目を開けると、見慣れた天井が見えた。
 なんのことはない。自分の部屋だ。
 べったりと額に張りついた前髪を掻き上げて、身を起こす。体が汗でべたついているが、体調は思ったより悪くなさそうだ。
 ベッドから起き上がった麻人は、ふらふらしながら部屋を出た。階下からはなにやら良い匂いがする。
 台所に顔を出すと、麻人と博人の母の妹であり、養い親の遠子が、鍋を掻き回しながらびっくりしたような顔をした。
「あら……?」
 叔母はもう五十近いが、とてもそうは見えない。独身だからだろうか。でも、子供を育てたことなどないにも関わらず、叔母は麻人と博人を躊躇なく引き取り、育ててくれた。
 父親に殺されかけた自分たちを。
 恩は感じている。おそらくは愛情も。けれども自分は素直じゃないから、博人のように手放しで叔母になつくことができない。
 実の親なんかより親だと思っているのに、素直に言えない。
 それでも、叔母の態度は、麻人に対しても博人に対しても、分け隔てがない。
 姿かたちはそっくりな自分たちを、今はきっちりと見分け、別の人間として個性を尊重した接し方をしてくれる。
「博人……? 違うわよね、麻人よね。学校、行ったんじゃなかったの?」
 だから、叔母がそう言ったことに、麻人は違和感を覚えた。
 叔母はぼんやりと佇む麻人を、確認するように目を眇めて見つめている。
「……は?」
 ずっと声を出していなかったからかくぐもった声が出る。咳払いして麻人は叔母に頭を下げた。
「ごめん、学校、連絡するの忘れて寝てた……」
「それは、まあいいんだけど」
 なんだか歯切れが悪い。首を傾げた麻人の前で、叔母は眉間を揉んでいる。
「制服着て出かけるところ見た気がして。私、昨日遅かったから、寝ぼけてたのかしらねえ」
「それ……」
 嫌な予感がする。
 とっさに台所を駆け出して階段を駆け上る。叔母が驚いているだろうことはわかったが、フォローするよりなにより、まずは確かめたかった。
 二階の自室に転がり込んだ麻人はクローゼットを開けて愕然とした。
「あのやろう……」
 いつもの場所、クローゼットの右端にかけてあるはずの菊塚高校のモノトーンの制服が消えていた。
 マジかよ、と零しながら、クローゼットの左端を見ると、グレーのスラックスと白のワイシャツ、水色のネクタイという、博人の学校の制服が見えた。
 麻人の制服がなくて、博人の制服が残っている。これの意味するところは。
「ふざけんなよ……あいつは」
 吐き捨てて、麻人は乱暴に着替えを引っ張り出してクローゼットを閉じた。


 文化祭の後片付けに沸く学内は、みんなまだ思い思いの格好をしていて、制服ではない麻人を見咎める者はいない。
 幾分まだふらふらするが、歩けないほどではない。足元を踏みしめながら、二年の教室へと向かうと、撤去の真っ最中らしく、あちこちから板切れを破壊するような音とともに、盛大に埃が噴き出していた。
 喉を刺激されそうで一瞬怯んだものの、ここまで来て引き返すわけにもいかない。マスクに覆われた口許を片手で覆い、麻人は二年C組の前まで辿り着く。
「香坂はいるか」
「香坂?」
 幽霊占い、と書かれた例のおどろおどろしい看板を下ろしている男子生徒に近づいて訊ねる。彼は怪訝そうな顔をしながらも、教室の中へ、香坂いるー? と叫んだ。いないよー、と誰かが返してくるのを受け、彼はひょいっとこちらを振り向いた。
「いないって」
「そうか」
 どうやら自分があの仁王だとは気づいていないようだ。マスクをしてきて良かったかもしれない。
「香坂なら仁王と一緒にゴミ捨て場のほうにいるの見たかも」
 通りかかった女子が思い出したように言う。
 やっぱりか、と舌打ちしながら、麻人は彼女に軽く頭を下げた。
「助かった」
「あ……いえ……」
