あいつだって顔を合わせるのは、気まずいのではないだろうか。
 だとしたらここにはいないよな、と思いつつ、科学準備室の扉を開けると、予想に反し、室内では香坂がマグカップ片手に読書をしていた。
「あれ、杉村先輩」
 麻人に気づいた彼は、本を開いたまま、にっこりと笑う。
 まったくいつも通りに。
「今日は委員会の日じゃなかったんですか?」
「明日になった」
 表情を取り繕いながらそう言い、麻人は扉を閉める。香坂は、そうですか、と言って棚からもう一つマグカップを出す。
「先輩も飲みます?」
 ああ、とぎこちなく頷いて、指定席である窓を背にした椅子に腰を下ろす。
「東野先輩がさっき来ましたよ」
 コーヒーメーカーからコーヒーを注ぎながら、香坂が言う。このコーヒーメーカーは科学教師が自分用に持ち込んだものだが、文芸部の顧問でもある彼はめったにここに来ないため、いまや文芸部の備品と化している。
 どうぞ、と、ことんと、机にカップが置かれる。その横には、麻人しか使わないスティックシュガーとスプーンが添えられていた。
 考えてみれば、これもそうだ。
 香坂は、なにも言わなくてもスティックシュガーを添える。
 全然、意識していなかったが、毎回、そうだった。
 勝手に頬が熱くなる。赤くなる顔をごまかすように意味なく髪を掻き回しながら、麻人は砂糖をコーヒーへと注ぎ、カップの中をぐるぐると掻き回した。
 本気で、困った。
「先輩は聞きました? 新聞部のコラムの話」
 言いながら、香坂は椅子を引いて座る。それは麻人が座る椅子の左前、いつも香坂が座る席だった。
「ああ」
「どう思います?」
 香坂は机の上に伏せてあった本を広げながら訊ねる。宮沢賢治全集、とある。少し意外だ。
「お前は、どうしたいんだ」
「そうですねえ。面白いとは思いますけど、ただ、コンスタントに書くとなると、うちの部は人が少ないし、いろいろ難しいですね」
「……俺たちも、卒業するしな」
「……そうですね」
 そう言って香坂は横顔だけでひっそりと笑う。
 その顔を見ていたら、胸が詰まった。カップをかたんと置くと、ふっと香坂が本から目を上げた。
「香坂は……」
「はい?」
 きょとん、と香坂が目を瞬く。本当にいつも通りの、まったく変わらない顔で。
「先輩、どうかしました?」
 だめだ。
 やっぱりまっすぐにこいつの顔が見られない。
 多分、かなり不自然だったはずだが、麻人は事務椅子を回し、壁際に置かれた備品棚のほうへ体を向けた。
「香坂は、書くの、好きか」
「好きですけど」
 淡々とした声が背中から聞こえてくる。そうか、と呟いて、麻人は次の言葉を探す。
 その間も頬に宿った熱は、まったく散ってくれない。
「顔、赤いですけど、熱、まだあるんですか?」
「いや」
 彼のほうを見ないまま首を振る。心配してくれていることはわかるのだが、いかんせん、振り返る勇気がない。頑な態度のせいか、背後で香坂も沈黙する。
 気詰まりな時間が数秒過ぎたときだった。
 いきなり、視界が回転した。
 眩暈か、と慌てたがそうではなく、突然の視界のぶれは、座っていたキャスター付きの椅子を容赦なく回されたためだった。
「こっち、向いて」
 椅子を回した犯人の硬い声が降ってくる。見上げるしかできない麻人の額に、乾いた掌がつと、触れた。
「熱は、なさそうですね」
 こちらをまっすぐに見つめる、曇りのない双眸。
 そのとき、先ほどまで雨雲によって遮断されていたはずの陽光が、すうっと窓辺に落ちた。窓を透かし、室内へと広がる夏の始まりの透き通った日差しが、彼の鳶色の瞳に吸い込まれていく。淡く瞳が透けていくその様はとても綺麗で、どうしても目が離せなかった。
「もしかして、意識しちゃってます?」
 瞳に吸い寄せられていた意識が、かけられた声と共に戻ってくる。
 あたふたと香坂の手から遠ざかろうと頭を引くのと、香坂がすっと麻人から手を引いたのは同時だった。
 彼の顔には朗らかないつもの笑みが浮かんでいた。
「困るんですよね。そんなんじゃ、部活にならないし」
「俺が悪いのか!」
 どうかしている。まったく、どうかしている。
 見とれてしまっていた自分を隠すように怒鳴ると、香坂は、いいえ、と首を振った。
「俺が悪いですよ」
 あっさりと言って、香坂はふうっと息をつく。
「まさかこんなに避けられると思ってなくて。この一週間、俺がどんな気持ちでここに通っていたか、わかってます?」
「なんで俺が責められる」
 そもそもの原因はお前じゃないか。不満を声に宿して返すと、香坂は細い腕を組んで麻人を見下ろしてきた。
「まったく、人の気持ちを好き勝手掻き回すんだから。先輩らしいですね」
「どっちが掻き回した!」
 怒りを覚え、立ち上がるが、香坂はまったく動じない。くすっと笑って目を細めただけだ。しかも、
「まあ、こんな言い争いより建設的な話、しませんか」
などと、至極淡々と言う。苛立ちながらも麻人が椅子に不承不承座り直すと、香坂は事務的な調子で話を戻した。
「新聞部の件、難しいかもしれないけど、俺は受けたいです。先輩はどうですか」
「それは……」
 口を開きかけて、麻人は迷った。香坂は黙って麻人の言葉を待っている。
……やはり、事務的に話を進められそうにはなかった。
「お前、なんで文芸部に入った」
「は?」
