自宅に帰り、叔母の部屋を覗くと、キーボードに屈みこむようにタイピングをしていた叔母が振り返った。
「少し、本を見てもいい?」
 訊ねた麻人に叔母は太い黒縁の眼鏡を押し上げ、いいよ、と軽やかに言った。
 今日は執筆が順調らしい。
 叔母は作家だ。専門はホラーであり、年中、どうやれば人を恐怖させられるかを考えている。今日は表情が明るい。ということは、何人か葬り終えた後ということだろう。
「好きなだけ見なさいな」
 作家という職業柄か、叔母の部屋の壁は一面本棚で埋められている。叔母に引き取られて以来、麻人はここの本を読んで育った。文芸部に所属しているのも叔母の影響が少なからずある。
 そそり立つ本棚を見回し、麻人は目を細める。作家仲間から献本もされるせいか、叔母の本棚は相変わらず多様なジャンルが入り乱れていて、雑然としていた。
 視線で吟味し、背表紙をそうっと指先で撫でる。一冊取ってページをめくっていると、ねえ、と叔母が声をかけてきた。
「麻人も恋愛小説なんて読むのね」
「は……あ、まあ。部活、俺、文芸部だし」
 叔母の目は、麻人の手の中に向けられている。ぼそぼそと口の中で答えつつ、不自然にならないように手の甲で額の汗を払った。言い訳がましいと思ったが、いまだに叔母には本音で語れない。
 が、次の叔母の発言で、麻人の努力はすべて水泡に帰した。
「なんだ、てっきり恋の勉強かなにかだと思った。麻人、告白されたのよね」
「は⁉ え? なんで、それ」
 なんで、と問いかけつつ、麻人はぎっと天井を睨んだ。しゃべるのは博人以外にいない。
「ああ、博人は悪くないから。私が麻人のこと気になって博人に訊いただけ」
 憤怒の表情が出ていたのか、叔母が慌てたように手を振る。きいっと椅子を回してこちらに体を向けながら叔母は眼鏡を外して麻人を見た。
「ここのところ、あなた変だったし。体調崩していたせいかな、とも思ったけど、なんだかそわそわしてるっていうか。だから博人に訊いたの。麻人、なにかあったのかな、って。そしたら、告白されたみたいだよ〜って」
「軽くばらしていいことじゃないだろ、あの野郎」
 呟く麻人の手の中を叔母は興味深そうに眺める。恋愛小説の金字塔、と謡う帯を興味深げな目がなぞっていた。
「それで? 麻人はどう答えるの? 付き合うの?」
「付き合……いや、それは……あの……よくわかんないし、現状維持できる方法とか、見つけられたら……」
──結構卑怯なんですね。
 不意に矢島の声が蘇り、麻人は息を詰める。
 卑怯。現状維持を望むことは卑怯なのか? 
「俺は、卑怯じゃない」
「麻人?」
 叔母が気遣わしげに覗き込んでくる。
 そうだ。そもそもにおいて、自分がここまで悩む必要はないのだ。香坂は勝手に好意を押し付けてきているだけだし、矢島に至っては見当違いの嫉妬心を燃やしているだけなのだから。
「決めた」
 開いていた本をぱたりと閉じ、目の前にいない矢島を見るように、麻人は叔母を睨みつけた。戸惑った顔で、叔母が、え、と訊き返してくる。その彼女に向かい、麻人は宣言した。
「現状維持はやはり無理だ。あいつに嫌いって言うことにする」
「ええと」
 叔母が怪訝そうに瞬きをする。そうされて、相手が叔母だと思い出した。
「あ、いや、ごめん。なんかごちゃごちゃしてたけど、叔母さんと話してたら整理ついた。ありが……」
「なんで?」
 ふっと声が差しはさまれ、麻人は固まる。叔母は膝を組んでそのうえで片肘で頬杖を突いてこちらを眺めている。
「なんで、嫌い、なんて言わなきゃいけないの? 現状維持を考えていたくらいの相手に、あえて言う必要もないでしょう」
 淡々と諭され、麻人は唇を引き結ぶ。叔母は薄い唇を皮肉に吊り上げて笑う。
「もしかして、傷つけたいの? その子を」
「ちがっ……」
 傷つけたい。そうなのだろうか。そういうことではないと思う。そうではなくて。ただ。
「だって、あいつのこと考えるとものすごく気持ちが乱れるんだ。あいつが他のやつに名前で呼ばれてるの見るだけでいらっとしたりする。こういうのはもう、ごめんだから」
──俺がもらっちゃいますけど。
 あんな性格の悪そうなやつと付き合うのは大変かもしれないが、それでも、香坂にしてみれば良いことかもしれない。嫌われ者の自分よりも矢島のほうがよほどましだ。イケメンだし、香坂の気持ちも汲んでやれそうだ。
「あいつの時間だって、勿体ない。俺なんかに関わってるのは……」
「麻人は傲慢ね。案外」
