白井に渡された護符はひとまずエプロンのポケットにしまい込む。その後、千咲は入口の蜘蛛女のことは極力視界に入れないようにしつつ、店内を忙しく動き回っていた。あやかしだという先輩社員達のことも気になるが、女郎蜘蛛の見た目に比べたら全然怖くはない。

 蔵書コーナーの整理をしようとコミックスの棚を順にチェックして回っていると、青年コミックスの棚の前で佇んでいる男とすれ違った。背が高くて細身のその人は、目の前の棚をじっと熱心に見つめていた。
 千咲が棚の間を移動しながら仕事している時間、彼がそこから一度も動いてはいないことに気付く。ずっと同じ場所を眺めているから、お目当ての漫画がなかなか見つからないのだろうか。出版社別で作者名の五十音順に陳列してあるが、五万冊もあるから迷う人は多い。蔵書の検索もできますよと声を掛けるつもりで、男に近づいてからハッと足を止める。

 ――違う、人じゃない!

 薄暗い照明の下では離れていると分かりにくかったが、近付いて注意してみればはっきりと分かった。生きている人間とは違う、儚い存在感。常時小さく揺れて、霞がかかったようなぼやけた輪郭。千咲が近付いてきても一寸たりとも動かない、まるでそこに映し出されているホログラムのようだった。

 あやかしだけでなく、どうやら亡霊の姿まで視えるようになってしまったらしい。同じような存在をブースの片隅やシャワー室の前でも見かけて、この一晩で千咲は何度も心臓が止まりそうな思いをさせられた。

「そりゃ集まってくるだろ。夜中でも人が居て、これだけ古い物に囲まれてるんだからな」
「え、うちの店ってまだ3年目でしたよね?」
「……まさか、お前。この数のコミックスが全部新刊で揃えられたとか思ってるのか? どう考えても、中古本の方が多いだろうが」

 白井の言う通り、五万冊の蔵書の中には古本と思われるものが多く含まれていた。本の劣化具合などもバラバラだし、ただの古本ではなくて、見覚えのない店印が押されているものが混ざっていたりして、閉店した貸本屋かネットカフェの蔵書だった形跡のものまである。千咲が生まれるずっと前に発行された物も沢山。
 だからだろう、この店の蔵書コーナーは新刊を売っている書店よりも、古本ばかりの古書店に近い匂いが漂っていた。

「誰かの遺品だった物だってあるだろうし、中にはいわく付きのもあるかもな」

 所有者の死後、家族が古本屋に持ち込んだ物が無いとも言い切れない。一冊一冊がどういった経緯でこの店に辿り着いたかまでは分からないのだ。千咲の反応がよほど面白かったのか、白井はわざと怯えそうなことを言ってくる。そして、「それに」とニヤリと含み笑いながら付け加える。

「今は鮎川がいるから余計に寄って来るんだろう。人外ホイホイ状態だ」
「えぇー、そんな怖い確変はいらないですよ……」

 人外にとって、千咲のような存在は居心地が良いのだと言う。視えない時なら平然としていられただろうが、今は視えてしまうからこそ余計な来店はご遠慮願いたいものだ。


 エントランスを入って左手には、客が自由に利用できるドリンクバーがある。単なるドリンクだけじゃなく、スープやソフトクリームの機械も設置されていて、ブースと何往復もする客は少なくはない。

 ここでバイトするようになった当初、トレーの上にたくさんのグラスを乗せてブースへ戻っていく客の姿に、千咲は驚いて二度見してしまった。
 何回も取りに来るのが面倒だからと、最初に何種類かをまとめて持ち込む人は多い。ただ、その時の彼のように極端過ぎる量を持ち運ぶ人ほど、セルフサービスを無視して食器類を席に放置したまま帰っていくのだ。

「みんながちゃんと返却してくれてたら、どれだけ仕事が楽になるか……」

 と、小学校低学年の娘を持つパートの相田美紀がいつも愚痴っていたのも納得だ。満席になり、急いでバッシングして席を用意すべく向かった先で、山のように食器が放置されているのを見つけた時の絶望感といったらない。

 ――これ、相田さんがキレるやつだ……。

 退店したばかりのブースを確認しに来て、千咲はうわっと絶句していた。喫煙席のフラットシートで、ブース中にまき散らされた煙草の灰と、未返却の大量の食器類。読み終えたらしきコミックスは十冊以上が積み上げられ、パソコンの電源も付けっぱなし。ブースの隅にはぐちゃぐちゃに丸められたブランケットが何枚も――カオスとしか言いようがない。
 よく見れば、ごみ箱には隠れて持ち込んでいたらしい酎ハイの空き缶が突っ込まれている。持ち込み禁止の店でこれは、次から出禁にされても文句は言えない。

 ――別に普通そうに見えたんだけどなぁ、さっきのお客様も。

 愛想良く「ありがとう」とお礼を言って会計して帰った男性の顔を思い出し、千咲はハァと呆れを含んだ溜め息をつく。表の顔と裏の顔。人間の本性を見たくないのに見せられた、まさにそんな気分だ。生きている人間だって、ある意味では怖いものだ。場合によっては、あやかしと変わらない怖さを持ち合わせている。

 持ってきたトレーに乗せれるだけ乗せると、急いでワゴンを取りに戻る。トレーだけで事足りると思っていた自分は甘かった。ワゴンをガラガラと2往復して何とか回収してくると、シンクの前で袖を捲り上げた。