コンコン、と部屋がノックされて扉が開かれる。

「失礼します」
「こんにちは。ど、どうぞお掛けになって下さい……」

 緊張して思わず噛んでしまった。仕方ない。だってこれが初めての仕事だし、まさかこんなに品のあるお年を召された女性がやって来るなんて思いもしなかったから。
 女性は驚いたように目を丸くすると、私の事をじっと見つめて口を押さえる。え? どういう反応?と、訳がわからないままただ笑顔を貼り付ける自分の手はどっと汗をかいていた。
 せめてどんな人が来るのかだけ聞いておけば良かったなんて今更だし、家の仕事だとしても考えが甘かった。
 い、一体どんなお話をすれば良い……?

「と、とりあえず座りましょう」
「恵子さん……?」
「はい」
「元気そうで何よりです。それだけが心配で……その、随分と雰囲気がお変わりになったのね……」

 最後の方はまるで独り言でも言うように呟くと、彼女が座布団に座ろうとするのにハッと気がついて、

「すみません! 椅子を、椅子の方が……あ! こちらの椅子に座って下さい!」

 お身体の心配から、慌てて私の椅子を差し出すと、おばあさんは「いいえ」ときっぱり首を振る。

「そちらは恵子さんのお座りになるものです。私はこちらで」
「で、ですが……」
「そういうものですので、結構です。お気遣い頂き心より感謝致します」
「……そうですか」

 彼女の毅然とした態度にこれ以上は無粋だと受け取り、仕方なく席に着いた。ちょうどその頃にお母さんがお茶を持って部屋に入り、私とおばあさんの前に並べると静かに部屋を出て行った。

「えっと、それでは、本日はどういったご用件でしょうか」
「用件? ……そうね。では、恵子さんの元気なお姿を拝見する為に参りました」
「え? あ、母からも伺っております。顔を見に来て下さるのだと……えっと、でもすみません。私、事故を境にそれ以前の記憶が思い出せなくて……」
「存じております。お労しい事です。皆、あなたの無事を祈っておりましたの。恵子さんがお元気そうで本当に良かった」
「あ、ありがとうございます」
「お礼なんてやめて下さい。恵子さんに救われているのはこちらなのですから。あなたが戻って来て下さった事、皆とても喜んでおります。こんなに落ち着きになられて……お乗り越えになるのはさぞ大変だった事でしょう」
「…………」

 穏やかに語る彼女の言葉の中に先程もちらりと顔を出した、私の過去の様子。

“随分と雰囲気がお変わりになったのね”
“こんなに落ち着きになられて……お乗り越えになるのはさぞ大変だった事でしょう”

「……以前の私は、そんなに荒れていましたか?」

 お客様にそんな事を言わせてしまう程に私は心身共にぼろぼろの状態だったのだろうか……いや、そうに決まっているか。そんな人間じゃないと自殺未遂なんてしない。そんな状況で人前に出て、しかも仕事として二人きりでお話をしていたなんて。

「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

 深々と頭を下げる事、今の私にはそれだけしか出来なかった。けれどそんな私を見て彼女は目を丸めると、「違います!」と、声を張る。

「頭を上げて下さい! そのような事をする必要は一切ありません。あなたはそれでも私達と向き合って下さったのよ。それがあなたの務めだからと」
「…………」
「立派なお姿でした。そんなあなたに勇気づけられた者しかここにはおりませんの。だからそのように捉える事だけはいけない事です。あなたはただご自分のされた事を誇りに思って下さらないと」
「…………」

 そう彼女は言うけれど、彼女の言葉の中にある私の姿がこれっぽっちも頭に浮かばなくて、一体私はどんな人間でどんな事をして来たのか、また私の過去が霧の中に紛れていく。
 どれだけ目を凝らしてみても一向に見えてこない。ぼんやりと存在だけを知らされる自分が明らかになる日は来るのだろうか。知れば知る程に私は深い森の中へ足を進めていくような気持ちだった。

「……ご自分を、受け入れられませんか?」
「……想像が、一切つかないので」

 素直にそう答えると、彼女はうんと、大きく一つ頷いた。

「大変な目にあっているあなたに私からこんな事を言うのは不謹慎かつ間違っていると思うのですが……今回の事。あなたにとって良かったのではと、感じているのです」
「……良かった?」
「はい。あなたの今のお姿を見ると、そう。まるで生まれ変わったように見えますから。綺麗さっぱり悪いものを全て洗い流したように、あなたは今まっさらでただあなたという存在だけでこの場にいる。それはなんて尊い事でしょう」
「…………」
「あなたはあなた、恵子さん。私達はずっとあなたを信じています。だからこれからもあなたらしくいて下さい。それが、私達の望みでもあるのです」
「…………」

