もしも、あなたの好きな人が、いずれ人を愛せなくなる病にかかってしまったら? 非常に珍しい急性の病だったら――? 相思相愛だった相手が自分を本気で嫌いになってしまったら――。忘れられてしまったら――? 未来ある若者であれば、たいていの人は別れを選ぶかもしれない。この先、もっと素敵な人に出会えるかもしれない。一般的に見たら、10代の恋愛が一生続くことはない。そこまでハイリスクな恋愛をするよりもただ、楽しめればいいと考える人間が多いのは事実だ。

「俺と付き合ってほしい。ただし、俺の病気が悪化するまでの期間限定で」
「なんでよ?」
「傷つけることになってしまう。おまえのことを汚いと感じたり、いずれは嫌悪感を持ってしまうことになってしまう。お前を一生は守れない」

 こんなことを大好きな彼に言われたら、私の場合、どうなるのだろう。
 人生は想定外なことばかりだ。嬉しさと悲しさと切なさともどかしさが合い混じったような複雑な感じがする。これが冗談だったらどんなに幸福だろう。まだ高校生の私には荷の重い選択肢だった。

 人は幸福を選ぶことはできない。それを身を持って感じた瞬間だった。
 幸福か不幸かを決めるのも自分自身だ。

 私と幼馴染の男子、蒼野凛空《あおのりく》との友達以上恋人未満の関係がずっと続くと思っていた。少なくとも3年程度は――。なんとなくだけれど、高校を卒業するまでは――。そんなのただの思い込みで願望に過ぎなかったのだろうけれど。


 珍しくひょうきんな凛空が真面目な顔をして私に話かけてきた日から私たちの葛藤は始まった。

「俺、恋愛感情が3年後くらいには持てなくなるんだ。だんだん他人に対して嫌悪感と潔癖症が発動するようになるって医師に告げられた。非常に珍しい難病らしい」
 その一言に、いつもの悪い冗談だと軽くたしなめる。

「何言ってるのよ、凛空。そんな病気聞いたことないし。また冗談言って」

 私たちは幼稚園から高校まで続いている腐れ縁の幼馴染。
 多分、両思いだけれど、それをお互い口にしたことはない。
 よくドラマにあるような口喧嘩はするけれど、本当に憎いなんて思ったことはない。むしろ、お互いに恋人ができないか、監視がてら、一緒に行動しているようなものだ。

 私たちは恋愛感情を持っていたとしても隠しながら、お互い近い距離でいることに心地よく感じていたと思う。そんな心地いい関係がずっと続くと思っていた――。

 凛空は真面目な顔で続きを話し始めた。
 普段はひょうきんでいつも場を盛り上げてくれる存在の彼の珍しい一面だった。
 多分、初めて見る顔だ。私が知らない凛空。

「最近、体調が悪くて病院で検査したんだけどさ。医者に言われたんだ。非常に珍しい病気に侵されているって。俺は、高校を卒業する頃には、異性、もっと言えば人間に対して好きだという感情を持てなくなる。性欲もなくなるから、子どもを作ることもできないし、結婚もできない。人間に対して嫌悪感が顕著に現れる病気になってしまった。記憶も徐々になくなっていき、寿命も人より短くなるらしい」

「人を好きになれないって、恋愛感情が一生持てなくなるの?」

「そうだ。だから、俺が恋愛できるのはこの3年以内だと思う。だからと言って、学生の身分で子どもを作るわけにはいけないし、将来的に家族にすら嫌悪感を感じるのでは、結婚なんてできるはずはない。厳密に言うと、徐々に恋愛感情が薄れてしまうらしい。進行によっては2年程度で愛を忘れてしまう者もいるらしい」

「何それ、漫画の読み過ぎじゃない? 新作のドラマの話でしょ?」

 何を言っているのか、わからない。顔は深刻なのに、言っている内容は非常に非現実的だ。でも、凛空独特の話し方から真剣だという気持ちは伝わってきた。

「いつも、おまえに優しい言葉をかけてあげられなかった。でも、いつかは本当に優しい言葉をかけることができなくなってしまう」

「普段から口が悪いのが、凛空だからね」

「今の悪口は、本音じゃない。でも、いずれ本気で気持ち悪いとおまえのことを思ってしまう日が来る」

「それって、実在する病気なの?」

「発症人数が非常に稀でいわゆる潔癖症だと勘違いされやすい病気らしいんだけれど、潔癖症との違いは、以前は人間が好きだったのに、3年程度で恋愛感情や人への愛情を全く持てなくなるということなんだ。精神疾患とは別で、脳の何かしらの欠損が原因らしい。現代の医学では詳しいことはわからない。でも、それによって離婚した人、家族との同居が難しくなった人、仕事を辞めた人、恋人と別れた人がいるんだって。だから、俺は、不治の病だけど、すぐに死ぬわけじゃない。記憶もなくなりやすいと聞いた。非常に生きづらくはなるだろうな。一定の距離を保てば社会生活は送ることも可能らしい」

