二

 少女はすぐに意識を取り戻した。

 病院で雨に濡れた服を乾かしてもらう間、患者用のガウンを着ていたのだが、その状態で少女は二人組の警官に事情聴取を受けた。
 薄いガウン一枚で男性警官と話をするのは気になるらしく、右手で首元辺りを盛んにいじっていた。

 その事情聴取で少女が、霞乃小夜、新宿御苑の近くにある高校の一年生と分かった。

「君はどうして家にいなかったのかね」
「祖父に頼まれてお酒を買いに……」
 小夜は涙を堪えるように瞬きをしながら答えた。

 いつもの酒屋に行くと臨時休業だった。
 仕方なく少し離れたコンビニに行くと、身分証の提示を求められた。

 祖父に頼まれて買いに来たと言っても、未成年には売れないと言われ、押し問答をした末、結局買えなかった。
 他のコンビニや酒屋も回ってみたが、どこも同じだった。
 家からかなり離れたところまで行ったが、どの店も売ってくれなかった。
 諦めて家に帰ると火事になっていた。

 もし、行きつけの酒屋が休みでなければ小夜も火事に巻き込まれていただろう。

「焼け跡から見つかった遺体が君のお祖父さんなのか確認してもらえるかい?」
 警官の言葉に小夜は青くなった。
「DNA鑑定じゃダメなんですか?」
 柊矢が警官に訊ねた。

「DNAが付着してそうなものが残ってるかどうか……。お孫さんでは親子鑑定も……」
「遺体の状態は?」
「煙を吸い込んだだけなので、火傷などはありません」
「私、お祖父ちゃん――祖父なのか確かめたいです」
「じゃあ、服を着替えてきてくれるかい」

 小夜は遺体の安置されている部屋へ連れていかれた。
 霊安室で遺体と対面した小夜は、警官の、祖父かと確認する問いに頷いた後、泣き崩れた。
 柊矢をはじめとした、その場にいた者達は居たたまれない思いで、小夜から目を逸らし、ただ泣き声を聞いていた。

 小夜が落ち着いてきたところで、
「誰か頼れる人はいるかね?」
 警官が訊ねた。

「え?」
「家族や親戚は?」
「いません」
 小夜は首を振った。

「他に誰かいるかね?」
 小夜が黙り込んだ。

「俺が」
 柊矢は思わず言っていた。
「俺は霧生(きりゅう)柊矢(とうや)と言います」

 救急車に同乗してきて、ずっと側に付いていたから身内だと思っていたのか、柊矢が引き取ると申し出ると、警官はあっさり了承してくれた。
 警官に自分の身分証を見せ、名刺を渡すと小夜を連れて病院を出た。

「ここが俺のうちだ」
 タクシーから降りて少し歩いたところの家の前で柊矢はポケットから鍵を出しながら言った。

 タクシーを家の前に着けても良かったのだが、そうすると車を通りに戻すのに細い道路を何十メートルもバックして戻らなければならないので、少し手前で下りて歩いてきた。
 都内の古い住宅地は大体どこも道が狭いがここは特に細いのだ。

「あの……霧生……さん?」
「柊矢でいい。弟と紛らわしいからな」
「柊矢さん……、その、どうして……」
「さぁ? 何となく、かな」

 柊矢自身も何故だか分からなかった。
 ただ、どうしても放っておけなかったのだ。

 家の鍵を開けると小夜を先に通してから自分も中に入った。
 小夜を真っ直ぐ客間に案内した。

「夕辺は徹夜だったからな。眠いだろ。一眠りするといい」
 眠そうな小夜を残して柊矢は自分の部屋に戻った。

「ここがリビングで洗面所がそこ。で、この部屋が音楽室」

 小夜が起きてくると、柊矢は家の中を案内して回った。

「音楽室?」
 一般家庭に似つかわしくない部屋の名前に柊矢を見上げた。
 小夜は柊矢に(うなが)されるままに中に入った。

「すごい! グランドピアノがある!」
 音楽室はこの家の他のどの部屋よりも広かった。
 黒いグランドピアノは部屋の中央に置かれていた。
 蓋は閉まっているがきれいに磨かれていた。

