を覗き込む。次いで、やっぱり、と呆れたような声が漏れた。
「麻ってこの人の書いたの読むといっつも泣くよな」
「泣いてないと言ってるだろうが」
そそくさと目尻を拭ったものの無駄だったかもしれない。博人は聞く耳を持たず、これ見よがしに首を振っている。
「素直じゃないよな。別に泣いたっていいじゃん」
「うるさい。早く寝ろよ」
手を振って博人を追い払う。弟は、ほんと天邪鬼だよな、とぼやきつつ、間仕切りの向こうの自分の部屋へと退散していった。
冬の桜。それは不治の病におかされた主人公とその幼馴染の悲しい恋の物語。死を恐れ、絶望する主人公に幼馴染の彼女は、勇気づけようと必死に声をかけ続ける。しかしそんな彼女を主人公は邪険に扱う。それでも彼女は主人公の傍らにあり続ける。どれだけ罵倒されても彼女の微笑みは消えない。彼女の想いが伝わったのは、雪が桜のように降り注ぐ冬の朝。主人公の命の期限はもう残り少ない。そのときになって主人公は初めて彼女の愛の深さを知る。一緒にいたいのに、もういられない。病とは違う痛みで胸が張り裂けそうになりながらも、主人公は彼女に微笑みかける。彼女がそうしてくれたように。その笑みを見て、彼女が初めて、泣いた。雪が桜のように散る、空の下で。
「あのくそ眼鏡め……」
歯噛みしながら、麻人はパソコンを閉じ、服の袖で涙を乱暴に拭った。
東野雪弥の書いた小説を読むと泣く。悔しいことにそれは真実だ。
拙い文体なのに、なぜか泣ける。そもそもにおいて、自分はこういう泣かせようという小説が苦手だ。
こうなるのがわかっているから、学校では原稿を読まない。うっかり読んで泣いたりしてそれを見られたら面倒くさい。
忌々しい思いで鼻をかんでいた麻人は、そこで嫌な一言を思い出して動きを止めた。
──読んで泣いても、俺が慰めてあげますけど?
香坂はなんであんなことを言ったのだろう。あいつの前でそんな素振りを見せたことなんて一度だってないのに。
自分は文芸部の副部長として、毅然とした顔しか見せていないはずだ。人望はまったくないが、泣くような弱さも脆さも見せたことは決してない。
それなのに、あいつは妙に確信めいた口調でああ言った。
やっぱり嫌なやつだ。
そもそもにおいて、あいつの書くものも気に食わない。
並木道 偶然触れた 手の熱さ 落ち葉見る度 思い出されて
傘の群れ 雨音の向こう 君の声 掻き消えることなく 胸に満ちゆく
香坂が書くのはたいていが短歌だ。しかもどれも密やかに想う片想いを歌ったものばかり。
ひっそりと誰かを想ったりするタイプだろうか。あいつが。
あり得ない。
周りに恐れられる杉村麻人に平気で歯向かってくるあいつに、そんな繊細な部分があってたまるか。
「麻人、そろそろ寝ろよ」
間仕切りの向こうから博人が声をかけてくる。ああ、と返事をして、麻人はスタンドを消した。
会計を終え、本をビニール袋に入れて手渡す。ありがとうございました、と声をかけて、さて、と作業の続きに戻ろうとした麻人の前に影が差す。
「なに。寄り道?」
無愛想に言うと、双子の弟の博人は軽く唇を尖らせた。
「いいじゃん、俺だってたまには本読むんだって。麻みたく難しいのは読めないけど」
博人とは一卵性の双子だから顔かたちはそっくりだ。でも、見る者に与える印象は真逆だと思う。
博人は笑顔が多い。いつもにこにこしていて、誰からも好かれる。自分の顔なんて特別好きにはなれないが、博人の顔は表情豊かな良い顔だと思う。
性格の善し悪しはやっぱり顔に出るものかもしれない。
「バイト、何時まで?」
「八時」
「じゃ、待ってるから、一緒に帰ろう」
「気持ち悪いこと言わないで先に帰れよ、叔母さんが心配する」
露骨に顔をしかめると、博人は真顔になった。
「それ、麻のこともだよ」
「ああ?」
「心配。叔母さん、麻のことも心配してる」
目が真剣だ。麻人はやれやれとため息をついてから、レジ台を離れ、店の奥へと足を向ける。
「ああ、ちゃんと帰るし」
まったく、子供扱いしないでほしいものだ。内心そう思っている麻人に、それでも博人は食い下がってくる。
「麻人さ……無理しすぎ。叔母さんだってバイトすることなんてないって言ってくれてるじゃん。その上、勉強もして、部活もしてなんて倒れる」
「倒れるほどやわじゃない」
