昔のことを思い出していると、すっと瞼が重くなる。気持ちも、ずっと暗い。この家で暮らすようになってから、ふとした瞬間に、自分の存在を疑いたくなることが増えた。
 伯母さんが仕事に出ていったのを確認すると、私はとぼとぼとした足取りで二階の部屋に上がった。
 学校へ、行かなきゃ……。
 心はそう思うのに、身体が言うことを聞かない。
 今日は、何日だっけ。何曜日だっけ。何の授業があるんだっけ……。
 机の前の壁に貼ってある時間割をとカレンダーぼんやりと眺める。
 四月、十六日、火曜日。
 私の苦手な英語の授業が二回もある日だ。学校、行きたくないな……。
 それに昨日、私はみんなに素顔を見られてしまっている。今日、学校に行って、笑われたらどうしよう。高校生にもなって馬鹿らしいと思うけれど、実際私はこれまで教室という檻の中で、ひどい言葉を浴びせられ続けてきた。その記憶が、粘着質な強力テープのように頭にこびりついて離れない。
 額に脂汗がじわりと滲む。嫌だ。学校へは行きたくない。

「行きたくないよ……」

 心の奥底から本音が漏れ出る。一人、部屋に閉じこもっていれば私はむきだしの自分になってしまう。
 そう言えば、昨日鞄を教室に置いてきたままだ。学校へ行く準備をすることもできない。ぼんやりとした頭でそこまで考えて、ふと思考をやめた。普通なら、他の鞄に必要なものを入れて持っていけばいいだけの話だ。でも私にはこれ以上、学校に行かなければならないという現実を直視できなかった。

 その日私は、生まれて初めて学校をサボった。
 一度休んでしまうと不思議と心は軽かった。
 そっか、私、最初から休んでいれば良かったんだ。
 クラスメイトから、ドジで天然で不細工、見ていてイライラするなんて言われた時に、潔く引きこもれば良かった。どうして高校三年生になるまで我慢していたんだろう。
 一度リミッターが外れてしまえば、二日目も、三日目も、普通にサボることができた。罪悪感はかけらもない。だって、私をここまで追い詰めたクラスのみんなの方が、きっと悪い。
 学校を休んでいる間、家に引きこもってピアノを弾いた。
 私がこの家に引っ越してきて、伯母さんが中古で買ってくれたものだ。
「こんな高価なもの、いいの?」と聞くと、「鈴ちゃんがピアノ、弾きたがってたから」と笑って言ってくれた。伯母さんはどこまでも私に優しい。伯父さんも、普段は仕事で会わないことが多いけれど、私を本当の子供のように愛情をもって接してくれている。
 ピアノの蓋を開けて、鍵盤の上をさっと拭くのが毎日のルーティンだ。お母さんが、一緒に暮らしている頃に私にさまざまな習い事をさせてくれたのだけれど、続いているのはピアノだけ。ピアノは、お母さんも昔から習っていて、いつも大切そうに鍵盤を拭いていたのを思い出す。だから私も、ピアノだけはずっと綺麗にしていようという気持ちで、埃一つ積もらないように注意している。
 最近弾いているのはショパンの『ノクターン』。穏やかな旋律の中に潜む情熱のようなものを感じられて、とても大好きな曲だ。ひっそりと、人目につかないところで生きる私を、映し出しているような気がする。
 部屋の電気もつけずに、無心でピアノに触れ続けた。耳に心地よい旋律が、固まっていた心を溶かしてくれる。ピアノを弾いている間だけ、私はひとりきりで強くなれる。だからピアノが好きだった。

「あれ……?」

 いつもと違う違和感に気づいた私は、流れるように動かしていた指をピタリと止めた。最後の音の余韻が、狭い部屋の静かな空気を揺らす。
 今、端っこの鍵盤が見えなかった……?
 そんな、馬鹿な、と思いつつ、何度も目をぱちぱちと開いては閉じる。でもやっぱり、鍵盤の端の方が視界から消えていた。おかしい。慌てて電気をつけると、いくらかマシにはなった。でもさっきの見え方は、ちょっと異常だ。

「そういえば、昔……」

 教室で、あまりにも机の角やドアの端に足をぶつけることが多いので、担任の先生から「羽島さんは視野が狭くないかしら」と問われたことがあった。その時、先生は単純に「もっと周りを見てね」ということを言いたかったんだと思う。私は、自分の要領が悪すぎて、よく身体をぶつけているのだと思っていたのだけれど。

「そんな、まさか、ねえ」

 今、鍵盤の端の方が見えなくなったのと、何か関係があるとは思えない。
 身体をぶつけたり躓いたりするのは、やっぱりドジなせいだ。
 また学校で揶揄われないように注意しないとなあ。
 学校のことを考えるだけでため息が漏れる。家の中でひとりでいる方が、気が楽だ。わざわざ自分から傷つきにいく必要なないと思う。そう信じて、結局一週間も、学校を休んでいた。