ハルカは口をぎゅっとつぐんで俯いた。僕はひしひしとした痛みを覚えながら、次の日記を読んだ。
『二〇二四年八月一日。なんと今日、透くんに会えた! 話に聞いていた通り、繊細そうな少年。私のことを、ハルカって呼んだ。すごく迷ったけれど、ハルカのフリをすることにした』
『二〇二四年八月二日。透くんと二人で鳥羽水族館に行った。透くんから、ハルカの病気のことを聞かれて焦った。彼にまだ言えない自分が情けないし、ハルカに顔向できない。それでも心が言うことを聞かない。苦しい』
『二〇二四年八月十五日。透くんとトンボ取りに挑戦した。三年前、ハルカもやったんだって。私も透くんも虫が苦手だから、二人できゃあきゃあ言いながらトンボを捕まえた。意外と楽しかった』
頭の中で、チカチカと明るい光が明滅する。
ハルカのフリ。
ハルカに顔向できない。
苦手なトンボ取り。
楽しそうにトンボを捕まえる、三年前のハルカの笑顔。
サラサラという彼女特有のメロディー。
いろんな言葉や映像が次々と弾けては消えていく。もう言い逃れすることもできなくなった彼女が、「透くん」とか細い声で呟いた。シクシクと泣いているような心の音が耳にこだましていた。
「きみは、誰なの」
日記から顔を上げた僕は、彼女の青みがかった瞳に映る自分を見た。恋をした相手に疑いを向けるまなざしが、自分で見ても痛い。
ハルカは——ハルカと名乗っていた彼女は、湿った瞳を僕の方に向け「ごめんなさい」と漏らす。
「私は、ハルカじゃない。ハルカの双子の妹の、カナタって言うの」
「カナタ」
初めて聞く名前が、胸の前で滑るようにして通り過ぎていく。それでも、彼女の口から語られる事実に、必死に耳を傾けた。
「私は、お姉ちゃん——ハルカに頼まれて、きみのことを待ってた。二年前の夏からずっと。夏休みだけだけど、ハルカのことを伝えたくて……」
「ハルカのことを……?」
「うん。ハルカは……ハルカはね」
そこで一度、カナタは言葉を切る。込み上げてくる何かを押さえ込むようにして、震える口を閉じて、開いた。
「三年前の夏休みの後に、脳腫瘍で亡くなったんだ……」
ザアザアと雨が降るような激しい音が聞こえて、はっと息をのむ。彼女は泣いていた。両目からこぼれ落ちる涙が、彼女の背負ってきた三年間を映し出しているようだった。
予想していないことではなかった。
ハルカの病気はかなり重病だと聞いていたから。でも、三年経って現れた同じ音を持つ彼女を目の前にしたら、ひょっとしたら完治したんじゃないかって期待していたんだ。
「亡くなった、のか」
言葉で事実を告げられても、理解は追いつかない。現に今まで目の前にいた人物がハルカだと思い込んでいたのだから。突然もう彼女はいないと言われても、受け入れられるはずがなかった。
「騙していて、本当にごめんなさい」
啜り泣くカナタを前に、僕はどんな言葉をかければいいのか分からなかった。何より、僕の気持ちが追いついていない。カナタがハルカだと嘘をついて僕を騙していたことよりも、ハルカがもうこの世にいなくなってしまったということだけが、胸の中で鋭い痛みとなって襲ってきた。
「ごめん……今日は、帰ってくれないかな」
咄嗟に出て来た言葉は、彼女に対する拒絶だった。
カナタの瞳が大きく見開かれる。ズキン、ズキン、と分かりやすく傷ついた音が大きく響いた。
「……分かった」
暗い声で返事をする彼女は明らかにひどく傷ついていた。それでも僕は、これ以上彼女と話すことができない。後退りするようにして去ろうとする彼女だったが、一度足を止めた。
「透くん、明日、もう一度だけ会えないかな」
震える声でそう尋ねる彼女に、僕は頷くことも、首を横に振ることもできない。そんな僕の反応を見た彼女が、小さな声で「待ってるね」とだけ言い残すと、ザ、ザ、ザと足音を立てて遠ざかっていく。彼女から発せられる悲しみの音が、どんどん小さくなっていった。