「柊矢さんは音楽家なんですか?」
「いや。まぁ、目指したことはあるが……」

 壁際にはガラス戸の付いた棚があり、そこにいくつかの楽器が並んでいる。
 見慣れぬ楽器の間に中にヴァイオリンケースがあった。

 ピアノを挟んで棚とは反対側に譜面台が置かれていた。楽譜も載っている。

「柊矢さんがピアノを弾かれるんですか?」
「一応弾けるが、俺がやってたのはヴァイオリンだ」

 じゃあ、ヴァイオリニストを目指してたのかな。

「なら、弟さんが?」
「楸矢も弾けるが、ピアノはうちの両親か祖父母の誰かだろ。誰のかは知らないんだ」

 この住宅街は戦後の復興期に建てられた。だから「復興住宅」と呼ばれている。当初、東京都はこの辺り一帯を動物園にする予定だったらしい。
 あちこちに湧き水の池があるから自然動物園を作る計画だったとか。
 だがGHQに、この住宅難の折に動物園を作る余裕があるのか、と叱り飛ばされ住宅街になったらしい。

 しかし、いくら家を作れと言われたからと言って、ここまで道路を狭くしてギチギチに家を詰め込まなくても良かったのではないかとは思う。
 戦地から引き揚げてきた曾祖父は何とか金を掻き集めてこの家を買った。だから、柊矢も弟の楸矢もこの家で生まれ育った。

 柊矢が物心ついたときには既にこの部屋はあり、ピアノは部屋の真ん中に置かれていたが、自分と弟以外に弾いた者はいなかった。
 といっても、祖母は柊矢が生まれる前に亡くなっており、両親も楸矢が生まれた直後に事故で亡くなった。

 柊矢は当時まだ八歳だったから家族の誰かが弾いていたのを覚えてないだけかもしれない。

 柊矢が自発的に言い出したわけでもないのに、幼いときからヴァイオリンを習わされていたから、両親か祖父母の誰かに音楽の素養があったのだろう。
 それは家の中で一番大きな部屋が音楽室に()てられていることからも明らかだ。

「ちなみに弟はフルートだ。そこに譜面台があるだろ」

 今はヴァイオリンを弾いてないんですか?

 そう訊いてみたかったが、やめておいた。何となく訊きづらい雰囲気がしたから。

「この部屋に来たのはこれを見せたかったからなんだ」

 柊矢はガラス戸を開いて棚に置かれていた弦楽器を取り出した。

 見たことのない楽器だった。強いて言うなら一番似ているのは、ギリシア神話に出てくる竪琴だろうか。
 しかし、それもかなり無理に解釈して、だ。
 凹の字の形をした無骨な太い木材で出来ている。

 凹の字の上の何もないところに横に弦が一本張られ、その弦と凹の字の底の部分の間に何本もの弦が張られていた。

「それは何て言う楽器なんですか?」
「キタラ。ギリシアの竪琴だ」
「え! これが竪琴なんですか! それもギリシアの!?」

 自分の想像が当たったのにも驚いた。

「ギリシアの竪琴といえばギリシア神話の挿絵で見るような曲線の楽器を想像してたか?」
 予想通りの反応に思わず笑みがこぼれた。

「はい」
「リラの方がそのイメージに近いな」
「リラって言うのもギリシアの竪琴なんですか?」
「ああ」

 柊矢がキタラを構えて指で弦を(はじ)くと、聴き慣れた、懐かしい音がした。

 指慣らしをした後、柊矢が弾き始めたのはいつもどこかから聴こえてくる歌の前奏だった。
 柊矢の鳴らす音に呼応するかのように、他の楽器の音が聴こえてきた。この家の中ではない。
 小夜の歌同様、どこか他の場所にいる者の演奏も聴こえるのだ。

 小夜が演奏に合わせて歌い始めると、他の歌い手達も歌い出した。
 小夜と姿の見えない歌い手達は、主旋律を歌ったかと思うと重唱したり斉唱したり副旋律に回ったりしながら歌を紡いでいく。
 旋律が風になったようにどこまでも流れていくようだった。

