結局、夜通し恋愛小説を読んでしまった。ハートが乱れ飛ぶ恋の睦言を綴ったものから、数多の試練を乗り越え、手に手を取り合う大恋愛ものまで。恋愛小説の幅広さに終始圧倒されただけで、大した収穫もなく、無駄に寝不足になっただけだった……と、吐き捨てたかったが、多くの恋愛小説に描かれていた感情に麻人は共感せざるを得なかった。
──千影、もらっちゃいますけど。
矢島にそう言われたとき覚えた胸のむかつきと同じものが、小説の世界には随所に仕込まれていたから。
もやもやを解消できぬまま、麻人は本を閉じた。大きく伸びをし、窓の外を見る。
両腕で世界を丸ごと抱え込んで夏へと変えようとするかのような、真っ青な空が見えた。
今日は土曜だ。読書のし過ぎで頭が重いし、少し眠りたかったが、その空を見ているうち、課題があるのを忘れて数学の教科書を学校へ置いてきたことを思い出してしまった。
やるべきことはやる。そのポリシーが地味にのしかかってくる。
盛大なため息を漏らしつつ、麻人は着替えて外に出た。
学校は高台にあるので坂を上らなければならない。しかもかなり長く傾斜のある坂で、毎年恒例のマラソン大会では、リタイアを申し出る生徒が必ず出る。病み上がりにこの坂はさすがにきつく、思った通り、麻人は坂の中腹で力尽きた。休憩しようと足を止め、額の汗を拭う。
上って来た道のりを見下ろすと、武家屋敷やら神社仏閣が坂道に沿ってひしめいている。見慣れた町並みだが、観光客には物珍しいらしく、今も、旅行者らしい女性の二人組が甲高い声で話しながら通り過ぎていく。旅行者というのは体力のゲージが地元住民とは違うのか。よくあんなに話しながら歩けるものだといつも感心する。
「うるさいな……」
気がついたら、そう零してしまっていて、麻人は自分自身に落ち込んだ。
気持ちがささくれているのだろうか。いつもはこんなことはないのに。
こんなのは八つ当たりだ。
自嘲気味にため息を零したとき、足元になにやら気配を感じた。視線を落とした麻人は、ぎょっとした。
足元にチワワがいた。背中に茶色い毛の入った、白いチワワが。
どこから来たのだろう。犬には赤いリードがついているが、飼い主の姿は見えない。
ここは道は細いが、車も通る。危ないな、と道に膝を突き、チワワを抱き上げると、チワワは怖がる様子もなく大人しく腕に抱かれた。人懐っこい性格なのか尻尾がはたはたと揺れている。
思わずその丸い頭をぐりぐりと撫でると、尻尾の振りがますます大きくなった。犬を飼ったことなどなかったが、実は犬が好きだ。丸く見開いた目を見ているとほっとする。が。
「へええ」
不意に声が聞こえてきて、犬を落っことしそうになった。よしよし、と犬をあやしつつ、声の主を振り返る。こちらを面白そうに眺める相手が誰か認めたとたん、麻人は完全に石化してしまった。
矢島だった。
「杉村さんでもそんな顔するんだ」
意外そうに、矢島が肩を揺らして笑う。麻人は頬が熱くなるのを感じたが、口調だけは荒々しくいつも通りに言った。
「お前こそ、なんでこんなところにいる」
「なんでって。散歩ですよ」
言いながら矢島は近づいてきて、麻人の腕の中の犬を取り上げた。
「こいつの」
「お前の犬なのか」
こんなところで離すな、と非難しようとした麻人を、矢島はちらっと眺めてから、チワワの背中を撫でる。
「違いますよ」
矢島の瞳に、悪戯っぽい笑みがたゆたう。
「これ、千影の犬です。さとみくんです」
「さとみ……」
「なかなか古風な名前だと思いません?」
くすくす笑う矢島から、麻人はぎくしゃくと目を逸らす。
なんで休みの日に、香坂の犬を矢島が散歩させているのだろう。
「杉村さんって、思ったこと全部顔に出るタイプだったんですね」
「はあ?」
「なんで矢島が香坂の犬を休日に散歩させてるんだ、って思ったんじゃないですか?」
図星だ。息を呑んだ麻人を見て、矢島はなおも肩を震わせて笑ってから、犬を麻人の腕に戻した。
「ちょっと、付き合ってくれます?」
「なに」
「いいですから」
矢島はすたすたと坂を上っていく。逡巡したものの、麻人はその後に続くしかなかった。腕にチワワを抱えたままだったからだ。
あんな誘い文句を言うくらいだし、普通、何らかの説明があってしかるべきだと思うが、矢島は背中を向けたきり、なにも語らない。
一体、どういうつもりなんだろう。
数分歩いて、矢島が足を止めたのは、学校から程近い寺の前だった。
