オーダーストップ間際の怒涛の注文。レンジで温めたり湯せんしたり、キッチンタイマーが鳴るのを気にしながら、フライパンでオム焼きそば用の卵に火を通す。厨房内をパタパタと動き回って、千咲は用意したトレーに皿とカトラリーを並べていく。盛り付けが終わった料理から順にブースへと配膳して、ようやく終わったとほっと一息付いた途端、それを見計らったかのようなタイミングでまた内線が鳴り響く。ずっとこれの繰り返しだった。

 フロントでの入店受付を終えて様子を見に厨房に顔を出した白井に、千咲は疲れ切った顔で愚痴る。

「何なんですか、これ。本当に一人で食べてると思います?」
「食べてるんじゃないか。食器はちゃんと返却されてるだろ」

 調理の最中、食べ終えた食器を返却口に運んで来た人影は、ひょろりと背の高い男性のものだった。あの細身でこの量を食べきれているのが不思議で仕方ない。これが痩せの大食いというやつなんだろうか。

 ピザを焼くオーブンから漏れてくる熱風とフライヤーの油のはね返り。もう秋だというのに厨房内は冷房が効いているにも関わらず、額にはじんわりと汗が滲み出てくる。からあげ丼とロコモコ丼という丼物二品を完成させると、千咲はワゴンを押して35番ブースのアクリル扉をノックした。

 「はい」という返事を確認してから、片手で扉を開いて料理の乗ったトレーを中へと差し入れる。二品目のトレーを手渡す際に、ブース内の様子が少しだけ見えた。リクライニングシートの前、パソコンも置かれたテーブルの上には数え切れない数のグラスやマグカップが並んでいて、そのほとんどは空になっていた。さらに、シートの足下には食べ終えた後の食器が乗ったトレーが積み重ねられている。セルフサービスが基本だが、この量を一人で返却するのは大変だろう。

「お済みになられた食器、少しお下げいたしますね」
「……どうも」

 手前に置いてあった食器がワゴンに乗せられていくのを、男は虚ろな目でしばらく眺めていた。しかし、運ばれてきた料理を前に、もう我慢できないとばかりに千咲の存在を無視して食べ始める。がつがつと貪るような食事の仕方に、千咲は身震いする。――これはどう考えても、まともじゃない。

「まぁ、餓鬼が憑りついているのは間違いないな」
「餓鬼って、食べても食べてもお腹がいっぱいにならないっていう?」
「ああ、こっちは別にいくらでも食べてもらうのは構わないが――鮎川、注文が途絶えたら、フロントから目を離すなよ」

 「え、なんでですか?」という千咲の疑問に答えようと口を開きかけた途中で、白井は再び鳴り出した内線へと対応を迫られる。
 受話器を下ろしたその手には、新たに受けた料理名が並んだメモ。これで何回目のオーダーだろうか、千咲は諦めたように厨房へと戻っていく。

 それからも22時を過ぎてオーダーストップを告げられるまで、内線番号35は鳴り続けた。料理の追加注文ができなくなると今度は飲み物で腹を満たすことにしたのか、餓鬼に憑りつかれたらしい客はドリンクバーをウロウロし始める。洗い物をしていると食器返却口越しに、千咲の視界にその様子が入ってくる。

 右手で持ったコーラを立ち飲みしながら、男は左手で別のグラスにオレンジジュースを注いでいた。その脇にはブースに持ち込む為のドリンク用トレーに乗せた大量のソフトクリーム。小さなデザートカップではなく、高さ15cmはあるドリンク用グラスにたっぷりと絞り出されたバニラとチョコとミックス味。
 男がこれまで食べたであろう量を想像するだけで、うっと胸焼けしそうになる。

 しばらくして、ようやく厨房から解放された千咲は、フロントのカウンターの中で、返却済みヘッドフォンをアルコールが染みたダスターで丁寧に拭き上げていた。

 すぐ目の前の自動ドアの天井近くには、相変わらず女郎蜘蛛が巣を作って張り付いている。店を出入りする際、真下を通り抜けるのはかなり緊張するが、今のところは何も起こってはいない。かと言って、白井の言葉通りに無害だと信じるのは早計に思えた。なんせ千咲は昨日、あやかし婆に食われかけた身だ。

 ヘッドフォンのコードをクルクルと巻いてから除菌済の袋に入れ、それらを棚にしまい込む為に屈んでいた。すると、フロント右手にある木製の防音扉がとても静かに開く気配。

 ――あ。

 上着を着てリュックを背負い、青褪めた顔で出てきたのは細身の男。オーダーストップぎりぎりまで料理を食べまくっていた35番ブースの客だ。フロントに誰も居ないと思っていたらしく、カウンターの下からひょこっと顔を出した千咲に、本気で驚いたらしく「ヒャッ」と情けない声を上げて飛び上がっていた。

「あ、あの……ちょっと外で電話を……」

 そう言いながら、そそくさと自動ドアを抜け出ていこうとする。何か様子が変だ。電話だけで荷物全部を持って行く必要はない。報告しようとフロント奥に千咲が声を掛けるより前に、白井がすっと出てきて男の後を追って外に出ていく。

 自動ドアが完全に締まり切ってしまうと、外の音はほとんど聞こえない。客とどんなやり取りをしていたのかは分からなかったが、すぐに白井から腕を掴まれた男が引き摺られながら戻って来た。

「こちらのお客様はご精算だそうだ。支払いはクレジットカードで」
「あ、かしこまりました」

 白井に横腹を小突かれながら、男性客が財布からカードを出す。その手は少し震えているようだった。

「す、すみませんでしたぁ」

 会計を終えて会員カードと利用明細を受け取ると、客はペコリと頭を下げてから逃げるように店を出ていこうとする。が、

「オイ、お前はダメだ」

 立ち去りかけている客の背中に腕を伸ばし、白井が何かを掴んだ。一瞬「え?」と振り返った客だったが、気のせいかと自動ドアの向こうへ消えていく。
 白井が強く握りしめたその手の先には、灰色の着物を身に纏った子供のあやかしの姿。痩せ細った身体だが、お腹だけが異様に出ている。これが餓鬼の正体だろうか。男と一緒に出ようとしていたが首根っこを掴まれて、身動きが取れずにバタバタと暴れていた。白井の顔を睨んで、悪態をつく。

「は、はなせっ。クソ狐!」
「金の無いやつに憑いてんじゃねーぞ。無銭飲食させるつもりかっ」
「し、知らねえよ、そんなこと!」

 暴れ続ける餓鬼を白井は軽々と片手で持ち上げると、その耳元で低い声で囁く。

「選ばせてやる。そこの蜘蛛女の餌になるか、隠り世に帰るか。さあ、どっちがいい?」

 ギラギラとした大蜘蛛の大きな眼と目が合い、餓鬼はぶるっと震えた。いつでも獲物を捕獲すべく、蜘蛛は尻から糸をチラつかせている。餓鬼は怯えて掠れるような小さな声で答えた。

「か、隠り世に……」

 その言葉にハンと鼻で笑いながら頷くと、白井は右手の二本の指で空を切る。横一直線に引かれた線はこの世とあの世との境界線。そこへ向かって、餓鬼の背中を蹴り入れる。
 すっと吸い込まれるように消えていく小さなあやかしの影。境界線が消えたのを確認すると、白井は茫然と立ち尽くしたままの千咲の横を、何事も無かったかのように通り過ぎてからフロントの奥と戻っていく。