「何これ」

「河童が人間に恋をする本」

「いや、なんでこの本を私に?」

「去年……栞里がバレーできなくなった時に、『元気になれる本』探してくるって約束しただろ? でもあの後、結局何の本を渡せばいいかわからなくて。それにお前、ずっと塞ぎ込んで、本なんて一緒に読んでくれる気配もなかったから。あの時渡せなかった本を、今探しに行った」

「……」

 まさか文也が、去年会話の中でした小さな約束を覚えてくれているなんて。
 驚きと、嬉しさで胸がいっぱいになった。川の音が、眠りにつく前よりも穏やかになっている。私はふっと目を細めて、もう一度本の表紙を眺めた。
 
「どうしてこれを選んでくれたの」

「元気になれる本」なんて、探せばいくらでも見つかりそうなのに。なんであえて河童が主人公の小説を選んでくれたのだろう。文也の真意を知りたかった私は、尋ねた。

「俺が昔読んで、一番気に入ってた本だから」

「え、そうなの? 初めて聞いた」

「ああ。だって、こんな本を読んでるって栞里に知られるの、恥ずかしくて言ってなかったから」

「それはどういう意味?」

 文也とは、昔から面白い本を見つけたらお互いに共有していた。だから文也が好きな本はほとんど把握している。でもこの『河童の恋煩い』は聞いたことがない。

「そりゃさ……俺が、栞里への恋心で悩んでる時に読んだ本なんて、恥ずかしくて言えないだろっ」

「え……」

 吐き捨てるように言い放った文也の頬が赤く染まっている。以前河原で城戸先輩と話していた時と同じだ。でもその時より、もっと赤いような気がして、私は彼からすっと目を逸らした。

「俺は、小五の夏に栞里とここで本を読んだ時から、ずっと栞里のこと気になってた。あの時栞里は、河童探しする友達から離れて、俺に面白い本を教えてくれたじゃん。それから俺、本を読むたびに、栞里と話したい、この楽しい気持ちを共有したいって思うようになった」

 衝撃的な告白に、私の目が眩む。

「それまで俺、何も趣味と呼べるものがなくてさ。運動も苦手で、自分で自分を好きになれなかった。でも栞里から読書の楽しさを教えてもらって、世界が開けた気がしたんだ」

 私はあの日、ただ友達との河童探しに精が出なかっただけで。
 でもたまたまやってきた文也と、読書を通して繋がれた時は確かに嬉しかった。

「俺はあの時から今までずっと、栞里のことが好きだ。この河童の本に出会った時、あの夏の日のことが思い浮かんで、運命じみたものを感じたんだ。はは、バカだろ? 単純すぎて笑っちまうよな。でもこの本、人間に叶わぬ恋をする河童の気持ちが痛いくらいよく伝わってきて、痺れるほど共感できた。河童が勇気を出して好きな人に向かっていく姿に、胸を打たれたんだ」

 栞里のことが好きだ。
 文也の口から紡がれた信じられない事実に呆然として、彼と、手の中にある本を見比べる。

「私を好き……? でも文也は城戸先輩と、付き合ってるんじゃないの」

「ああ、そうだ。最低だよな、俺。この前城戸先輩から告白されて、OKしちまったんだ。高校生になってから……いや、栞里がバレーを辞めてから、栞里から距離を置かれてるって感じて……。気持ちも伝えられない臆病な俺は、目の前で俺に気持ちを寄せてくれている人に、すがろうとした。でも、ダメだった。俺はやっぱり栞里のことが好きだって気づいて……今朝、城戸先輩とは別れてきた」

 予想もできなかった文也からの言葉に、私は胸の奥の奥の方がチリリと痛んだ。
 なんだ、それ。文也が私のことをずっと好きだった? そんなの、考えたこともなかった。だって文也はバレーという新しい趣味に出会って、私のことなんて忘れて先輩に恋をしてるのだと思っていたから。
 それに……私が城戸先輩の立場だったら、煮え切らない文也の態度はちょっと許せないかもしれない。
 だけど、文也にそうさせたのは私だ。
 私だって文也を遠ざけて、自分の気持ちに蓋をしたんじゃないか。