それから僕たちはラッコやアザラシなんかの可愛らしい哺乳類たちを一通り見終えた後、カフェで休憩をすることになった。
僕が昔来た頃にはなかった新しいカフェだ。時の流れを感じて、なぜだかひとり胸が軋んだ。
僕はアイスコーヒーを、彼女はカフェラテを注文する。席に着くと、思ったよりも足がじんわりと重くなっていることに気づいて苦笑した。
「今日は誘ってくれてありがとう。人がたくさんいるところに来ちゃったけど、透くん、音は大丈夫だった?」
彼女に言われてはっと気づく。水族館なんて人の多いところに来れば、必ずと言っていいほど雑音が聞こえて心が耐えられなくなるのに。今日は全然、みんなの音が気にならなかった。ゆったりとした気分で魚を眺めている人が多かったからかもしれない。聞こえてくる音自体、波の音みたいに静かなものが多くて、うるさいとは思わなかった。
僕が頷くと、彼女は「良かった」と笑ってくれた。
音が気にならなかったのは、ハルカの隣で二人の時間を楽しんでいたからかもしれないな。
そこまで考えて、僕は脳内で頭を振る。ひとり妄想に浸ってしまって恥ずかしい。ハルカが「どうしたの?」と僕に純粋なまなざしを向けていた。
「なんでもない! それよりさ、ずっと聞きたかったことがあるんだけど……」
水滴の滲むコーヒーカップを見つめながら、遠慮がちに尋ねる。
「なに?」
相変わらず純な瞳を向ける彼女を見て、ごくりと生唾をのみこむ。
「ハルカの病気のこと、なんだけど。今、どんな感じなのかなって、気になって。突然不躾なこと聞いてごめん。嫌だったら、答えなくて大丈夫」
僕に向けるまなざしが、不安げに揺れたような気がする。
ずっと聞こえていたサラサラという音が、チリッという鋭い音に変わる。
彼女からは聞いたこともない負の音に、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
「病気は——治ったよ。そうじゃなきゃ、水族館なんて遊びに行けないって」
心の音とは裏腹に、彼女の顔には貼り付けられた笑顔が浮かぶ。僕だけが気づくことのできるその矛盾に対して、どう反応をすれば良いか分からずに固まってしまった。
「信じてもらえない?」
僕の反応が薄かったのが気になったのか、ハルカが青みがかかった瞳で僕の顔を覗くようにして見つめてくる。唾をのみこんで、ゆっくりと首を横に振った。
「信じないわけないよ。そんなことで、嘘つく必要ないし」
そうだ。治っていないなら正直に答えればいいし、ハルカがわざわざ嘘をつく理由なんてない。信じる・信じないの問題ではなく、ただ彼女の身体がいま元気なら、それでいいじゃないか。
「ふふ、ありがとう。病気の時はね、こんなふうに誰かとちょっとでも遠くに出かけるのが難しかったから、いますごく嬉しいし、楽しい」
心底幸せそうに微笑む彼女の顔を見ていると、自分の中で芽生えた小さな懐疑心はすぐに潰えた。
「そっか。そうだよね。健康であることは、素晴らしいことだ」
「そういうこと!」
サラサラサラ
いつもと変わらない音が聞こえてきて、ほっと胸を撫で下ろす。
ハルカはいま僕の隣にいてくれる。その事実だけで、音も、病気のことも、些末なことのように思えた。
カフェを後にした僕らは、水族館のショップでお揃いのキーホルダーを買った。僕はペンギン、彼女はイルカの絵柄で、お互いの鞄につけて帰った。
「今日は本当にありがとう」
「こちらこそ。またどこかへ出かけよう」
「うん!」
駅前で手を振って彼女と別れる。鞄で揺れるイルカが、かちゃかちゃと小さな音を立てて遠ざかって行く様子を、音が聞こえなくなるまで眺めた。
僕が昔来た頃にはなかった新しいカフェだ。時の流れを感じて、なぜだかひとり胸が軋んだ。
僕はアイスコーヒーを、彼女はカフェラテを注文する。席に着くと、思ったよりも足がじんわりと重くなっていることに気づいて苦笑した。
「今日は誘ってくれてありがとう。人がたくさんいるところに来ちゃったけど、透くん、音は大丈夫だった?」
彼女に言われてはっと気づく。水族館なんて人の多いところに来れば、必ずと言っていいほど雑音が聞こえて心が耐えられなくなるのに。今日は全然、みんなの音が気にならなかった。ゆったりとした気分で魚を眺めている人が多かったからかもしれない。聞こえてくる音自体、波の音みたいに静かなものが多くて、うるさいとは思わなかった。
僕が頷くと、彼女は「良かった」と笑ってくれた。
音が気にならなかったのは、ハルカの隣で二人の時間を楽しんでいたからかもしれないな。
そこまで考えて、僕は脳内で頭を振る。ひとり妄想に浸ってしまって恥ずかしい。ハルカが「どうしたの?」と僕に純粋なまなざしを向けていた。
「なんでもない! それよりさ、ずっと聞きたかったことがあるんだけど……」
水滴の滲むコーヒーカップを見つめながら、遠慮がちに尋ねる。
「なに?」
相変わらず純な瞳を向ける彼女を見て、ごくりと生唾をのみこむ。
「ハルカの病気のこと、なんだけど。今、どんな感じなのかなって、気になって。突然不躾なこと聞いてごめん。嫌だったら、答えなくて大丈夫」
僕に向けるまなざしが、不安げに揺れたような気がする。
ずっと聞こえていたサラサラという音が、チリッという鋭い音に変わる。
彼女からは聞いたこともない負の音に、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
「病気は——治ったよ。そうじゃなきゃ、水族館なんて遊びに行けないって」
心の音とは裏腹に、彼女の顔には貼り付けられた笑顔が浮かぶ。僕だけが気づくことのできるその矛盾に対して、どう反応をすれば良いか分からずに固まってしまった。
「信じてもらえない?」
僕の反応が薄かったのが気になったのか、ハルカが青みがかかった瞳で僕の顔を覗くようにして見つめてくる。唾をのみこんで、ゆっくりと首を横に振った。
「信じないわけないよ。そんなことで、嘘つく必要ないし」
そうだ。治っていないなら正直に答えればいいし、ハルカがわざわざ嘘をつく理由なんてない。信じる・信じないの問題ではなく、ただ彼女の身体がいま元気なら、それでいいじゃないか。
「ふふ、ありがとう。病気の時はね、こんなふうに誰かとちょっとでも遠くに出かけるのが難しかったから、いますごく嬉しいし、楽しい」
心底幸せそうに微笑む彼女の顔を見ていると、自分の中で芽生えた小さな懐疑心はすぐに潰えた。
「そっか。そうだよね。健康であることは、素晴らしいことだ」
「そういうこと!」
サラサラサラ
いつもと変わらない音が聞こえてきて、ほっと胸を撫で下ろす。
ハルカはいま僕の隣にいてくれる。その事実だけで、音も、病気のことも、些末なことのように思えた。
カフェを後にした僕らは、水族館のショップでお揃いのキーホルダーを買った。僕はペンギン、彼女はイルカの絵柄で、お互いの鞄につけて帰った。
「今日は本当にありがとう」
「こちらこそ。またどこかへ出かけよう」
「うん!」
駅前で手を振って彼女と別れる。鞄で揺れるイルカが、かちゃかちゃと小さな音を立てて遠ざかって行く様子を、音が聞こえなくなるまで眺めた。