茶器の乗ったお盆を持ち、黒い作務衣を着た彼の姿に、麻人は目を見張る。着慣れていることを思わせる着こなしだったからだ。
「どうしたんですか? びっくりした」
 香坂はにっこりと笑ってから、矢島に目を向ける。
「清衣が連れてきたの」
「散歩の途中で偶然会ったから」
 矢島はさっきまでの会話などまるでなかったかのようにけろりとした顔でそう言い、水を飲み終わってぬいぐるみで遊んでいるさとみを抱き上げる。
「さとみのリードうっかり放しちゃって、杉村さんに捕獲してもらったんだ」
「え、どこで」
「そこの坂道」
「気をつけろよ。あそこ車多いんだから。……先輩、ありがとうございます」
 軽く頭を下げてから、香坂は室内へ入って、障子を閉める。
「仕事いいの」
「後は親族とやるって。母さんに言われて」
 言いながら、香坂はちゃぶ台の前に座り、手にしていたお盆を置く。ポットから急須にお湯を入れ、茶碗に注ぐ。
「粗茶ですが」
 茶たくに乗った茶碗が、つつっと麻人の前に置かれた。
「千影、杉村さんに自分のこと、全然話してないんだね」
 お茶と共に置かれた饅頭をつい、と取り上げ、矢島が言った。香坂は不思議そうな顔をしつつ、自分の分の茶碗にもお茶を注いでいる。
「なに? 自分のことって」
「寺の息子ってこととか。犬のこととか」
「してないけど」
「すればいいのに。好きなんじゃないの」
 香坂の口がぱかりと開く。茶碗を乱暴に置いた彼は、躍起になって身を乗り出した。
「なんで清衣がそんなこと知ってるんだよ」
「文化祭のとき、俺、図書室でさぼってたんだよ。そしたら階段のとこにふたりが来て、勝手に話し始めちゃって」
「そうだったんだ……」
 香坂が額を押さえる。真っ赤になった香坂を、麻人は複雑な気持ちで眺めた。
 なんでこいつはこんなに真っ赤になっているのだろう。
 好き、と言ったあの言葉はやはり本気だったと思っていいのだろうか。
 じゃあ矢島は香坂にとってなんなのだろう。まるで自分の家のようにくつろいでいる矢島をちらりと窺う。
 香坂は、こいつの前ではリラックスして見える。からかいあったり、ふざけあったり、とても楽しそうだ。
 対して自分の前ではどうだろう。背筋を伸ばして、てきぱきと仕事をこなし、皮肉ばかり言う。
 どちらが自然体かなんて……考えるまでもない。
「帰る」
 立ち上がると、香坂が驚いたように顔を上げた。
「先輩?」
「邪魔した」
 彼の顔が見られない。俯いたまま、障子を開け廊下へ出る。階段を駆け下り、渡り廊下へ差しかかったところで、追ってくる足音が聞こえた。むんずと後ろから手を掴まれる。
「先輩ってば!」
 必死に呼びかけられて、胸が痛む。掴まれた手が香坂によって揺さぶられた。
「一体、どうしたんですか。なんで急に……」
「別に」
「清衣がなにか言いましたか」
 声はいつもと変わらない。波のないそれに、なぜかかっとなった。乱暴に腕を振って手を払うと、香坂は弾かれたように麻人の顔を見た。
「俺はお前が嫌いだ」
 声が渡り廊下に落ちる。香坂は、声もなく、ただそこにいる。
「同情とか、そういうのも、もうたくさんなんだ」
 そっと息を吸う。彼にわからないように。
「だから、もう俺に構うな」
 重ねてそう言うが、香坂は黙ったままだ。ただじっと探るようにこちらを見つめている。その目から目を逸らそうとしたときだった。
「目、逸らさないで」
 低い声で、香坂が言った。次いで、彼はゆっくりと手を持ち上げる。黒い袖に包まれた腕が伸ばされ、乱暴に胸倉を引っ掴まれた。なに、と言いかけた麻人を香坂が遮った。
「目、逸らさないで、もう一回言ってもらえますか。わかるように」
「あのな、これ以上ないくらい明確に言ったはずだ」