 驚いたように首を振ったものの、彼女はなにかを感じたのか、じいっとこちらを観察してくる。もしやばれたか、と慌てふためきながら、麻人はそそくさと踵を返した。背中で彼女が看板を外している男子に言うのが聞こえて、麻人は一層慌てた。
「今のさあ、仁王に似てない?」
「そうかあ? 仁王が礼なんて言わないだろ。大体、ゴミ捨て場のとこにいたんじゃねえの、仁王。え、まさかのドッペル?」
「仁王のドッペルって。それはきついわ」
 好き勝手言ってくれる。そもそも前々から思っていたが、寺の山門に設置されている仁王像は二体で一対が一般的だ。ひとりで仁王とはどういうことだ。
 言いたいことはいろいろあったが、怒りはそこまででもなかった。
 これが、普通の反応だ。
 仁王が礼なんて言うわけがない。高飛車で意地が悪くて石頭。その認識が正しい。
 おかしいのはあいつのほうだ。
 好き、なんて。
「あの馬鹿野郎が」
 悪態を突くと、通りすがった教師がぎょっとした顔をしたが、構っていられなかった。
 ゴミ捨て場は、特別教室棟の裏にある。文化祭の後片付けに賑わう廊下を生徒の間を縫って走り、麻人は教室棟と特別棟を繋ぐ渡り廊下から中庭に走り出た。上靴で出てはいけないことになっていたが、気にしてなどいられなかった。
 中庭を走り抜け、校舎の角を曲がろうとして、麻人はとっさに校舎の陰に身を寄せた。
 積み重ねられた段ボールの山の前、探していたふたりがいた。
「これで全部だな」
「そうですね」
 淡々とした声で言い、香坂が手の中に残った最後の一枚と思われる段ボールを、山の頂上に伸び上って乗せる。
「お手伝いいただいて助かりました。ひとりで運ぶのは大変だったもので」
「まったく。他の部員に手伝ってもらえばいいものを」
 苦々しく言った博人の声を聞いて、麻人は仰天した。双子だから似ていて当たり前だが、口調が自分にそっくりだったからだ。
「お前がそんな頑張るのはやっぱり俺のためなわけ」
 博人が手を腰に当てて、香坂を見下ろす。お前、なに言ってるんだこのやろう、と飛び出したくなったが、麻人はぎりぎりで踏み留まった。
「違いますよ」
 くすっと香坂が笑い、ゆっくりと振り向く。ワイシャツの襟元を少し開けているので細い首が見える。その首を傾げて、香坂は博人を見た。
「本当は最初から訊きたかったんですけど、先輩の弟さんがなんでそんな格好でここにいらっしゃるんですか? 今日、榊高校、普通に授業ある日ですよね」
 博人の顔は背中を向けているので見えないが、背中が強張った。顔を見なくてもわかる。かなり動揺している。
 だが……正直、麻人も度肝を抜かれていた。
 博人の言動は、内容はともあれ、麻人にそっくりだった。所作も、言葉遣いも、声の出し方も。さすがは双子というくらいに。博人は器用だと思う。自分ではこうも完璧に博人をトレースなんてできない。
「ううんと」
 博人の背中の強張りが解けた。長い腕を持ち上げて、後ろ頭を掻く。その仕草で、博人があっさりと麻人の仮面を外したのがわかった。
「なんでわかった? 言っちゃなんだけど、俺と麻って叔母さんでさえ、見分けるのにかなり時間がかかったくらい似てるはずだけど」
「おばさん?」
「麻に聞いてない? 俺たち親いなくて、親戚の家に厄介になってるんだよ。その叔母さんが俺たち見分けられるようになるのにも、そうだな、三か月以上かかったかな。でも、俺と君が会ったの、ここ一週間くらいだろ」
「あんまり、似てると思いませんけど」
 香坂は低く言ってから、ふうっと息を吐いた。
「先輩のほうがもうちょっとこう、意地悪い顔をしていますし」
 博人が押し黙る。意地悪いってなんだ、と憤然となりながらも、出て行くことができず、息を殺している麻人の前で、博人が深く息を吐いた。
