「はい、これで大丈夫です」
「ありがとうございます」

 私の腕と繋がった先、吊るされた点滴の袋を取り替えた看護師は笑顔で部屋を出て行った。
 目を覚ましてから三日目の今日、私はいまだに病室のベッドの上にいる。なぜなら記憶が戻らないからだ。
 医師の診察を受けて、身体の方に異常はみられないとの事である。しかし記憶が戻らない以上、他に何かの症状が現れる可能性を考慮して検査入院のような形をとっている。
 お母さんから聞いた話では、どうやら私は現在年齢が二十歳になった所で、学生生活を終えた後、自営業を営む実家にそのまま就職した社会人として生活していたらしい。
 ある日の事故をきっかけに意識が戻らないまま病室で今日まで一週間程過ごしているらしく、その時に強く頭を打っている事が今の記憶の無い状態と結びついている可能性があるのだそうだ。けれど、詳しい所は原因不明のまま明らかになっていないらしい。
 目覚めた瞬間からずっと頭が重くて固まっている感覚があるけれど、痛みは日を跨ぐほどにマシになっていて、三日目の今日はだいぶ調子が良く思えた。その分だけ、心も少しだけ落ち着いている。
 
 ——コンコン

 扉をノックする音がする。「どうぞ」と声を掛けると、やっぱりだ。やって来たのは私のお母さんだった。お母さんは毎日欠かさず面会に来てくれていた。

「体調はどう?」
「だいぶ良くなったよ。頭が働かない感じは残ってるけど、あとは大丈夫」

 記憶が無くなった弊害だろうか。これまでの経緯やら何やら説明して貰っても何一つピンと来ず、脳みそが動き出す気配はない。この働かない頭が動き出した時、私は記憶を取り戻すのだろうか。

「そう。早く元に戻るといいのだけれど」

 そう呟いて心配気に私を見つめるお母さんは、いつもいつも私を心配で堪らないという瞳で見つめてくれる。お母さんからの愛情は記憶が無い私にでもひしひしと伝わり、今までの事も、自分の事も、何もかもわからない不安の塊である私に唯一の安心感を与えてくれた。
 だけど、そんな母の愛に感謝の気持ちと同時に込み上げるのは、こんなに尽くしてくれるお母さんの事も何一つ思い出せない事への切なさと罪悪感。

「いつも来てくれてありがとう。ごめんね、思い出せなくて……」
「いいのよ、あなたの命があるだけで嬉しいの。家族みんなそう思ってるわ」
「家族みんな……他にも居るんだよね?」
「えぇ、あなたに会いたがってる。それで実は今日、連れて来ているのだけど……どうかしら。顔を見せるだけでいいから、この部屋に入れてあげてもいい?」
「! も、もちろん!」

 突然の来訪に驚きつつ、それでもちらりと聞いて存在だけは知っていた他の家族という人達に今会えるのだと思うと、緊張と期待に胸が高なった。
 もしかしたら、わかる人がいるかもしれない……!
 じっと部屋の扉を見つめてその時を待つ。私の了承を得たお母さんの声掛けでそこが開かれると、扉の向こうで待っていたのであろう人達が入ってきた。次々に、ぞろぞろと……あれ? なんか、多い?
 他の家族と聞いていたから、来てもあと二、三人かなと思っていた。けれどそこに現れたのは、老若男女合わせて十人の大所帯の人数で。

「け、恵子さん……!」

 すると、入室した直後、一番手前に居たおばあさんが私の方へとよろよろと歩み寄ってくる。はっと彼女と目を合わせると、彼女は私を見つめるその瞳から涙を流し始め、それと同時に、伝染するようにどんどんと皆の目からも涙があふれだした。突然の事に驚きと共にお母さんへ目をやると、お母さんもまた同じように涙を拭っていた。

「よくぞ、よくぞご無事で……!」

 私に縋り付くように、祈るように両手で私の手を握るそのおばあさん。

「……あ、ありがとう、ございます」

 それが私が生きていた事への言葉だと、それに対しての涙だとわかっていたから戸惑いつつも感謝をまず述べた。すると、ハッと私を見たおばあさんが期待を込めた瞳で私を見つめる。

「もしかして、私を覚えておいでで……?」
「……えっと……」

 けれど、やっぱりまたお母さんの時と同様に、私にはこの人の事も記憶に無くて。

「ご、ごめんなさい……」

 向けられた感情の大きさに、応えられない申し訳なさに潰れそうになりながら、私の手を握るその人の両手をそっと握り返して謝る事しか出来なかった。
 ……私は、何故忘れてしまっているのだろう。
 目が覚めてから私は人を悲しませてばかりだった。今もそう。私の答えにおばあさんだけでなく、他の家族達もどこか諦めたような、受け入れたような一息をついている。
 するとおじいさんが一人、ゆっくりと前に出てきた。おじいさんはおばあさんの隣に立つと、彼女の肩に優しく手を置いた。