鼻先で笑って、麻人はひらひらと手を振った。さっさと帰れ、と態度で示すと、博人は不満そうに麻人を睨んでから、じゃあな、と言って店を出て行った。
自分だって馬鹿じゃない。博人の言うことが正しいことだってわかる。わかるけれど、それに従わなきゃいけない理由もない。
途中だった本棚の整理をするべく、店の奥へと進む。脚立を引っ張り出し、本棚の上段の整理をしていたとき、店の入り口から話し声が聞こえてきた。
脚立に乗ったまま、そちらを覗き見ると、制服姿の二人連れが入ってきた。麻人と同じ菊塚の制服だ。
店に入ってきたものの、雑談に夢中の様子で、レジへすぐに来そうではない。まあいいか、と脚立の上で作業を続ける麻人の耳に、甲高い彼女たちの声が飛び込んできた。
「にしてもさ、聞いた? ほら、文芸部の話」
「文芸部って? ああ……もしかしてあの話?」
「そうそう」
「仁王」
くすくすと笑い合う声に麻人は首を傾げる。文芸部の名前が出たが、仁王ってなんだろう。
「あの人知ってる? 文芸部でも新入部員全員辞めさせたりしてるけど、クラスでもあんな感じなんだって。掃除当番がどうとか、授業は真面目に受けろとか。従わないとお前それでも学生かー! って怒鳴るの、ほんとあり得ない」
「よく知ってるね、クラス違うのに」
「あんたなんで知らないの。有名人よー。すっごい嫌われ者」
「ああ……確かに言葉きついよね」
「きついとかじゃなくてあれは凶器よー。友達で泣かされた子、いるもん。字、汚すぎだろ。読ませる気あるのか! とか言ったんだって」
「ひどーい」
「ひどいよねー。普通あんな言い方しなくない?」
「ほんとほんと」
声が同調する。
ことここに至り、ようやくわかった。
ああ、仁王とは自分のことだったわけか。香坂や伊藤が言っていたのもきっとこのことだろう。
随分な言われようだ。でも言われても仕方ないとは思う。彼女たちの言うことの八割くらいは本当だ。
委員会の際、板書された文字があまりにも読みづらく「この字はソか? リか? わからん。書き直してくれ」とは言った。それがこう伝わるわけか。
しかし仁王とは。
寺の山門からこちらを睨みつけてくる、憤怒に燃えた仏像の表情が脳裏に浮かんでくる。
自分はあんな形相を普段しているのだろうか。頬を撫でつつ、麻人は自身の体を見下ろす。
そもそも、あそこまで筋肉隆々でもないのに。
「センスのないあだ名だ」
くんくん、とエプロンの端が引っ張られたのはそのときだった。ぎょっとしてそちらを見ると、脚立のすぐ下からこちらを見上げている大きな目と目が合った。驚きすぎて脚立が揺れる。その脚立を横合いから支えたのは、目の主である香坂だった。
「おま……なんで?」
「なんでっていうか」
香坂はぽかんと開いた大きな目で麻人を見上げてから、スマホを引っ張り出してかざしてみせた。
「東野さんの原稿データ、もらえたんで。さっき先輩宛に送ったんですけど、まったく既読にならないし。一応、口頭でも伝えておこうかなと」
「ってか! お前、なんで俺のバイト先知ってるわけ」
ここでバイトしていることを知っているのは、養い親である叔母と博人だけだ。学校の人間には誰にも話していない。話す相手もそもそもいない。
気味悪さを覚えつつ香坂を眺めると、ふふ、と彼は不敵に笑った。
「俺はですね、杉村先輩のストーカーなんで」
「はあ?」
自分のものとは思えない頓狂な声が出た。そのときになって、麻人は気がついた。さっきまで姦しく聞こえていた噂話が聞こえなくなっている。
脚立の上から入り口を窺うと、猛烈に気まずそうな顔をした二人組がそそくさと店を出ていくところだった。
「お前のせいで客が逃げた」
「え、俺のせいですか?」
香坂が心外だと言いたげに瞬きをする。
「そもそもそんな仏頂面で客商売なんてよく選びましたよね」
しみじみと言う香坂を睨みつけ、麻人は本棚の本を整理して脚立を下りた。
「無駄口叩いてないで早く帰れ。もう遅いぞ」
しっしと手を振ると、香坂は、はいはい、と言葉だけ返してくる。相変わらず生意気だ。
「東野の原稿、お前は読んだの」
癇に障るやつだが仕事が早いのは助かるな、と思いつつ麻人が問うと、ええ、と軽い応えがあった。
「どうだった」
エプロンが埃っぽい。ぱたぱたとはたいている麻人に向かい、香坂はくすっと笑う。
「相変わらずの東野ワールドですよ」
言われて麻人は顔を引き攣らせた。
「涙腺狙いの恋愛小説ってことか」
