とんとん拍子に話が進んだので驚いたけれど、もともと記憶が戻らないだけで身体能力的に問題は無かったので、通院に切り替えては?という話は出ていたらしい。
「恵子おかえりー!」
「お姉ちゃん! ただいま!」
退院したその日は、扉を開けると家族全員で私を迎え入れてくれた。お姉ちゃんの笑顔に、ようやく辿り着いたような気分でほっと一息つく。良かった、本当にここが私の家だったんだ、なんて。だってまさかこんな家だなんて想像もしていなかったから。
——退院手続きを済ませて病院から車に乗って三十分程経つと、辺りの景色は都市部と比べて緑が多くなってきた。辺鄙な場所というよりは、都会の側にあるちょっとした田舎という感じで、マンションやアパートよりも戸建ての家の方が多いイメージ。一つ一つの家の敷地面積が広いのもこの地域の特徴だろう。
そんな中見えてきたのは堂々とした門構えの一際立派な日本家屋で、車はその門の前で一時停車する。なんだろうと運転しているお母さんの方を見ると、お母さんがキーケースに車の鍵などと一緒にぶら下がる何かのボタンを押すと、目の前の門がゆっくりと自動で開き始め、驚く私をよそに車はその豪邸の中へと入っていった。
広々とした敷地内には母屋と離れで二つ分の家が建っていて、二つは渡り廊下で繋がっているのが見える。少し奥には古めかしい倉まであった。手入れされた庭には池があり、鯉が優雅に泳いでいる。
「な、なんかすごくない……?」
絶句した後、飛び出た言葉がこれであった。まさか自宅がこんな豪邸だとはこれっぽっちも想像していなくて、車を降りた後、当たり前の顔をして母屋へ向かう母に弱々しく訊ねる。場違いな気がしてたまらなかったからだ。
「そうね。でも受け継がれてきたものだから」
「私、ここで育ったの?」
「そうよ。庭の鯉に餌をあげるのが好きでね。いつ落ちるんじゃないかってひやひやしたけれど、あなたは落ちないタイプの子供だったわ。昔からよく周りを見て、慎重に物事を進めるタイプだったから」
「そうなんだ……」
それなら、事故にあって病院に運ばれたとなったらさぞかし大騒ぎになっただろうと、あの日の家族達の反応を思い返して今更納得した。きちんと一つずつ追っていけば全てが繋がるのだ。それが自分が生きた軌跡であるという当たり前の事実がそこにある事にほっと胸を撫で下ろした。
そして到着した母屋の玄関を開けた瞬間、お姉ちゃんの「おかえり」という声掛けと共に家族総出で私はこの家に迎え入れてもらった。
それが退院して私が家族と暮らし始めた、一日目の事だった。
+
「恵子、薬は? 飲んだの?」
「ちゃんと飲んだよ、大丈夫」
退院して丁度一週間。その問いに飲み終わった薬の袋を見せるとお母さんは安心してキッチンへと戻っていく。この確認は毎食後のお約束になっていた。
退院の際に出された飲み薬だけは続けるよう、念を押されているのである。頭が固まったように上手く働かない事に対しての薬なので、飲み忘れるとまた痛みの再発の恐れがあるとの事。どうやら薬でぼんやりとさせる事で安定を図っているらしく、確かにカチカチに固まって動かないというよりは、ぼんやりと微睡の中にいるような感覚だった。あの日の点滴の薬を変えた日からずっとそうだったのだろう。
今は久しく感じていないあの内側からハンマーで殴られるような痛みを思い出す度に、絶対に飲み忘れないよう心に誓っていた。あんな目に遭うのはもう懲り懲りだ。だから自分の意思でもあるので、こればっかりはぼんやりとした頭でも忘れずに続けられている。
「そうだ、恵子」
「何?」
「今日これからお客様がいらっしゃるんだけど、そろそろ恵子が応対してみない?」
「え……それってつまり、お仕事って事?」
キッチンからリビングに戻ってきたお母さんがぼんやりとテレビを観ていた私に言った。祖父と祖母は廊下の奥の自室に戻り、兄と姉、おじとおばは離れの仕事場へ向かい、弟と妹は学校へ行く。これが我が家の朝食後の動きであり、私だけ療養中という事で暇を持て余していたのだ。
離れは完全に仕事場であり、お客様をお通しする場所である。何回か見学させてもらったくらいで、まだ一度も仕事らしい仕事を離れでした事は無かった。