 空を見上げて半ば諦め気味の凛空。凛とした空と書いて「りく」という名前を持つ少年は、私にとって一番大事で一番大好きな存在だ。もちろん相手もそれ相応の愛情をかけてくれるから、ということはある。今でも、直接的ではないけれど、間接的に愛情を感じている。付き合っているわけでもなく、告白をしたわけでもない私たちだが、周囲からは公認の仲となっている。

「将来、人と関わることが難しくなるってこと?」
「それは確定している。現段階で薬もないし、対処法もない。鬱とか精神科の分野とは違うんだって」
「それが本当ならば、それは厄介だよね」

 いつも冗談ばかりの凛空の話を本気で受け取るわけがない。
 長年の付き合いで、凛空は人を楽しませることが好きで、クラスの中心人物だということも知っている。

「だからさ、この3年はちゃんと恋愛してみたいなって思ったんだ。クラスの友達とか、部活の友達とか、深く関わって思い残すことはないように生きていきたい」

「なにその決断、らしくないよ」

「今までの俺ならば、逃げていた。でも、やりたいことをこの高校3年間でやりつくす」

「だから、俺がおまえを嫌いになってしまう前に、一緒に思い出を作ってくれないか」

「だから、らしくないって」
 赤面するのをなんとかごまかそうと後ろを見て顔を隠す。
 こいつが今までそんなことを言ってきたことは皆無だ。人生初だ。
 ならば、病気というのは本当なのかもしれない。

「俺は、結婚もできないし、子供を作ることもできなくなる。つまり、父親になれないことは医学的にわかっている。診断に間違いはない。現に、症状が徐々に現れているんだ」

「以前よりも好きではない人間に触れることが難しくなってしまった」

「触れることが難しいって?」

「知らない人と握手をすることが以前に比べて苦痛になった。でも、深く関わっている友達とか恋愛感情がある相手ならば今は平気だ」

「もう一度聞くけれど、信じられないよ。そんな病気が本当にあるの?」

「希少だが、実在するらしい。いずれ、俺はおまえを拒絶する日が来ると思う。でも、それまで俺のそばで一緒にやりたいことをやって楽しんでくれないか」

「私でいいの?」

「おまえの一生を守れないけれど、病が進行する前まで、俺がおまえを拒絶するまで、それでもよければ俺と手をつないでいてほしい」

「私との手つなぎは平気なの?」

「現段階では大切な人との手つなぎは平気だ」

「大切な人……」

「ずっとケンカばっかで素直になれなかったけど、それでもずっと前から恋愛感情と隣りあわせだった。一生傍にいる必要はない。今だけ、せめて今年だけでも一緒に思い出を作ってほしい」

「今のうちに子供、作っておこうか?」
 わざと困らせてみる。

「子供は育てることの方がきっと大変な生物だ。きっと5年後には自分の子供すら、嫌悪感しか抱けなくなってしまう。だから、俺に将来性は皆無だ。おまえには他の誰かと結婚してほしい。その前提で、今年の夏だけでも一緒に過ごしてくれないか」
 いつもの凛空らしくない。

「会えば、ケンカばっかりだったあんたがそういうならば、まぁ、考えてやってもいいけどね」
 切実な彼の表情が本気なのかなと思わせる。胸が痛い。

「俺のやりたい事、一緒に付き合ってくれないか」
「そこは、好きだから俺と付き合ってください、でしょ」
「恋愛感情が邪魔をして、そんな言葉でてこないよ」
「私には恋愛感情があるんだ?」
 わざとのぞき込むように目を見つめる。

 しどろもどろだったが、凛空はうなずいた。

「俺と付き合ってほしい。ただし、俺の病気が悪化するまでの期間限定で」
「なんでよ?」
「傷つけることになってしまう。おまえのことを汚いと感じたり、いずれは嫌悪感を持ってしまうことになってしまう。お前を一生は守れないって言っただろ」