……私って駄目だな、本当。すぐにこうやって迷子になる。

「……はい、頑張ります」

 しっかりしないとと、彼女の言葉で心を入れ替え、前を向き答える事が出来た。そんな私へ応えるように彼女は私の手を取ると、嬉しそうに、愛おしそうに微笑んでからそっとその手を離す。既視感があると思ったら、それは私の家族、特にお母さんとおばあちゃんが私にする仕草と似たものだった。それはつまり、彼女もまた私の事を家族のように思ってくれているという事。
 ここは、私が悩みを聞く場だと聞いていた。でももしかしたら過去の私はずっと、こうして励ましてもらっていたのだろうか。

「……あの、お名前をお聞きしても良いですか」

 そういえば私はこの人の名前すら知らないと今更気付いて訊ねる。きっと過去の私にとって大切な人なのだと思ったからだ。
 けれど、彼女はその問いに眉尻を下げて答える。

「名は、明かさない約束なのです」
「……え?」

 と、ちょうどその時。室内にノック音が響いて、扉が開かれた。

「お時間です」

 やって来たお母さんのその言葉に、おばあさんはすっと立ち上がる。

「では、恵子さん。本日はありがとうございました。お身体にお気をつけて、またの機会に」

 そう微笑みと共に言葉を残して、お母さんと彼女は部屋を出て行った。
 残された私は——なんだか掛け違えているものがあるような、そんなざわつく心を抑えるようにそっと胸に手を置いた。

「名は、明かさない約束」

 日常生活の中で名前を聞かれてそんな返事があるだろうか。それは、名前を口にしてはいけないという事? それとも、知られると不都合があるという事? 会員制のお店とか、何か特別な理由がある場合はそうかのかもしれないけれど……。

 ——コンコン、

「恵子、お疲れ様」
「……お母さん」

「お客様はお帰りになったわ」と、お母さんは先程出してくれたお茶を下げる為にお盆の上に乗せる。
 ……そうだ、悩んだ時はお母さんに聞いた方が良い。聞かないと。

「お母さん」
「何?」
「あの、さっきのお客様のお名前ってわかる?」
「……お客様に名前を訊ねたの?」

 やっぱり。お母さんは一言でお見通しだ。

「そう。そしたら名は明かさない約束だって言われて。ここではそういうルールがあるの?」
「そうよ。色々な方がいらっしゃるから」
「あ、そういう事なんだ……じゃあ私、すごく失礼な事を聞いちゃったんだね」

 確かに。気品のある方だったから、どこかの偉い立場の人がお忍びで来ていたと言われても納得が出来る。相談をする場所だって言っていたから、個人情報の観点からとか、そういう事か。なんだ、ただ単にそういう事だったのか。
「先に教えてくれれば良かったのに」と訴えると、「ごめんなさい。うっかりしていたわ」とお母さんはあまり気にしていない様子。

「でも大丈夫よ。あなたがする事に失礼な事なんて無いのだし、そこで名前を口にするような人は次の機会が無くなるだけよ」
「……他に何かルールはある?」
「特に無いわ」
「本当に?」
「本当よ」

 なんて、お母さんは本当に何も重要視していない感じでさらりと言うけれど、私の方からしたらたまったものじゃない。だって名前を明かせない偉い人が来ているのにルールも知らないで失礼な事ばかり繰り返す訳にはいかないではないか。
 と、いうか。

「なんでそんな人が私と話をしに来るの? 悩みを聞くって言ったって、今だって私、自分の話ばっかりで何も出来なかったし……」
「出来ていたわよ。お客様はご満足されていたわ。新しいあなたに会えた事が嬉しいと帰り際におっしゃっていたのよ」
「新しい私……お客様にも聞いたんだけど、前の私ってそんなに違ったの? 酷い態度だったりした?」
「それにお客様は何て答えられたの?」
「立派だったとか、勇気づけられたとか、どんな対応をされたみたいな事には何も触れられなくて。怒ってるとかそういうのは一切無かったんだけど、でも逆に励ましてもらう感じになってしまって……なんか、やるべき事が出来なかったなって。もしかして前からずっとそうなのかなって、記憶にない自分が何をしていたのか心配で……」

 大丈夫だよ。あなたはあなただよ。そう言ってもらってばかりの毎日だ。こんなに優しい人達が側にいるのに、私は相当心が弱い人間だったのだろう。どんな態度を取って来たのか不安だし、そんなのお仕事として成立しない。

「でも、今日お客様は過去のあなたを責める事もなく、今のあなたとお話が出来た事をとても喜んで下さった」
「…………」
「ならばあなたの応対はずっと間違っていなかったという事じゃないかしら。そもそもあなたに否定的な考えを持つ者はここには来ないわ」
「なんで?」
「だってここはあなたとお話をしにくる所じゃない」
「……そう、なのかな」

 でもそうか。わざわざ嫌な気持ちになる為に来る人なんていない。来てくれる人は皆、私を信じてやって来る。

「……私、頑張るよ。皆さんの期待に応えられるように」

 私の言葉にお母さんは嬉しそうに微笑むと、やっぱり「あなたはあなたのままで良いのよ」といつもの言葉をくれた。

「恵子に会いたくて皆、いらっしゃるのだから」

 それにうんと頷いて、それが私の新しい毎日が始まる合図となった。