「ええ。でも良い話でした」
淡々とした声だったが、本心からのもののようだ。麻人はレジの奥の椅子に腰かけながら、スマホでデータを検める。『冬の桜』。どこかで聞いたタイトルだ。
「つまらなそうだな」
「読む前からそんなこと言うのはどうかと思いますけど」
非難めいた声を無視し、むっつりと原稿に目を落とす。冒頭数行をさらさらと読んだところで、麻人はスマホをポケットに戻した。
「読まないんですか?」
「家で読む」
仕事中だしな、と言い訳したとき、香坂がくすっと笑った。
なんだよ、と睨んだ視線の先で、猫のような目がふっと細められた。
「読んで泣いても、俺が慰めてあげますけど?」
「はあ?」
勝手に頬が赤くなる。ごまかすように大声を上げると、香坂はもう一度、くすりと笑ってから一礼した。
「じゃあ、これで失礼します。また明日」
するりと背中を向けて店を出て行く彼を、麻人はあっけに取られて見送る。
前から変なやつだ変なやつだとは思っていたが、やはりとびきり変なやつだ。
こんな三流の小説を読んで、俺が泣いたりすると本気で思っているのだろうか。
泣くわけがない。
そうだ、仁王とまで呼ばれているこの自分が、そんな簡単に泣くわけが……。
「麻」
帰宅後、夕飯を食べ終え、自室で勉強机に向かってぐすぐすと鼻をすすっていると、風呂上りの博人に呆れられた。
「また泣いてるの」
「またってなんだよ。泣くわけあるか」
鼻声で抗議するが、博人は構わずに麻人の肩ごしにパソコンの画面を覗き込む。次いで、やっぱり、と呆れたような声が漏れた。
「麻ってこの人の書いたの読むといっつも泣くよな」
「泣いてないと言ってるだろうが」
そそくさと目尻を拭ったものの無駄だったかもしれない。博人は聞く耳を持たず、これ見よがしに首を振っている。
「素直じゃないよな。別に泣いたっていいじゃん」
「うるさい。早く寝ろよ」
手を振って博人を追い払う。弟は、ほんと天邪鬼だよな、とぼやきつつ、間仕切りの向こうの自分の部屋へと退散していった。
冬の桜。それは不治の病におかされた主人公とその幼馴染の悲しい恋の物語。死を恐れ、絶望する主人公に幼馴染の彼女は、勇気づけようと必死に声をかけ続ける。しかしそんな彼女を主人公は邪険に扱う。それでも彼女は主人公の傍らにあり続ける。どれだけ罵倒されても彼女の微笑みは消えない。彼女の想いが伝わったのは、雪が桜のように降り注ぐ冬の朝。主人公の命の期限はもう残り少ない。そのときになって主人公は初めて彼女の愛の深さを知る。一緒にいたいのに、もういられない。病とは違う痛みで胸が張り裂けそうになりながらも、主人公は彼女に微笑みかける。彼女がそうしてくれたように。その笑みを見て、彼女が初めて、泣いた。雪が桜のように散る、空の下で。
「あのくそ眼鏡め……」
歯噛みしながら、麻人はパソコンを閉じ、服の袖で涙を乱暴に拭った。
東野雪弥の書いた小説を読むと泣く。悔しいことにそれは真実だ。
拙い文体なのに、なぜか泣ける。そもそもにおいて、自分はこういう泣かせようという小説が苦手だ。
こうなるのがわかっているから、学校では原稿を読まない。うっかり読んで泣いたりしてそれを見られたら面倒くさい。
忌々しい思いで鼻をかんでいた麻人は、そこで嫌な一言を思い出して動きを止めた。
──読んで泣いても、俺が慰めてあげますけど?
香坂はなんであんなことを言ったのだろう。あいつの前でそんな素振りを見せたことなんて一度だってないのに。
自分は文芸部の副部長として、毅然とした顔しか見せていないはずだ。人望はまったくないが、泣くような弱さも脆さも見せたことは決してない。
それなのに、あいつは妙に確信めいた口調でああ言った。
やっぱり嫌なやつだ。
そもそもにおいて、あいつの書くものも気に食わない。
並木道 偶然触れた 手の熱さ 落ち葉見る度 思い出されて
傘の群れ 雨音の向こう 君の声 掻き消えることなく 胸に満ちゆく
香坂が書くのはたいていが短歌だ。しかもどれも密やかに想う片想いを歌ったものばかり。
ひっそりと誰かを想ったりするタイプだろうか。あいつが。
あり得ない。
周りに恐れられる杉村麻人に平気で歯向かってくるあいつに、そんな繊細な部分があってたまるか。
「麻人、そろそろ寝ろよ」
間仕切りの向こうから博人が声をかけてくる。ああ、と返事をして、麻人はスタンドを消した。