門柱には、浅見寺、と刻まれている。
「矢島……ここは……」
問いかけた麻人にやっぱり答えることなく、矢島はすたすたと山門を抜け、本堂に向かう。が、そこが目的地ではなかったようで、彼は本堂の脇を通り、隣接した建物の裏口らしき扉をがらりと開けた。
「ああ、矢島くん」
着物に割烹着姿でお盆を抱えた初老の女性が、行き過ぎる途中で慌ただしく声をかけてきた。
「おばさん。さとみの散歩行ってきました」
「ごめんなさいね。今日年忌法要入っていて、忙しくて。千影くんなら本堂のほうで手伝いをしてるから」
「じゃあ勝手に部屋上がってますんで」
「ええ、そうして。あら、そちらは?」
女性の視線がこちらに向く。動揺しながらもぎこちなく頭を下げると、矢島が飄々とした顔で女性に麻人を紹介する。
「この人、千影の先輩です。杉村麻人さん」
「杉村さんって。まあ、あなたが」
女性の目が丸くなった。
「千影くんからよく話を聞いてます。いつもお世話になって」
「あ……いえ……」
恐縮しながら首を振ると、女性は、まずは上がって、と微笑みながら促してきた。遠くで誰かが呼ぶ声がする。それを聞くと、彼女は慌てたように手にした盆を抱え直した。
「千影くんにも言っておくわね」
「どうも」
忙しなく女性が廊下を去ってしまうと、勝手知ったるなんとかというように矢島は靴をさっさと脱いだ。戸惑っている麻人を、目だけで促す。
随分横柄な態度だ。やっぱりこいつは好きになれない、と思いつつ、しぶしぶ靴を脱ぐと、矢島は先導するように先ほど女性が進んだ廊下とは逆方向へと向かった。母屋を抜け、小さな渡り廊下で繋がれている離れらしい建物に入った彼は、入ってすぐのところにある階段を上った。
上がった先には短い廊下がある。その廊下の突き当たりにある障子を矢島はするりと開けた。
「どうぞ」
声をかけられ、麻人はそろそろと室内へと足を踏み入れる。
まず目に入ったのは壁にかけてある制服だった。ああ、やっぱりここは香坂の家なのか、と納得しつつ、視線を転じる。あまり物のない部屋だ。ただ、壁際に本棚があり、ぎっしりと本が詰め込まれているところは香坂らしい。
「千影の家、来たの初めてですか」
「普通、あまり行かないものだろう」
「杉村さんってそもそも家を行き来したりしなさそうですもんね。友達いなさそうだし」
遠慮容赦というものがこいつにはないらしい。怒るのも疲れ、抱えたままだったチワワを下ろすと、チワワのさとみはかしかしと爪の音を立てながら床を歩き、部屋の隅にある水の入った器に顔を突っ込んだ。
「否定はしない。知っての通り、仁王だからな」
憮然としながら言うと、矢島は数秒黙ってから、ふっと息を吐く。
「まあ、俺だって、こんなふうに家に遊びに行くの千影のとこくらいですけど」
胸がずきり、と痛んだ。
それを隠したくて、チワワのさとみが水を飲む姿をひたすら見つめていると、脈絡なく矢島が言った。
「さとみって捨て犬だったんですよ」
「そうなのか」
「ここの門の前に捨てられてたんですって」
呟きながら、矢島はそっと犬の背中を撫でる。犬は水を飲みながら尻尾を振っている。
「千影って、いつもそうですよね。可哀相なものを見るとつい声をかけたくなっちゃうというか」
可哀相。その言葉をつい最近聞いた。言っていたのは宮川か。思い至ったとたん、麻人は苛立ちのあまり思わず声を上げていた。
「俺のことも、そうだと言いたいのか」
矢島は、窓枠に腰を下ろしかけて動きを止める。穴が開くほどこちらを見つめてから、彼は唐突に笑い出した。
「なんだよ」
「杉村さんって……」
笑いを収め、矢島は、はああ、と息をついた。
「なんにも知らないんですね」
「なにを」
「だから、なんにも」
矢島は憐れむような顔をしてから、窓枠にひょいと座る。
「前にも言いましたけど、中途半端なことするなら、千影には構わないでほしいんですよね」
「俺がいつ、あいつを構った」
「確かに構ってるのは千影ですけど」
矢島は前髪を引っ張りながら呟く。
「見てられないんですよね。千影のあんな顔」
「あんな……?」
「わかりませんか」
矢島がふっと顔から笑みを消す。返す言葉を持たず、彼の顔を見返すと、矢島は低い声で言った。
「むちゃくちゃ無理してますよ、あいつ」
思わず矢島の顔を凝視した麻人を、彼はじっと見つめ返してから言葉を継いだ。
「俺は、あいつのしんどそうな顔、見たくないんです。あいつは俺の」
