「最低、だね」

「そう……だよな。分かってる」

「違うの。最低なのは、私」

「え?」

 今度は文也が目を丸くする番だった。

「私は、文也のことも、城戸先輩のことも傷つけたってことだよね。それってすごく最低だ。私の方がずっとずっとバカだ。大バカだ。私だって、文也のことが好きでたまらなかったのに……!」

 吐き出した本当の気持ちが、川のせせらぎよりも大きな音になって、文也の胸の真ん中にぶち当たる。彼の双眸はより一層大きく開かれた。

「好きなのに……好きだから、あなたを遠ざけてしまった。バレーができなくなった時、私の気持ちなんて分からないって思って、文也と本の話をするのすら嫌になって。それでも離れたくないから同じ高校に入ったのに、そこでもまた避けてしまって……。文也がバレーを始めたって知って、嫉妬してたの。私はもういらないんだって、思っちゃったんだ……」

 私は一体何に嫉妬していたのだろう。
 城戸先輩に? バレーに? 
 分からない。でも、心の中ではバレーなんて関係なしに、ただ文也と昔みたいに楽しく会話がしかった。

「俺がバレーを始めたのは、栞里とまた同じ楽しみを共有したいと思ったからだ」

「……どういうこと?」

「そのままの意味。栞里、本当はもう腰の病気、治ってるんだろ? バレーができないフリをしてただけだろ。俺、知ってたんだ。だからもし俺がバレーを始めて上手くなって、栞里と一緒にバレーができたら、楽しいだろうなって思ったんだ。一緒に本を読んでいた時みたいに、俺たちならまた別の楽しみを共有できるんじゃないかって」

 文也の言う通りだった。
 中学三年生の夏に発症した腰椎分離症は、高校に入学する頃にはすっかり良くなっていた。だからこそ、葵たちと一緒にバレー部の見学に行ったんだ。だけど、そこで城戸先輩のような完璧な人に出会って、私は逃げた。バレーなんてできないって、できないから部活にも入らなくていいって、言い訳して。あの怪我がトラウマだからバレーはやらないって。
 でも……まさか文也がバレーを始めるなんて予想もしていなかったんだ。

「栞里は運動音痴な俺がバレーなんて始めて無謀だって思ったと思うけどさ。毎日練習してたらちょっとずつ上手くなってる気がするんだ。練習の時、いつも思い浮かべるのは栞里なんだよ」

 文也の目がまっすぐに私を見つめる。
 文也が……私のために、バレーを始めた。
 そんなこと全然知らなかった。考えもしなかった。
 それなのに私はまた、文也から逃げようとしていた。
 なんて……なんて、情けないんだろう。

「栞里、俺と一緒にバレーしないか? ていうか、読書も、また一緒にしたい。栞里と楽しいことを共有したい。俺が心から楽しいって思える瞬間は、栞里と一緒にいる時だから」

 文也の後ろで、雲の切れ間から太陽の光が差し込んで、川面できらきらと反射しているのが目に飛び込んできた。夕暮れ時の雨上がりの幻想的な風景に、あっと声を上げる。ここで、この場所で、私はきみに恋をしたんだ。

「ありがとう……嬉しい。私も、文也と一緒に……バレーも、読書も楽しみたいよ。文也とずっと一緒にいたい。文也が好きだから」

 胸の中のざわざわとした気持ちがすっきりと晴れて、素直な気持ちがすとんと降りて来た。文也がにっこりと微笑んで、私に右手を差し出す。

「じゃあさ、今から『河童の恋煩い』一緒に読もう」

「うん!」
 
 二人で河原に並んで、文也がくれた『河童の恋煩い』に、もともと持ってきた本に掛けていたカバーを付け替えた。文也からもらった大切なブックカバーは、彼がくれた本によく似合う。
 ページを開くと、児童書なのでところどころにイラストが描かれていて、文字も大きくて読みやすい。二人で読むにはぴったりだ。

 河童なんているわけないのに。

 小学生の自分が、友達が一生懸命網を振り回すのを、達観した気分で眺めていたのを思い出す。退屈だった一日は、文也がやって来てから川面に反射する日の光のように輝き出した。

『河童の恋煩い』の主人公の河童は、本当に一生懸命に人間の女の子に恋をしていた。河童の話なのに、心がズキズキしたり、きゅんとしたり。彼の気持ちになって、私も文也も一緒に笑いながら読んだ。
 やがて日が暮れて、そろそろ帰らないといけない時間に差し掛かる。

「もう少しで読み終わりそうだけどどうする?」

「また明日読もう。学校で」

「いいね。じゃあ、明日早く行くわ」

「うん。楽しみにしてる」

 『河童の恋煩い』に、持ってきた小説に挟んでいたお気に入りのイルカの栞を挟み込む。あの小説は、もう読まなくていい。二人して立ち上がり、お互いの手をそっと握る。文也の手から伝わる温もりに胸が震えた。河童と同じだ。ふふっと小さく笑ったのを見て、文也が照れたように空いている方の手で頬を掻く。

 私たちの恋物語にも、栞を挟んだまま。
 雨上がりの空は、ゆっくりと群青色に溶けていった。


【終わり】