 声が震えそうになる。自分を必死に叱咤しながら返すと、そうですか、と低く応えがあった。香坂、と呼びかけた麻人の前で、彼は唇を歪めた。
「俺が男だから嫌いとか、そういうのなら我慢できるんですけどね」
 乱暴に胸倉を掴んでいた手が離される。よろめいた麻人を、香坂はぎらぎらした目で睨んでまくしたてた。
「同情とか、どこまで自分のこと蔑めば気が済むんですか。俺が、同情なんかで人に好きなんて言うと本気で思ってるわけですか。だとしたら侮辱もいいとこだ」
「なにを怒ってる」
「あんたが馬鹿過ぎるから」
 唇を噛んで、香坂は俯く。そっとその顔を覗き込んで、麻人は仰天した。
 彼の白い頬に雫が落ちるのが見えた。それは、すうっと滑り、顎の先から床へと儚く散っていく。
「俺は、どんなだっていい。口が悪すぎたって、厳しすぎたって。石頭で順応性皆無だって構わない。でも、あんたがあんた自身を貶めるようなことばかり言うのだけは我慢できない」
「こう、さか……」
「俺は……見てきたのに。先輩の良いところ、見てきて……だから、好きだと思ったのに。先輩には全然、届かない」
 黒い袖で瞼を乱暴に抑え、香坂は怒鳴った。
「一回くらい、ちゃんと周りを見てみろよ。あんた自身をもっと大事にしろよ。大馬鹿!」
 香坂、と呼びかけた麻人の声を振り切るようにして、彼は麻人の脇を通り過ぎる。あっという間に視界から消えた彼の背中を呆然と見送る麻人の背後から、そのとき、大げさなため息が聞こえた。
「馬鹿じゃないの、あんた」
 矢島が、心底軽蔑したような眼差しをこちらに向け、渡り廊下の手すりに身を預けていた。
「千影のこと泣かせるとか。ほんと、最低だし」
「なんで……あいつが泣くんだ……」
「言ってたじゃん。あんたのせいだよ」
 なんで、と腹立ち紛れに矢島を睨むと、矢島は鋭い目でこちらを睨み返してきた。
「あんたが少しも自分を大事にしないから。むちゃくちゃ頑張って、でもそれを人に悟られないように壁を作って、誰も入れないから。いつもいつも自分のことを嫌っているから」
 心にまっすぐ刃を差し込まれた気がした。呆然と見返すと、矢島はふっと息をついた。
「ねえ、あんたは俺にやきもちを焼いたんじゃないの。千影を取られるみたいで嫌だったんじゃないの」
 かっと頬が熱くなる。顔を背けると、矢島は、馬鹿じゃないの、ともう一度言った。
「そんなふうに思ってるのに、なんでそう言わないの。千影はもっとあんたと話したいんだろうに。あんたがそんなんだからなんにも言えないんだよ」
「だったら……お前がわかってやればいいだろう」
 どろどろと暗い感情が胸の中でとぐろを巻く。押し殺した声でそう言うと、矢島は三度、馬鹿じゃないの、と吐き捨てた。
「千影がそんなの望んでないのにそんなことしてなにか意味があるの。大体、俺は千影のことを恩人だと思ってるけど、そういう意味で好きじゃない」
「は……」
 耳を疑った。聞こえている左耳もついにおかしくなったのか、と思わず耳を押さえてから、麻人は矢島に食ってかかった。
「お前っ! 香坂をもらうって、構うなとか、いろいろ言ったじゃないか!」
「ああでも言わないとあんたには伝わらないと思ったから言っただけ。ってか、普通気づくでしょうが。俺と千影が付き合うとかあり得ない」
「なんで」
「千影と俺じゃ、まったく考え方違うし。そもそもあいつ、きちんと生きてないやつ、嫌いだもん」
「どういう意味だ」
 矢島はちょっと黙ってから、まあいいか、とこめかみを揉んだ。
「俺、中学の時から付き合ってた彼女がいたんだけどさ、その彼女が死んだんだよ。一年の終わりに。自分で自分を終わらせちゃう感じで」
 言葉を失う麻人の前で、矢島は睫毛を下ろす。
「彼女の家、親がひどくて。父親には殴られて、母親はそれを見て見ぬふりする人で……。そういうの、俺も聞いてたから、帰らなくていいよう、俺の家泊めたりもしてた。でも、親に殴られてること、彼女、俺以外に知られるのすごく嫌がって……。だから俺も俺の親に言えずにいて」