言いかけて矢島は口を噤んだ。階段を上がってくる軽快な足音が聞こえた後、さらっと障子が開く。
「杉村先輩!」
声とともに顔を出したのは、香坂だった。
──千影、もらっちゃいますけど。
矢島にそう言われたとき覚えた胸のむかつきと同じものが、小説の世界には随所に仕込まれていたから。
もやもやを解消できぬまま、麻人は本を閉じた。大きく伸びをし、窓の外を見る。
両腕で世界を丸ごと抱え込んで夏へと変えようとするかのような、真っ青な空が見えた。
今日は土曜だ。読書のし過ぎで頭が重いし、少し眠りたかったが、その空を見ているうち、課題があるのを忘れて数学の教科書を学校へ置いてきたことを思い出してしまった。
やるべきことはやる。そのポリシーが地味にのしかかってくる。
盛大なため息を漏らしつつ、麻人は着替えて外に出た。
学校は高台にあるので坂を上らなければならない。しかもかなり長く傾斜のある坂で、毎年恒例のマラソン大会では、リタイアを申し出る生徒が必ず出る。病み上がりにこの坂はさすがにきつく、思った通り、麻人は坂の中腹で力尽きた。休憩しようと足を止め、額の汗を拭う。
上って来た道のりを見下ろすと、武家屋敷やら神社仏閣が坂道に沿ってひしめいている。見慣れた町並みだが、観光客には物珍しいらしく、今も、旅行者らしい女性の二人組が甲高い声で話しながら通り過ぎていく。旅行者というのは体力のゲージが地元住民とは違うのか。よくあんなに話しながら歩けるものだといつも感心する。
「うるさいな……」
気がついたら、そう零してしまっていて、麻人は自分自身に落ち込んだ。
気持ちがささくれているのだろうか。いつもはこんなことはないのに。
こんなのは八つ当たりだ。
自嘲気味にため息を零したとき、足元になにやら気配を感じた。視線を落とした麻人は、ぎょっとした。
足元にチワワがいた。背中に茶色い毛の入った、白いチワワが。
どこから来たのだろう。犬には赤いリードがついているが、飼い主の姿は見えない。
ここは道は細いが、車も通る。危ないな、と道に膝を突き、チワワを抱き上げると、チワワは怖がる様子もなく大人しく腕に抱かれた。人懐っこい性格なのか尻尾がはたはたと揺れている。
思わずその丸い頭をぐりぐりと撫でると、尻尾の振りがますます大きくなった。犬を飼ったことなどなかったが、実は犬が好きだ。丸く見開いた目を見ているとほっとする。が。
「へええ」
不意に声が聞こえてきて、犬を落っことしそうになった。よしよし、と犬をあやしつつ、声の主を振り返る。こちらを面白そうに眺める相手が誰か認めたとたん、麻人は完全に石化してしまった。
矢島だった。
「杉村さんでもそんな顔するんだ」
意外そうに、矢島が肩を揺らして笑う。麻人は頬が熱くなるのを感じたが、口調だけは荒々しくいつも通りに言った。
「お前こそ、なんでこんなところにいる」
「なんでって。散歩ですよ」
言いながら矢島は近づいてきて、麻人の腕の中の犬を取り上げた。
「こいつの」
「お前の犬なのか」
こんなところで離すな、と非難しようとした麻人を、矢島はちらっと眺めてから、チワワの背中を撫でる。
「違いますよ」
矢島の瞳に、悪戯っぽい笑みがたゆたう。
「これ、千影の犬です。さとみくんです」
「さとみ……」
「なかなか古風な名前だと思いません?」
くすくす笑う矢島から、麻人はぎくしゃくと目を逸らす。
なんで休みの日に、香坂の犬を矢島が散歩させているのだろう。
「杉村さんって、思ったこと全部顔に出るタイプだったんですね」
「はあ?」
「なんで矢島が香坂の犬を休日に散歩させてるんだ、って思ったんじゃないですか?」
図星だ。息を呑んだ麻人を見て、矢島はなおも肩を震わせて笑ってから、犬を麻人の腕に戻した。
「ちょっと、付き合ってくれます?」
「なに」
「いいですから」
矢島はすたすたと坂を上っていく。逡巡したものの、麻人はその後に続くしかなかった。腕にチワワを抱えたままだったからだ。
あんな誘い文句を言うくらいだし、普通、何らかの説明があってしかるべきだと思うが、矢島は背中を向けたきり、なにも語らない。
一体、どういうつもりなんだろう。
数分歩いて、矢島が足を止めたのは、学校から程近い寺の前だった。
門柱には、浅見寺、と刻まれている。
「矢島……ここは……」
問いかけた麻人にやっぱり答えることなく、矢島はすたすたと山門を抜け、本堂に向かう。が、そこが目的地ではなかったようで、彼は本堂の脇を通り、隣接した建物の裏口らしき扉をがらりと開けた。
