時刻は22時を少し回った頃。化け狸の野生の勘が的中したというべきか、エントランスに張り込んでいた中森が店を出てすぐ、シャワー室近くの天井裏から轟音が響き渡る。まだ大半の客が起きているようだったが、その異音に気付いたのはごく一部。禁煙席で翌日の施工予定表を見直していた大天狗は、怪訝な顔でブースの天井を見上げた。
「ふんっ。勝手なことをしおってからに……」
天狗が守る神山に、一度ならず二度も人を運び入れるとは、本来なら許すまじ所業。隠り世ならば大天狗の力をもって処罰を行うところだろう。だがここは常世、神からその権限を与えられしものの裁きに従うが道理。
頭上で移動を続ける物音から意識を離し、その両目を閉じる。自分には関係ないと、狭いフラットシートに身体を横たえた現場監督はブランケットを被り直した。
まるで挑発しているかのように天井裏で騒ぎ始めたあやかしの気配に、白井は頭の狐耳をぴんとそば立てていた。尻から生えている白銀の長い尻尾は苛立ちから落ち着きなく揺れている。建物中に張り巡らせた妖気で、かのあやかしの動きを見張っていた。不本意だったが、変幻の一部を解かないことにはこの規模の妖術を駆使できない。
「俺がいいと言うまで厨房からは出るな。いいか、河童がちゃんと見張ってろ」
頭上から聞こえてくる轟音と、白狐が発する妖力の大きさに河童は怯えているのか、千咲の脚にがっしりとしがみついていた。白井からの命令には、首を激しく上下して頷き返している。
ひっきりなしに聞こえてくる、ガラガラと車輪を走らせるような騒々しい音。初めは遠くに聞こえていた音は、すぐ真上まで来たかと思うと、また離れていく。建物の天井全てを自在に走り回って、何かを探っているようだった。
「出口を探してるんでしょうか?」
「おそらくな」
千咲も河童と同様に怯えているべきなのだろうが、どうにも白井のモフ耳と尻尾が余計な緊張感を消し去ってしまい、意外と冷静でいられた。フワフワの尻尾が揺れる度、触りたい衝動に駆られてしまうが、さすがにそれは白井の逆鱗に触れるのは分かっている。半端な変幻姿を恥じているのか、あまり目を合わせようとしない白井のぎこちない表情もまた新鮮だ。普段は化け狸のケモ耳姿をあざ笑っている側だから、同じ半端な姿を晒すのはプライドが許さないのだろうか。
毛並みとボリューム感は圧倒的に白井の方がモフモフレベルが高い。たまにしかお目にかかれないのは残念でならない、なんてことは恐ろし過ぎて本人には言える訳がないが。
「暴れているのは、何のあやかしなんですか?」
随分前から白井はその正体に気付いているようだった。分かっていたからこそ、日中には動きがないと踏んでいたのだろう。
「輪入道という、火炎系のあやかしだ」
「輪入道……火のついた車輪に顔がある妖怪でしたっけ?」
「そうだ」と無言で頷き返すと、白井は厨房を出てエントランスへと向かう。そろそろ出口がここだけだと気付いたらしく、頭上で動く音が徐々に近付いてきていた。
千咲は脚にしがみついたままの河童を促して、厨房の入り口からその様子を覗った。
フロント前の天井裏で何周か走り回る音が続いた後、ドスンという重い物が落ちてくる音と共に、そのあやかしは姿を現した。
大きさはダンプトラックのタイヤくらいだろうか、太い大型の車輪が炎に包まれている。煌々と燃えるその中央には彫りが深く荒々しい老爺の顔。その表情は苛立ちと怒りに満ちていて、まさに鬼の形相だった。
燃え盛る炎に囲まれた輪入道の顔を、白井はキッと睨みつける。
「ここで好き勝手ばかりしやがって、許されると思うな」
「人の子を、ちょっと驚かせただけの何が悪いんじゃ」
輪入道の低く枯れた声がエントランスに響き渡る。轟々と燃える車輪の炎は見た目ほど熱くはない。実際の炎ではなく妖気が具現化したものだろうか。
「ちょっと、だとぉ?」
白井のムッとした声。ほんの悪戯心で、寝ていた人間を何キロもの距離を移動させたというのか。今回は運よく二人ともすぐに車道に出れたから良かったものの、山中で迷い戻って来れなくなったかもしれないのだ。