 信じられない。凛空は神経質とは程遠い性格で、道に落ちたお菓子でも食べちゃうような子供だった。

「仕方がないなぁ。付き合ってあげるよ」
「俺と付き合うことになって、嬉しいくせに」

 彼の笑顔を見ていると、病気だなんて思えない。今の彼はまっすぐで何事にも代えられないような明るさを兼ね備えている。見た目も元気だ。きっとこれは冗談に違いない。

「やりたいこと、その1。手つなぎ。これは、いずれ出来なくなることだから、今のうちに」
 凛空は思いの外ストレートだった。想いをストレートに言われると恥ずかしい。でも、凛空が筋肉がほどよくついた手を伸ばして私の手を待っている。おずおずと手を差し伸べる。指を絡ませると恋人つなぎというらしいけれど、私たち、今、恋人なんだよね。

「手が汗ばむと恥ずかしいよ」
「いいんだよ。俺は今は全然何も感じない。でも、いつか、これができなくなる。その時には俺と別れてほしい。多分、近くにいることもとても苦痛になるかもしれない。恋人同士は愛し合っているから幸せなのであって、一方的に嫌われていたら、嫌われた側が去るのが普通だ。俺に遠慮するな。でも、高校時代の想い出に、俺と色々な場所に行ったりしてほしいって思うんだ」

「いつになく積極的だなぁ」

「実際に病にかかった人間のレポートを読んだんだ。事例も調べた。最初からではなく、途中から好きな気持ちが消える場合、相手は裏切られたと思う場合も多い。俺は、思い出がほしいんだ。わがままだけど、付き合ってくれるか?」

「当たり前でしょ。凛空のことはずっと前から好きだと思ってたわけだし」

「おまえから、好きって言葉聞けて幸せだな。まさに、青春って感じだな。もっと早くに素直に手をつなげばよかったな――」

「いつでも、私の手は空いてるから、大丈夫だよ」

 病気でなければ、絶対につなぐことはできなかっただろう。
 いつでも、恋愛なんてできる。いつかは恋愛なんてできると思っていたからだ。
 もうすぐ恋愛ができなくなるとわかれば、意地っ張りな人間でも行動を起こす。

 突然の恋の進展に少々戸惑いながらも私たちは高校から歩いて帰宅する。
 凛空が私の手を繋げなくなる日がくるんだろうか?
 本当にそんな日が来たら、私はどう接すればいいのだろう。
 不安の中で私は戸惑う。

 黄昏時に色合いの混じりあう空を二人で見つめる。
 不思議な感覚に陥る時間。
 小高い丘の上の公園からはこの町が一望できる。
 主に住宅街だが、美しく区画整備された街並みは人工的ながら美しい。
 「この夕陽を何度も見に来れたらいいな」

 夏服になったので、私も凛空もシャツ1枚だが、猛暑のせいか汗だくだった。
 汗のにおいも凛空はいずれ嫌うようになってしまう?
 キスなんて絶対に嫌悪感しかなくなってしまう?
 彼のサラサラした髪の毛も、すっとした鼻の高さも、シュッとしたシャープな顎も、小顔で童顔な所も全部全部好きなのに――。
 目の前の大好きな人が本気で嫌な顔をしたら、私は耐えられるのか全く想像がつかない。

「これってデートなのかな?」
「そうだよ。昨日、なんて告白したらいいか、すげー考えた。結果、病気の話をちゃんとした上で、気持ちを伝えようと思ったんだ」

「緊張したんだ?」

「あったりめーだろ。何日も何日も悩んだし、病気のことも含めて、交際なんて申し込むこと自体おかしいんじゃないかって思ったし。告白するなんて一大事業、アップアップだったんだからな。断られる可能性も充分にあるわけだ。今日は記念に星空を見てから、帰るのもいいかもしれないな。ここからの町の眺めが好きなんだ」

 ベンチに座って風を感じる。

「自販機で飲み物買って来る。何がいい?」
 凛空は気を利かせてくれた。

「コーラかな。1本でいいよ。二人でちょうどの量じゃない?」

「やりたいこと、その2。間接キスだな。ナイス、真奈」

 意図したわけじゃないけれど、自分から間接キスを求めてしまったことに赤面する。

「そのうち、同じ飲み物を飲むこともできなくなっちまう。一緒に飲めるのは、今だけだから」
 その言葉の重みに耐えかねてしまう。本当にそんな病気があるのだろうか。

「病名ってなんていうの?」
「対人嫌悪症と言われているらしい。精神から来るものではなく、脳の物質が関係しているらしいんだ。体はいたって健康なのに、触れただけで嘔吐しちゃう人もいるんだってさ」