 一曲終えると、柊矢はキタラを置いた。

「どう思った?」
 柊矢が小夜に訊ねた。

「柊矢さんが演奏していた人の一人だったんですか?」
「そうだが……。そうじゃなくて、この部屋は防音だ。ドアも閉めてある」

 柊矢は扉を指した。確かに閉まっている。
 二人とも黙ってしまうと、部屋は静まりかえった。外からの音は何も聞こえてこない。と言うことはこの中の音も外に聞こえないはずだ。

「どうして他の演奏者や歌い手の声が聴こえたんだ?」

 それに何故、他の歌い手や演奏者に自分達の歌や演奏が聴こえたのか。

「不思議ですよね」
 小夜も疑問に思っていたらしい。だが、理由は彼女も知らないようだった。

 そのとき、小夜の腹が鳴った。小夜が真っ赤になる。

「もう昼だな。飯でも食いに行こう」
 柊矢はそう言うと戸口に向かった。

「あ、あの、材料があれば私が何か作ります」
「材料がないんだ」
 柊矢は冷蔵庫の中を思い浮かべながら言った。

 空ではなかったような気はするが賞味期限が切れてないものがあるかどうか……。

「作ってくれるなら材料を買いに行こう」
「はい」
 小夜は柊矢について音楽室を出た。

 柊矢はポケットを(さぐ)って車の鍵を探し、夕辺西新宿のアパートのそばに車を置いてきたことを思い出した。
 坂本が近くの駐車場に置いといてくれてるはずだ。
 車を取りに行きたいが、小夜を連れて行くのは躊躇われる。
 小夜の家の近所なのだ。小夜の家があったところにはまだ瓦礫が残ってるはずだ。

「食事を作ってもらうのは夕食でいいか? 昼は近所のファミレスにしよう」
 柊矢は歩き出しながら言った。
「夕食でもいいですけど、でも、どうしてですか?」
 小夜は柊矢について歩きながら訊ねた。
 柊矢は車を取りに行かなければならないと説明した。

「私も一緒に行きましょうか?」
「わざわざ二人で行くほどのことじゃないだろ」
 柊矢はそう言うと、小夜が注文するのを見届けてからファミレスを出て、近くのバス停から新宿駅へ向かった。

「なんか、一杯買っちゃいましたね」
 小夜は大きめのエコバッグ二つ分の荷物を見て言った。

「そのために車で来たんだ。それに、この程度じゃ二日分だ」
 柊矢はその二つを手に持つと出口に向かった。
「あ、荷物……」
 片方持つ、と言おうとしたのだが、柊矢は構わずにスーパーのドアを開けて小夜を通し、自分も出ると歩き出した。スーパーの近くにある駐車場に向かう。

 新宿は大通りのそばの住宅街なら駐車場にはあまり困らない。
 バブル全盛期の頃、地上げで奪われた土地がバブル崩壊後に不良債権と化して今は駐車場になっているからだ。
 大久保通り沿いのあちこちに小さな駐車場がある。もっとも、大久保通りの北側は、通りに面しているところを除けば地上げに遭った場所はこの近所では知る限りなかった。
 明治通りの西側は戦前からある古い住宅地だから何故地上げに遭わなかったのかは分からないが、東側はほとんどが都営住宅だからだろう。

 柊矢の家のある住宅街は都営住宅ではないのだが地上げに遭ったという話は聞いてない。
 狭い道を入った奥の不便な場所だから地上げしてまで奪う価値なしと判断されたか、都の住宅供給公社が作った住宅街だから手が出せなかったかのどちらかだろう。
 柊矢は自宅の車庫に車を入れると荷物を持って家に入った。

 柊矢が台所の食卓の上に荷物を置くと、
「じゃあ、早速夕食作りますね」
 小夜はそう言って腕まくりをした。

「頼む。俺は二階の部屋にいるから。それと、もうそろそろ楸矢が帰ってくるが、メールで事情は伝えてある」