エントランスで気を失っていた男は、何事も無かったかのように大イビキをかきながらフロント前のベンチで夜を明かしていった。酔っ払って駅の階段に座り込んで眠っていたところまでは覚えていると話していたが、その後に何かに憑りつかれてしまったのだろう。起きて靴が片方無いことにかなり慌てていた。とりあえず、店のスリッパを履いて帰っていったが、ちゃんと返しに来てくれるだろうか。
一瞬だけちらっと見えた黒いモヤ。あれは何だったのかと後で白井に尋ねてみたところ、「元は人かあやかしかは分からんが、怨霊の類だろうな」という答えが返ってきた。
しかし、何度思い返しても、千咲を餌にして憑き物をおびき出したことは腹立たしい。たとえ護符で守られていると言っても、タチの悪い物に追いかけられる身にもなれ。怒る千咲に対して、白井は意地悪な笑みを浮かべながら「悪い悪い」と軽くあしらって返していた。
「それにしても、あの蜘蛛は白井さんの仲間だったんですねー。ちゃんと協力してくれるってことは――」
「違う」
「だって前に聞いた時も、あれは無害だって言ってましたよ?」
「あれはあそこを狩り場にして、入ってきたモノを適当に食ってるだけだ。今日みたいな中途半端な奴が好物らしい」
手助けすれば獲物が手に入ると分かっていて、蜘蛛は気まぐれに白井の指示に従っただけだという。
「追い出そうと思えばいくらでもできるが、デブ狸が『紛れ込んだ雑魚の駆除には丁度いいから置いとけ』ってさ」
建物のあちらこちらに護符を貼り、正面からしか出入りできないようにしているのもその為。要は、侵入してくる怨霊を大蜘蛛のフィルターにかけているようなものだ。使えるモノは使う、狸親父ならではの合理的発想だ。結果的に、これを共存共栄していると言っても良いのだろうか。
まだ日が昇り切らず、外の景色が薄ぼんやりとしている早朝。後頭部に寝癖を付けた現場監督が、参ったなと頭を掻いて生欠伸を噛みしめながらフロントに顔を出した。
「隣でずっと電話が鳴ってるんだわ。マナーモードで全然気付いとらんくて、上から覗いたらガッツリ寝てやがる。何とかしてくれんか」
「申し訳ございません……すぐに離れたお席を用意いたしますので」
「おう、頼む。夜中も何か入り口が騒々しかったし、今日は寝不足のまま現場入りせなならん」
「誠に申し訳ございません」
まあ、こんな店だからいろいろあるわな、と天狗に取り憑かれた男はカカカと笑い飛ばす。新しく取り直したブースの伝票を受け取って「もう一回寝直しだ」と防音扉の向こうへと消えていく。
端末の管理画面をしばらく眺めて、千咲は眉を寄せる。そこまで客数は多くはないが、その内に他の客からもクレームが入るかもしれない。だからと言って、寝ている人を無理に起こすのも気が引ける。
休憩に入っている白井に相談すべきか悩んでいると、店の外線が鳴り始めた。深夜の外線電話は滅多にないのでドキリとする。
「お電話ありがとうございます。ネットカフェINARI、鮎川でございます」
「あの、そちらに一ノ瀬裕也って人が居るはずなんですが、ずっと電話してるんだけど、全く出なくって」
「一ノ瀬裕也様、ですか?」
どこかで聞いたことある名前だと思ったら、今まさに端末の入店者情報で見ていた名前だ。スマホ鳴らしっぱなし客だ。
「多分、寝てると思うんで、叩き起こして折り電するよう言って貰えますか?」
「えっと……」
電話口の女性は鳴り続けるスマホの相手のようだった。口調は穏やかで、別に苛立っている風でもない。何度掛けてもスマホに出る気配がないから、直接店へ電話してきたらしい。
かと言って、利用者の情報を第三者に伝えることは個人情報保護の観点から難しい。千咲は必死で言葉を選ぶ。
「後程こちらで確認させていただきまして、もしお客様の中に一ノ瀬裕也様という方がいらっしゃるようでしたら、そうお伝えいたしますね」
「お願いします。間違いなく、そこに居るんで」
最後まで利用の有無ははっきりとは答えずに受話器を下ろす。電話の雰囲気から、多分家族か恋人で、彼が店に行くのを本人から聞いていたようだった。だからと言って、安易に「いらっしゃいます」と店側から伝えることはできない。
客一人一人の事情なんて分かる訳がないから、下手なことは口走れない。利用者全てが堂々とここに居るとは限らない。家出中だったり、誰かから隠れているのかもしれないし、人によってはネットカフェの利用そのものを公表したくない場合もある。
中には駐車場に知り合いの車が停まってたからと、勝手にブースを覗きに行こうとする人もいる。入店手続きが済んでいない人が防音扉の向こうへ入るのはご法度だ。プライベートな時間を過ごす為に訪れている客ばかりだから、それは店にとっては営業妨害だし、利用客からしてみたら下手したらストーカー行為でもある。
ネットカフェという店の性質上、人探しの問い合わせは珍しくはない。自殺を仄めかした書き置きを残した娘の利用歴を必死の形相で尋ねられた時でさえ、警察からの捜査協力依頼無しには答えられないことを伝えるのが精一杯だった。
良心ではなく一定の規律に従って判断しないと、後で痛い目を見るのはこちら側になる。
肝心の一ノ瀬は電話の女性の予想通り、フラットシートで身体を丸めて爆睡中だった。千咲に起こされた後、慌てて鞄からスマホを取り出し、「うわ、マズ! 怒られる!」とその着信履歴の多さに顔色を変えていた。
