「そんな顔しないでよ、私は元の世界に帰るだけ。……君が気づいている通り、私は十年後の未来から来た吉永 詩織ではないわね。どうして分かったか、最後に教えてくれないかしら? 容姿や声は十年後の彼女そのものだし、仕草とかも変わっていないと思うけど」
そう言う吉永さんは自身の栗色の髪を手に取り、眺めていた。
「そうですね。吉永さんは言葉は綺麗だけど、ここまで大人っぽく上品な話し方ではありません。それに俺が不意に手を掴んでしまった時に顔を赤らめていて、そんな人が俺の手を掴んでくることに違和感がありました。まあ、それぐらいなら、十年の月日で性格が変わったのかとも思いましたが、唇を軽く触ってきたので確信しました。それにあのノート」
「ノート?」
「吉永さんの執筆ノート。十年後の物にしては、紙質や色が一切変わってないし、ボールペンのインクが滲んだり霞んだりとかもしていない。いくら保管状態がよくても、現在の物と瓜二つってことはないなって。……あなたの口調や落ち着いた雰囲気。吉永さんが描いた理想の主人公みたいだな……と」
「ふふ、そっか。彼女をずっと見ていた君には、やっぱり敵わないということね。そう思って用意しておいた小細工までが裏目に出るなんて、だめねえ」
苦笑いを浮かべた吉永さんはやはり、彼女と同じ美しい表情をしていた。
「あなたが俺の元に来てくれたのは、物語を完結に導こうとしてくれたからですよね? このままでは互いを避け合ってしまい、悩んでいる女子高生 吉永 詩織さんの物語は終わらない。だから現実の吉永さんではなく、俺の元に来てくれた。関係が変わった原因は彼女じゃなくて、俺だったから……」
「物語の登場人物なのに、物語の展開を変えてしまったの。何やってるのかしらね」
そう言う彼女は青色の執筆ノートを、そっと握りしめる。
「あなたが未来の吉永 詩織さんだと名乗っていたのは、俺たちが元の関係に戻り物語を完成させてしまうと、消える運命だと俺に悟らせない為だった。そうですよね……」
俺は溢れてくるものが、抑えられなかった。
「……ごめんね。優しい君は心を痛めてくれると分かっていたから、未来の吉永 詩織を名乗ったの。十年後に会いましょうと言って消えるつもりだったのに……」
彼女は微笑みながら、スカートのポケットから出したハンカチで俺の頬に伝ったものを優しく拭いてくれた。
「心を込めて創られた物語の登場人物はね、魂が宿るの。あなたたちが綴った物語も全てそうじゃないかしら? みんなその中で精一杯生きて、役割を全うしてる。だけど私は、悩んでいる彼女の話を聞いて終わってしまった。私は吉永 詩織の十年後、二十六歳の設定。それなりに人生経験があるはずだから、二人のすれ違いの理由が分かるの。だけど物語の中では動けない。何故か分かる?」
「……小説の登場人物だから」
「そう、それが創り出された私たちの運命。だからそれを打ち破る為に、物語の中から出てきたの。私は悲しいすれ違いを分かっていたから。両方の気持ちが痛いほど分かっていたから。だから二人の物語を、素敵なハッピーエンドで完結させて欲しくて」
そう言う彼女は、青々とした空を眺めていた。
「この世界に留まる方法とかありませんか? 俺たちが物語を完結させなければ、あなたも……」
「ありがとう。でも無理ね。ほら」
彼女が指差した先を見ると足が半透明になっており、その先にある太陽によりキラキラと輝く河が見えるようになっていた。
「私は物語を完結させる為に来たのよ? 二人が会えば、この悲しいすれ違いの物語は終わる。そう確定したから、物語の世界に帰る。当然の結末じゃない?」
「そんな……、だから先に電話を……」
「君は優しいからね。私の為に、この気持ちに蓋をしそうで怖かったの。だから実力行使よ。登場人物チートで、パスコード分かって良かった」
クスクス笑う彼女の顔まで、半透明になっていく。
「こんな顔してはだめよ。彼女が心配するでしょう?」
「……はい」
俺は鼻をすすって目を強く閉じ、最後だからと笑って見せた。
「うん。良い顔になったわね。……最後に聞いて。確かに私は作者の吉永 詩織とは違う。彼女が十年後の自分を理想として創り出した存在だから。でもね、容姿、声、感情は同じなの。だから、だから私は……」
悲痛な表情で俺を見つめてきた彼女は、唇を噛み締めて俯いてしまった。
「大丈夫ですか?」
「……ううん。なんでも。私が居なくなったら悲しい?」
首を横に振り、またいつもの美しい微笑みを向けてきた。
「当たり前じゃないですか」
「……そう。うん、その言葉で充分。ありがとう、君と話した時間は私の宝物。この世界に居た五日間、楽しかったわ」
「俺もです」
俺は最後に握手をするように彼女の手を握り、消えゆく姿を見送ると決めた。
「二人で、素敵な未来を綴ってね」
その言葉を残した吉永さんは、柔らかに吹く風と共に消えてしまった。
「ありがとう、もう一人の吉永さん……」
その手には、彼女の体温が僅かに残っていた。