数日間、私は学校で文也を遠くから眺めながら過ごした。昨日会話をしたことで文也は安心したのか、私に自然に声をかけに来てくれた。毎回、「試合来れそう?」と聞いてきたが、私は曖昧に返事をするしかなかった。
 でも流石に三度目に聞かれた時には、「やっぱり行こうかな」という気にさせられていた。文也がここまで私に念を押してくることはあまりない。よっぽど自信があるんだろうな——そう思って、「試合、見に行けそう」と答えた。

「本当? 良かった。それなら頑張れるわ」
 
「うん、頑張って。途中でヘマしたら、帰るかも」

「うわーなにそれ。ちゃんと最後まで見てよ」

「どうかな。格好良いとこ見せてくれたらね」

 私の素直じゃない言葉に、屈託ない笑顔を浮かべる文也。文也はいつだって、私の隣でこうして笑っていた。小学生の時、図書館で二人で本を読んで、お互いに感想を言い合った日が懐かしい。あの頃、私はすでに彼の笑顔にときめいていたんだ。
 幼馴染かどうかなんて、関係ない。
 私にとって文也は、特別な人だ。
 試合で文也はどんなバレーをするんだろう。
 腰を痛めてバレーが続けられなくなった時の絶望的な気持ちを思い出して、ふと後ろ暗い気持ちになる。ダメだ。考えすぎるな。私はバレーが、できなくなったんだ。したくなくなったんじゃない。だから、文也の試合を見に行くのに、罪悪感を覚える必要なんてないんだ。
 でもやっぱり、城戸先輩と文也がバレーを楽しんでいる姿を想像して、必死で頭から振り払った。


 文也の試合がいよいよ明日に迫っていた。
 土曜日の朝、私は葵と友梨奈に遊びに誘われていた。でも、なんとなく気乗りしなくて断ってしまう。「テストが近いから」なんて嘘までついて。
 期末テストは三週間後だ。本気で勉強を始めるのにはまだ早い。
 朝起きて部屋のカーテンを開けると、梅雨真っ只中だというのに、空は晴れ渡っていた。思わずぱちくりと目が覚める。
 まるで、ひと足先に夏が来たみたいだ。
 私の中で、六月はまだ夏じゃない。雨の日が多いから、本格的な「夏」を感じるのは、七月の梅雨明けから。でも今日は、燦々と降り注ぐ太陽を思わせる夏を実感した。
 夏のイメージは小学五年生の夏休みに、みんなで河童を探しに行った日のことだ。ませた私は河童の存在なんて全然信じていなくて、結局橋の下で本を読んでいた。そこに、たまたま文也が現れて。あの日から私たちは、読書仲間になった。
 文也は中学生になっても、本を読み続けてくれた。どうやら私が勧めた『都会のトム&ソーヤ』が面白かったようで、同作者の作品はもちろんのこと、それ以外にも、気になる本を読み漁ったようだ。私にも、ミステリーに青春小説、時代ものなど、あらゆるジャンルの本を教えてくれて、私たちは二人で「本の虫」なんて呼ばれたりもした。

「懐かしいなあ」

 思い出に浸っていると、無性に皆瀬川に行きたくなった。
 思い立ったが吉日、私は読みかけていた恋愛小説を鞄に入れて、皆瀬川まで自転車に乗って行く。久しぶりの晴れた日に、風を切って自転車を漕ぐのはとても心地よかった。
 皆瀬川にたどり着くと、川を流れる透明な水に、心が洗われる気分だ。この辺りは上流に近いので、不純物が混ざっていない水は、日の光がキラキラと反射して水面で揺れていた。

 自転車で河川敷を駆け抜け、小学五年生のあの日文也と本を読んだ橋の下まで向かう。橋が見えてきたところで、私は自転車を漕ぐ速度を緩めた。

「あれ?」

 遠くから、橋の下に二つの人影が見えた。かつての私たちのように横に並んで座っている。河川敷に座る人なんてよく見かけるから、最初は「場所取られちゃってるか」ぐらいにしか思わなかったんだけれど。
 近づいてみると、二人のすぐそばに見慣れた白い自転車が置かれていることに気づく。
 文也の自転車だ。
 そう気づいた途端、座っている二人が文也と、バレー部の城戸瞳先輩だということが分かった。突如痛いくらいに脈打つ心臓。私は自転車からそっと降りて、少し離れた木陰から二人のことをじっと眺めた。
 文也は文庫本を手にしていて城戸先輩が頬杖をつき、文也を覗き込んでいる。
 その光景に、目が眩んだ。
 文也の横に置かれたペットボトルの水が、半分以上なくなっている。ここで長いこと、二人で話し込んでいる証拠だ。

 二人の会話はぎりぎり聞こえなかった。
 けれど、城戸先輩も文也も頬が赤く染まっていて、二人が楽しそうに笑う声だけは、しっかりと聞こえてしまう。
 城戸先輩の目は、完全に恋をしている人の輝きを湛えていた。
 文也も、そんな彼女を受け入れるようにして、まっすぐに彼女を見つめ返している。
 何を話しているんだろう……。
 会話の内容はとても気になるのに、実際に聞きたくはないと思ってしまう。
 文也があんなふうに照れる姿、初めて見た。
 頭の中をよぎったのは、小学五年生の夏に二人でこの場所で本を読んだことだ。
 ここは、私と文也の思い出の場所だった。
 文也を、特別な存在と意識し始めた私の、大切な場所で——。

「……っ」

 それ以上は見ていられなかった。
 近くの枝に洋服が引っかかってガサガサと音が立ってしまうのも気にせず、自転車に飛び乗った。
 一瞬、音に気づいた城戸先輩が私の方を見たような気がするが、無視して二人に背を向け自転車を漕ぎ始める。

「はあ、はあ」
 
 ほんの少し上り坂になっているだけで息が上がる。中学の夏にバレーを辞めてから、運動をしていないせいだ。
 先ほど目にした光景が、何度も頭の中をよぎる。
 文也……。
 私は神様から、罰をくらったんだと思う。
 しょうもない理由で文也と距離を置いて、一時でも彼から遠ざかろうとした私への罰。
 本当に好きなら、一直線に彼に向かって行くべきだった。
 今更後悔しても遅い。二人はきっと、もう恋人同士だ。
 だってあの表情は、想い合う二人がお互いを見つめ合う時のそれと一緒だったから。

「文也あっ」

 風の音が激しいから、きっと私の声なんか誰にも聞こえない。
 自転車を漕ぎながら、瞳の端からこぼれ落ちる涙を何度も拭った。これはたぶん、風が強いせい。彼の心に私がいないことが、痛いわけじゃない。
 強がりで素直になれない自分が、どうしようもなく情けなくて、切れた唇から血の味が滲んだ。