「カウンセリングとか薬も効かないの?」

「今のところ、ちゃんとした治療方法は確立されていないんだ」

「でも、いつか治療法ができるかもしれないよね」

「医学の進歩に期待だな。でも、患者数が少ないから研究している医師も少ないし、専門医も凄く少ない」

「最初で最後の恋人になるのは私でいいのかな?」

「いいにきまってるんだろ。ずっと俺たちは近くにいて想い合ってきたんだから」

 その通りだ。私たちは想い合っていた。でも、今までそんなこと言ったこともないのに、キャラ変わったのかな。

「凛空、性格変わった?」

「変わらないと後悔すると思ってさ。元気なままだったら、ずっと告白しないでこのままずるずる仲良しを続けていたと思うけど、病気で俺は恋愛ができなくなってしまう」

「やりたいことって、どういうこと?」

「そうだな。たとえば、一緒にいろんなところに行きたい。夏なら花火大会、海、祭りとかさ。二人で一緒にいれれば俺はなんでもいいよ」

「街中においしいアイスクリームのお店ができたらしいんだよね。あと、美味しいお店に食べに行くのもありかも」

「食いしん坊だな」

 凛空の指が私の髪を撫でる。くしゃっとされると心までクシャっとわしづかみにされたみたいになる。

「私は、凛空がどんなに変わってもずっと好きな気持ちは変わらないよ」

「ばあか。そんなに甘くないって。手をつなごうとして拒否されたら辛いだろ。最悪、触れただけで吐き気を催されたら気分がわるいのは真奈のほうだ」

「本当は、恋愛なんてするべき立場じゃないことはわかっている。でも、一度だけでも好きな人と恋愛してみたいっていう俺のわがままにつきあってほしいんだ」

「じゃあ、病気が発生したら、遠くからずっと思い続けているよ」

「だめだ。ちゃんと新しい相手を探せ。俺なんかよりいい奴が必ずいる」

「でも、ヤキモチ妬いちゃうでしょ?」

「ヤキモチは必然的に妬けなくなるだろうな。今はこんなに嫉妬深いのにな」
 笑ってはいるが、目が笑っていない。これは、全て本当のことなのだろう。

「当たり前のことができなくなるっていうのはできていた経験がある人間に取って辛いよな。例えば、好きだと思ったり、恋愛したり、嫉妬したり。自分の意志とはうらはらにできなくなってしまうなんてな」

「今までできていたことができなくなる。当たり前のことが当たり前じゃなくなる。これって障害というか病気なんだね」

 心が痛い。こんな病に隣にいる大好きな人が苦しめられるなんて――。
 神様、彼を救ってください。でも、神様がいたら、こんなことしないよね。
 きっと神様なんていないんだ。少なくとも私たちを救おうとはしてくれない。

 凛空は美しい顔立ちと抜群のスタイルの良さ、頭の良さ、会話のセンス、全てが完璧だ。でも、こんな仕打ちが待ち受けているなんて。これから、彼を支えていけるのか私は全くわからない。まだ、恋愛もしていないのに。


「あんた、呪いの病にかかっているね。怪奇を集めると呪いの病は消滅するんだ」
 偶然通りかかった散歩をしている老婆が話しかけてきた。
 魔女のような雰囲気を醸し出す。
 なんで、見ただけでわかるのだろう。私だって病気のことは半信半疑なのに。

「怪奇集めって知ってるかい? これをやって原因不明の病気を完治する方法を見つけたのがあたしだよ」

「私、スピリチュアルなこと、嫌いなタイプなんですよ。医学は信じますけど」
 苦笑いをする。

「実際、あたしの好きだった人も若い時に何かに取り憑かれたみたいに潔癖症で人嫌いになったのよ。記憶も薄れるし、病気の原因はわからないし、医者もさじを投げた」

「でも、怪奇現象なんて、馬鹿げてるって。どっちかというと医学分野じゃないのか」
 凛空も答える。

「でも、医学じゃ解決できないんだよ。精神的なものでもない。そんな病にかかっているんだろ。ならば、怪奇集めをやってみればきっとあんたは助かるよ」
 魔女のような不思議なオーラを持つ老婆は無表情でアドバイスをする。

