遅れて出勤してきた白井は千咲と会うなり近付いてきて、いつぞやと同じく首元に顔を寄せてくる。咄嗟の至近距離に、顔も首も真っ赤に染めた千咲は、「だから、セクハラですってば!」と両手でその肩をアタフタと押し返す。

「今日も何か匂うんだが……」
「匂うとか、そういうこと言うのヤメて下さいっ!」

 不意打ちの接近に心臓をバクバクさせながら、白井へと5番ブースの客のことを報告していく。獣要素が丸出しの中森とは違い、白井は誰が見ても美青年の姿をしているのに、その自覚が全く無い。変な苛立ちを覚えながらも、千咲はできるだけ冷静を保ちつつ順に説明していった。

 すると、カウンター上のパソコンから13時間超過を知らせるアラートが鳴り響く。モニターを覗くと、ポップアップで『5番ブース。13時間経過』の画面表示。

 ネットカフェ『INARI』の利用料の基本は10分刻みだが、経過時間によって3時間パック、5時間パックといった割引パック料金が自動適応される。そのパック割の最長が13時間で、それを越えた分は10分ごとに課金されるシステムだ。なので、滞在時間の長い客には13時間を超えた時点で一旦清算してもらい、常にお得なパック料金が利用できるように勧めている。――というのは表向きで、実際のところは長時間滞在した客の料金踏み倒し対策だ。

「ブースには居ないんだな?」
「はい。さっきも確認に行きましたが、荷物もそのままでした」

 そうか、と呟くと、白井は内線電話の受話器を上げて、5番のボタンを押した。耳を澄ませば、ブースの方で鳴り続けている呼び出し音が千咲の耳にも聞こえてくる。どれだけ鳴っても、誰も内線を取る気配はない。
 受話器を戻すと、白井は眉間に皺を寄せたまま、栗色の前髪をワシャワシャと掻く。

「本人確認は保険証だったみたいなので、車で来られた可能性は低いです。国保だから勤務先は分からないです。会員登録も固定電話無しで、スマホはブースに置きっぱなしです」

 店として分かっているのはそれが全てだ。白井は行方が分からなくなった客の利用履歴を確認しながら何か考えているようだった。

「――19時半にオーダーが入ってるから、居なくなったのはそれ以降か。防犯カメラを確認してみるから、鮎川は通常業務に戻れ」

 客が居ないことに学生バイト達が気付くまで、そう長い時間は経っていない。カメラの記録を遡って客の動きを探るのは造作ないこと。店外に出ているのが確認できれば無銭飲食として通報し、後は警察に任せるだけだ。千咲は単純にそう思っていた……。

 今日も河童はどこからともなくやってきて、食器洗いのお手伝いをしてくれていた。水かき付きの手で器用にスポンジを握って、汚れた皿を一枚ずつ洗っていく。食洗機の蓋のバーには手が届かないみたいだが、すっかり余洗いは河童に任せてしまっている。

 お駄賃は、痛む寸前のミニトマトを半パック。ヘタごとパクっと食べ終えると、満足気に脚立の上で飛び跳ねていた。野菜をあげると必ず両手で持って頭の上に掲げるのは、河童にとって「いただきます」の儀礼なんだろうか。とにかく喜んでくれているのはよく分かる。かいわれとパセリは口に入れた後に首を傾げていたので、多分イマイチだったのだろう。

 ――辛味とか苦味があるとダメなのかな? ピーマンも苦手そうだったし。

 フライヤーから揚げたてのトンカツを取り出して、用意していた定食セットの皿に盛りつける。四分の一大にカットされた切り口は脂が乗っていて、食欲がとてもそそられる。でも、さすがにこの時間はマズイ。これを気にせず口にできる人のことを羨ましく思いながら、伝票を付けたトレーを喫煙席へと運んでいく。

 料理を届けたついでに、千咲はもう一度5番ブースを覗き込む。フラットシート席の中は数時間前に見たのと状態は何も変わっていない。客が戻って来た形跡はない。バッグもスマホも置きっぱなしでどこへ行ってしまったんだろうか。

 そして、喫煙席の通路を撮影しているはずの防犯カメラを見上げた。エリアのほぼ中央に位置する5番ブースは、おそらくモニター画面のど真ん中に映し出されているはずだ。席を立てば必ずカメラに映る位置。勿論、エントランスにもカメラは設置されているので、黙って店外へ出てしまったのなら、それも間違いなく撮影されている。

「横井がカルボナーラとシーザーサラダを運んで行った後から見てるが、一度飲み物を取りに行っただけで、その後にブースを出た形跡がない」

 確認の為にドリンクバーのカメラも見返してみたが、食器を返却した後にデカビタを持って戻っただけで、おかしな動きはまるで無かったと、白井は困惑から表情を曇らせる。防犯カメラ上に残されていることだけでは何も分からなかった。ただの無銭飲食ではないのかもしれない。悪い予感しかしない。

「少し、ブースを見てくる。鮎川はフロント周辺に居てくれ」

 白井の指示に、千咲は黙って頷き返す。厨房のことは河童に任せ、カウンター内の備品のチェックを始める。バッシング用のアルコールをスプレーボトルへ補充していると、自動ドアがすっと開いた。けれど、そこに人の姿は無く、入り口のセンサーも無言だ。慌ててカウンターの中で立ち上がった千咲は「虫か何かに反応しちゃったかな?」と、特に気にもせず、すぐにしゃがみ込んで作業に戻る。

 ここは開店してまだ三年だが、『INARI』の建物は結構古く、自動ドアは建てられた時から変わっていない。いわゆる居抜き物件というやつで、前は家電量販店が入っていたらしい。その旧式の自動ドアが来客以外で勝手に開くことはたまにある。少し大きな虫がセンサー部分を通過したり、駐車場を横切って行く人がいたり、場合によっては車のライトに反応してしまうこともあった。