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「透ー、今日帰るから、午前中までに荷造りしておくのよ」

 翌日八月二十一日の朝、八時に目を覚ました僕に、廊下から母親が声をかけてきた。ばあちゃんちの余っている部屋で寝泊まりをしていたのだが、障子を開けて、窓から差し込む朝日の光が眩しいのとも、今日でお別れらしい。感傷的な気分に浸りつつ、母と祖母のいる食卓へ向かう。
 祖母はとっくに朝ごはんを食べ終えて、日課である新聞を読んでいた。目が悪いので老眼鏡をかけて、じっくりと新聞を読み込んでいる。この風景も、夏休みの間毎日目にしたものだ。母はトーストを齧りながら、僕の分のコーヒー牛乳を用意してくれていた。

「今日って何時に出発するんだっけ?」

「昼の二時ごろよ」

「二時か……」

 いつも、彼女とは午前中から待ち合わせをしていたが、今日も同じ時間に河原にやって来るのだろうか。会えたとしてもいつもより時間は短い。カナタは僕が今日東京に帰ることを知っているから、朝から待ってくれている可能性は高いだろう。でも僕はまだ、今日彼女に会いに行くことを決められていなかった。

「あんた、今日も出かけるつもり?」

 何かを見透かしたような母の質問に、僕はどきりとして食べかけていた目玉焼きを落としそうになった。

「いや、全然いいんだけど。ちゃんと荷造りだけはして行きなさいよ?」

「う、うん」

 母は僕が毎日のように出かけているのを知っているから、最終日にも外に行こうとしている僕に呆れつつも、反対はしないらしい。
 彼女に会う決心がつかないままであることに罪悪感を覚えながら、朝ごはんを最後まで食べて、コーヒー牛乳を飲み干す。母はとっくに食べ終えていて、僕は食器をシンクに持っていった。母が僕の分と自分の分の食器を洗い始める。

「透や」

 ふと後ろからしわがれた声が聞こえて来て、はたと振り返る。
 新聞紙から顔を上げた祖母が僕に手招きをしていた。

「どうしたのばあちゃん」

 彼女の方に近づいて、隣の空いているソファに腰を下ろす。

「透は、音が聞こえるんかね?」

「え?」

 不意の質問だったので、思わず間抜けな声を上げる。

「だから、音だよ。ほれ、誰かとすれ違った時とか、友達と話してる時とかに、聞こえるだろう」

「う、うん。でもどうしてそれを知ってるの?」

 音のことは母親には話しているが、祖母に話したことはない。
 背後で聞こえていたジャーっとシンクで水を流す音がぴたりと止んだ。

「そりゃな、わしも同じ音が聞こえるからだよ。うちの家系ではよくあるんよ。でもそおか。透も、同じなんやね」

 ばあちゃんの声は優しく、僕の中で疼いている痛みのような感情を、丸ごと包み込んでくれるような気がした。
 そういえば以前お母さんが、ばあちゃんも同じ音が聞こえるんだと言っていた。自分は聞こえないけどって。すっかりそのことを忘れてしまっていた。

「そっか。ねえ、ばあちゃんはこの音が聞こえるの、嫌じゃなかった?」

「ん、若い頃はねえ、嫌だったよ。聞きたくない音まで聞いてしまうからな。でも今は、嫌じゃのうなってる」

「なんで? なんで嫌じゃなくなったの」

 ばあちゃんの中に、僕が求める答えが眠っているような気がして、気がつけば身を乗り出して必死に尋ねていた。

「それはな、音が大切な気持ちを教えてくれるからだ」

「大切な気持ち……」

「そうじゃ。確かに聞きたくない音、うるさい音、苦しい音はたくさんある。でも音はな、他人が自分に向けている気持ちなんよ。私らはふうつ、他人の気持ちを推し量ることしかできないんじゃ。だけど、音が聞こえるから、大事な時に手遅れにならずに済む。気持ちを伝えられない後悔ほど、辛いものはないんだよ。そう思うと、音が聞こえることが苦じゃのうなった。むしろ、音が聞こえることに感謝しとるんよ」

 にっこりと微笑んで、本心を語ってくれる祖母の目を、僕は片時も話すことなく見つめていた。

「だから透も、今聞こえる音を、大事にするんじゃ。自分に向けてくれる想いから、目を背けたらいつかきっと後悔する」

 ばあちゃんの言葉が、胸のいちばん深いところに浸透していく。 
 僕はずっと、他人の音が聞こえるというこの性質が嫌いだった。誰からかまわず今心に抱いている感情を、どうして僕にぶつけてくるんだって、理不尽に感じていた。
 でも違うんだ。
 音は、誰かが僕に向けている感情だとばあちゃんは言った。
 僕は今まで、音は単に他人がその時にぼんやりと抱いている感情だと思っていた。
 苦しい音が聞こえる時、もしかしたら僕は誰かに不快な思いをさせていたのかもしれない。道端ですれ違っただけの人にも、身体がぶつかったり、知らず知らずのうちに睨んでしまっていたりしたのだろう。聞こえてくる音が、すべて自分に向けられている感情なら、僕はその音から目を逸らしちゃいけないんだ。

「ばあちゃん、ありがとう。僕には向き合いたい人がいて、その人の音がとてつもなく好きなんだ」

「そうかい。それなら迷うことはない。その音の持ち主に、ちゃんと気持ちを伝えるだよ」

「ああ、そうする」

 高校生にもなって、自分の祖母に悩みを相談するようなかたちになったことが少しばかり恥ずかしい。でも、祖母の話を聞いて心底良かったと思う。シンクの水が再び流れ始める。母が「もう行くんでしょ?」と振り返って言った。

「うん、行ってくる」

 いつもの鞄の中に、緑色と青色の表紙の文庫型ノートを入れた。  
 僕が好きな音を奏でる二人の大切なノートだ。
 この音だけはどうか見失わないように。しっかりと手に持って、僕は祖母の家を飛び出した。