「怪奇集めってなんだよ。そもそも、呪いや怪奇現象って解くもので、集めるものじゃないだろ。集めてどうするって感じだよ。不気味過ぎるって」

「怪奇集めは、心霊スポットに行ったり、実際にいった人の話を聞いて、記憶をもらう取引さ。すると、相手は怪奇体験を忘れる。そして、あんたは病が治る。ただし、相手は怪奇体験の記憶を失うんだ。もちろん、一度や二度取引しただけじゃ病は治らないよ。色々な人から聞くことが必要だ。確かなことは、自分に課せられた対人嫌悪症という病は怪奇集めで完治するのさ。私はこの先の洋館に住んでいるから、何か聞きたいことがあればいつでもおいで。この病は非常に稀だからね」

 この先の洋館は子供の頃から不気味で近づきたくないといつも思っている建物だった。魔女が住んでいると聞いたことはあったが、対面したのは初めてだった。

「でも、怪奇現象を体験した人なんてそうそういるわけじゃないだろ。それに、相手の怪奇体験の記憶を奪うなんて行為は勘弁だ。記憶を奪ったら困るんじゃないか」

「奪うって言ってもほんの一部だから、日常生活に影響あるほどのものではないよ。そこは安心しな。オカルト系の掲示板や体験談はネット上に結構あるじゃないか。体験者に連絡を取ることは昔に比べたら簡単じゃないかい。まぁ怪奇スポットで直接怪奇と対峙するのもありだよ」
 へっへっへっと不気味な笑みを浮かべる。やはり魔女だ。

「めちゃめちゃ危険だろ。俺、ヘタレだし、超怖がりだぞ。腰ぬかすわ」
 凛空のヘタレ男気質は健在だ。

「でも、どんどん自分が自分じゃなくなる方が怖くないかい? 怪奇を集めることで自分に集まる悪いことをなくすのさ。あたしだって、若い時は怖いことは大の苦手だったよ。今でこそ、魔女だとか噂をたてられているけれど、こう見えて育ちはいいんだよ。だから、大きな館に住んでるのさ。婚歴なしの独身だけどね」

「あんた何者だ? って何をすりゃいいんだよ。って俺怖いし」

「やってみようよ。私がいるから大丈夫。だって、今のあんたがいない世界のほうがずっと怖いもん」

 思った以上に大きな声が出た。一瞬目が合うとドキリとする。こんなヘタレ男のどこを好きになったのだろうか。でも、そういうのは理屈じゃない。

「私は阿久津芳江《あくつよしえ》という。じゃあ早速、この町で有名な心霊スポットで怪奇を集めてみればいい。色んな理由でこの世界にとどまっている怪奇に触れた者と接触してみるんだよ」
 不気味に笑う老婆。

「怪奇ってどうやって集めるんだよ?」

「怪奇体験を聞き、記憶をいただくと病が快方に向かう。その証に相手は怪奇魂《かいきだま》を渡してくれるのさ。でも、危険な幽霊や怨念が強い者と関わる場合は要注意だよ」

「まじかよ。俺たちは妖怪退治をするスキルもないし、俺自体が武闘派じゃないから負け確定だな」

「危険な者ばかりじゃないよ。そして、怪奇となる者は普通の人間の格好をしている。街中ですれ違うこともよくあるんだ。死んだことに自身が気づいていないとか、死んだことを認めたくない者は結構いるのさ。そういう元人間ははっきり言って、大した能力もないし、腕がたつ者も少ない。よくあるだろう。怪村とか存在しない駅とか。そういう都市伝説に接すると高確率で発症が遅れるし、完治することが多いんだ。まぁ、とりあえずは体験者の話を聞くことが一番安全だと思うよ。自分で体験するにはリスクが高い。でも、まずはここだよ踏切にいって知らず駅と接触するべきだと思ってるよ。あたしは、この研究の第一人者で本も出している。良かったら、うちに来てみるかい? あたしの出版した本をあんたにあげるよ。ちなみにあたし、T大学の教授もやってるんだよ。専門はもちろん対人嫌悪症さ」

 一瞬霊感商法とか悪だくみに巻き込まれるのではないかと思ったけれど、聞いたこともない不気味な病気に侵されるというリスクを考えたら、研究しているという人間の意見を聞くことは有効な手段と私たちは思っていた。それに、あのT大学の教授だという肩書は安心感を得るには充分な要素だった。そんなことはお互いに声に出さなくとも通じ合っていたと思う。私たちは愛し合っているのだから。