「その意地悪いのが、君、なんで好きなわけ」
 今度は香坂が口を噤んだ。彼はしばらく黙りこくってから、ゆっくりと顔を上げた。
「答えないといけませんか」
「いけなくはないけど、からかうならもうちょっと他にいるだろ。麻はおっかない顔ばっかりしてるけど、根は純粋だし、冗談を真に受けるタイプだよ。君の相手にはならないと思う」
「からかう」
 鸚鵡返しに呟いてから、香坂は静かな声で訊ねた。
「先輩がそう言ったんですか。からかわれていると?」
「いいや。俺がそう思っただけ」
 あっさりと否定したものの、博人は淡々と続けた。
「だけど普通に考えて、男同士でってのもあるけどさ、君みたいな陽キャが麻みたいなの好きになるなんてことがそもそもないだろう」
 博人は長い腕を組み、少し姿勢を崩す。いつものだらしない立ち方だ。わが弟ながらその立ち方だけは直してほしいものだ。
「君を探してここに来て、何人か捕まえて、君の居場所を聞いて回った中にね、眼鏡の可愛い子がいてね」
 眼鏡。
 嫌な予感がする。校舎の壁に押し当てたままの背中が汗ばむ。
「そうしたらさ、その子、なんて言ったと思う? 香坂に構うのやめろって言ったでしょう、香坂はあなたの道具じゃないんだから、って」
 絶対、宮川だ。博人のやつ、よりにもよって彼女に声をかけることもないだろうに。
「わが兄ながら、ずいぶんな嫌われようだと思ったよ。けど多分、あの眼鏡の子、君のこと好きなんじゃないかな。そうじゃなきゃ、あんな言い方しないだろうし」
「それで?」
 香坂は、博人をまっすぐに見つめ、冷淡に返す。
「そうだとして、なんで、俺が先輩をからかわないといけないんですか」
「からかうと面白いだろ。いつも鬼のような顔してるのに、こと恋愛に関しては奥手で。嫌われ者のあいつを陰で笑うのは、面白い遊びなんじゃないの」
 おいおい、博人、どうしたんだ、本当に。
 いつもの博人なら誰に対してもそんな突っかかるような物言いはしない。麻人よりはるかに温厚で、大人で、友人ともけんかなどそうそうしない。むしろ、けんかをした友人の仲裁ばかりしている気苦労の多いやつ、それが麻人の双子の弟のはずなのだ。でもその博人がこんな言い方をするということはつまり。
 博人は、本気で怒っている。
「俺は嫌いなんだ。麻を悪く言うのはいい。でも麻を信用させて裏切る、そういうのだけは許せない。麻は、純粋で……裏切られることに慣れてない」
 博人は腕組みを解くと、香坂に一歩近づいた。間合いを詰め、自分より背の低い彼の襟元を掴み上げる。
「お前みたいなのが麻を好きなんてあり得ない。麻が動揺するのを見て面白かったかよ」
「すみませんが」
 しばらく黙って聞いていた香坂が声を発する。彼は手をのろのろと上げ、襟元を掴んでいる博人の手を掴んだ。
「手を離していただけますか」
「離してもいいけど。麻をからかうのを今後やめてもらえれば」
「そもそもにおいて、からかってはいませんが」
 掴んだ手で博人の手を体から引き剥がしながら、香坂は低く続けた。
 その声を聞いて、麻人は少なからず驚いていた。
 香坂はいつも生意気な口調で突っかかってくるが、その根底にあるものは怒りではない。そもそも、彼はあまり感情でものを言わない。認めるのも癪だが、香坂も博人同様、麻人より精神年齢が上なのだ。普段の彼を見ていれば、それくらいはわかる。
 つまり、こちらも怒っている。
「弟さんだからと言って、先輩のなにもかもを知っているみたいな言い方、不愉快なのでやめていただけますか」
「はあ? じゃあお前は麻のなにを知ってるって?」
「知らないかもしれませんが、それでも、俺よりも近いみたいな言い方をされると非常に腹が立ちます」
 おいおい、一体なんの話になってるんだ。これは間に入って止めたほうがいいんだろうか。いや、でも、なんと言って出て行けばいいものか。