「えっと、お客様のお話を聞くのが仕事なんだよね?」
「そうよ。悩みを聞いたり解決のお手伝いをしたり……一人一人の心に寄り添うのが恵子のお仕事」
「つまり心理カウンセラー的な感じかな。でも私、そういう免許とか持ってないよね……?」
「いいのよ、あなたに会いたくてお客様はやってくるのだから。家族のように思って親身になってあげて欲しいの」
「……でも」
「大丈夫。今日いらっしゃるのは常連の方だから。あなたの顔が見たくて来てくれるのよ。無理はしなくていいから、顔を見せるだけでも。ね?」
「……わかった、やってみる」
どことなく断れない雰囲気と、一人だけ何もしていない申し訳なさからとりあえずやってみようと頷いた。どんな家業で他の家族が何をしているのか、話を聞くという私の仕事がどういった意味を持つものなのか、詳細はさっぱりわからないままだったけど、まぁ家の事だしと。私の役割ならやってみるかと、ぼんやりとした頭は複雑に思考を巡らせようとしない分、話も心構えもシンプルに進める事が出来た。
……けれど。
「本当に、こんなぼんやりしてる私で大丈夫なのかなぁ」
仕事部屋に入ると、途端に実感して不安になってくる。
離れの玄関から入って正面の部屋が私の仕事部屋だった。病院でいう診察室のような役割だろうか。お客様はこの部屋で私と対面でお話をする、その為の部屋だ。
畳の部屋の真ん中に長机が置かれていて、私の方には背の低い肘掛けのある椅子が、お客様の方には座布団が置かれていた。普通逆じゃない?と思ったけれど、あなたの体調が悪かったから、と言われてそういうものかと受け取る。
「良い? ここは幸せになりたい人が訪れる場所なの。お客様は心の拠り所を探してここに訪れるのよ」
「心の拠り所……」
「そう。人は一人きりでは生きられないものだから。不安定になってしまっている人に一番必要なものって、何かわかる?」
「…………」
突然のその問いに、ふと考え込む。
なんだろう。不安定になってしまっている……それって心がって事で良いのだろうか。ここを拠り所にする為に来ているのだからそういう事で良いはず。て事はつまり心の支えを探しているという事かな……でもそれってもしかして、ついこの間までの私もそうなのではないだろうか。
私は、目が覚めてからずっと自分についての何もかもがわからなくて、何を信じて良いのかも、誰を頼って良いのかもわからない、まるで他人の世界を生きているような自分だった。
だから自分が信じたいものを信じられない、何が嘘で何が本当なのかわからない不安定な現実はずっと落ち着かなくて、忘れた振りをしてみても結局解決なんてしないままで、信じて良い現実を、安心出来る何かを求めてた……あ。
「安心感、かな。信じられる何かの存在とか、事実とか、そういうものがあるから得られる安心感みたいなものがないから不安定になってしまうのかな……って」
「うん。どうしてそう思ったの?」
「えっと、私がそうだったから。目が覚めてからの私はずっと不安定だったんだ。でも今の私にはもう教えてもらった事実と支えてくれる優しい家族が居る。皆の事を信じられるから……あぁ、そっか。だから家族のように親身になってってお母さんは言ったんだね」
つまり、
「私がその人達の家族みたいになってあげたら良いんだ」
「そう! 本当にあなたって人は素晴らしいわ、恵子」
お母さんは思わずといったように私をぎゅっと抱き締める。そんな大袈裟な、と二十歳にもなってお母さんに抱き締められて褒められる事に照れ臭く思いながらも、そのお母さんの腕の中はとても温かく、幸せに包まれた。
……そうか。私はこうして幸せをもらった分、悩んでやってくる人に私の心をわけてあげれば良いんだ。それがここでの私の仕事。
重要な事だと思うし、責任も大きいと思う。人の心の話だから。でも、私は不安定な心の辛さを知っているから。信じられるものがあるだけで心は強くなれる事を知っているから。
だからこれは、家族の中の誰より私に向いている役割で、やるべき仕事なんだ。