「それは、聞かない約束だったろう」
「でも、この手を握り返してくれるのは恵子さんの所作に違いないわ……」
「そうだとも。記憶がなくてもご本人に違いないのだから。けれど恵子さんに気負わせてしまったらいけない。今一番不安なのは恵子さんなんだよ」
「…………」
「恵子さんは戻ってきた。命を持って戻ってきてくれたんだ。だから今は私達が支える番だって、皆で心を一つにしたじゃないか。だって私達は家族なのだから」
「……家族」

 おばあさんを宥めるおじいさんの言葉に思わずぽつりと呟くと、おじいさんは私に目を向ける。それは真っ直ぐに、一片の曇りも見当たらない澄んだ瞳をしていた。

「そうだよ、恵子さん。私達はあなたの家族だ」

 そう言って室内でじっと私達のやり取りを見つめていた他の家族達におじいさんが目をやるので、私も同じように目を向ける。
 そこには父、兄、姉、弟、妹、おじ、おば……何かしらに当て嵌まるであろう人々が穏やかな目で私を見つめていて、目が合うと皆優しく頷いてくれた。

「あなたが目覚める前も、目覚めた後も、私達はずっとあなたの家族。待っていたよ、恵子さん」

 真っ直ぐに私に向けられるその言葉は、私の心にじんわりと染み渡る。そして気が付くと、私は涙を流していた。
 ——この人は家族だ。だってあの日のお母さんと同じ事を言ってくれるのだから。
 私はなんて恵まれているのだろう。こんなに優しい人達が、家族だと受け入れてくれるなんて。
 記憶の無い私の空っぽな心が暖かな安心感で満たされたのは家族という存在があったから。
 何も無くなった私が初めて知ったのは、家族に与えられた愛情の大きさだった。

 それから私達は自己紹介をしつつ、何か私が思い出すきっかけになればと、最近の思い出話に花を咲かせる事となった。

「恵子が家の仕事を継いでくれる事になった時はお祝いしたのよね」
「その為に人を集めてなぁ。兄も今まで引っ張ってくれたんだけどな」
「まぁ恵子が来るまで頑張るのが俺の仕事だし」
「来てからもたくさん頑張ってね、お兄ちゃん」
「いやおまえも頑張れよ! 大体おまえがそんなんだからなぁ、」
「ほらまたすぐ喧嘩しようとする。一体いくつになったらおまえ達は仲良くなるのやら」
「そうだぞ。下の二人をみろ。いつも二人で助け合って、これぞ兄妹の在り方だ」

 父に言われて全員で目を向けると、小学生くらいの女の子と男の子の二人が寄り添い合うように立ち、内緒話をしてはにこにこと笑い合っている。何も知らない子なはずなのにその様子を微笑ましく感じるのは、私にとって二人が弟と妹だからだろうか。

「そういえばさ、恵子が病院に運ばれたって知った時、一番に飛び出したのはお兄ちゃんだったよね」
「そりゃ家族なんだから、心配するのは当然だろ。誰にでもそうするよ」
「お兄ちゃん……!」
「でもおまえがいなければ静かで仕事が捗るかもな」
「お兄ちゃん……っ!」

 私とそこまで歳が離れてなさそうな男性と女性はきっと兄と姉だ。憎まれ口を叩き合いながらもなんだかんだ仲が良さそうで、そのやり取りが家族を和やかな空気にしてくれているのだというのが伝わってくる。

「これで恵子さんが帰ってくれば全部元通りだね、良かった良かった」
「恵子さんが運ばれてからお母さんは食べ物も喉を通らなかったのよ。お父さんなんて眠れないせいで深夜に徘徊し始めちゃって幽霊騒ぎ」
「おばあちゃんがパニックになっちゃって、結局おじいちゃんが解決してくれた訳だ」

 おじとおばらしき人達が語るそのエピソードに、父、母、祖父、祖母の四人は気まずそうに苦笑いを浮かべあう。……なんだか、とっても素敵な家族だなと思った。

「皆さん、仲が良いんですね」

 でもその全てが記憶の無い私にとってはどこか他人事で、ついそんな言葉がこぼれると、

「あなたもよ、恵子」

 そう言ったお母さんが、そっとそばに寄ってきてくれる。

「これがあなたの家族なのよ」

 そして微笑みながら、私の頭を優しく撫でてくれた。
 お母さんの声はいつも、私の頭の中を、心を撫でるように染み込んでくる。皆に受け入れられ、肯定されるこの心地の良さ。

「……私、皆さんの家族で良かった」

 私の言葉にまたおばあちゃんが泣き出して、お姉ちゃんが抱きしめてくれて、何もない病室は家族の愛に包まれた暖かな空気で満たされたのであった。