ここに置いていてはダメ。
具体的な理由を聞かれても答えられないが、移動させた方が絶対に良いはずなのだ。勘とか虫の知らせとか、そういう類いのものが千咲の深層心理へと働きかけてくる。
人外を目視できるようになる前から度々感じることがあった、何となくの感覚。それを今、強く感じ取っていた。
木製ベンチの上に飾られていた鉢植えは、実際に手で抱えてみると見た目以上にずっしりしていた。どうにかギリギリ一人で持ち上げられる重さで、落とさないよう細心の注意を払いながら運び出していく。両手が塞がっている為、エントランス奥の防音扉を行儀悪く肘を使って横に押し開けると、千咲は蔵書コーナーを入ってすぐ右手、雑誌棚の隣へガジュマルの鉢を置いた。
「うん、ここなら平気」
「……?!」
立て札の向きとラッピングを整えていると、すぐ左隣から囁きのような声が聞こえてくる。幼い子供の少し舌足らずな、あどけないトーン。驚いて周りを見回す千咲のことを、クスクスと笑っている。笑い声は下の方から聞こえていた。
「さっきのとこ、ちょっと寒かった。寒いのはイヤ」
声の主は千咲のことをすぐ脇から見上げている。背丈は千咲の胸くらいで、腰回りに植物の大きな葉を巻き付け、よく日に焼けている肌。鮮やかな赤い髪と澄んだ青い瞳。一瞬で目を奪われるような赤毛は、床を引き摺りそうなほどに長く、前と横の髪は植物柄の髪飾りを用いて頭の上で束ねられている。まるで南国の土産物屋にたくさん並んでいる人形のような見た目だ。
――えっと……あやかし、だよね?
色彩は特異だが、見た感じの恐ろしさはないし、害があるようにも見えない。向こうも千咲のことを警戒している様子もなく、むしろ人懐っこく顔を覗き込んできている。
「蜘蛛も怖かった。ここなら、安心」
「入り口にいる、女郎蜘蛛のこと?」
千咲が聞き返すと、小さなあかやしが頷く。
「あいつ、おいらのことじっと見てた。絶対、食べようとしてた。だから、怖かった」
思い出してまた怖くなったのか、両腕で身体を包み込んでフルフルと震え出す。その頭の上で小刻みに揺れている髪飾りで、千咲はこのあやかしの正体にようやく気付く。そのモチーフとなっている丸みのある葉を持つ植物は、自分のすぐ目の前にあった。
――ガジュマルだ! えっと、何だっけ、ガジュマルの精霊……あ、キジムナー!
「だから、移動させなきゃって思ったんだ……」
自動ドアの開閉の度に冷たい空気が流れ込んでくるエントランス。暑さに強く寒さに弱いガジュマルの木には居心地が悪かったのだろう。しかも、あの蜘蛛女がすぐ真上にいるのだ、その必死の訴えを千咲が感じ取って鉢を移動させることになったということか。
良くも悪くもこの場所は空気の流れがほとんど無いし、24時間ずっと一定の室温が保たれている。日当たりは全く無いが、今からの季節はエントランスに置いているよりはずっとマシだろう。
「他の鉢植えたちも、寒がってた。みんなここは、無理?」
「え、他の植物にも精霊がついてるの?」
いない、と首を横に振ってから、キジムナーはガジュマルが植えられた鉢の隅にちょこんと座り込む。ガジュマルの緑をバックに、赤い髪のあやかしの姿はまるで置物みたいだった。少し奇抜な見た目だが、見慣れてくれば何ともない。
「植物のことは、何となく分かる。みんなもきっと寒い」
言われてみれば、パキラやモンステラなどの観葉植物は大半が寒さには弱いはずだ。でも、ガジュマルの鉢だけの移動ならまだしも、全部となるといろいろ問題がある。元々、ちゃんと理由があった上で、あの場所に置かれているのだから。一鉢だけでは心細いかもしれないが、千咲には今はどうすることもできない。
「三周年のお祝いで贈られてきた物だから、しばらくは目立つ場所に置いとかなくちゃいけないんだよね……」
祝いの品は出来るだけ人目につく所に飾るのが礼儀だから、どうしてもエントランスに限定されてしまうのだ。周年祭が終わった後には何とか考えるからと約束して、千咲はフロントへと戻っていく。キジムナーはずらりと立ち並んだ背の高いコミック棚を興味津々と見上げていた。狸店長といい、漫画好きのあやかしは意外と多いのだろうか。
「また、あやかしの匂いがする」
カウンター前でのすれ違いざま、白井が千咲の首筋に顔を近付けてくる。咄嗟に両手で首元を隠しながら、千咲は声を張り上げた。急な接近は心臓に悪いと何度言えば伝わるのだろう。
「だからそれ、やめて下さいってばっ!」
千咲が人外と遭遇した直後の白井は、実家に居た時に飼っていた犬が、よそのペットを撫でて帰った時にする反応とまるっきり同じだ。やっぱり狐もイヌ科だからだろうか?