 さらりと言い捨てられ、ぎょっとした。まさか、卑怯と言われた同じ日に、今度は叔母に傲慢と言われるなんて、思ってもみなかった。口をぱくぱくする麻人を、叔母は首を傾げ、仰ぎ見るように見ている。
「その人がなにに、誰に時間を割くかなんてその人の自由でしょう。それを勿体ないって決めつけるのはどうかな。そもそも今の麻人の言葉からして、ひとつの結論にしか、私は辿り着けないんだけど」
「……なに」
 叔母のこの整然とした口調が麻人は少し苦手だ。口では負けないはずの自分が、いつだって気を呑まれてしまう。
 叔母は切れ長の目でじいいっと麻人を見据えて言った。
「私には、今の麻人の言葉、その子のことが気になって仕方ない、と言っているように聞こえた。気になって仕方ないのは好きか嫌いか。嫌いという感情には、往々にして好きも内包されているもの。つまり、麻人はその子のことが好きということに……」
「いい! いい! 全部言わなくていい!」
 思わず手を振って遮ると、叔母はふふ、と小さく笑った。
「自分でも薄々そう思ってるってことね。その顔は」
「そう、いう、わけじゃなくて、俺は、ただ……」
「博人がね、言ってたのよ」
 膝を解き、皮張りの椅子の背もたれにゆったりと背を預けながら叔母は、片肘を机に突く。
「告白される前からその子のことだけは、麻人が妙に気にしてたって。人と関わるのを避けるみたいにしてた兄貴が、億劫がらずに相手をするなんて珍しいって」
「あいつ、なんでそんなに、なんでもかんでも話してるんだよ……」
「ふふふ」
 叔母はゆったりと笑ってから、麻人の手の中の本を軽く指で突いた。
「まあ、恋愛小説で勉強するのも悪くはないでしょう。麻人がまだ知らない感情も本の中にはたくさんあるものね。ただ、一個だけ覚えておいたほうがいい」
 叔母の顔からすっと笑みが消える。
 もともとそれほど表情豊かな人ではない。けれども、こんなふうに真剣な顔でまっすぐ見られることは、あまりない。
 目を見張る麻人の前で叔母は低い声で続けた。
「いい? 言葉はね、よく考えて使いなさい。そうじゃないと後悔することになる」
 デスク上のパソコンのモニター画面から漏れる白光が、叔母の顔に反射している。そのせいか顔色が悪く見える。棒立ちになる麻人の前で、叔母は頬に落ちていた髪を気だるげな仕草で耳に掛け直した。
「特に、想いを打ち明けられたことに対する返事は、適当にしちゃだめ。好きにしろ、嫌いにしろ、言うことって覚悟が伴うものなのよ。麻人に告白をしてきた子だって、きっとそれは同じ」
「いや、でも、そんなふうには見えない。毎日、平気な顔して笑ってるよ、あいつは」
 そうだ。あいつはいつだって笑っていた。
──困っちゃうんですよね。そんなんじゃ。
 告白の後、初めて顔を合わせたあのときだって、あいつは冗談めかしてそう言ってのけたのだ。覚悟なんて。
──こんなことしちゃうくらいに好きなんで。
 言葉と同意に唇に感触が蘇り、麻人はとっさに口許を押さえる。叔母はそんな麻人を興味深そうに眺めてから、肩をすくめた。
「まあ、好きも嫌いも、言うのはあなただし、好きにすればいいけれど。ただ」
 ふっと叔母が言葉を切る。見ると、叔母は先ほど見せた険しい顔が嘘のように、ふんわりと笑っていた。
「素直になるの、そんなに悪いことじゃないんだから。肩から力抜きなさい。あなたはいつも頑張りすぎよ」
──肩に力入り過ぎ。
 香坂の声が聞こえた気がした。息を止める麻人に叔母は微笑んだまま、きいっと椅子を軋ませ、デスクに向き直る。
「叔母さんも……告白とか、そういうの、されたことある」
 つい訊ねてしまったのはなぜだろう。こんなふうに叔母の過去に立ち入ったことは、これまで一度もなかったのに。
 申し訳なくて、できないと思っていたのに。
 叔母は答えず、キーボードを叩いている。
 気を悪くさせただろうか。
 不安を覚えたが、その麻人の気持ちをよそに、叔母は一区切りついたのか、手を止めて、そうね、と背中で笑った。
「小説ばっかりに夢中にならず、もっとあの人に向き合っていればよかったって人はいるわよ。それなりにね」
 頑張りなさい、と声だけが投げられる。かたかたと鳴り始めたキーボードの音を耳に収めながら、麻人は手の中の本を見下ろした。
『あなたが、好きです。』
──好きなんですけど。
 帯に黒々と書かれた文字を麻人はそうっと指でなぞる。と、同時に、やけにまっすぐな香坂の目を思い出した。千影、と呼んだ矢島の声も。
 どうしようもないくらい、思い知った気がした。
 叔母に言われるまでもなかった。
 自分は、香坂が、好きなのだ。