「その……お前が部に入ったのは……ふ、不純な動機からじゃ……ないよな……」
「不純な動機?」
 言われた意味がとっさにわからなかったらしく、香坂は首を傾げる。しかしこれ以上言葉を重ねて説明するなんて麻人には無理だった。
 真っ赤になって顔を背けると、いきなり笑い声が響いた。
「先輩って……なんでそんなに可愛いんですか」
「なに!」
 かっとなって再度椅子から立ち上がるが、香坂は構わずにしつこく笑いながら、自席に戻った。椅子に腰を落ち着けたものの、顔を伏せてまだ笑っている。
「おい! お前、なんなんだ!」
「二年の香坂千影ですが」
 笑みがたっぷりと含まれた、ふざけ調子の名乗りが返ってくる。おい! と怒鳴ると、香坂は笑いを収めて、伏せていた本を引き寄せた。
「まさかそんな馬鹿みたいなことを訊かれると思わなくて。失礼しました」
「馬鹿みたいってなんだ! 馬鹿みたいって! ようするにやっぱりお前、俺をからかって……」
 言いかけてふっと麻人は口を噤む。
 博人の声を思い出す。
──あいつ、お前のこと本気で好きだよ。
「なんでそうなるんですか」
 呆れ果てた顔をし、香坂は一度取り上げた本を再び机に戻して、こちらを見た。
「あのですね、言わせていただきますが、俺は色恋で部活を選んだりするようなそんなロマンチックな性格していませんよ」
「じゃあ……なんで……」
「先輩と同じだと思いますよ。読書が好きで、文章で表現したいと思っているから」
 それに、と笑って香坂は手元にあった部誌をぱらぱらとめくる。
「俺好きなんですよ。こうやって原稿集めたり、編集したりするの。ゆくゆくはそっち方面に進みたいと思っていますし」
「そう、なのか」
「そうです」
 頷いて、香坂は麻人にまっすぐ顔を向ける。
「安心しました?」
 なんと返していいか本気でわからない。頬がまだ赤いだろうことが自分でもわかって困惑していると、香坂は、やれやれ、と肩をすくめた。
「別にふたりきりだからって襲いかかったりしませんし。そんな緊張されても困るんです。こっちだってどれだけ恥ずかしいかわかってます?」
「じゃあなんであんなこと言うんだよ!」
 全部麻人が悪いみたいな口ぶりだ。憤りが止まらず、麻人は怒鳴った。
「お前が変なこと言うから……俺は……非常に困ってる。お前が困る以上にだ。大体、なんだってよりにもよって俺にあんなこと言う。もっと他にいいやついるだろう。お前は趣味が悪すぎる」
 先輩は卑屈ですねえ、とか、いつもの軽い口調で返事はある。そうタカをくくっていた。が、彼はなにも言わない。あれ、と戸惑っている麻人の前で、香坂が唐突に立ち上がった。椅子がぎぎい、と不穏な音を立てた。
 なに、と言いかけた麻人に向き直った彼が、不意に歩を踏み出す。なぜかそのまま詰め寄られ、間合いがほとんどなくなり、麻人は慌てふためいた。
「ちょ、香坂?」
 動揺して下がろうとしたが、それを許さぬというように香坂の手が麻人の腕を掴む。引っ張られて前屈みにつんのめると、自分より頭半分背の低い香坂の顔に顔が近づいた。
「先輩のこと好きですけど、そういう発言には本気でムカつきます」
「意味が、わからないんだが」
「ああ、まったく」
 香坂ははああっとため息をつくと、掴んだままの腕をさらに引いた。なに、と言いかけて……言えなかった。
 先ほど、麻人を捉えたあの目、鏡面のようにつややかな瞳が、すぐ、目の前にあった。
 ふっと意識がまた持っていかれそうになる。香坂、と名を呼ぼうとした瞬間、温かいなにかに唇を塞がれた。
──これはまさか、キスされているんじゃなかろうか。
 キス、の二文字を頭の中で思い浮かべたとたん、ひっくり返りそうになった。だが、完全に脳がバグってしまっているのか、体がまったく動かない。
 時間は僅かだったと思うが、正確にはわからない。
 唇越しにじわじわと伝わってくる熱さにくらくらし始めたとき、熱がすうっと遠のいた。
 言葉を失ってただ呆然と間近く彼の顔を見返すと、香坂はふいっと横を向いた。
「俺、冗談でこういうことはしないです」
 やっぱり声が出ない。固まっている麻人に、もう本当に馬鹿、と呟いて、香坂はぷいっと背中を向ける。
「言ったじゃないですか。こんなことしちゃうくらい好きなんで。趣味が悪いとか、なんで俺にとか、もっと他にいるだろうとか、そういうの本気で腹が立つんで」
「こう……さか……」
「ほんと、嫌になる」
 吐き散らすように言い、香坂は勢いよく振り向いた。
「一つだけ言っておきますけど、先輩を好きなことと、部活のことは別物ですから。先輩が俺を避けてここに来ないとしても、俺は部活を辞めたりしません。見損なわないでください」
「あ、ああ」
 勢いに押されて頷くと、香坂はふっと肩から力を抜く。そのまま、すたすたと戸口へと向かう彼を、麻人はとっさに呼び止めた。
「待てよ」
 扉に手をかけた香坂が振り返る。少し頬が赤い。
 多分、自分はもっと赤面しているに違いない。そう思ったけれど、悔しくて、麻人は平静を装った声で言った。若干声は裏返っていたし、完全に失敗はしていたがそれよりも、このまま出ていかせるわけにはいかないという気持ちが勝っていた。
「し、新聞部の件、話すべきだろ」
 香坂が驚いたように目を見張る。しばらく言葉もなくこちらを見つめてから、彼は小さく笑みを零した。
「そういうとこ……やっぱり好きです」