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 学校に行きたくないと思ったのは、翌日のことだ。
 お母さんに、「熱がある」と嘘をついて学校を休んだ。友梨奈や葵が心配して連絡を入れてくれたけれど、いまだに返事ができないまま、昼休みの時間に突入する。
 ひとり、部屋で何もない空虚な時間を本を読みながら悶々と過ごしていた。
 文也からはメッセージはこない。私はひとまず、彼に昨日保健室に運んでくれたことへのお礼を伝えるために、『昨日はありがとう』とだけ送った。メッセージはすぐに既読になる。でも、文也から返信はなかった。

 部活の時間もそろそろ終わりというぐらいの時間に、お母さんが部屋にお粥を運んできてくれた。

「栞里、体調は大丈夫? 食べられる分だけ食べてね」

「うん、ありがとう。いただきます」

 お母さんに嘘をついていることに対し、申し訳ない気持ちが湧き上がる。持ってきてくれたお粥は少しの塩味しかしなくて、でも刺激の多い日常を過ごしていた私の胃袋に沁みた。夢中になってお粥を食べる。器が空になった頃、ピンポーンという玄関のチャイムの音が響き渡った。
 お母さんが、「はーい」と言いながら玄関を開ける音が聞こえる。それから少しして、二階の私の部屋の方へと上がってくる足音が二つ。私は、息を殺して誰かの気配を感じようとした。

「栞里〜文也くんがお見舞いに来てくれたわよ。じゃあ、あとは二人でごゆっくり」

「え、文也!?」
 
「よ、よう」

 扉の向こうから聞こえてきた声は間違いなく彼のものだ。突然の訪問に、面食らうどころか、部屋中を駆け回ってあたふたしていた。待って、今私、部屋着じゃない……! 髪だってボサボサで、こんなところ文也に見られたくないっ。いくら幼稚園時代からの幼馴染とはいえ、高校生にもなってみっともない姿を晒せるほど、子供じゃなかった。
 母はスタスタと階段を降りて行ったようで、扉の向こうには今、文也の気配しかしない。

「ちょっと待って! 入らないで! お願い」

 声を張り上げてそう叫ぶと、文也は驚いたように「え?」と口にした。体調不良で休んでいると思っているだろうから、ここまで大きな声が私の口から出てきたことにびっくりしたんだろう。

「ごめん、私いま、ちょっと文也に会いたくないというか……いや、そうじゃなくて、えっと」

「無理しなくていいよ。まだ本調子じゃないんだろ。昨日だって貧血で倒れてたし。本当に、大丈夫か?」

 私の必死の嘘を、その優しさで丸ごと包み込んでくれる文也。罪悪感の塊に、押しつぶされそうになった。

「だ、大丈夫、じゃないかも……。文也、どうしてわざわざ家まで来てくれたの……?」

 文也には、城戸先輩っていう彼女がいるのに。
 別の女の家になんて来て良かったの?
 意地悪な質問が浮かんで、頭の中で必死にかき消した。

「どうしてって。心配だからに決まってるよ。栞里が体調不良なんて、珍しいし。昨日のこともあって、ずっと気になってた。なあ、明日には学校来れそうか? 俺、栞里しか話し相手がいなくて困ってるんだ」

 文也が眉を下げて私を見つめている表情が脳裏に浮かぶ。
 心配してくれているという気持ちは嬉しい。まだ私のことを、気にかけてくれるんだって分かったことも、嬉しくて心臓が跳ねた。
 でも、「栞里しか話し相手がいない」という後のセリフで、溶けかけていた心がまたすんと冷え固まってしまう。

「心配かけてごめん。でもさ、文也には城戸先輩がいるでしょ? 私しか話し相手がいないなんて、先輩に失礼じゃない?」

 言ってやった。文也と城戸先輩が付き合っていると知っているから、文也の言葉に小さな嘘が含まれているような気がして。その嘘に、毒を撒いた。
 文也は私の冷たい物言いに驚いたのか、すぐに返事をしてくれなかった。
 やがて、我慢できなくなった私が口を開きかけたところで、文也は「違うんだ」と小さく呟く。

「違うって、何が?」

「瞳——城戸先輩とは、そういうんじゃなくて」

「恋人じゃないってこと?」

「いや……恋人だ。でも違う! 話し相手が栞里しかいないっていうのは、本当は俺が栞里を——」

「……もういいよ」

「え?」

 自分でもびっくりするくらい、冷え切った声が出た。
 文也のことを好きなのに。好きなはずなのに、どうしてこんなに冷たい声で、私を心配してくれているはずの彼に答えてしまうのか。
 
 私は文也と、両想いになりたいのに。

「今日は、帰ってくれないかな」

 本当はもっと話したいのに。

「……待って。もう少しだけ話せない?」

 うん、話したい。
 私が文也を好きだって気持ちを伝えたいよ。

「ううん。本当に悪いけど、今はどんな言葉も、疑っちゃうから」

 文也の言葉を信じたい。
 好きな人をいちばんに信じたいと思う気持ちは、間違いだろうか?

「……分かった」

 蚊の鳴くような声でポツリとこぼした文也が、「早く元気になって」とだけ言い残して足音を立てて階段を下っていく。

「私のバカ……」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔を枕に押し付ける。こんな日が、前にもあった。中学三年生の夏、腰椎分離症と分かって、バレーをやめなくちゃいけなくなったとき。
 読書以外に初めて夢中になれたバレーを奪われた私は、行き場のない悔しさを涙で洗い流した。あの日も確か、文也が私の部屋まで心配して来てくれたんだっけ……。

——栞里、悔しいよな。俺はスポーツをやってないから、栞里の本当の苦しみを、分かってあげられないかもしれない。でも、一生懸命やってきたことを突然台無しにされるって、キツイよ。それだけは分かる。

——なあ、栞里。栞里がもし少しでも前を向けるようになったら、また一緒に皆瀬川の河原で本を読もう。元気になれる本、探しておくから。

——栞里の頑張りは、俺がいちばんよく知ってるよ。俺も……栞里みたいに新しいことに挑戦するって決めた。それまで待ってて。

 泣き崩れる私の返事すら聞かずに、文也は淡々と私を励まし、勇気づけてくれた。
枕をびしょ濡れにしながらも、心の目はずっと文也に向いていて。文也のかけてくれた言葉は、私の壊れそうな心をどれほど支えてくれたか。

 きっとあなたは、知らないでしょうね——……。


 一年前の出来事を思い出していると、自分がとんでもなく遠いところに来てしまったのだと錯覚する。
 あの時、一心不乱に私を励ましてくれた文也は、別の女の子の特別な人になってしまった。
 栗色の髪の毛を靡かせて、誰がどう見ても美人で、性格も良い彼女を、文也が大切にしないはずがない。

「もう遅いよ」

 自覚するのも、気持ちを伝えるのも、何もかもが遅い。
 
「私は、文也のいちばんになりたかったんだ」

 叶わない想いを、ひとりぼっちの部屋で口にしてみる。
 どんなに手遅れでも、この気持ちをなかったことにはできない。
 葵や友梨奈に打ち明けて励ましてもらったら、私も前を向けるだろうか。二人は恋愛話をしている時、いつも全力で本音を言い合っているから、私の話も真剣に聞いてくれるかもしれない。そうだ、そうしよう。二人に全部吐き出して、それで気持ちがすっきりしたら、もうおしまいにする。
 文也を好きだという気持を、胸のいちばん奥深くの棚に仕舞い込んで、鍵をかけるんだ。