「あやかしが人を脅かすことで、人々の神仏への信仰心が保たれるんじゃ。ワシはその手伝いをしたまでのこと。狐ごときに怒られる筋合いはないわい」
威嚇するかのごとく、輪入道の炎が一段高く燃え上がる。
「ワシらの姿が見えんやつばかりのこの常世は間違っておる。人の信仰心を呼び戻そうとして何が悪い」
自らの信念に乗っ取っての行動だと、輪入道は一歩も引かない。それに対し、白井はハァと呆れた溜め息を吐いた。
「ここは人の世だ。人の理《ことわり》は人が作ればいい。あやかしの理を通したければ、あやかしの世に戻ればいいだけだ」
「隠り世へ帰れとな? 帰らんぞ、絶対に帰らん! ワシはここに残って、人の間違いを正すんじゃ」
轟々と燃え盛る炎に、輪入道の顔が完全に隠れ切ってしまう。話していても埒が明かないと考えたのだろう、白井に向かって体当たりしようとその車輪を回転させて突進してくる。広くはないカウンター前で、白井はギリギリのところで避けると、白銀の尻尾をふわりと揺らした。
厨房から覗き見ていた千咲には、軽やかに飛び避けた白井の尻尾が、蕾から花が開くかのように四方へ何本も広がるのが見えた。全部で九本に増えた尻尾がゆらゆらと揺れている。――九尾の狐だ。
「稲荷神はお前がここに残ることを望んではおられん。失せろ!」
九尾となった白井は、何度も突進してくる車輪を軽い身のこなしで避け続ける。まるで相手にもならないといいたげに、顔には薄い笑みを浮かべながら。
「おのれぇ」と低い唸り声を上げて、炎の車輪はさらに一段と火力を増加させる。けれど、次の瞬間に己の目の前に現れ出た光景にたじろぐ。九尾を持つ男が、その両の手の上で操っているものに気がついたのだ。
「お、鬼火……」
左右の手の上に掲げた青白い炎の塊。火炎に包まれた己の身でも瞬時に焼き尽くしてしまうと言われている、妖狐の炎。それを操る狐の噂は耳にした覚えがあった。まさか目の前のこいつが――。
勝てる相手ではないと悟ったのか、輪入道はその炎を最小まで抑え、「もう好きなようにせい」と呟くと車輪の動きを止めた。
白井はチッと不満げに舌打ちしてから鬼火を消すと、二本の指で空を切って境界線を開く。「いけ」と短く命じて顎で促し、輪入道をその境界の向こうにある世――隠り世へと送り返した。
「ふんっ。勝手なことをしおってからに……」
天狗が守る神山に、一度ならず二度も人を運び入れるとは、本来なら許すまじ所業。隠り世ならば大天狗の力をもって処罰を行うところだろう。だがここは常世、神からその権限を与えられしものの裁きに従うが道理。
頭上で移動を続ける物音から意識を離し、その両目を閉じる。自分には関係ないと、狭いフラットシートに身体を横たえた現場監督はブランケットを被り直した。
まるで挑発しているかのように天井裏で騒ぎ始めたあやかしの気配に、白井は頭の狐耳をぴんとそば立てていた。尻から生えている白銀の長い尻尾は苛立ちから落ち着きなく揺れている。建物中に張り巡らせた妖気で、かのあやかしの動きを見張っていた。不本意だったが、変幻の一部を解かないことにはこの規模の妖術を駆使できない。
「俺がいいと言うまで厨房からは出るな。いいか、河童がちゃんと見張ってろ」
頭上から聞こえてくる轟音と、白狐が発する妖力の大きさに河童は怯えているのか、千咲の脚にがっしりとしがみついていた。白井からの命令には、首を激しく上下して頷き返している。
ひっきりなしに聞こえてくる、ガラガラと車輪を走らせるような騒々しい音。初めは遠くに聞こえていた音は、すぐ真上まで来たかと思うと、また離れていく。建物の天井全てを自在に走り回って、何かを探っているようだった。
「出口を探してるんでしょうか?」
「おそらくな」
千咲も河童と同様に怯えているべきなのだろうが、どうにも白井のモフ耳と尻尾が余計な緊張感を消し去ってしまい、意外と冷静でいられた。フワフワの尻尾が揺れる度、触りたい衝動に駆られてしまうが、さすがにそれは白井の逆鱗に触れるのは分かっている。半端な変幻姿を恥じているのか、あまり目を合わせようとしない白井のぎこちない表情もまた新鮮だ。普段は化け狸のケモ耳姿をあざ笑っている側だから、同じ半端な姿を晒すのはプライドが許さないのだろうか。
