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「かわいそうに……」
 ナターシャの視線の先にはニュースを読み上げるアナウンサーの姿と字幕があった。『タリバンが女子教育の再開を停止』。アナウンサーの姿が消えると、若い女性の泣き顔が映った。登校してきた女生徒たちだった。ヒジャブを身に着けていたにもかかわらず、タリバン側が「正しいヒジャブを着けていない」とクレームをつけたのだ。その結果、再開当日に停止が言い渡される事態となった。
 すぐさま国連は非難した。アフガニスタン支援ミッションは「本日のタリバンの発表を遺憾に思う」と非難した。しかし、状況が変わることはなかった。非難はなんの効果もないのだ。タリバンは一笑にふすだろう。外国からとやかく言われる筋合いはないと。
「本当にかわいそうだね」
 同情するような夫の声が聞こえた。見ると力なく首を振っていた。
「こんなことになるとはね……」
 アメリカ軍が撤退した日のことを思い出したと言って目を伏せた。それは、2012年8月30日のことだった。アメリカ中央軍の司令官がアフガニスタン撤退完了を宣言したのだ。その日、アフガン地上部隊司令官とアフガン大使を乗せたC-17輸送機がカブール国際空港を飛び立つと、タリバン検問所から祝砲が鳴り響き、市内を警備する戦闘員から歓声が上がった。指導者の一人は「我々はアメリカに勝った」と豪語した。しかし、その日を境に過激派組織タリバンが支配する恐怖国家に立ち戻った。それは、女性の権利を含めた人権が失われたことを意味していた。アメリカ軍が侵攻する前の第一次政権では女性は働くことができなかった。父親や夫などの男性の付き添いなしで外出することもできなかった。更に、就学の自由は制限され、10歳以上の女子の登校は許されなかった。顔を出すことさえもできなかった。頭から全身をすっぽり覆うブルカの着用を義務付けられたのだ。それが極端なイスラム原理主義を崇拝するタリバンの思想だった。
「すべての女性の夢が破壊されたのよ」
 ナターシャは唇をかんだ。頭の中には大学院で学ぶことができた自らの幸運と対比せざるを得ない複雑な想いが渦巻いていた。

 モスクワ近郊で生まれたナターシャは幼い頃から日本のアニメに夢中になった。それは大きくなっても変わらず、日本へ行って日本文化を学びたいと強く思うようになった。親からは強く反対されたが、それでも粘り強く説得し続け、最後は「一生のお願い」と拝み倒してなんとか都内の大学院に進学することができた。
 学んだのは伝統文化や現代文化だけではなかった。ブランドマネジメントや経営管理のカリキュラムも受講した。将来ロシアで起業するためだ。日本の文化が生み出す作品をロシア国内に広めるための事業を考えていたのだ。しかし、帰国することはなかった。都内のロシア料理店で一人の男性に出会ったからだ。彼は商社でロシアとの輸出入を担当しており、ロシア語がペラペラだった。そのこともあって二人は急速に距離を縮め、同棲するようになるのに時間はかからなかった。しかし、スムーズに結婚できたわけではなかった。母親が強固に反対したからだ。「日本人なんてとんでもない。あの国はナチスと同盟を組んだ国よ。そんな野蛮な民族と結婚させるわけにはいかない」と頑として受け入れてくれなかったのだ。将来のビジネスのために日本へ行くことは許してくれたが、子孫に日本人の血が入ることはあり得ないと突っぱねられた。
 それを打開したのが倭生那の誠意であり、マメな行動だった。週に一度は手紙を送り、月に一度は名産品を届けたのだ。初めの頃は送り返してきたこともあったが、そのうち受け取るようになり、それが楽しみになっていったようだ。母親の口から直接そのことを聞いたことはないが、父親がこっそり教えてくれた。「まんざらでもなさそうだよ」と。
 そして、決定的になったのが彼の訪問だった。両手に抱えきれないほどの赤いバラを持って母親と対面したのだ。それは信愛を表すものだった。彼は抱えきれないほどの信愛を届けたのだ。〈お義母さんを大事にしますよ〉という意味を込めた素晴らしいプレゼントとなった。受け取った母親は「今まで生きてきた中で一番嬉しい」と涙を流した。その瞬間、彼は家族として迎えられることになった。更に、母親にとって嬉しいことが続いた。彼が結婚式をロシアで挙げると言い出したからだ。これには母親が飛び上がって喜んだ。「なんて幸せなのかしら」と泣き笑いのような表情を浮かべた母親の顔は今でも鮮明に思い出すことができる。
 しかし、ロシアによるウクライナ侵攻で状況は一変した。母と娘は対立し、夫にまで嫌悪(けんお)(つるぎ)が飛んできた。「だから日本は嫌いなのよ。ありもしないことを言いふらしてあなたを洗脳するなんて最低だわ。やっぱり日本人と結婚させるべきではなかったんだわ」と。
 
「僕たちに何かできればいいんだけどね」
 夫の声で、今に戻った。そうだった、アフガンの女性に思いを寄せていたのだ。再び視線をテレビに向けて、ヒジャブ姿の女性が泣いている姿に目を凝らした。
「何ができるか考えてみるわ」
 ナターシャは自らが為すべきことに思いを巡らせた。