「じゃあそろそろ時間だから、呼んでくるわね」
そう言って、お母さんは部屋を出て行った。
「恵子おかえりー!」
「お姉ちゃん! ただいま!」
退院したその日は、扉を開けると家族全員で私を迎え入れてくれた。お姉ちゃんの笑顔に、ようやく辿り着いたような気分でほっと一息つく。良かった、本当にここが私の家だったんだ、なんて。だってまさかこんな家だなんて想像もしていなかったから。
——退院手続きを済ませて病院から車に乗って三十分程経つと、辺りの景色は都市部と比べて緑が多くなってきた。辺鄙な場所というよりは、都会の側にあるちょっとした田舎という感じで、マンションやアパートよりも戸建ての家の方が多いイメージ。一つ一つの家の敷地面積が広いのもこの地域の特徴だろう。
そんな中見えてきたのは堂々とした門構えの一際立派な日本家屋で、車はその門の前で一時停車する。なんだろうと運転しているお母さんの方を見ると、お母さんがキーケースに車の鍵などと一緒にぶら下がる何かのボタンを押すと、目の前の門がゆっくりと自動で開き始め、驚く私をよそに車はその豪邸の中へと入っていった。
広々とした敷地内には母屋と離れで二つ分の家が建っていて、二つは渡り廊下で繋がっているのが見える。少し奥には古めかしい倉まであった。手入れされた庭には池があり、鯉が優雅に泳いでいる。
「な、なんかすごくない……?」
絶句した後、飛び出た言葉がこれであった。まさか自宅がこんな豪邸だとはこれっぽっちも想像していなくて、車を降りた後、当たり前の顔をして母屋へ向かう母に弱々しく訊ねる。場違いな気がしてたまらなかったからだ。
「そうね。でも受け継がれてきたものだから」
「私、ここで育ったの?」
「そうよ。庭の鯉に餌をあげるのが好きでね。いつ落ちるんじゃないかってひやひやしたけれど、あなたは落ちないタイプの子供だったわ。昔からよく周りを見て、慎重に物事を進めるタイプだったから」
「そうなんだ……」
それなら、事故にあって病院に運ばれたとなったらさぞかし大騒ぎになっただろうと、あの日の家族達の反応を思い返して今更納得した。きちんと一つずつ追っていけば全てが繋がるのだ。それが自分が生きた軌跡であるという当たり前の事実がそこにある事にほっと胸を撫で下ろした。
そして到着した母屋の玄関を開けた瞬間、お姉ちゃんの「おかえり」という声掛けと共に家族総出で私はこの家に迎え入れてもらった。
それが退院して私が家族と暮らし始めた、一日目の事だった。
+
「恵子、薬は? 飲んだの?」
「ちゃんと飲んだよ、大丈夫」
退院して丁度一週間。その問いに飲み終わった薬の袋を見せるとお母さんは安心してキッチンへと戻っていく。この確認は毎食後のお約束になっていた。
退院の際に出された飲み薬だけは続けるよう、念を押されているのである。頭が固まったように上手く働かない事に対しての薬なので、飲み忘れるとまた痛みの再発の恐れがあるとの事。どうやら薬でぼんやりとさせる事で安定を図っているらしく、確かにカチカチに固まって動かないというよりは、ぼんやりと微睡の中にいるような感覚だった。あの日の点滴の薬を変えた日からずっとそうだったのだろう。
今は久しく感じていないあの内側からハンマーで殴られるような痛みを思い出す度に、絶対に飲み忘れないよう心に誓っていた。あんな目に遭うのはもう懲り懲りだ。だから自分の意思でもあるので、こればっかりはぼんやりとした頭でも忘れずに続けられている。
「そうだ、恵子」
「何?」
「今日これからお客様がいらっしゃるんだけど、そろそろ恵子が応対してみない?」
「え……それってつまり、お仕事って事?」
キッチンからリビングに戻ってきたお母さんがぼんやりとテレビを観ていた私に言った。祖父と祖母は廊下の奥の自室に戻り、兄と姉、おじとおばは離れの仕事場へ向かい、弟と妹は学校へ行く。これが我が家の朝食後の動きであり、私だけ療養中という事で暇を持て余していたのだ。
離れは完全に仕事場であり、お客様をお通しする場所である。何回か見学させてもらったくらいで、まだ一度も仕事らしい仕事を離れでした事は無かった。