毛並みとボリューム感は圧倒的に白井の方がモフモフレベルが高い。たまにしかお目にかかれないのは残念でならない、なんてことは恐ろし過ぎて本人には言える訳がないが。
「暴れているのは、何のあやかしなんですか?」
随分前から白井はその正体に気付いているようだった。分かっていたからこそ、日中には動きがないと踏んでいたのだろう。
「輪入道という、火炎系のあやかしだ」
「輪入道……火のついた車輪に顔がある妖怪でしたっけ?」
「そうだ」と無言で頷き返すと、白井は厨房を出てエントランスへと向かう。そろそろ出口がここだけだと気付いたらしく、頭上で動く音が徐々に近付いてきていた。
千咲は脚にしがみついたままの河童を促して、厨房の入り口からその様子を覗った。
フロント前の天井裏で何周か走り回る音が続いた後、ドスンという重い物が落ちてくる音と共に、そのあやかしは姿を現した。
大きさはダンプトラックのタイヤくらいだろうか、太い大型の車輪が炎に包まれている。煌々と燃えるその中央には彫りが深く荒々しい老爺の顔。その表情は苛立ちと怒りに満ちていて、まさに鬼の形相だった。
燃え盛る炎に囲まれた輪入道の顔を、白井はキッと睨みつける。
「ここで好き勝手ばかりしやがって、許されると思うな」
「人の子を、ちょっと驚かせただけの何が悪いんじゃ」
輪入道の低く枯れた声がエントランスに響き渡る。轟々と燃える車輪の炎は見た目ほど熱くはない。実際の炎ではなく妖気が具現化したものだろうか。
「ちょっと、だとぉ?」
白井のムッとした声。ほんの悪戯心で、寝ていた人間を何キロもの距離を移動させたというのか。今回は運よく二人ともすぐに車道に出れたから良かったものの、山中で迷い戻って来れなくなったかもしれないのだ。
「あやかしが人を脅かすことで、人々の神仏への信仰心が保たれるんじゃ。ワシはその手伝いをしたまでのこと。狐ごときに怒られる筋合いはないわい」
威嚇するかのごとく、輪入道の炎が一段高く燃え上がる。
「ワシらの姿が見えんやつばかりのこの常世は間違っておる。人の信仰心を呼び戻そうとして何が悪い」
自らの信念に乗っ取っての行動だと、輪入道は一歩も引かない。それに対し、白井はハァと呆れた溜め息を吐いた。
「ここは人の世だ。人の理《ことわり》は人が作ればいい。あやかしの理を通したければ、あやかしの世に戻ればいいだけだ」
「隠り世へ帰れとな? 帰らんぞ、絶対に帰らん! ワシはここに残って、人の間違いを正すんじゃ」
轟々と燃え盛る炎に、輪入道の顔が完全に隠れ切ってしまう。話していても埒が明かないと考えたのだろう、白井に向かって体当たりしようとその車輪を回転させて突進してくる。広くはないカウンター前で、白井はギリギリのところで避けると、白銀の尻尾をふわりと揺らした。
厨房から覗き見ていた千咲には、軽やかに飛び避けた白井の尻尾が、蕾から花が開くかのように四方へ何本も広がるのが見えた。全部で九本に増えた尻尾がゆらゆらと揺れている。――九尾の狐だ。
「稲荷神はお前がここに残ることを望んではおられん。失せろ!」
九尾となった白井は、何度も突進してくる車輪を軽い身のこなしで避け続ける。まるで相手にもならないといいたげに、顔には薄い笑みを浮かべながら。
「おのれぇ」と低い唸り声を上げて、炎の車輪はさらに一段と火力を増加させる。けれど、次の瞬間に己の目の前に現れ出た光景にたじろぐ。九尾を持つ男が、その両の手の上で操っているものに気がついたのだ。
「お、鬼火……」
左右の手の上に掲げた青白い炎の塊。火炎に包まれた己の身でも瞬時に焼き尽くしてしまうと言われている、妖狐の炎。それを操る狐の噂は耳にした覚えがあった。まさか目の前のこいつが――。
勝てる相手ではないと悟ったのか、輪入道はその炎を最小まで抑え、「もう好きなようにせい」と呟くと車輪の動きを止めた。
白井はチッと不満げに舌打ちしてから鬼火を消すと、二本の指で空を切って境界線を開く。「いけ」と短く命じて顎で促し、輪入道をその境界の向こうにある世――隠り世へと送り返した。