 ふうっと少ない酸素を取り込もうとするように、矢島が息継ぎをするのが見えた。絞り出された声は、はっきりと滲んでいた。
「そのうち、うちの親が彼女を何拍もうちに泊めるの渋るようになった。元通り家に帰らなきゃいけなくなって。彼女、大丈夫って笑ってたくせに……結局、耐え切れずにいっちゃった」
 遠く、仏事の準備をする人々の声が聞こえてくる。けれどその声すら矢島の声によって霞んでいく気がした。
「俺がもっと大人で、彼女の意思なんて関係なく、周りに助けを求めてればって、あの後、何回も思った。同時に悔しかった。俺の存在じゃ、あいつを繋ぎ留められなかったんだなあって。俺がいるのに、それでもあいつはあっちに行きたいって思っちゃったんだもん。ようは、あいつにとって俺っていらない存在だったってことなんだ。きっと」
 そんなことない。そう言いかけて麻人は口を噤む。
 自分には、言えない。
 心の奥に仕舞いこんでいた、あの光景が浮かび上がってくる。
 畳の匂いと、裸足で立つ足。そして……ビール瓶。
 痛みはすべての感情を薙ぎ払うだけの力があることを、自分は知っている。おそらく、矢島の彼女もそうだったのだろう、と想像もつく。けれど、それを今、自分が口にしたところで目の前の彼の心を癒す手助けにはならない。いや、それどころか、かえって彼を傷つける気がした。
 痛みを知る者の言葉は、痛みを知らずに生きてきた者にとって、あまりにも重すぎる。
 無言の麻人を黙って見つめてから、矢島は小さく笑った。
「まあそんなわけで。彼女が死んで以来、ちゃんと生きるのを俺はやめてしまった。なにもかもどうでもよくなっちゃって。親もでも、千影はそんなんじゃいけないって俺をいつも叱る。俺を好きだからじゃない。そういうきちんと前を見てないやつが大嫌いだから」
 だけどね、と矢島は目を細める。
「彼女のことがあってから、俺の親も俺になにも言えなくなった。俺が学校に行かなくても喧嘩してもなんにも。そんな中で、千影だけは叱ってくれた。そのことは……とても感謝してる。俺がここにいる意味はまだわからないけれど、俺の人生はまだ存在しているんだって思えてきたのは、千影のおかげだと思うから。だからこそ、俺は千影が好きと思う人と一緒にいてほしいんだ」
 矢島は不意に姿勢を正し、まっすぐに立ってこちらを見た。これまで見せたことのない、真剣な眼差しがこちらに向けられていた。
「杉村さん、千影は同情とかそういうので告白なんてできないよ。そもそもああ見えてプライドが高いんだから、自分から誰かに好きなんて絶対言わない。でも、あんたにはそう言った。意味、わからないわけないよね」
 大体、と矢島の声が柔らかく諭すように投げられる。
「あんただって、千影を好きだよね」
「俺は……」
 好きじゃない。いつもならそう言っていた。でも、今はもう、言えない。
 好きじゃないなんて、言いたくなかった。
「千影なら、きっと、裏の墓地のとこにいるよ」
 矢島はすっと離れの横を指差す。墓地、と怪訝な顔をした麻人に、彼は痛ましげに眉を寄せて笑んだ。
 その笑顔を見て、麻人は驚いた。香坂とよく似た笑顔に見えたから。
 このふたりの仲が良いわけが、わかった気がした。
「杉村さん」
 その笑顔のまま、矢島は囁くように言った。
「千影とたくさん話してあげて」
「矢島……」
 嫌なやつだと思っていたのに。
「ごめん……その……ありがとう……」
 やっとのことでそう言うと、矢島は形の良い目を大きく見開いてから、くすくすと笑い出した。ひとしきり肩を揺らして笑った後、彼は目尻を拭いながら言った。
「なるほどなあ、千影が惚れちゃうわけだ」