「えっと、お客様のお話を聞くのが仕事なんだよね?」
「そうよ。悩みを聞いたり解決のお手伝いをしたり……一人一人の心に寄り添うのが恵子のお仕事」
「つまり心理カウンセラー的な感じかな。でも私、そういう免許とか持ってないよね……?」
「いいのよ、あなたに会いたくてお客様はやってくるのだから。家族のように思って親身になってあげて欲しいの」
「……でも」
「大丈夫。今日いらっしゃるのは常連の方だから。あなたの顔が見たくて来てくれるのよ。無理はしなくていいから、顔を見せるだけでも。ね?」
「……わかった、やってみる」
どことなく断れない雰囲気と、一人だけ何もしていない申し訳なさからとりあえずやってみようと頷いた。どんな家業で他の家族が何をしているのか、話を聞くという私の仕事がどういった意味を持つものなのか、詳細はさっぱりわからないままだったけど、まぁ家の事だしと。私の役割ならやってみるかと、ぼんやりとした頭は複雑に思考を巡らせようとしない分、話も心構えもシンプルに進める事が出来た。
……けれど。
「本当に、こんなぼんやりしてる私で大丈夫なのかなぁ」
仕事部屋に入ると、途端に実感して不安になってくる。
離れの玄関から入って正面の部屋が私の仕事部屋だった。病院でいう診察室のような役割だろうか。お客様はこの部屋で私と対面でお話をする、その為の部屋だ。
畳の部屋の真ん中に長机が置かれていて、私の方には背の低い肘掛けのある椅子が、お客様の方には座布団が置かれていた。普通逆じゃない?と思ったけれど、あなたの体調が悪かったから、と言われてそういうものかと受け取る。
「良い? ここは幸せになりたい人が訪れる場所なの。お客様は心の拠り所を探してここに訪れるのよ」
「心の拠り所……」
「そう。人は一人きりでは生きられないものだから。不安定になってしまっている人に一番必要なものって、何かわかる?」
「…………」
突然のその問いに、ふと考え込む。
なんだろう。不安定になってしまっている……それって心がって事で良いのだろうか。ここを拠り所にする為に来ているのだからそういう事で良いはず。て事はつまり心の支えを探しているという事かな……でもそれってもしかして、ついこの間までの私もそうなのではないだろうか。
私は、目が覚めてからずっと自分についての何もかもがわからなくて、何を信じて良いのかも、誰を頼って良いのかもわからない、まるで他人の世界を生きているような自分だった。
だから自分が信じたいものを信じられない、何が嘘で何が本当なのかわからない不安定な現実はずっと落ち着かなくて、忘れた振りをしてみても結局解決なんてしないままで、信じて良い現実を、安心出来る何かを求めてた……あ。
「安心感、かな。信じられる何かの存在とか、事実とか、そういうものがあるから得られる安心感みたいなものがないから不安定になってしまうのかな……って」
「うん。どうしてそう思ったの?」
「えっと、私がそうだったから。目が覚めてからの私はずっと不安定だったんだ。でも今の私にはもう教えてもらった事実と支えてくれる優しい家族が居る。皆の事を信じられるから……あぁ、そっか。だから家族のように親身になってってお母さんは言ったんだね」
つまり、
「私がその人達の家族みたいになってあげたら良いんだ」
「そう! 本当にあなたって人は素晴らしいわ、恵子」
お母さんは思わずといったように私をぎゅっと抱き締める。そんな大袈裟な、と二十歳にもなってお母さんに抱き締められて褒められる事に照れ臭く思いながらも、そのお母さんの腕の中はとても温かく、幸せに包まれた。
……そうか。私はこうして幸せをもらった分、悩んでやってくる人に私の心をわけてあげれば良いんだ。それがここでの私の仕事。
重要な事だと思うし、責任も大きいと思う。人の心の話だから。でも、私は不安定な心の辛さを知っているから。信じられるものがあるだけで心は強くなれる事を知っているから。
だからこれは、家族の中の誰より私に向いている役割で、やるべき仕事なんだ。
「じゃあそろそろ時間だから、呼んでくるわね」
そう言って、お母さんは部屋を出て行った。