 早速、偶然なのかわからないが専門が対人嫌悪症の教授が住んでいる洋館に向かうこととなった。

「あたしもね。昔、好きな男がいたんだ。でも、その人は、対人嫌悪症とよばれる呪いの病で死んでしまった。だから、今でも生涯独身さ。愛を貫くのも悪くない」

 この人が歳よりも老けて見えたり、苦労がにじみ出ているせいで魔女なんてあだ名がついてしまったのかもしれないと同情さえしてしまった。もしかしたら、独特な服装の魔女らしい雰囲気のせいかもしれない。

 私も、大事な人を失ったら、末路は見えている。きっと人生楽しめないだろう。

「ここが我が家だ」
 オートで重い門が開く。きっと若き日はお嬢様で、美人だったのだろう。
 でも、好きな人の呪いの病のせいで、歳よりも苦労がにじみ出た顔になり、どことなく哀愁が漂う女性となったのだろう。

「一人で暮らしているのですか?」

「親も死んだし、兄弟もいない。使用人はいるけれど、一人暮らしは気楽だよ」

 魔女と呼ばれている阿久津教授はよく見ると、上品な洋服を身に着けており、歩き方やたたずまいが全て品がいいことに気づく。教授をやっているくらいならば相当頭も切れるタイプだろう。

「呪いを集めることで、あんたたちの愛は確実に深まり、病気も完治する。こんなめでたいことはないだろ」

 部屋に案内され、ソファーに座るよう促される。紅茶を入れて持ってきてくれた。

「この町には通称ここだよ踏切があるだろ。あそこには4時44分に異空間が生まれるらしい。その時、別な都市伝説の駅に通じる。駅に行くには、線路にいる何者かに怪奇魂《かいきだま》の取引を告げるんだ。その何者かが条件を出して来る。その条件をクリアすれば病気の発症を遅らせることができると言われている。都市伝説の駅に行くには、まずはここだよと叫ぶ何者かと接触して交渉しないとだめらしい。あたしは、若い時に駅に行ったことはあるけど、その前に結局好きな相手が死んでしまってね。それ以上、取引の成立は難しかったんだ」

「どうせ怖いおじさんが駅にいて、閉じ込められちゃうとかいうオチですよね」

「いや、そんなことはないよ。怪奇というものは実は青春に飢えているんだ。だから、愛とか恋とかそういう青い部分にとても弱いのさ。愛があれば、病気なんて克服できるのさ。まぁ、私は当時知識がなくて、恋人を助けられなかったけどね。私の書籍、あんたたちにあげるよ」

 その書籍の筆者の紹介にはたしかに、この女性がT大学の教授であり、学者としての経歴があることを証明していた。魔女じゃなく、ちゃんとした人間だということがわかっただけでも緊張感は解けたような気がする。普通に噂通りならば、怪しい魔女という認識でしかなかった。でも、今日、ここで会えたのは偶然のラッキーだったのだろうか。

 それとも縁という名の必然――?
 私たちは見えない何かにいざなわれているのかもしれない。

「まずはここだよ踏切に行ってみな。ここらでは有名な心霊スポットと言われている。そこでの取引がまず最初に必要になるだろうよ」

 紅茶はストレートのダージリンで、ミルクと砂糖をたっぷり好きなだけいれていいとかわいらしい入れ物に入れて持ってきてくれた。案外女子力が高いのかもしれない。

 ふと見ると、写真立てに若き日の阿久津教授の写真が飾られていた。横にいるのは好きだった男性だろうか。優しい顔をしている男性だ。時代は変わっても恋愛感情というものはきっといつの時代もかわらないのだろう。美しい若き日の教授はレースに飾られたワンピースがとても似合っていた。横にいる男性は端正な顔立ちで、お似合いのカップルだ。この人が今も独身を貫いているのは、きっとこの人以上の人間に出会えなかったからかもしれない。そんなに好きになれる人に一生に一度でも出会えたことはきっとラッキーなのかもしれない。私たちは阿久津教授くらいの年齢になったらどうなっているのか想像もつかない。

 でも、視点を変えるとそれ以上の人に出会えなかったわけだから、不幸せともいえるのかもしれない。でも、幸せの価値観は人それぞれだ。

 少しばかり色あせた写真は彼女の宝物。
 教授にとっての彼は、私にとっての凛空と同じ大切な人なんだ。