見上げれば今日も青空で、柔らかそうな入道雲がゆっくりと流れている。
 手元に残ったのは一冊の青いノート。
 俺はこれを。

「渡辺くん」
 その声に胸の高鳴りを感じて振り返れば、宝石のように美しい瞳に、肩までの栗色の髪を靡かせ。白いブラウスに、黄色のスカートの吉永さんが目の前に居た。

「こないだは、本当にごめん。俺……、だから……」
 やはり俺は弱くて、登場人物の吉永さんに話せたことを、目の前にいる吉永さんには話せなくて。
 だから。

 ノートを、彼女に差し出した。
 そして今度は彼女と共に、いつもの場所に腰を下ろす。

「渡辺くん、すごい汗。大丈夫?」
 スッとポケットから出してくれたハンカチは、さっき涙を拭いてくれたのと同じで、彼女は本当に吉永さんだったのだと知らせてくる。
 しかし差し出してくるだけで、彼女は俺に触れてこない。
 それこそが、吉永 詩織さんなのだから。

「これ良かったら」
 彼女のミニリュックから出てきたのは、レモン風味の天然水。
「ありがとう」
 前に好きだと言っていたことを覚えていてくれたのかと、少し自惚れてしまう。

 感情のままに書き綴った中身は、内容も文体も無茶苦茶で荒々しく、何が言いたいのか要点がまとまっていない。
 だけど吉永さんはその文章を熱心に読んでくれて、時折俺をチラチラと見ていた。
 さすがに「好き」という感情までは書いておらず、特別な存在だと記しておいた。

「渡辺くんは脇役じゃないよ。少なくても私の物語では、主人公を救ってくれたヒーローなんだから」
「え?」
 それは、登場人物の吉永さんが言ってくれた通りだった。

「うん。次は、私の物語を知って欲しいの。ただの一人語りなんだけど、この気持ちを知って欲しくて……。本当は小説にしたかったんだけど、なんかまだ書き切れるほど過去のことには出来てなくて。だから、聞いてくれないかな?」
「うん。オーディオブックだね。聞かせて欲しいな」
 
「私、吉永 詩織の両親は小三の頃に離婚した」

「え!」
 一行目となる最初の言葉の衝撃に、彼女に目をやる。
「掴みは出来ているかな?」
 そう笑う吉永さんは、少し無理しているように見えた。

「私は、父に付いて行くことにした。私の為に一生懸命働いてくれて、すごいと思っていたし、感謝していた。そんな父を良いと思ってくれたのは、今の母。私が中一の時に二人は再婚して、それと同時に私には妹が出来たの。六歳差で、当時小学校一年生だった可愛い妹が。新しい母は、とても素敵な人。妹は、私をお姉ちゃんと呼んでくれた。……だけど私は、それを受け入れることが出来なかった。頭では分かっていたけど、数回しか会っていない人をいきなり母だと、妹だと言われても。『お姉ちゃん』と呼ばれても。私には産んでくれたお母さんがいて、妹はいない……。その違和感が拭えなかった。それが私が外には見せない、最低な私。母を避け、妹を避け、父すら避けるようになった。でも、それを誰も怒らないから私は生活出来たのだと思う。だけど見てしまった。お父さん、お母さん、妹が仲良く話している姿を。それは本物の家族に見えた……。私は気づけば、まだ小学生の妹にイジワルをしてしまったの。父が妹にあげた、シンデレラのぬいぐるみを隠してしまって。だけどそれは早々に気づかれて、事実を知ったお母さんと妹は泣き、お父さんはどうしてこのようなイジワルをするのかと怒られた。だけどその理由が分からなかった私は何も言えず、家で居場所を失くしてしまった……」

 そう話す吉永さんの肩は震えていて、学校で見せていた姿とはかけ離れていた。
 これを中学生の頃に経験した。その辛さは、俺が分かるはずもなかった。

「家に帰りたくなくって、友だちの家にお邪魔したり、お店をぶらっとしたり、外を当てもなく歩き回ったりしても、最終的には家に帰らないといけない。産みの母は別の人と再婚していて、二人で暮らしていると聞いている。だから私に帰る場所なんてなくて。それは高校生になっても続いて、家に帰りたくなかった私はただ彷徨い歩いていたら見つけたの。この河川敷。そこからの景色は綺麗で、広がる青空、白い雲、流れる澄んだ河。それをぼーと眺めていたら、どうして私はこんなに最低なのだろうという気持ちが湧き上がってきて。妹はかわいいシンデレラなら、私はその子を虐めている義姉じゃない? と思うと。泣かないと決めていたのに、どうしようもなくて。気持ちは抑えられなくて。そんな時に、『ガシャン』と背後から音がした」

 ───あの時だ。

「同世代の男の子に見られるなんて最悪と思っていたら、同じ高校の制服で、しかも小学校から一緒の渡辺くん。極め付けには、向こうは私を覚えていた。泣きそうなの見られた。もうどれだけ、負のアンハッピーフルセットなの? と心で叫んだな」

 ───出た、彼女の独特なワードチョイス。だからこそ、彼女の書く物語には、味があるのだ。

「居た堪れなくなって、帰ろうとしたら、その男の子は私の腕を掴んでくる。せっかく気にかけてくれたのに、恥ずかしさから私は毒付いてしまった。あーあ。私はとうとう、外でまで本性出した。最低だなって。だけど渡辺くんは、そんな私の言葉を受け入れてくれた。シンデレラの義姉を描いた物語。読んでみて思った。これは私の物語。ずっと分からなかった私の気持ちを、代弁してくれた。私は淋しかったんだ。お父さん盗られたくなかったんだ。かわいい妹に嫉妬していたんだ。だからお父さんが妹にあげたぬいぐるみを隠してしまった。やってしまったことは取り消せないから過ちを認めて謝って自分の弱さを認めて生きていく、シンデレラの義姉かっこいいな。お父さんに、渡辺くんが書いてくれた気持ちをそのまま伝えて、お母さんと妹に謝れた。お父さんは、私の淋しい気持ちを理解出来ていなかったと謝ってくれた。……だけどねお父さんったら、シンデレラのぬいぐるみ買ってきたの。高校生の娘によ? どっか抜けてるんだよねー。まあ、大事にしてるんだけど。まあ、おかげで今は家族に言いたいことはハッキリ言えるようになってきたの。妹は高学年になって口も立ってきたから、負けてしまうんだけどねー」
 家族のグチを言っているつもりなのだろうが、その表情は微笑んでいて、自慢の家族を紹介してもらっているような気がした。

「また書いてくれない? 読みたいな、吉永さんと家族の物語を、コメディにして」
「そっか。面白おかしくか。そうだね、笑い話にしてしまえばいっか!」
 んー、と言いながら伸びをした彼女は良い具合に力が抜けたのか、広がる青空をただ眺めていた。