揺  動 

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「ナターシャ、あなたは(だま)されているのよ」
 モスクワの郊外に住む母親の声は確信に満ちていた。
「ウクライナが悪いのよ。クリミアやドンバス地方でロシア人を虐待(ぎゃくたい)しているからプーチンが()らしめているのよ」
 揺るぎのない口調だったが、国営放送を鵜呑(うの)みにしているのは明らかだった。
「そうじゃないの。プーチンが言っていることは全部嘘なの。全部でたらめなの」
「何を言うの。そんなバカげたことを言うなんておかしいんじゃないの」
 母親はまったく聞く耳を持っていなかった。
「アメリカやヨーロッパや日本の戯言(たわごと)を信じたらダメよ。あいつらはありもしないことを言いふらしているだけなんだからね」
 完全に洗脳されていると思った。情報の選択肢がないのだから仕方がない面はあるが、それでも偏り過ぎている。
「お母さん、聞いて。ロシアの放送局や新聞は本当のことを伝えていないの。プーチンにとって都合のいいことしか言っていないの。これはロシア人を守るための特別な軍事作戦ではないの。ウクライナを占領するための侵攻なの」
「もういい!」
 いきなり電話を切られた。一刀両断に切り捨てられた気分だった。仕方なくスマホを置いたが、やりきれない思いが消えることはなかった。
        *  *
「そうか……」
 その夜、仕事から返ってきた夫の倭生那(いおな)は力なく首を振った。
「そこまで情報統制が徹底されているとはね」
 またもや首を振った。
「そうなの。何を言っても信じてもらえないの。わたしの方こそ騙されているんだと言ってきかないの」
「なるほどね。かなり深刻だね」
 夫の眉間に(しわ)が寄った。
「確かに、プーチンの支持率が70パーセントを超えているという記事もあったから嫌な予感がしてたけど、ロシア国民の多くは完全に洗脳されているようだね」
「そうなの。特にSNSに縁がない高齢者の多くがプーチンの言葉を信じているようなの」
「そうだろうね。違った見方をする情報に接していない限り、どんどん刷り込まれていくんだろうね」
 頷くと、夫は日本の過去について話し始めた。
「戦時中の日本も同じだったんだ。情報は統制され、軍隊からの一方的な話を信じ込まされていたんだ。負け戦が続いているのに勝った話ばかりを聞かされていたんだ。それに、鬼畜米英(きちくべいえい)という言葉を使って外国を悪者にして日本の正当性を信じ込ませたんだ。今のロシアと同じようにね」
 その結果、最終的に原爆を広島と長崎に落とされ、無残な状態で敗戦を受け入れざるを得なかったと唇をかんだ。
「でも、途中で戦争を止めるチャンスはいくつもあったんだ。なのに軍部はことごとく反対して何も知らない国民を地獄に突き落とした」
 それは、中国との戦いのさ中でのドイツの仲介や、東南アジア侵攻直前のアメリカによる仲介だったが、メンツの維持に固執(こしつ)する軍上層部がことごとく()ねのけたのだ。
「それまでに20万人の兵士が死に、30万人の負傷者が出ていた。その上、戦費は国家予算の7割にまで達していた。そんな状態で戦争を続けることができるはずはないのに、アメリカとの開戦という愚かな決断を下してしまったんだ。そして、地獄に落ちた」
「ロシアも同じようになるのかもしれないわね」
「ああ、そうかもしれない。あの時、日本も経済制裁を受けていた。ABCD包囲網と呼ばれるアメリカとイギリスと中国とオランダによる対日強硬政策だ。日米通商航海条約の破棄を通告された上に石油輸出の全面禁止や在米日本資産の凍結などが行われたんだ。その結果、苦しくなった日本は石油や鉄鉱石などを求めて南下戦略を取ることになる。しかしそれは自らの首を絞める愚行(ぐこう)だった。戦線が拡大するにつれて後方支援や補給がうまくいかなくなり、それぞれの戦地で孤立するようになった。あとは推して知るべしだ。連戦連敗の状態になり、悲惨な結末を迎えた」
 夫は力なく首を振って鼻から息を吐いた。
「プーチンは日本の失敗から学ぶべきなんだ。無謀な侵攻がどういう結果を招くのかを知るべきなんだ。さもないと、ロシアは取り返しのつかない事態に陥る。戦争が終わったあとも経済制裁が継続され、それが国民にしわ寄せとなって重くのしかかる。貧困と重税に苦しむようになるんだ。それだけではない。解体されて、ロシアという国名も使えなくなるだろう。ソ連が崩壊したようにロシアも崩壊するんだ。そして、小さな共和国に分割されていく」
 それはわたしが想像するロシアの行く末と重なっていた。
「君の母国であるロシアの悪口は言いたくないけど、今回の侵攻は言語道断(ごんごどうだん)だよ。大義も正義もないばかりか、なんの罪もない人々を無差別に殺害して平気な顔をしている。こんなことは許されることではない。プーチンを支援するすべてのロシア人は恥を知るべきだ」
 吐き捨てるように言って、ソファから立ち上がった。
「でもね、プーチンが何をやろうと、ロシアがどうなろうと、君を愛する気持ちは変わらない。この命がなくなる日まで。そして、この世がなくなる日まで」
 優しく抱き締められ、髪を撫でられた。その気持ちはとても嬉しかったが、しかし、口から出た言葉は愛情表現ではなかった。
「本当にごめんなさい」