「ああ、矢島くん」
着物に割烹着姿でお盆を抱えた初老の女性が、行き過ぎる途中で慌ただしく声をかけてきた。
「おばさん。さとみの散歩行ってきました」
「ごめんなさいね。今日年忌法要入っていて、忙しくて。千影くんなら本堂のほうで手伝いをしてるから」
「じゃあ勝手に部屋上がってますんで」
「ええ、そうして。あら、そちらは?」
女性の視線がこちらに向く。動揺しながらもぎこちなく頭を下げると、矢島が飄々とした顔で女性に麻人を紹介する。
「この人、千影の先輩です。杉村麻人さん」
「杉村さんって。まあ、あなたが」
女性の目が丸くなった。
「千影くんからよく話を聞いてます。いつもお世話になって」
「あ……いえ……」
恐縮しながら首を振ると、女性は、まずは上がって、と微笑みながら促してきた。遠くで誰かが呼ぶ声がする。それを聞くと、彼女は慌てたように手にした盆を抱え直した。
「千影くんにも言っておくわね」
「どうも」
忙しなく女性が廊下を去ってしまうと、勝手知ったるなんとかというように矢島は靴をさっさと脱いだ。戸惑っている麻人を、目だけで促す。
随分横柄な態度だ。やっぱりこいつは好きになれない、と思いつつ、しぶしぶ靴を脱ぐと、矢島は先導するように先ほど女性が進んだ廊下とは逆方向へと向かった。母屋を抜け、小さな渡り廊下で繋がれている離れらしい建物に入った彼は、入ってすぐのところにある階段を上った。
上がった先には短い廊下がある。その廊下の突き当たりにある障子を矢島はするりと開けた。
「どうぞ」
声をかけられ、麻人はそろそろと室内へと足を踏み入れる。
まず目に入ったのは壁にかけてある制服だった。ああ、やっぱりここは香坂の家なのか、と納得しつつ、視線を転じる。あまり物のない部屋だ。ただ、壁際に本棚があり、ぎっしりと本が詰め込まれているところは香坂らしい。
「千影の家、来たの初めてですか」
「普通、あまり行かないものだろう」
「杉村さんってそもそも家を行き来したりしなさそうですもんね。友達いなさそうだし」
遠慮容赦というものがこいつにはないらしい。怒るのも疲れ、抱えたままだったチワワを下ろすと、チワワのさとみはかしかしと爪の音を立てながら床を歩き、部屋の隅にある水の入った器に顔を突っ込んだ。
「否定はしない。知っての通り、仁王だからな」
憮然としながら言うと、矢島は数秒黙ってから、ふっと息を吐く。
「まあ、俺だって、こんなふうに家に遊びに行くの千影のとこくらいですけど」
胸がずきり、と痛んだ。
それを隠したくて、チワワのさとみが水を飲む姿をひたすら見つめていると、脈絡なく矢島が言った。
「さとみって捨て犬だったんですよ」
「そうなのか」
「ここの門の前に捨てられてたんですって」
呟きながら、矢島はそっと犬の背中を撫でる。犬は水を飲みながら尻尾を振っている。
「千影って、いつもそうですよね。可哀相なものを見るとつい声をかけたくなっちゃうというか」
可哀相。その言葉をつい最近聞いた。言っていたのは宮川か。思い至ったとたん、麻人は苛立ちのあまり思わず声を上げていた。
「俺のことも、そうだと言いたいのか」
矢島は、窓枠に腰を下ろしかけて動きを止める。穴が開くほどこちらを見つめてから、彼は唐突に笑い出した。
「なんだよ」
「杉村さんって……」
笑いを収め、矢島は、はああ、と息をついた。
「なんにも知らないんですね」
「なにを」
「だから、なんにも」
矢島は憐れむような顔をしてから、窓枠にひょいと座る。
「前にも言いましたけど、中途半端なことするなら、千影には構わないでほしいんですよね」
「俺がいつ、あいつを構った」
「確かに構ってるのは千影ですけど」
矢島は前髪を引っ張りながら呟く。
「見てられないんですよね。千影のあんな顔」
「あんな……?」
「わかりませんか」
矢島がふっと顔から笑みを消す。返す言葉を持たず、彼の顔を見返すと、矢島は低い声で言った。
「むちゃくちゃ無理してますよ、あいつ」
思わず矢島の顔を凝視した麻人を、彼はじっと見つめ返してから言葉を継いだ。
「俺は、あいつのしんどそうな顔、見たくないんです。あいつは俺の」
言いかけて矢島は口を噤んだ。階段を上がってくる軽快な足音が聞こえた後、さらっと障子が開く。
「杉村先輩!」
声とともに顔を出したのは、香坂だった。