僕は、カナタが残していったノートを握りしめたまま、側を流れる水の音だけを感じていた。
『二〇二四年八月一日。なんと今日、透くんに会えた! 話に聞いていた通り、繊細そうな少年。私のことを、ハルカって呼んだ。すごく迷ったけれど、ハルカのフリをすることにした』
『二〇二四年八月二日。透くんと二人で鳥羽水族館に行った。透くんから、ハルカの病気のことを聞かれて焦った。彼にまだ言えない自分が情けないし、ハルカに顔向できない。それでも心が言うことを聞かない。苦しい』
『二〇二四年八月十五日。透くんとトンボ取りに挑戦した。三年前、ハルカもやったんだって。私も透くんも虫が苦手だから、二人できゃあきゃあ言いながらトンボを捕まえた。意外と楽しかった』
頭の中で、チカチカと明るい光が明滅する。
ハルカのフリ。
ハルカに顔向できない。
苦手なトンボ取り。
楽しそうにトンボを捕まえる、三年前のハルカの笑顔。
サラサラという彼女特有のメロディー。
いろんな言葉や映像が次々と弾けては消えていく。もう言い逃れすることもできなくなった彼女が、「透くん」とか細い声で呟いた。シクシクと泣いているような心の音が耳にこだましていた。
「きみは、誰なの」
日記から顔を上げた僕は、彼女の青みがかった瞳に映る自分を見た。恋をした相手に疑いを向けるまなざしが、自分で見ても痛い。
ハルカは——ハルカと名乗っていた彼女は、湿った瞳を僕の方に向け「ごめんなさい」と漏らす。
「私は、ハルカじゃない。ハルカの双子の妹の、カナタって言うの」
「カナタ」
初めて聞く名前が、胸の前で滑るようにして通り過ぎていく。それでも、彼女の口から語られる事実に、必死に耳を傾けた。
「私は、お姉ちゃん——ハルカに頼まれて、きみのことを待ってた。二年前の夏からずっと。夏休みだけだけど、ハルカのことを伝えたくて……」
「ハルカのことを……?」
「うん。ハルカは……ハルカはね」
そこで一度、カナタは言葉を切る。込み上げてくる何かを押さえ込むようにして、震える口を閉じて、開いた。
「三年前の夏休みの後に、脳腫瘍で亡くなったんだ……」
ザアザアと雨が降るような激しい音が聞こえて、はっと息をのむ。彼女は泣いていた。両目からこぼれ落ちる涙が、彼女の背負ってきた三年間を映し出しているようだった。
予想していないことではなかった。
ハルカの病気はかなり重病だと聞いていたから。でも、三年経って現れた同じ音を持つ彼女を目の前にしたら、ひょっとしたら完治したんじゃないかって期待していたんだ。
「亡くなった、のか」
言葉で事実を告げられても、理解は追いつかない。現に今まで目の前にいた人物がハルカだと思い込んでいたのだから。突然もう彼女はいないと言われても、受け入れられるはずがなかった。
「騙していて、本当にごめんなさい」
啜り泣くカナタを前に、僕はどんな言葉をかければいいのか分からなかった。何より、僕の気持ちが追いついていない。カナタがハルカだと嘘をついて僕を騙していたことよりも、ハルカがもうこの世にいなくなってしまったということだけが、胸の中で鋭い痛みとなって襲ってきた。
「ごめん……今日は、帰ってくれないかな」
咄嗟に出て来た言葉は、彼女に対する拒絶だった。
カナタの瞳が大きく見開かれる。ズキン、ズキン、と分かりやすく傷ついた音が大きく響いた。
「……分かった」
暗い声で返事をする彼女は明らかにひどく傷ついていた。それでも僕は、これ以上彼女と話すことができない。後退りするようにして去ろうとする彼女だったが、一度足を止めた。
「透くん、明日、もう一度だけ会えないかな」
震える声でそう尋ねる彼女に、僕は頷くことも、首を横に振ることもできない。そんな僕の反応を見た彼女が、小さな声で「待ってるね」とだけ言い残すと、ザ、ザ、ザと足音を立てて遠ざかっていく。彼女から発せられる悲しみの音が、どんどん小さくなっていった。
僕は、カナタが残していったノートを握りしめたまま、側を流れる水の音だけを感じていた。