起こされてすぐ退店していく客の後ろ姿を見送りながら、大事にならないようにと心の中で願う。
一瞬だけちらっと見えた黒いモヤ。あれは何だったのかと後で白井に尋ねてみたところ、「元は人かあやかしかは分からんが、怨霊の類だろうな」という答えが返ってきた。
しかし、何度思い返しても、千咲を餌にして憑き物をおびき出したことは腹立たしい。たとえ護符で守られていると言っても、タチの悪い物に追いかけられる身にもなれ。怒る千咲に対して、白井は意地悪な笑みを浮かべながら「悪い悪い」と軽くあしらって返していた。
「それにしても、あの蜘蛛は白井さんの仲間だったんですねー。ちゃんと協力してくれるってことは――」
「違う」
「だって前に聞いた時も、あれは無害だって言ってましたよ?」
「あれはあそこを狩り場にして、入ってきたモノを適当に食ってるだけだ。今日みたいな中途半端な奴が好物らしい」
手助けすれば獲物が手に入ると分かっていて、蜘蛛は気まぐれに白井の指示に従っただけだという。
「追い出そうと思えばいくらでもできるが、デブ狸が『紛れ込んだ雑魚の駆除には丁度いいから置いとけ』ってさ」
建物のあちらこちらに護符を貼り、正面からしか出入りできないようにしているのもその為。要は、侵入してくる怨霊を大蜘蛛のフィルターにかけているようなものだ。使えるモノは使う、狸親父ならではの合理的発想だ。結果的に、これを共存共栄していると言っても良いのだろうか。
まだ日が昇り切らず、外の景色が薄ぼんやりとしている早朝。後頭部に寝癖を付けた現場監督が、参ったなと頭を掻いて生欠伸を噛みしめながらフロントに顔を出した。
「隣でずっと電話が鳴ってるんだわ。マナーモードで全然気付いとらんくて、上から覗いたらガッツリ寝てやがる。何とかしてくれんか」
「申し訳ございません……すぐに離れたお席を用意いたしますので」
「おう、頼む。夜中も何か入り口が騒々しかったし、今日は寝不足のまま現場入りせなならん」
「誠に申し訳ございません」
まあ、こんな店だからいろいろあるわな、と天狗に取り憑かれた男はカカカと笑い飛ばす。新しく取り直したブースの伝票を受け取って「もう一回寝直しだ」と防音扉の向こうへと消えていく。
端末の管理画面をしばらく眺めて、千咲は眉を寄せる。そこまで客数は多くはないが、その内に他の客からもクレームが入るかもしれない。だからと言って、寝ている人を無理に起こすのも気が引ける。
休憩に入っている白井に相談すべきか悩んでいると、店の外線が鳴り始めた。深夜の外線電話は滅多にないのでドキリとする。
「お電話ありがとうございます。ネットカフェINARI、鮎川でございます」
「あの、そちらに一ノ瀬裕也って人が居るはずなんですが、ずっと電話してるんだけど、全く出なくって」
「一ノ瀬裕也様、ですか?」
どこかで聞いたことある名前だと思ったら、今まさに端末の入店者情報で見ていた名前だ。スマホ鳴らしっぱなし客だ。
「多分、寝てると思うんで、叩き起こして折り電するよう言って貰えますか?」
「えっと……」
電話口の女性は鳴り続けるスマホの相手のようだった。口調は穏やかで、別に苛立っている風でもない。何度掛けてもスマホに出る気配がないから、直接店へ電話してきたらしい。
かと言って、利用者の情報を第三者に伝えることは個人情報保護の観点から難しい。千咲は必死で言葉を選ぶ。
「後程こちらで確認させていただきまして、もしお客様の中に一ノ瀬裕也様という方がいらっしゃるようでしたら、そうお伝えいたしますね」
「お願いします。間違いなく、そこに居るんで」
最後まで利用の有無ははっきりとは答えずに受話器を下ろす。電話の雰囲気から、多分家族か恋人で、彼が店に行くのを本人から聞いていたようだった。だからと言って、安易に「いらっしゃいます」と店側から伝えることはできない。
客一人一人の事情なんて分かる訳がないから、下手なことは口走れない。利用者全てが堂々とここに居るとは限らない。家出中だったり、誰かから隠れているのかもしれないし、人によってはネットカフェの利用そのものを公表したくない場合もある。
中には駐車場に知り合いの車が停まってたからと、勝手にブースを覗きに行こうとする人もいる。入店手続きが済んでいない人が防音扉の向こうへ入るのはご法度だ。プライベートな時間を過ごす為に訪れている客ばかりだから、それは店にとっては営業妨害だし、利用客からしてみたら下手したらストーカー行為でもある。
ネットカフェという店の性質上、人探しの問い合わせは珍しくはない。自殺を仄めかした書き置きを残した娘の利用歴を必死の形相で尋ねられた時でさえ、警察からの捜査協力依頼無しには答えられないことを伝えるのが精一杯だった。
良心ではなく一定の規律に従って判断しないと、後で痛い目を見るのはこちら側になる。
肝心の一ノ瀬は電話の女性の予想通り、フラットシートで身体を丸めて爆睡中だった。千咲に起こされた後、慌てて鞄からスマホを取り出し、「うわ、マズ! 怒られる!」とその着信履歴の多さに顔色を変えていた。
起こされてすぐ退店していく客の後ろ姿を見送りながら、大事にならないようにと心の中で願う。