「今日届いたガジュマルの鉢を蔵書コーナーに移動させてきたんです。キジムナーから頼まれて」
「ああ、精霊付きが混ざってたのか」
言って、白井は呆れた溜め息をゆっくりと吐き出す。古い大木に宿るはずの精霊が鉢植えに付いているのは極めて稀有なこと。
「鮎川が夜勤になってから、あやかしの増え方が尋常じゃないな」
具体的な理由を聞かれても答えられないが、移動させた方が絶対に良いはずなのだ。勘とか虫の知らせとか、そういう類いのものが千咲の深層心理へと働きかけてくる。
人外を目視できるようになる前から度々感じることがあった、何となくの感覚。それを今、強く感じ取っていた。
木製ベンチの上に飾られていた鉢植えは、実際に手で抱えてみると見た目以上にずっしりしていた。どうにかギリギリ一人で持ち上げられる重さで、落とさないよう細心の注意を払いながら運び出していく。両手が塞がっている為、エントランス奥の防音扉を行儀悪く肘を使って横に押し開けると、千咲は蔵書コーナーを入ってすぐ右手、雑誌棚の隣へガジュマルの鉢を置いた。
「うん、ここなら平気」
「……?!」
立て札の向きとラッピングを整えていると、すぐ左隣から囁きのような声が聞こえてくる。幼い子供の少し舌足らずな、あどけないトーン。驚いて周りを見回す千咲のことを、クスクスと笑っている。笑い声は下の方から聞こえていた。
「さっきのとこ、ちょっと寒かった。寒いのはイヤ」
声の主は千咲のことをすぐ脇から見上げている。背丈は千咲の胸くらいで、腰回りに植物の大きな葉を巻き付け、よく日に焼けている肌。鮮やかな赤い髪と澄んだ青い瞳。一瞬で目を奪われるような赤毛は、床を引き摺りそうなほどに長く、前と横の髪は植物柄の髪飾りを用いて頭の上で束ねられている。まるで南国の土産物屋にたくさん並んでいる人形のような見た目だ。
――えっと……あやかし、だよね?
色彩は特異だが、見た感じの恐ろしさはないし、害があるようにも見えない。向こうも千咲のことを警戒している様子もなく、むしろ人懐っこく顔を覗き込んできている。
「蜘蛛も怖かった。ここなら、安心」
「入り口にいる、女郎蜘蛛のこと?」
千咲が聞き返すと、小さなあかやしが頷く。
「あいつ、おいらのことじっと見てた。絶対、食べようとしてた。だから、怖かった」
思い出してまた怖くなったのか、両腕で身体を包み込んでフルフルと震え出す。その頭の上で小刻みに揺れている髪飾りで、千咲はこのあやかしの正体にようやく気付く。そのモチーフとなっている丸みのある葉を持つ植物は、自分のすぐ目の前にあった。
――ガジュマルだ! えっと、何だっけ、ガジュマルの精霊……あ、キジムナー!
「だから、移動させなきゃって思ったんだ……」
自動ドアの開閉の度に冷たい空気が流れ込んでくるエントランス。暑さに強く寒さに弱いガジュマルの木には居心地が悪かったのだろう。しかも、あの蜘蛛女がすぐ真上にいるのだ、その必死の訴えを千咲が感じ取って鉢を移動させることになったということか。
良くも悪くもこの場所は空気の流れがほとんど無いし、24時間ずっと一定の室温が保たれている。日当たりは全く無いが、今からの季節はエントランスに置いているよりはずっとマシだろう。
「他の鉢植えたちも、寒がってた。みんなここは、無理?」
「え、他の植物にも精霊がついてるの?」
いない、と首を横に振ってから、キジムナーはガジュマルが植えられた鉢の隅にちょこんと座り込む。ガジュマルの緑をバックに、赤い髪のあやかしの姿はまるで置物みたいだった。少し奇抜な見た目だが、見慣れてくれば何ともない。
「植物のことは、何となく分かる。みんなもきっと寒い」
言われてみれば、パキラやモンステラなどの観葉植物は大半が寒さには弱いはずだ。でも、ガジュマルの鉢だけの移動ならまだしも、全部となるといろいろ問題がある。元々、ちゃんと理由があった上で、あの場所に置かれているのだから。一鉢だけでは心細いかもしれないが、千咲には今はどうすることもできない。
「三周年のお祝いで贈られてきた物だから、しばらくは目立つ場所に置いとかなくちゃいけないんだよね……」
祝いの品は出来るだけ人目につく所に飾るのが礼儀だから、どうしてもエントランスに限定されてしまうのだ。周年祭が終わった後には何とか考えるからと約束して、千咲はフロントへと戻っていく。キジムナーはずらりと立ち並んだ背の高いコミック棚を興味津々と見上げていた。狸店長といい、漫画好きのあやかしは意外と多いのだろうか。
「また、あやかしの匂いがする」
カウンター前でのすれ違いざま、白井が千咲の首筋に顔を近付けてくる。咄嗟に両手で首元を隠しながら、千咲は声を張り上げた。急な接近は心臓に悪いと何度言えば伝わるのだろう。
「だからそれ、やめて下さいってばっ!」
千咲が人外と遭遇した直後の白井は、実家に居た時に飼っていた犬が、よそのペットを撫でて帰った時にする反応とまるっきり同じだ。やっぱり狐もイヌ科だからだろうか?
「今日届いたガジュマルの鉢を蔵書コーナーに移動させてきたんです。キジムナーから頼まれて」
「ああ、精霊付きが混ざってたのか」
言って、白井は呆れた溜め息をゆっくりと吐き出す。古い大木に宿るはずの精霊が鉢植えに付いているのは極めて稀有なこと。
「鮎川が夜勤になってから、あやかしの増え方が尋常じゃないな」