最寄り駅の終電時刻を過ぎると、電車を逃した客が宿泊施設代わりにやってくる。駅前にはビジネスホテルもあるが、朝まで過ごすのにネットカフェの方が財布に優しいのだろう。
 アルコールの匂いをぷんぷんと漂わせ、覚束ない足取りの客がドリンク入りグラスをひっくり返すことも珍しくはない。エナジー系ドリンクでベタベタになった床を、千咲は汗だくになりながらモップ掛けしていた。

 利用客の半数は就寝中なのだろうか、トイレやドリンクバーに立ち寄る人影はまばらだったが、ネットやコミックス目的で来店している人は一晩中起きていて、夜中だろうが何かしら内線電話が鳴ることがあり、一向に気が抜けない。

 初めての夜勤で気が張っていることもあり、日付が変わった後も千咲は普段以上に店内を動き回っていた。昼間とは違って夜勤にはオーダーストップ後のメンテナンス作業がある。ドリンクバーの機械の分解洗浄やフライヤーの油交換など、深夜にしかできない業務は意外と多い。

 一連の作業を白井と分担してこなしながら、千咲は先ほど目撃した現象を頭の中で整理しようとしていた。さっき事務スペースにいた大きな狐は間違いなく先輩社員の白井で、彼はあやかしの白狐だと言っていた。さらにはあの中森店長のことを化け狸だとも。
 彼らが人ではないというのは勿論驚いたが、それと同じくらい様々なことが一気に腑に落ちていく。

 ――いつも感じていた違和感や視線は、気のせいじゃなかったんだ。

 特別何かが視えるという訳でもないのに、妙に何かを感じることがある。何故か他とは違う気がする、何か違和感がある、変に気になる。その程度の軽いものだったが。これまでその微妙な感覚を、誰かに共感してもらえたことは一度もなかった。でも、その何かにはちゃんと理由があったのだ。

「いつ会っても、お前は何かを引き連れて歩いてるな」

 だからと言って、呆れ顔でそう言い放たれてショックを受けない人間はいないだろう。自分の傍にいつも何かがいたのかと想像すると、背筋が急に冷えてくる。

「ま、大した奴らじゃないから、追っ払うのは簡単だ」
「白井さんが、いつも私のことを睨んでくるのって――」
「ああ、妖力を込めて睨むだけで、大概の雑魚は逃げていく」

 白井から嫌われていてキツイ態度を取られていた訳でなかったとホッとしたものの、彼に追い払って貰えない時は無防備に何かに憑かれているのかと思うと、もう一生外に出ない方が良い気すらしてくる。いっそのこと、ネカフェ難民みたいにここに住んでしまえばいいのだろうか。知ってしまった以上、これまでと同じ生活は怖くてできない……。

 千咲の反応に、真実を伝えたことは軽率だったかもと白井は前髪をワシャワシャ掻いた。連れてるモノのほとんどが無害で、せいぜい肩が重く感じるとかその程度だと言いたかったのだが、安心させるどころか逆効果だったようだ。

「……仕方ないな。これでも持ってろ」

 フロント脇の壁、天井近くに目立たないように張られていた小さな紙をペリっと剥がして、それを千咲に手渡す。3センチ四方の白色の和紙、赤墨で文字と文様のようなものが描かれている。同じものを店内の他のところでも見かけたことがあり、何だろうと思っていつも見上げていたやつだ。

「稲荷神の護符だ。肌身離さず持ち歩いてろ」
「護符、ですか……」
「スマホケースにでも入れときゃいい」

 白井の雑な言い草に、千咲は思わず吹き出してしまう。神様の護符の扱いがあまりにも酷すぎる。
 稲荷神の力がこもっているという小さな護符はちょっとした魔除けなのだという。彼の言葉を素直に信じた千咲は、両掌で護符を挟んでから瞼を閉じ「どうか御守り下さい」と心の中で呟いた。

 そしてその後、ゆっくりと目を開いてから見えた光景に、絶句する。

 エントランスの自動ドアの上部。天井に近いところに、張り付くようにいる大きな蜘蛛。脚の長さを入れれば二メートル以上はあるかというサイズは勿論だが、その丸い身体の先にあるのは長い黒髪の女の顔だった。髪を垂らしながら、蜘蛛女がその大きな目でじっとこちらの方を見ているのだ。

「あっ、あれって、な、なん、何ですかっ?!」

 千咲が怯えながら指さす方向に視線を送ると、白井は意外だという風に蜘蛛女と千咲を交互に見比べていた。そして、納得したようにハンと鼻で笑う。

「護符の力で視えるようになったか。――あれは女郎蜘蛛だ」
「お、追い払わないんですか?」
「あいつはいつもあそこにいるだけだ。気にすんな」

 無害だ、と一言で片づけてから、白井は事務仕事の為にフロントの奥へと消えていく。無情にも、千咲はエントランスで大蜘蛛と二人きりにされてしまった。
 ちらっと蜘蛛の様子を覗ってみるが、女の頭部は今は全く別の方を向いていて、何かを食べているのか口元をもごもごと動かしているようだった。

 ――無害って、本当ですかぁ……?!

 女が食べているものが何なのか、これっぽっちも知りたいとは思わない。