 大体、なんでこんなことになってるんだ。
「つまり……本気でうちの兄貴を好きだと」
「……はい」
 ぎゅっと心臓を捕まれたような気がした。息を殺したまま、立ち尽くす麻人の耳に、香坂の声が聞こえた。
 掠れた、頼りなく揺れた声だった。
「俺は先輩が好きです。すみません」
「どこが」
「……言わないといけませんか」
「だめだな」
 博人の追及に香坂が俯く。その頬が僅かに赤い。唇が、なにかを答えようと、開いた。
 そこまでが我慢の限界だった。
「なにを勝手に話している。お前ら」
 よろよろと校舎の陰から出ると、睨み合っていたふたりが、そろってこちらを見た。
「おま……なんでいるんだよ」
 博人が心底驚いたように呟くのと、香坂が掴んだままだった博人の手を手荒く離したのは同時だった。
 呆然と見つめる麻人の目に、真っ赤になって俯く香坂の顔が映った。
 なにを言っていいかわからない。奇妙な沈黙に支配された空気の中、動いたのは香坂だった。ゆるゆると顔を上げた彼は、まだ幾分赤い顔のまま、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
 しかし、その目は伏せられたままだ。ようやく彼が目を上げたのは、麻人の傍らに辿り着いたときだった。彼は頬を染めて麻人を見上げ、なにかを言いたげに唇を開いた後、一度閉じてから、思い直したように口を動かした。
「具合、大丈夫なんですか」
「え……あ……ああ、大丈夫……だけど」
「良かった」
 呟いて、彼はふっと微笑んだ。その笑みになぜか胸がどきりとする。固まってしまった麻人に彼は軽く一礼すると、すっと脇を通り過ぎた。
「あの子さあ」
 背後で博人が零した声で弟の存在を思い出す。麻人は憤りながら博人へ駆け寄った。
「お前! なんでここに……」
「いいだろ。会ってみたかったんだよ。麻に告白するような気合入ったやつに」
 だけど、と呟いて、博人は片方の手を腰に当て、香坂の去った方向を眺める。
「ヤバいな。なに、あの可愛い生きもの」
「可愛い?」
「可愛いじゃん。だってあいつ、本気で麻のこと、好きだよ」
「な……」
 言葉を失った麻人に視線を戻し、博人は真剣な顔をした。
「麻、気づかなかった?」
「なにを」
 つっけんどんに返すと、博人はもう一度彼の去ったほうを見た。当然もう、彼の姿はそこにはない。だが、博人は飽きもせずそちらを眺めている。
「あいつ、今、わざわざ麻の左側から話しかけてた」
 その言葉の意味を理解するのに、時間はかからなかった。
 はっとして彼の去った方向を見る麻人に、博人は、本当に気がついてなかったのか、と呆れた顔をした。
「すっごい自然にそうしてたから、多分いつもそうなんだろう。あいつ……気づいてるんだ。お前の耳のこと」
「まさか。気づかれるはずがない。俺は学校でそんな素振りを見せたことはないはずだ」
「麻、言いにくいけど、よく見ていればわかるよ」
 表情を曇らせた博人から、麻人は顔を背ける。この話題は……好きじゃない。
 だが、今日の博人は許してくれないようだった。
「お前の右耳、ほとんど聞こえてないこと、あいつ、わかってる。多分、それだけお前のこと見てるってことだ。そうじゃなきゃ、あんなふうにはできない」
 言われて、麻人は思わず口許を押さえた。
 思い出してみれば、確かにそうだからだ。彼は、いつも自分の左側に立っていた。左側から、生意気な口調で、麻人を非難したり、意見したり、笑ったりしていた。
 いつも。
「なんで……。俺は、周りに仁王って呼ばれてるんだぞ。そんな俺に」
「わからないけど。でも」
 博人の手が労わるように麻人の肩を、ぽんぽん、と叩いた。
「俺はうれしいよ。どうしようもないくらい、うれしいんだ」