事務的な申し送り事項やちょっとしたメッセージ等、スタッフ間で共有している連絡ノート。出勤後にそれに目を通していて、ページの隅に小さく描かれた落書きに千咲は思わず噴き出した。昼の時間帯にたまに来店してくる客の特徴を上手く捉えた似顔絵は、パートの大村の字で「今日も来たよ」という吹き出し付きだ。

 年齢は確か五十半ばで、中森と良い勝負なぽっちゃり体型に、ビン底かという程に分厚いレンズの眼鏡。短く刈り上げた頭に、太くボサついた眉毛の下のつぶらな瞳は、一見すると人の良さそうなオジサン。工事現場専門の警備会社で働いているというその客は、所謂要注意人物だった。

「鮎川ちゃんに会いたくて、また来ちゃった」

 人懐っこい笑顔で、誰でも最初は騙されてしまう。来る度にフレンドリーに名前を呼んで声を掛けてくれるから、千咲もバイトを始めた頃は進んで話し相手になっていた。入店手続きが終わった後もカウンターに張り付いてお喋りしていくこともあり、一体この人は何しに来てるんだろうと不思議に思っていた。

「はいはい、山口さん。いつもの30番取ってあげたから、さあ行って行って」
「せっかく鮎川ちゃんと話してるのに……相田さんは怖いなぁ」

 常連客の扱いに慣れている相田から背を押されて、渋々とブースに追い払われるなんてしょっちゅうだった。「あんまり相手しなくていいから」と相田が妙に冷たい対応をしている理由が判明するのにそう時間は掛からなかった。

「ねえねえ、この漫画ってどこにあるのかな?」

 相田が厨房に入っている隙を狙って、山口が一枚のメモを手にフロントに戻ってきた。予めに読みたい作品リストを持って来る人は別に珍しくない。そういう人の為に蔵書コーナーには検索用のパソコンが置いてあるし、フロントの端末でも並んでいる棚を調べることができるのだから。

「じゃあ、お調べしますね」

 そう言って千咲が折り畳まれたメモを広げるのを、山口はニヤけた顔で眺めていた。「自分でも探してみたんだけど、見つからなかったんだよね」と。
 受け取った紙に並んだ乱雑な字に、千咲は瞬時に硬直する。ずらりとボールペン書きされていたのは、明らかにR18なタイトル群。ここまで露骨な物ばかりをよくもまあ集めて来たなと感心してしまうくらい卑猥な単語が並んでいる。

 無言でタイトルを入力して蔵書検索する千咲のことを、山口は嬉しそうにカウンターの向かいから見て楽しんでいるようだった。そう、この男は昼の常連の中でも一番タチが悪い名物客だ。

 各席で自由に視聴できるアダルトな動画を、ブースの扉全開でヘッドホン無しに鑑賞していることもあったし、入退店の際にどさくさに紛れて女性スタッフを盗撮しようとしたこともあった。
 そして何より相田が一番嫌がっていたのは、

「いっつもドリンクを零すし、ブースの使い方が汚過ぎ! あの人、早く出禁にしてください」

 山口が来る度に、相田は苛立って訴えていた。その都度「でもねぇ……」と言葉を濁して、中森はのらりくらりとはぐらかすだけだ。タチは悪かったが、来る度に料理を注文して長時間いるし、売り上げという面では上客だったから。

 夜勤に代わってから一切見かけなくなった例の客が、相変わらず出入りし続けているようで、日勤スタッフに思わず同情してしまう。自分も日勤だった頃のことを懐かしく思い出しながら、千咲はノートのページを捲る。

「あ、新メニューの試食ですって。白井さん、もうノート見ました?」

 パソコンのメンテから戻って来た白井に、千咲は嬉々として声を掛ける。まだだと首を横に振った白井の方へ、開いていたページを見せる。

「ああ、そう言えば、新製品を送るって言ってたな……なんだ、甘い物ばかりじゃないか、俺はいらん」
「うどん揚げだって結構甘くないですか?」
「甘辛いと甘いは違うだろうが……」

 仕入れ先の業者がサンプル品を置いていったので、好きなのを試食していいよ、という店長からのメッセージに、千咲は一気にテンションが上がる。ドリンクバーにソフトクリームの機械があるからか、『INARI』のメニューはデザートが少なめだ。ケーキ2種類にパンケーキくらいしかなく、イマドキの回転寿司の方がスイーツメニューは充実しているとは日頃から思っていた。

 「うわー、どうしよー」とノートに挟まれていた試作品のチラシを興奮気味に眺めていると、白井からふっと鼻で笑われた気がしたが、今は怒っている場合じゃない。デザートを好きなだけ食べていいだなんて、夢のような仕事だ。

「あ、でも、レンジで温めたり、油で揚げなきゃいけないのが多いですね」
「業務用の冷凍品だから、そんなもんだろ」

 簡単とは言え一手間が必要なものばかりだからか、ノートの書き込みを見る限りでは、他の時間帯では調理不要のシューアイスやカップアイスが人気だったみたいだ。だからと言って、新メニューへのリサーチが無回答でいいわけもなく、夜勤スタッフで残りを試食しろということなのだ。
 だが、真っ先に「俺はいらん」と宣言していた白井は、頑なに試食を拒否している。協力する気ゼロらしい。

「とりあえず作ってみますけど、社員なんだから白井さんも一口くらいは食べてくださいね!」

 目を合わさずそっぽ向く白井に、千咲は強めに釘をさす。スイーツは好きだが、さすがに食べれる量には限界がある。
 添付されていたレシピを見ながら、オーブンやレンジ、フライヤーを駆使して試食品を調理していく。アップルパイもオーブンで焼くのなら良かったのだが、油で揚げるタイプだったからカロリーが気にならないと言えば嘘になる。どちらにしても深夜に暴食して良いものではないはずだ。

 せっかくだからと見本画像に従って、ケーキ類を盛りつけた皿にはフルーツソースでデコレーションを施してみる。順に仕上がっていくスイーツの皿で調理台がいっぱいになると、さすがに厨房中に甘い香りが充満していた。
 一瞬だけ顔を見せた白井は、その甘ったるい匂いに眉をしかめて速攻で立ち去って行った。頑として試食に協力する気はないらしい。

「一緒に食べる?」

 河童を誘ってみるが、フルフルと首を横に振られる。草食なのは分かっていたが、面と向かって断られると少し寂しい。ラズベリーのムースをスプーンで掬い取って、千咲は口いっぱいに頬張った。